◇牧師室より◇
聖書の学びには常に新しい発見がある。長年、疑問に思っていたことが氷解させられた。説教でも申し上げたが、マルコ福音書の講解説教を終わるに当たり、記しておきたい。
主イエスはゲッセマネで捕縛され、大祭司の所で、イスラエルの最高法院・サンヒドリンの裁判を受けた。この裁判は様々な違法がある。@祭の間は裁判をしないにもかかわらず、過越の祭に行っている。A裁判は日中にする慣わしなのに、深夜に行っている。B裁判の場はエルサレム神殿の半円形の裁判所なのに、大祭司の館で行っている。C議長である大祭司は尋問してはならないのに、「メシアか」と問うている。D死刑判決の場合、猶予の一日を置いた裁判で再吟味する。ことごとく違法である。主イエスを葬り去ろうとするサンヒドリンが違法を承知で無理矢理に裁判を行ったと言われ、そう理解していた。しかし、律法を守ることに命をかけていた律法学者のいるサンヒドリンが、これを正式な裁判と見なしたのかと疑問であった。
米国の聖書学者であるブルース・マリーナ/リチャード・ロアボーの「共観福音書の社会学的注解」が翻訳、出版された。この注解書は「裁判」と言われているが、「降格儀礼」と考えた方がはっきりと理解できると書いている。降格儀礼とは、当事者の名誉と公的な地位が致命的かつ取り消し不可能な形で台なしにする、言わばリンチである。中国の文化大革命の時、要職にある人を公衆の面前で告発罵倒し、社会的地位を奪い取る事件が続発した。主イエスは、あのようなアイデンティティを破壊する降格儀礼を受けた。その中で、大祭司に答え、ご自分を終末的メシアであると言明された。それは律法によれば「神への冒涜」という大罪に当たる。主イエスの死は避けられないものとなったが、冒涜罪も裁判の判決ではなく、大祭司に煽られサンヒドリンが同意したものである。この理解によって、長く疑問であったことが全く納得させられた。