◇牧師室より◇

 デイヴィッド・ボッシュの「宣教のパラダイム転換」が翻訳、出版された。聖書時代から現代までの宣教論の壮大な研究書である。時代の変遷に伴い宣教の理解と方法が大きく変わっている。教会は時代の価値観に制約されていることが今更のように分かる。今日の宣教に関して、教会が心すべき視点を示されたので、私見を交え、確認の意味で記したい。

 宣教は「神の宣教(ミッシオ・デイ)」として理解することは殆どの教派において了解されている。ミッシオ・デイとはモルトマンの次の言葉に的確に表されている。「この世で達成されるべき救いの使命(ミッション)を持っているのは、教会ではない。それは御父を通しての御子と聖霊との派遣(ミッション)によるのであり、そこに教会が含まれるのである」。従来よく見られた、教会の教義を受け入れることによる個人的な救済宣教、西欧キリスト教の特権的、文化的観点からの宣教、また教会の拡張的な宣教などではない。神は既にこの世に対し力強く働いておられる、その神の働く「愛の運動」への参与をミッシオ・デイという。

 ヒットラーの暗殺をもくろみ死刑になったボンヘッファーは「他者のための教会」という名句を残した。主イエスの生涯に倣う、力強く魅力的な言葉として熱狂的に受け入れられた。しかし、警鐘を鳴らす人もいる。それは、西洋のキリスト者は何が善であるかを知っている、西洋人こそが他者の保護者であると言わんばかりの態度とも受け取れる。自らを「優位にある存在」と見なす「助け手症候群」は真の共存を損なう。「他者のための教会」ではなく、「他者と共なる教会」と語るべきではないか。教会は「われわれの所に来たれ」ではなく、「キリストに共に従おう」と告知するのである。

 この認識は神の偉大な働きに対する感謝と賛美の信仰から生まれる。そして、偏狭な教会中心主義から解放される。多発テロ以来、他文化・他宗教との関わり方が厳しく問われている。他者・異質者を認め合い共存し、キリストに共に従おうとするミッシオ・デイに参与することができる。