◇牧師室より◇

 大岡信氏が、朝日新聞に長く連載していた「折々のうた」を楽しみに読んでいた。

 「おもむろに自然に近くなりゆくを老いとはいわじ涅槃とぞいわむ 鶴見和子」 鶴見氏は脳出血に襲われ、左半身麻痺になってから、半世紀前に作るのをやめてしまった短歌が不意に湧き出し、歌集「回生」を出した。この歌は「80歳を過ぎた頃の述懐、晴朗な心のたたずまい」を歌ったものと解説している。こんな心境で歳を重ねられたらどんなに良いだろうか。90歳を越えた私の母は会う度に「早くお迎えが来るといい」と体の不自由と物忘れを嘆く。

 「ひとつの死はその死者の中に棲まひゐし幾人の死者をとはに死なしむ 稲葉京子」 死を切実で真剣なこととして受け取られていない現代に向かって、死の意味を問い続けてきた人の思いであろう。

 次主日は永眠者記念礼拝である。この一年間に、私たちの教会は五名もの方を天に送った。稲葉氏の歌のように、召された方々は私たちの中に「棲んで」おられる。私たちが死ぬと、その方々の生と死の記憶は消え去るかも知れない。

 主イエスの十字架の死は歴史が続く限り、私たちの救いとして語り継がれる。そして死者は、主イエスの復活によって神の永遠の命に与っている。誰よりも確かな神が責任を負ってくださっている。

 逝去者を「死なしめない」ことは、生かされている者の務めであろう。それは、召された方々のためだけではなく、その方々の生と死を想起することによって、生かされていることを確かめ、真に生きる者になるためである。私は個人的に「記念会」を勧めたことはない。しかし、年に一度の永眠者記念礼拝にはご遺族に出席して欲しいと思っている。今年は礼拝後、教会墓地でお二人の納骨式をする。墓前礼拝にも、ご参加ください。