◇牧師室より◇

 「全く新しい待望の親鸞論」という見出しに触発されて、平 雅行氏の「親鸞とその時代」を読んだ。親鸞の「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という言葉は悪人正機説として知られている。善人は救われる、ならば悪人はなおさら救いに与れる。救済順は悪人が優先するという慰め深い説である。これは親鸞のオリジナリティーと言われていた。しかし、当時隆盛を誇っていた顕密仏教でも既に説かれ、民衆も良く知っていた。悪人正機説は、罪深く穢れているとされた女性に適応され、「女人正機説」を生んだ。差別を認め、それを増幅して信心を煽る作用になっていた。

 親鸞には善人と悪人の識別はなく、人は皆「五濁悪世のわれら」と「末代の平等的悪人」であると捉えている。そして、親鸞は「疑心の善人」という言葉を用い、反対概念として「他力の悪人」という言葉がある。平氏は、親鸞の真意は「信心に欠けた『疑心の善人』でも方便化土に往生する、いわんや信心に篤い『他力の悪人』の往生は当然だ」と信心正因説を説いていると語る。確かに、平氏の理解の方が親鸞の人間と信心についての洞察の深さが伝わってくる。言い伝えられている悪人正機説は、浄土真宗を創りあげた覚如が顕密仏教との妥協を図ったものらしい。親鸞の思想だけを抽出して読みがちだが、時代状況の中で理解する時、親鸞の思想の奥行きが分かる。

 主イエスは「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と語られた。神の招きは罪人の方が優先するという、この言葉は悪人正機説と似ている。ただ、主イエスが言われた罪人とは倫理的、道徳的罪人ではない。社会から疎外され「地の民」と言われた徴税人、難病者、遊女たちを指している。主イエスは非存在に貶められていた者を神に求められている存在の高みへと招き出された。福音は徹底して社会的な意味を持った「良いおとずれ」である。

 親鸞の信心正因説はやり場のない民衆には救いであっただろう。それが浄土真宗を大きくした。平氏は、その救いの社会的広がりについては記していない。イエス・キリストの福音は現実に生きている人間の、神による「絶対的な是認」宣言である。この宣言を生活の場で実践しようとするところに教会が建っていく。