◇牧師室より◇

 暑かった8月も残り数日になった。今夏は、小泉首相の靖国神社参拝発言をめぐって、靖国神社問題がマスコミで大きくクローズアップされた。首相は15日の敗戦記念日を避けたとはいえ、13日に参拝した。

 「日の丸・君が代」を法制化し、新ガイドライン法、機密法が制定され、国による国民管理が進んできたが、靖国という精神管理まで踏み込んできた。国家主義的傾向が一段と強まってきたと思わざるを得ない。「新しい歴史教科書をつくる会」の動きなども連動している。

 私は15日、平和遺族会全国連絡会主催の「小泉首相の靖国参拝を問う ! 815平和の集い」に参加した。危機感を持った大勢の人々が集まり熱気溢れる集会であった。「天皇の逝く国で」を書いたシカゴ大学のノーマ・フィールド教授が記念講演をされた。現在の日本の状況は、種々の問題で賛成、反対の意見が激しく対立し、対話が成り立っていない。相手の言葉を良く聞いて、その言葉から接点を見出し対話していく、また、平和に対する自分の思いをまず隣人に話しかける必要があると語られた。確かに、自分の思いを堅く持つだけでは何も動かない。持っているものを他の人と共有できる場を作る努力がなければ、大きく強い声に飲みこまれてしまう。

 教授は女性らしい柔らかな感性で色々なことを鋭く指摘された。最も印象に残ったのは「人間の尊厳」という言葉であった。首相は「聖域」なき改革を語る。しかし、聖域はある。その聖域とは人間の尊厳である。現在、3万人を越す自殺者がある。彼らの死は無益で、残酷な死である。首相は「改革には『痛み』が伴う」と繰り返している。その痛みは自殺者を増やすものであってはならないと小泉改革を批判し、「人間の尊厳」を力説された。民主主義は弱者救済のシステムであるはずだ。

 デモ後、一人で靖国神社に行ってみた。右翼の街宣車がいつものようにがなり立てていた。境内の人の多さに圧倒された。旧日本兵だった人々が写真を撮り合い、また、連戦、連勝だった中国戦線の威勢のよい話を誇らしげに語っていた。靖国神社を拠り所にしている人々がいることは事実である。

 不戦兵士の会代表理事の小島清人氏は、ルソン島で飢えと熱病に苦しみ、生死の瀬戸際に追い詰められて得た体験的国家観を「守るべき国家とは実は自分たちのことであった」と書いている。ドイツ軍と闘って処刑されたイタリヤのパルチザンの学生は、遺書に「いかなる美辞麗句にも惑わされず、確認しよう。国家とは実はぼくたち自身である」と書き残している。個人を抹殺する国家主義を認めてはならない。