◇牧師室より◇

 「親分はイエス様」の試写会に行った。暴力団員の主人公(渡瀬恒彦)が教会員や牧師と出会い、大きな木の十字架を背負って日本縦断をして暴力団から足を洗う。愛されたことのない主人公がクリスチャンたちに愛されて「どんな人間でもやり直せる」と更正を目指す映画であった。それらの愛の中で、夫を信じる韓国女性の妻の愛が圧倒的である。

 元任地で、教会学校に熱心に来ていた子どもの父親と知り合った。礼拝には一度も来なかったが、牧師館にはしょっちゅう訪ねてきた。彼は空手の日本選手権試合に出場するほどの猛者であった。しかし、暴力団に入り、人を切り逃亡中に逮捕された。もちろん、刑期は終えていた。遊郭を経営していた父親に育てられ、母親を知らなかった。

 入院中のベッドの上で抗争相手の組員に射殺された親分の弟をしばしば連れてきた。二人から「やくざの仁義はこうだ、人を刺す時はこうやる」と仕草を交えて「やくざ談義」を聞かされた。彼は時を構わず来たが、夜遅く酔っ払って来た時は、必ず「牧師さん、母親が誰か分からない人間の不安が分かりますか」と愛された記憶のない淋しさを訴えた。

 離任して数年後、彼を訪ねた時、会う人ごとに「俺はこの牧師さんによってまともになれた」と語り、驚いてしまった。私は何もせず、ただ話を聞いただけである。それが嬉しかったのであろうか。確かに、町の人から「先生はあんな人と付き合っているのですか」と言われたことが幾度かあった。

 人は誰でも過去とは違う新しい人間になりたいと願っている。それを可能にするのは「愛と信頼」であると「親分はイエス様」は描いている。これは、暴力団員だけでなく、全ての人にとって真実である。