◇牧師室より◇

辺見庸氏が世界を旅して書いた「もの食う人びと」は多くの人に読まれている。その氏が「反逆する風景」と題して世界の様々な風景を写し撮っている。

ソマリヤの避難民収容所でファルヒアという14歳の少女に出会った。長い逃避行に疲れ、恐怖におののき、食べ物があるのに食欲も全くない。ただ、餓死を待つだけである。氏は彼女を次のように書いている。「恐怖に腰を抜かしたみたいな姿勢のまま、立てない。時々、力のない咳をする。飼い猫のトイレみたいに土を入れた器に、ほとんど音もなく排泄する。14歳だというのに、30以上に見える。しかし、美しい。観音菩薩のように美しいと思った。彼女は、この世のありとあらゆる苦しみを、他人の分まで一身に負うた目をしたまま、死に呼びこまれつつあった。それは大慈大悲で苦の衆生を救済する、どこまでも澄んだ聖なる目である。」 (中略) 「その時、なぜだろう、ここに世界の中心があると確信した。飢えの末に、一片のニュースにもならず、出自も14年間の道程も、世界の誰に知られることなく、墓も墓標もなく死のうとしているファルヒア。(中略)この娘こそが世界の密やかな中心でなければならないと私は信じ、私を見ることをあくまで拒否するファルヒアに向かい合掌したのだった。」

氏とは比べようもないが、私も死を待つだけという無残な人々と出会ったことがあり、しばしば彼女(彼)らの顔が浮かんでくる。しかし、彼女(彼)らにキリストを見ることはなかった。

第二イザヤは「主の僕」の歌で、無残に傷つけられ不法に葬り去られた一人の人の受けた苦しみと死によって、多くの人の痛みと病を担い、罪を負って神に執り成し、平和が与えられると預言している。

イエス・キリストは第二イザヤの預言の道を歩まれた。その極み、十字架の死を看取ったローマの百人隊長は「本当に、この人は神の子だった」と叫んだ。彼は十字架で死んだイエス・キリストに世界の中心を、神を見たのである。

世界には不条理で理不尽な死がある。その死に人間の罪を担った贖罪的な意味を、氏のように受け止めることができるのではないか。そのように認識することによって、彼女(彼)らの死に意味があり、私たちとの生きた関わりが生まれてくる。