◇牧師室より◇

ダーフット・フッサールの「ユダヤ人イエス キリスト教とユダヤ教の対話」を興味深く読んだ。フッサールはヘブライ大学の文献学者・歴史学者で、ユダヤ教徒から見た「イエス伝」を著している。イエスは当時のユダヤ教社会の強い影響を受けていると資料を踏まえながら多角的に論述している。イエスの言葉はファリサイ派やエッセネ派の宗教で語られていた言葉からの引用が多くあり、また、イエスに対する扱いもユダヤ社会の慣わしに負っている。イエスはユダヤ人として生き、そして殺されたと解説している。

原始キリスト教時代は、エルサレム教会やパウロなどに見られるようにユダヤ教徒から迫害された。しかし、313年のミラノの勅令によってローマ帝国の国教になって以来、今日に至るまで、キリスト教徒はユダヤ教徒を迫害し続け、それは凄まじいものであった。従って、ユダヤ教からのイエス理解は「背教者、黒魔術師」などと否定的にならざるを得なかった。ところが、19世紀以降のイエス研究は、当時のユダヤ教文脈の中で捉え直されてきている。フッサールの「ユダヤ人イエス」もそのような立場で書かれている。翻訳者の武田武長・武田新氏は、それを「キリスト教とユダヤ教の対話」としている。主イエスはキリスト教信仰の対象であるからキリスト教からの研究は熱心である。しかし、イエスはユダヤ社会で生きたのだからユダヤ人から見たイエス像があっていいし、ユダヤ教に明るい彼らの研究は、ある意味では説得力があり、興味深い。キリスト教とユダヤ教の敵対関係を超える神学的対話は有益である。

フッサールは「証言」と題して、思想家たちのイエス評を紹介している。古典的名著「我と汝」を著したユダヤ教神学者であるマルチィン・ブーバーは次のように書いている。「イエスをわたしは若い頃から自分の兄のように感じてきた。彼へのわたし特有の兄弟のように心の開かれた関係はますます強く純粋になり、わたしは彼を今日これまでよりもより純粋な眼差しで見る。わたしにとってこれまでよりもより確かなことは、彼にイスラエルの信仰史の中での大きな場所が与えられており、この場所が通常のいかなる範疇によっても表現され得ないことである。」