3:4
わたしたちは、キリストによってこのような確信を神の前で抱いています。3:5
もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。3:6
神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。3:7
ところで、石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務めさえ栄光を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、イスラエルの子らが彼の顔を見つめえないほどであったとすれば、3:8
霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか。3:9
人を罪に定める務めが栄光をまとっていたとすれば、人を義とする務めは、なおさら、栄光に満ちあふれています。3:10
そして、かつて栄光を与えられたものも、この場合、はるかに優れた栄光のために、栄光が失われています。3:11
なぜなら、消え去るべきものが栄光を帯びていたのなら、永続するものは、なおさら、栄光に包まれているはずだからです。3:12
このような希望を抱いているので、わたしたちは確信に満ちあふれてふるまっており、3:13
モーセが、消え去るべきものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、自分の顔に覆いを掛けたようなことはしません。3:14
しかし、彼らの考えは鈍くなってしまいました。今日に至るまで、古い契約が読まれる際に、この覆いは除かれずに掛かったままなのです。それはキリストにおいて取り除かれるものだからです。3:15
このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。3:16
しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。3:17
ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。3:18
わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。