●訓教経(上)
復帰の主流
一九六八年十一月十七日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第二十一巻』


 「復帰」という言葉は「帰る」という意味です。帰るというのは、根拠地を離れたがために、再びその根拠地を探して入っていくことをいうのです。

◆宗教が願うもの

 人類始祖が神様を中心として善の子女として出発していたならば、私たちに「復帰」という名詞と「救い」いう名詞は必要なかったはずです。ところが、このような名詞が必要となったのは、人類始祖が堕落したからです。それで、人類は復帰の運命の道を行くようになったのです。

 今日、地球上に生きている数多くの人類は救いを受け、本来の姿勢を備えなければならない運命に置かれています。今後、この地球上にはいつの日か決定的な一つの基準を定めて、復帰の事情をすべて越え、「救いの目的を完結した」と言うことのできる何らかの一個体、一家庭、一氏族、一民族、一国家が現れてこなければなりません。神様と関係をもつ以上、そのようになるまで、天国はこの地上に現れることができないのです。

 それゆえ堕落した人間たちは、それが何であるかは分かりませんが、理想の世界を追求しているのです。彼らは自分の行く手にその理想の世界が登場すると思っていますが、それは大変な錯覚です。既に出発する時から、理想世界をつくることができる源泉をもって出発したのではなく、落胆と絶望の悲運をもって出発したがゆえに、終末においても必ずそういう結果として収められるべき必然的な運命に立っているということを知らなければなりません。

 今日、数多くの国家が一つの世界を指向していますが、彼らが願う一つの世界が果たしてこの歴史の中に現れるだろうかと考えてみるとき、そうはいかないというのです。なぜでしょうか。人間が出発を誤ったからです。誤った歴史を抱いていく人間の前には、真の基準を全世界的に備えた世界は到来できないということは、必然的な事実です。

 それゆえ、新しい理想、新しい世界観、新しい人生観、新しい生命をもった新しい愛、このようなすべてのものは、人類が願う歴史過程そのままを、一段階清算しなければなりません。清算することができなければ、始めに戻って再び探す過程をたどらなければならないのです。これが、堕落した人類の子孫として生まれた人間の運命なのです。宗教は、このような両面の立場を取って現れたのです。

 それゆえ終わりの日には、理想世界が到来する前に審判されるようになるのです。この審判を避けることができる人は、歴史的な事情と因縁をそのまま抱いていく人ではなく、それを無にする人です。世の中が流れるままに付いて回るのではなく、そのようなものをけ飛ばして後ろに回って道を避けていく人であってこそ、審判を避けることができるのです。

 そうしなければ新しい理想的な出発をすることができないので、宗教はこのような内容を中心として「世の中を捨てなさい。世の中とのあらゆる縁を切りなさい。世の中に近づいてはいけません。世の中と和してはいけません。世の中と断絶しなさい。否定的な立場で新しい覚醒した心を育てなさい」と教えてきたのです。現在を押し進めることができ、未来を打開し、過去を収拾することができるというような覚醒した心が必要なので、宗教は世の中と妥協することを必要としません。

 このような点をおいて見るとき、流れいく歴史過程において、そのまま理想世界を迎えることができない悲運に置かれている人間であるということを、私たちは感じなければなりません。こういう歴史的な圏内にある私たちの個体は、この運命にそのままついていってはいけません。これを清算するか、さかのぼるかしなければなりません。個人とか国家を問わず、皆がこういう運命の道を開拓すべきだということを私たちは知らなければなりません。

 そういう道を開拓するにも、一気に国家的、世界的に開拓することができるでしょうか。絶対にそうはいかないのです。国家というものは、氏族基準を超えて成されるのであり、世界は国家の過程を経て形成されるのです。

 では、この道を行くことができる根本的な起源はどこにあるのでしょうか。それは世界がある前に国家がなければならず、国家がある前に民族がなければならず、民族がある前には氏族がなければならず、氏族がある前に家庭がなければならず、家庭がある前には個人がなければならないのです。

 今日、理想天国をしのぶ宗教家たちが救いを叫んでいますが、それは全部個人の救いの目的に結びついているのです。天国も個人天国、極楽も個人極楽を追求してきたのであって、家庭天国、氏族天国、国家天国、世界天国を追求したものではないのです。それでは天国や極楽に行くことはできません。

 個人を救うという決定的な完全な基準を備えて、歴史時代に空前絶後の一つの基礎が決定され得る一日を立てなければなりません。そうしてこそ初めて、新しい人生として出発し、天国や極楽に行くことができるのです。

◆代表的な標本が現れるべし

 今日、行くべき歴史の潮流の中に置かれている自分自身について見るとき、私たちの心の姿勢は、極めて偉大な理念を待ち焦がれています。今この世界は、一つの家庭圏を形成する理想世界に入ってきています。世界の感情が私たちの感情と通じることができ、世界の事情が私たちの呼吸と接することができる時代圏内に入ってきているのです。

 しかし、このようにどんなに外的な基準と形態を備えたとしても、今この世界と共には理想世界へと越えていくことはできません。一つの歴史的な標本が出てこなければなりません。個人ならば個人として代表的な標本が出てこなければならず、家庭的に代表し得る標本、氏族的、民族的、さらには国家形態を中心として、一つの復帰された立場でその原則に立つことができる標本が出てこなければならないのです。その標本的な形態を備えなければ、理想世界へ越えていくことができません。すなわち、標本というものは根になるそれ自体だというのです。

 歴史上には数多くの聖賢が生まれては逝きました。彼らは、どうして生まれて逝ったのでしょうか。彼らは、自分の意志によって歴史に何らかの願いを残して逝きましたか。それとも歴史の運命がそのようにさせたのですか。もし歴史の運命がそうさせたのならば、その先烈の運勢は必要ないものになってしまいます。また、彼らが自分の意志によって生まれて逝くとき、何らかの貢献をしたとしても、それも私たちには必要ありません。それは流れていってしまわなければならないのです。

◆終末時代の神様の予告

 では、どのような因縁をもって生まれなければなりませんか。天上の因縁をもって生まれなければなりません。神様の復帰の事情を知り、それを必要とする原則に関係を結んだ存在として、天上の因縁をもって生まれた人であってこそ、今日歴史的な願いの世界へ発展する過程で貢献することができ、その一部分となることができるのです。そうでなければ蕩減を受けるようになります。

 どんなに彼が歴史上に残した功労が大きくて、今日文化世界を形成するのに大変な貢献をしたとしても、その貢献自体は流れていってしまうのです。では、その動機と内容はどこに基づかなければならないのでしょうか。それは、自らの努力や時代の環境によってつくられた功労の実績を通してできるのではなく、天上の因縁をもたなければならないのです。

 皆さんの心は誰を求めますか。真の人を求めています。聖賢の中でも、真の聖賢を求めるのです。では、何が最高の実体ですか。何が主流の核心ですか。言い換えれば、どのようなものが人間として第一基準に立脚すべきものですか。今日、学問や人倫道徳もそのような基準の次元を表してきているにもかかわらず、そういう決定的基準がこの地上にまだ確定されていません。したがって人間が願う目的も、今までこの地球上に実現させることができなかったのです。

 道があり、宗教がありますが、それらもまだ、このような目的の一日を迎えることができずにいるのです。いまだに、願いの圏でさまよう氏族になり、民族と国家になり、世界になっています。いくら文化世界を創造して現代のような文明圏を形成したとしても、それは私たちが達成しようとする、最高の目的には何ら貢献できないのです。

 このような立場にある人間世界であるため、神様はどのようにしなければならないのでしょうか。一人の標準を立てなければならないのです。このような決定的な基準を予告しなかったなら、神様はいらっしゃらないことになるのです。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ三・一六)というみ言も、みな空念仏にすぎません。

 歴史の終末時代において、神様は予告せざるを得ない一つの基準がありますが、それは人間の中に最高の標準型が出てくるということです。信じる人も信じない人も、人はこの鉄則の法度の過程をたどらなければなりません。それがキリスト教でいう再臨思想です。

 その標本が登場するようになるとき、この地球上に初めて個人的な幸福の要件が出現するようになるのです。家庭の出現はもちろんであり、社会と国家の形成も、その方によって新しく天国理念として出発するようになるのです。言い換えれば、復帰の内容を超越した、復帰の因縁から抜け出した立場で、神様と一体となり、神様のあらゆる事情と因縁を備えた人が現れて、初めて地上に天国を顕現することができる土台がつくられるというのです。

 そういう個体が現れるようになるとき、その一個体は世界を総合した結実なのです。今日数多くの民族や国家は、この標本を模倣して、「民族思想」とか「民族の精気」とかと言っているのです。しかし、これもその一つの基準の前に、何パーセント貢献できる立場に立ったかというそのような問題を中心として、その国家が歴史にどれだけ残るかが決定されるのです。

 神様は愛の神様だというのに、神様が人を造られるとき、ただ御覧になって「良し」として見物だけされるのであれば、愛の神様ではありません。一番近い所に人間を連れてきて愛してこそ、愛の神様であられるのです。人間を民の立場において「私は国王であるから絶対服従しなさい」とおっしゃいますか。そうではありません。国王と民の立場は、あまりにも遠いのです。

 では、隣近所の目上の方の立場で愛されるでしょうか。それも違います。父と息子の立場で愛されるというのです。愛の中でも夫婦の愛、父母の愛、子女の愛、この三つの愛の一番核心となった立場で愛されるというのです。

◆愛の関係

 人類の先祖は堕落したがゆえに、神様を中心として息子、娘になることができなかったのです。息子、娘になることができなかったので、真の子女になることができなかったのです。そうしてみると、自分勝手に掛け合って息子、娘を生むようになり、そこから氏族が生じ、民族が生じ、国家が生まれたのです。このようなことは、神様の愛を中心として成されなければならないのに、それができなかったからです。平和の世界、理想、幸福、希望の世界とかいうものは、神様の愛を除いてはあり得ないのです。

 ある人が、このくらいであれば天上天下にうらやむものがないと幸福を謳歌するとしても、そのような外的なものでは「幸福である」とは言えないのです。幸福を探していく条件にはなりますが、幸福それ自体にはなり得ないというのです。では、何が決定されれば幸福を感じることができますか。愛する父母がいて、夫婦がいて、子女がいなければなりません。これは誰も否定することができません。ここで一つだけをもった人は、そこに該当する比例的な悲しみを感じるのであり、比例的な不満が胸中に残るしかないというのです。

 神様もそうです。神様が人間を愛するときは、息子の立場、娘の立場で愛さなければならないというのです。これは鉄則です。皆さんは今、神様の息子、娘だと自認していますが、それなら神様に対して「父だ」という実感がありますか。いくら実感をしようとしても、実際に感じるのは難しいというのです。

 神様は確かにいらっしゃるのに、いないようだというのです。親不孝の中で最も大きな親不孝は何ですか。父親が確かにいるのに、その父親について、「父親がいない」と言うことです。それは親不孝の中でも、許すことができない最も大きな親不孝です。

 今日、世界では「神様は死んだ」と言う人がいます。神様が生きて私たちを見守っていらっしゃるのに、「死んだ」と言う人々は、審判を受ける日が近づいているということを知らなければなりません。そのような人々は審判を受けなければなりません。誰が審判するのでしょうか。先生が審判するのではなく、神様が審判なさるのです。

◆切ない心情の神様

 今日、人類が追求する標本的な人間は、いかなる人間でなければなりませんか。神様が悲しみを感じるのは、愛の実体的相対をなくしたからなのです。愛の実体的相対である息子が死んだがゆえに悲しいのです。どんなに度胸のある革命的な一国の大統領であっても、息子が死ぬようになれば目から涙が落ちるようになっているのです。備わった分野と環境が広いほど、そこに比例する涙を流すようになります。

 平民が流す涙は、その人だけのもので終わるのですが、中心的因縁を備えた人が流す涙は、事情とともに環境全体に影響を及ぼすものなのです。彼の統治下にある国民として、その方の悲しみに同伴しない人は反逆者だというのです。

 では、神様はいかなる神様でしょうか。神様が本当に私たち人間と父子の関係に立っていらっしゃるならば、アダムとエバに「善悪の実を取って食べたら死ぬだろう」と言って、ただ見ていらっしゃるだけでしょうか。そのような神様は必要ないというのです。

 アダムとエバが善悪の実を取って食べようとする時に神様が、「私が心配したようになったな。もう少しだけやってみなさい」と言ったでしょうか。違います。心臓が縮んで、あらゆる感覚が一箇所に吸い込まれていく、そのような立場であっただろうというのです。「それを取って食べてはならない」と血を流し震えて、形容し難いほどの悲しい切なさゆえに、何も考えられないような立場に立たざるを得ない神様であったのです。

 そのような神様が、アダムとエバが善悪の実を取って食べている時、見物だけしていたかというのです。神様は、刀があればこの世を切ってしまいたい思いでしたが、そうできない立場にあるので、自らを嘆くしかなかったのです。

 そのようなことをキリスト教徒は、「へびがひそひそ話して取って食べたのだ」と言います。原則がどのようになっているかも知らずにいます。ですから、神様がどれほど哀れで、悲惨で、切なかったでしょうか。歴史上の誰よりも哀れで、誰よりも切なく、誰よりも悲惨でした。アダムとエバが善悪の実を取って食べる瞬間、神様は心臓が爆発するような切ない心情をもたれたのでした。

 堕落した人類始祖を見て、神様は喜ぶことができませんでした。例えば、おじいさんとおばあさんは言うまでもなく、近所の人々までも真心を込めて千辛万苦の果てに七代の一人息子を生んで、非常に愛して大事にしているその息子が、突然に死んだとすれば、その親の心はどうでしょうか。子女をもっている親はよく分かるはずです。

 堕落した血筋を通じて結ばれた因縁も、みな動機があったがゆえに出発したのです。その動機の主体者は神様です。ですから、神様がどれほど重苦しかったでしょうか。皆さんが生んだ息子が強盗の一味になるか、逆賊になるか、奸臣になるのかは分かりません。

 しかし、神様が造られたアダムとエバ、その息子、娘は、天下のいかなる歴史時代にも探すことができない代表者でした。その立場で私たちの人類始祖になっていたなら、神様の愛がどうだったかと尋ねるとき、それは説明する必要がないでしょう。説明に先んじるのが愛の力です。神様は、私たち人間を中心として「互いに愛そう」と言いました。その愛は、天地のどのようなものであっても、その事実を防げることができず、説明することもできず、解明することもできません。そのすべての内容を、そのようにしか表現することができないのです。

◆最高の愛をもった宗教であってこそ

 このようなことを見るとき、神様は私たち人類の始祖として、アダムとエバを中心として一番の先祖の立場に立って人間を愛さなければなりません。では、そういう立場で愛された人がいたでしょうか。孔子、釈迦、イエス様も愛を受けることができませんでした。受けようとして失敗しました。それで再び来なければならないのです。イエス様は、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ一四・六)とおっしゃいいました。そこでイエス様は、愛という話をされませんでした。それは、時が至らなかったからなのです。

 宗教の中で最高の宗教は、愛を宣布する宗教です。そうでない宗教は、みな必要のない宗教です。人倫道徳だけを主張する宗教は、見せかけの宗教にすぎないということを知らなければなりません。このように考えるとき、キリスト教がどのようにして今日世界的な宗教になったのかというと、愛を教えると同時に、神様が人類の父であることを教えたからなのです。

 イエス様はこの地に来て、「私は天宙を代表的する人だ。私は新郎だ。私は神様のひとり子だ」と自信をもって叫びました。このことだけでも、世界的な宗教にならざるを得ない理由になるのです。もし、このようなことを主張するキリスト教が世界的な宗教になれなかったとすれば、神様はいないという結論が出てくるようになります。

 愛を議論するとき、どのような宗教の教理にもない心情の骨髄を掘り下げ、父母の愛と夫婦の愛、子女の愛を説いた宗教はキリスト教しかありません。神様がそういう地位をもっていないことが堕落による恨になったがゆえに、これを解怨するための基盤を備えるためにも、キリスト教が世界的な宗教として登場せざるを得なかったというのです。

 それで、来られる主はこの宗教を敬って全世界を解放させるために、神様の息子、すなわち愛の主体として来なければならないのです。神様の前でアダムとエバが堕落せず、創造の法度に立脚して完全な愛を受けなければなりませんでしたが、そうすることができる一人の男性がこの地球上からいなくなったがゆえに、再び立てなければならないのです。それで失う前の立場、それ以上の立場まで上がって、神様の愛を受けなければなりません。

 それでイエス様は「私はひとり子だ」と、粋なことを言ったのです。神様の息子の役割をする人は多いのですが、神様の愛は誰でも受けられるものではありません。「父」という言葉が使われる所は多いけれど、父と言うからといってみな父ではありません。本物の愛は、心情の骨髄に潜んでいる愛を全部注いで愛するのです。

 その愛を全部もってくることができる立場、その立場が正に一人しかいない息子、「ひとり子」という言葉が出てくることができる立場です。神様の胸中に埋められていた本然の愛が、堕落することによって神様の恨みになってしまったものをみな打破してしまい、神様の愛を全部身にまとってこそ、天地間に初めて現れる神様の息子になるのです。

 このようなことを見るとき、イエス様は愛を中心として万民を救うメシヤです。すなわち、愛の救世主です。人類が神様の息子としての権威をなくしたことを回復してくださる救い主です。また、子女の立場を復帰してくださる主人公です。救い主はこのような方として、男性として来られたのです。ところが、男性だけではいけないので、新婦を探さなければなりませんでした。しかし、イエス様は新婦を探す過程でみ旨と願いを成し遂げることができずに死んだので、再び来るという再臨の理想を残されたのです。

 今までの六千年の歴史は、神様の愛に接ぎ木することができる男性を探す復帰歴史でした。男性として天の前に登場し、神様の愛の法度に治められる勝利的な標本、その基準を合わせておくための人々が聖人、烈士、偉人です。そこには、孔子、釈迦などの多くの人々が含まれます。大きな仕事をしようとすれば、その裏面に必要とする与件を備えるように、キリスト教が世界的基盤を築くところにおいても、数多くの宗教がみな必要だというのです。それゆえ、今までの歴史は標本的な一人の男性を探してきたのです。

 皆さん、宇宙の星が回るのを考えてみてください。大きいものは大きいものなりに、小さいものは小さいものなりに、無数の星が休まずに正しく回っています。ところが、驚くべきことに、衝突せずに今まで安全に回っているのです。このような宇宙を造られた方が、正に私たちの父だというのです。これは驚くべき事実です。

◆標本的な男性

 そのような方が父であられるので、私たちは喜んで自慢しなければなりません。喜んで千年、万年愛しても、その年月が短いのです。そういう神様を本当に知れば、死んでも感謝、生きても感謝、奉仕しても感謝、どのようになっても感謝するだけなのです。この大宇宙をすぐにでも主管することができる原動力である主体の権限を知るようになったので、万世に自慢し得るのです。

 ここで先生を紹介しようとするのではありません。生まれて目を開けてみると、息子になったというのです。ところが、その父を捕まえて殺そうというのですか。この地球星をみな自分のものにしようという度胸もない人が、神様の息子になることができるでしょうか。できないというのです。

 神様の息子になれば相続をさせてくれます。なぜなら、限りなく愛することができ、絶つことのできない特権的な因縁をもった実体と化したからです。その因縁は、お金によっても絶つことができず、原子爆弾によっても爆破することができません。誰がいくら威嚇し、いくら何と言っても「その方が私の父だ」という事実を否定することはできません。それで、今後標本的な男性が来ますが、彼はどのような人ですか。全宇宙を治めるために来る人です。

 では、復帰の主流は、どこに流れていくでしょうか。神様の愛を中心として一人の男性と一人の女性が、神様の立ち合いのもとに結婚式をすれば良かったのです。しかし、神様の息子、娘を誰が結婚させましたか。サタンです。

 そのようにして人間が堕落したので、完成した一人の男性が来なければならないというのです。人間の堕落は、誰が動機になったのでしょうか。女性です。それで、女性は今まで男性に蹂 躙される悲しい歴史を歩んできたのです。無念だったのです。それゆえ、統一教会では女性が率先しなければなりません。

 ミス・コリアとかミス・アメリカとかいうそのような運動は、ミスターを迎えるための前 哨戦でしかありません。私たちは、そのような摂理的な内容を知っていますが、キリスト教徒は今、この摂理の内容がどこへ進んでいるのかを知ることもできません。いつもそのようにミスだけが出てくるのではありません。ミスターが出てくるのです。それを知らなければなりません。まず新婦が準備されてこそ新郎が来るのではないですか。世界的に立派な新婦が準備できたという時代になれば、ミスターが来るようになります。世界的なミスターとして、その方が来られるのです。

 これが各宗教でいう再臨主や、弥勒仏や、真人などを中心とした再臨思想です。神様が一等のレッテルを付けて送るミスターが、世界的なミスターです。その方が来られれば、全世界の男性たちが跳び上がって回りながら称賛するでしょう。どれほど素晴らしいことですか。たとえ堕落の役職についてきたとしても、彼らはミスターを探したというのです。

 こういう観点で、宗教は素晴らしいというのです。先生はそれを知りました。しかし、皮だけに一等のレッテルが付いてはいけません。中身に一等のレッテルが付かなければなりません。そのレッテルが外に見えれば分かりますが、中にあるときは、誰がどんな技で知ることができますか。表面が悪いからといって、中も悪いということは絶対にありません。

◆真のミスターが登場するとき・―神様の笑いのふろしき包みがはじけるとき

 もし先生が、皆さんに「全部出てきなさい」と言えば出てきて、「地の中に入っていこう」と言えば入っていき、「山に登ろう」と言えば登ることができますか。「私は女だからそのようなことができません」と、そう言っていいですか。

 その方が青春の旗を掲げて天下にお出ましになるときは、天上世界と万国の存在という存在は全部歓迎しなければなりません。孔子もイエス様も、全部手を挙げて歓迎しなければなりません。そうして、神様の笑いのふろしき包みがはじけるべきではありませんか。

 今まで六千年間、死んでいた息子、娘が息を吹き返すことを願いながら、復活を願いながら来ましたが、死んだ子供を眺める神様が、どうして笑うことができたでしょうか。その神様は、堕落しろと祭祀を行っても堕落することのない息子、娘を見てこそ、初めて笑いのふろしき包みがはじけるのです。そのようなミスターが登場すれば、神様は笑わざるを得ないのです。

 神様は真理の大主人であられるので、その方の笑いのふろしき包みがはじけないと、この不運な世の中に救われる道がありません。人類の父母であられるその方の笑いのふろしき包みがはじけてこそ、息子が笑うことができるのです。先生の願う主体的な標本、すなわち標本的な男性は新郎です。ところが、新郎であられるミスターだけが来ていいですか。彼に似合う一人の女性がいなければなりません。キリスト教は新婦の宗教です。したがってキリスト教は、男性として来られる主の前に世界的な女性の標準を完成しなければなりません。

 この地上に、一人の男性が出現するようになる時、一人の女性も出てこなければならないというのです。では、その男性と女性が出現して何をするのでしょうか。女性から堕落して男性に移されたので、その時に失ったものを神様の愛の中に入っていって、再び探さなければなりません。そうでなくては新しい出発ができません。その女性を探してこそ、初めて人間を救うことができる救い主になるのです。しかし、男性的な救い主だけでは完全な救いは成就しません。完全復帰になり得ないというのです。

◆父母としての救い主が現れてこそ

 今後、世界で新しい歴史が進められ、天地が開 闢し得る事件が起こるとするならば、その事件とはどのような事件でしょうか。戦争で世界が統一される事件ではなく、天地の大運勢によって、神様の偉業を相続された男性の前に一人の女性が現れ、神様がその男性と女性に結婚式をしてくださる事件です。その日が天地が開 闢する日としての、キリスト教でいう「小羊の婚宴」です。

 堕落によって人類は、偽りの父母の血統をもって生まれました。ですから救い主が出てこなければならないというのです。イエス様も完全な救い主になることができなかったので、新しい救い主が現れなければなりません。イエス様は聖霊としての救い主でした。しかし、それだけでは救いの目的を完全に達成することができません。神様のひとり子になるには、相対がいなければなりません。したがって、父母としての救い主が来なければなりません。堕落によって、人間たちが偽りの父母の血統を受けて生まれたので、真の父母が来なければならないというのです。

 今までキリスト教では主の名前で祈祷しましたが、先生は真の父母の名前で祈祷します。そのようにすることには深い内容があります。

 今後世界に天国が実現し、世界が天国に達することができる時になれば、一つの国家的な選民が重要になります。それでキリスト教徒は、その一つの国家を成し遂げるために来られる主を迎えることができるようにと、献身的に祈るのです。

◆韓国を第三イスラエル選民として

 今までの歴史には、神様を中心とした選民思想があります。では「選ばれた民」、すなわち選民をつくって何をするのでしょうか。選民は天民にならなければなりません。ところが、今人類は悪民になっています。世界人類は悪民だというのです。ですから、その中で選民にする仕事をしようというのです。悪民を修理して選民にしようというのです。堕落した世界の悪民の中から選民思想が出てきたのです。

 これを見るとき、歴史過程に選民思想をもって現れたユダヤ人、イスラエル民族は悲惨な民族のようでしたが、その民族は善なる民族です。その民族の胸中を聞いてみれば、六千年の歴史がよみがえり、人類歴史の根本がよみがえってきます。また、そこから神様が出てきて、歴史的なあらゆる聖賢が出てくるというのです。そのようなあらゆる伝統が、先生の原理に込められています。それは何ものも及ばない伝統的な思想をもったものなのです。それが選民思想です。

 選民思想は、ある民族に限定された主義や、イスラエル民族だけのための思想ではありません。神様は唯一神であられるにもかかわらず、歴史を見るとき、ヘレニズムとか様々な思想が出てきて、神様を悲愁に染めたのです。

 イスラエル民族が、その時イエス様を完全に知ったなら、彼らは今世界を支配する民族になったはずなのに、イエス様を殺してしまったがゆえに、その罪で二千年間流浪の民になったのです。そのようにして、一九四八年に再び春を迎えようとする歴史が展開し、この地に新しい天の主義が現れたのです。そうして解放され、新しい時代を迎え、再臨歴史時代に入ったのです。相手のいない歴史と、目的のない歴史は滅びるのです。

 今日、先生は何をしますか。イスラエル民族の代わりに韓国を第三イスラエルにしようというのです。先生はこのような欲をもった人です。それは先生が頭が良く、飛躍的な知恵があってするのではありません。そのように考えてみたことは一度もありません。また、先生が他の人々の前に立ってみたくてその仕事をしようとするのではありません。その背後には途方もない秘密があり、立つまいとしても立たざるを得ない立場にあるために、今までこの道を歩んできたのです。

 第二イスラエルは選民を形成しましたが、み旨を成せなかったので、これを第三イスラエル選民を中心として、世界に選民思想を移してあげようというのです。

 歴史は追われる群れの革命としてつづられ、収拾された事実を否定できないというのです。彼らは追いに追われる立場を踏み越えて、自分の希望を大きな所に置くことができる自主性をもちました。そのような主義と思想をもつようになれば、将来は希望に輝き、新芽が出てくるというのです。

 これから皆さんが知るべきことは、各自の心に選民としての自負心と自主性をどのように爆発させるかということです。死んでいく運命の道、瞬間に生命が左右される環境でも、この仕事に力を注いで死ぬことができる者にならなければなりません。

 それでこそ、生命が死からよみがえるのです。その力をもたなければなりません。その力の何によってそのような立場に入籍できるのでしょうか。神様の愛、本然の愛です。先生は父母の心情をもって僕の体を使い、汗は地のために、涙は人類のために、血は天のために流し、この道を歩んできました。

◆理想世界は既に習った事実だけでは成し遂げることができない

 そうすることができる人は、罪悪にも勝利します。もし先生が皆さんならば、じっとしていなかったでしょう。先生はこの道を開拓し、皆さんが知らない中で背景を備えました。それで、あらゆる曲折をたどり、この道を開拓しながらも、このように死なないで生き残り、今日再び皆さんと対面したのです。

 先生が話すことは、この時代を先に見通して言っているのです。先生が知っていることを人々に尋ねれば、「習わないことを私がどうして分かるか」と答えます。しかし、習わなかったために知らない人は、ただ習った圏内のことしかできない人です。私たち人間世界に、新しい理想世界を成し遂げるには、既に習った事実だけでは成し遂げることができません。習わない未知のものも行うことができる力をもたなければなりません。その時に行われることは、自らの力によって行われるのではなく、摂理によって行われるのです。

 悪民から選民に、選民から天民に、このような段階で復帰していこうというのです。選民になったといって、そのまま天民になるのではありません。真の父母が出てこなければなりません。そうして、天民の権限をもって、天子と天女をつくらなければなりません。

◆息子を救おうとする父母の心情

 皆さんは観念的な生活観、観念的な心情観を捨てなければなりません。そうして、そこに統一教会の信徒としての生活観を植えなければなりません。統一教会の生活観は天民観です。

 今後、私たちが行くべき希望の天国には、どのようにして入っていかなければなりませんか。アダムとエバが堕落することによって、初めから誤って植えたので、そのように収めなければなりません。ですから、それを踏み押さえることのできる、ある輩が出てこなければなりません。この世界は、アダムとエバが堕落したために、大豆を植えた所に大豆が生え、小豆を植えた所に小豆が生えるように、堕落した人間たちが生まれてくるようになったのです。

 人類歴史は、アダムとエバが十六歳の少年、少女のとき、神様の天道を離れて自分たちで勝手に愛するところから出発しました。世界的な終末である今日、青少年たちが腐敗するのも、その結果であるということができます。秋を迎えれば実を収めることができるのと同じです。青少年たちが、自分たちで勝手に堕落するのは、先祖が誤って蒔いた種を収めるためなのです。統一教会は、それらを完全に打ち払うために現れたのです。

 力で入ってくれば力で征服しなければならず、頭で入ってくれば頭で征服しなければならず、権限で入ってくれば権限で征服できる皆さんにならなければなりません。そのようにして悪の根を抜かなければなりません。

 そのように蒔かれて、そういう仮面をかぶって、恨の逆境の中で歴史とともに今日まで来た人間たちが、ここから抜け出すためには真の父母が現れなければならないのです。偽りの父母の出現で、今日まで嘆息の歴史がつづられてきたがゆえに、真の夫婦である真の父母が、天地間に現れなければならないのです。キリスト教に「神様を中心とした新郎新婦」という言葉があるということは、こういう面で先生にとっては、準備された環境の中の環境であり、希望の中の希望であり、解怨の目的を成す望みの中の望みなのです。

 歴史が行き違ったがゆえに、そのような一基準をこの地上に提示しなければ、新しい世界を開拓することができません。これが天倫です。人間を神様の前に近づけて、神様に仕えるようにしたのがキリスト教です。今や聖書は根本的な問題を明らかにしなければなりません。

 主が雲に乗ってどのように来ますか。飛行機に乗ってくるなら分かりますが、主は雲に乗って来ません。そのようなことを言っていては、霊界に行って億千万年讒訴されます。

 父母が天倫の原則とともに生活した因縁がこの地上に立てられる日、人類の本性の人倫道徳が天地に創建される役事が起きるでしょう。

 今日、家庭を脱する不幸な青年男女の多い原因が、どこにありますか。天倫の法度に一致した愛を喪失したからです。それで家庭を中心として、神様がその家庭に座ることができる、天地父母が顕現しなければならないのです。

 これからは、イエス様が一人でいらっしゃったのでは、救い主になれません。堕落した私たちを救ってくださるとき、父母の立場で救ってくださらなければなりません。息子がおぼれているのに、その兄を見て、「お前の弟がおぼれているので、救ってやれ」と言う父母は偽者です。神様は真の愛の父であられるので、父御自身がこの地上に来られ、父母の資格で人間を直接救ってくださるというのです。

 息子が死亡世界で呻吟し、救いを求めるとき、救ってあげたいのが父母の心情なのです。それで、そうすることができる橋を架けてあげる使命を果たすために、イエス様を送ったのです。その橋を通じて、父母として、人間自らに救いの門を開けさせようというのでした。したがって、これからこの天地の終末時代には、父母が来なければなりません。

◆統一教会は絶対的な宗教

 そうして、新郎が新婦を迎える小羊の婚宴が行われなければなりません。その婚宴をするときは、六千年前に神様がアダムとエバを中心に結婚式をしてあげようとしたのに、彼らが悪民として出ていったので、再び春を迎えて初めて、神様の立ち合いのもとにそれを真の人類の父母として登場させる瞬間だというのです。これが正に再臨思想です。

 その父母は、真のオリーブの木として来られ、堕落した人間の野性のオリーブの木を切って捨てて、真のオリーブの木の枝に接ぎ木をすることによって、この世の野性のオリーブの木を真のオリーブの木にして地上天国を完成しようというのです。これが神様の創造目的です。

 したがって、今後は父母として万民を救うことができる宗教が出てこなければなりません。宗教の立場で世界を救うことができる家庭の救い主になって、世界の多くの家庭に対して「家庭はこうあるべきだ」、「天道、天倫、天理に従って立てられた家庭は、こうあるべきだ」という、すべての家庭が肯定できる道理を立てなければなりません。そうして、家庭を早く一遍に救わなければなりません。

 このような家庭の法度を通じた救いの道理を、父母が従い、息子が従い、家庭が全部天国に行くことができるようにするのです。父は地獄に行き、母は天国に行けばいいのでしょうか。父母の救い主として家庭に対する救い主の使命を完結し、その次に氏族、民族、国家、世界にまで救い主として登場し、新しい世界をこの地に成し遂げなければなりません。

 今まで世界の数多くの民族、あるいは五色人種がつくった文化圏の世界を全部打破し、一つの文化圏をつくらなければならないのです。言い換えれば、神主義的な家庭制度、神主義的な社会制度、神主義的な国家制度、神主義的な内容を備えた理想世界が成されなければならないのです。

 そういう主義が、堕落しない完成したアダム主義です。民主主義でも共産主義でもない、アダム主義です。それは神主義を探していく過程です。主義というものは、ある目的を探していく杖です。主義自体が要求されるのではなく、目的を成し遂げるにおいて必要とする過程であるので、この主義というものは変遷するのです。今日、米国が民主主義の宗主国として先進国家といいますが、今後お金によって腐敗するようになり、民主主義を嫌う時が来るでしょう。

◆天宙主義

 私たちは、この地上で家庭を中心として天国を建設しています。それゆえ、先生は合同結婚式をしてあげるのです。実践しなければならない歴史的使命があるので、生命以上の価値をもってこのようなことを断行するのです。

 私たちは、故郷の地を奪還しなければなりません。故郷の父母を奪還しなければならず、故郷の家庭と氏族、民族、国家、世界を奪還しなければなりません。そのためには、失ったものを復帰していかなければならないのです。

 アダムとエバが堕落することによって、天地の大遺業を相続することができる神様の息子、娘としての権威と体面を喪失してしまいました。また、神様と心情一体となり、祝福を受けることができる家庭的起源を失いました。それによって偽りの息子、娘を生み、そうしてみると偽りの氏族、偽りの民族、偽りの国家、偽りの世界になったというのです。

 今日、復帰の途上に立った私たちが奪還すべきこととは何でしょうか。真の父母を奪還し、真の父母の愛を奪還して、真の父母の血統的な子女にならなければなりません。それで、真の父母の氏族を成し、真の父母の民族と国家と世界を成し遂げ、天上の大法度を立てて、神様を解怨成就してあげなければなりません。それが先生の天宙主義なのです。

◆復帰の主流には伝統が必要

 では、復帰するための主流思想は何でしょうか。福地建設です。これは絶対的な神主義を中心としたものです。神様は私たちを愛する父母であられるので、父母がうれしく、最高に幸福であってこそ、その子女も幸福であるといえるのです。それゆえに、福地建設をしなければなりません。

 皆さん、復帰の主流には伝統が必要だということを知らなければなりません。世界を復帰するために、伝統が必要だというのです。そうするには、福地建設の起点がなければなりません。その起点が故郷の地です。

 故郷をなくした人間、故郷をなくして郷愁にひたる人間は、復帰という悲しい仮面をかぶり、蕩減という難しい峠道を回って故郷を探さなければなりません。国の幸福がある前に、故郷へ行く幸福の通路を整えて、その国を解放しなければなりません。

 私たちが福地を訪ねるためには、拠点がなければなりません。故郷の地に行くには、父母がいなければならず、兄弟がいなければなりません。それで私たちは「食口」というのです。千年、万年恨を解いて見つけた食口として、一人の天地父母に仕え、永遠に別れられない絆で結ばれた兄弟だというのです。

 私たちの生活の中で、世の中の何よりも近い内容をもったこの「食口」という感情があふれて流れない限り、統一理念は成し遂げることができません。

 韓民族は、今後世界が歓迎する民族になるのであり、私たちが待ち焦がれるその時は、名実共に来ることでしょう。ですから、私たちは足取りを合わせて、世界へ行進しなければなりません。どこに行っても、私たちを防げることができない、自由の天国舞台を成し遂げるために、死力を尽くし、最善を尽くして闘っていかなければなりません。

◆復帰の主流

 皆さんは、復帰の主流の行脚を知らなければなりません。アダム家庭のアベルが血をまいておいた、復帰の路程を死守しなければなりません。ノアが百二十年間、険しい環境に追い込まれながらも死の道をさまよう環境に勝ち、自分に任された責任を全うするために、千辛万苦した復帰の行脚を死守しなければなりません。

 アブラハムが、幸福に暮らすことができる故郷の山河をみな捨てて放浪者となり、夜には星を眺め、昼には虫の声を友にして天命に従ったそのすべての事情も、復帰の因縁を残すためのものではありませんでしたか。パロの宮中で王子の権限をみな捨てて、追い込まれるイスラエル、迫害されるイスラエル、苦労するイスラエル民族のためにぼろの服を着て立ち上がったモーセも、復帰の行脚にモデル的な一つの奇跡を残すためにそうしたということを知らなければなりません。

 そうして、四千年歴史のイスラエル民族を蕩減して収拾するために、洗礼ヨハネが現れたのです。イエス様を中心として責任をみな果たし、天的な因縁に従うために、荒野でいなごと野蜜を食べながら準備した彼のすべての生涯も、復帰の行脚路程を提示したものだったのです。

 ところが、イエス様を奉ることができず、千秋の恨になったのです。そうして、この地上に勝利の起源を立て、天国を建設しようとしたイエス様の願いが、今日全民族的な恨として残りました。世界のキリスト教が、犠牲の血を流して戦い、民主世界を成し遂げたことを考えるとき、ここにどれほど多くの血の代価が込められており、どれほど多くの涙とため息が漂うのかということを、私たちははっきりと知らなければなりません。

 その恨の要件と血の要件を探してきたのが統一理念です。それゆえ、今日私たちが自分の観点や生活圏に閉じ込められていては、何も主管できないというのです。一つの心、一つのみ旨、一つの行動で、一つの爆弾になって、ある一時に敵陣に飛び込んで爆発しなければならないのが、私たちの使命なのです。

 この体に、この胸に矢が交錯して打ち込まれ、死の途上に出て受難に遭いましたが、先生は天命に従うために死のうとしても死ぬことができず、この道を行くまいとしても行かざるを得なかったのです。大の字になって昼寝をすることができるその日まで、耐えることを生活哲学としてきました。しかし、単純に耐えることだけで終わるのでなく、サタンへの恨みを晴らして悪から脱皮し、善の起源を創設するために大道の原則を率いてきたのです。

 ですから、皆さんは統一の名前を表明して、永遠に輝くことができる伝統の基礎を立て、それ自体が一つの化身体となって、「なにがし」と言えば歴史が感動することができるように、涙なら涙、血の汗なら血の汗、その血涙なら血涙を天地のために流し、天地を抱き締めて因縁づけることができる一生を生きなければならないのです。これが今日、私たち人間の生活原則です。

 皆さんは、神様が今まで決断しようとする、緊急な事情があるということを知らなければなりません。歴史上のすべての主義と思想を、アベルから、ノア、アブラハム、モーセ、洗礼ヨハネ、そしてイエス様と彼の十二使徒と数多くのキリスト教徒が今まで期待し願っていた、総合的な実体を見いださなければなりません。

 皆さん、故郷の地を訪ねなければなりません。故郷を愛するすべを知らない人は、国を愛することができないという事実をはっきり知らなければなりません。