『月と桜の物語』




 聞いたところによるとその場所は城跡で、桜並木が続いている。夏になれば他の落葉樹と共に緑葉も鮮やかだが、今はひとつしか色彩がない。樹齢を重ねた樹木は、豪勢に枝を張り出し、満開の装いを見せている。
 蒼穹に薄桃色が映える。
 一年のうち、ほんの僅かな間にしか見られない風景。もう後、数日経てば若緑に覆い尽くされるだろう。
 今はまだ散る様子もない。
 舗装された歩道を行く。人通りは少ない。祭りが開催されているらしいが、まだ時間的に早いようだ。訪れているのはカメラを持った人ばかりで、あちこちで三脚を立てて瞬間を逃がすまいとしている。
 写真については何ひとつ解らないが、昔の出来事を後になっても見られるという点は良いと思う。覚えていると思っていても実際は結構違っているものだ。そういったことに頓着するほうではないので覚えていなくても一向にかまわないのだが、そうではない場合も当然あろう。
 交差点を左に曲がる。
 建物の影が落ちて、アスファルトが冷たい。
 目的の場所に着いた。
 自動ドアの前に立ったが開かない。覗くと店内は薄暗い。まだ開店前のようだ。少し早く来過ぎたか。横の花壇の煉瓦に座って待つ。
 ここは最近、頻繁に訪れている画材屋だ。大通りから外れた場所にあるし、店前の道は一方通行で片方からしか車が来ない――これは良い。一方向にだけ気をつけていれば良いのだ――。これで客の入りはあるのかと案ずるのだが、余計なお世話らしい。一日居てみると、なるほど途切れる事なく訪いがある。
 店の者が来た。
 私に気づき、向けてくるのはまた来たのかと言いたげな眼差しだ。
 店主とはもう随分親しくなったと感じている。それは向こうも同じようで、目元が笑っている。鍵を開け、店内に入っていくのに、遠慮なく続く。
 入ると左手に空間がある。
 それほど広くはない。思い切り走り回るには不充分だ。無論そんな無作法はしない。
 正方形に近いその小部屋は、人を呼び寄せる。
 明るい灯かりの下、壁には絵が飾られる。
 一枚一枚、ゆっくり眺める。飽きっぽい私にしては珍しいことだ。
 今現在、飾られているのは小さめの絵だ。油彩、と言うものらしい。店内はその匂いに満ちている。最初、気になって嗅いでばかりいたら店主が教えてくれた。色の付いた石を粉々に砕いて油を混ぜて塗料にし、木枠に張った麻布に塗りつけるそうだ。
 絵心は全く無いので価値観などは申し訳ないが解らない。人の世界は面白い。
 絵は一定の期間を過ぎると別なものに替わる。
 床からは少々高い位置にあるので、かなり首を曲げて見上げなくてはならない。些か辛い。時折、頭を下ろして休んでいたら、店主が部屋に置いてあるテーブルに乗せてくれた。テーブルに置いてある花や包んでいるビニールを齧らなければかまわないと言ってくれた。正直、ビニールのガサガサと言う音は興味を惹かれる。店主の好意に甘えさせて戴くことにして、飛び掛かるのは我慢した。
 こうして定位置が決まった。
 開店と共に入り、店の外に出るのは腹が減った時と排泄時で、時折店内の隅で昼寝もさせて戴く。飲み水も戴く。起きたら存分に伸びをして、また絵を眺める。
 なんと快適であろう。
 困ると言えば、他客に、ちょっとしたマスコットと思われているらしいことだ。
 心外だ。
 日がな一日居るが、何もしていないわけではない。絵を見ているのであって、客だ。置き物でも看板猫でもないのだ。
 とは言え抗議する言葉を持たないので放っておく。意に介さぬフリをしているのが一番無難にやり過ごせる。
 どちらかと言えば子供の方が気楽で良い。こちらがじっとしていると、おっかなびっくり触ってくる。指先で額に少し触れ、歓声を上げて親の元へ戻る。澄まして絵を見ていると、隣に立って神妙な顔つきで絵を見る。私としては、隣にいようと気にしない。子供はそのうち飽きて何処かに行ってしまう。  また一人で絵を見る。
 勿論、好意的な客ばかりではない。あからさまに嫌な目をしたり、店そのものに入ってこようとしなかったりする。それでは店主に申し訳ないので、そういった気配を感じたら――元々、敏感な質だ――すぐさま姿を隠すようにしている。素早さは天下一品と自負している。
 しかし今日は些か出遅れた。子供とじゃれていた所為もある。
 入ってくるなりあっという間に首根っこを掴まれて――正直、少し痛かった――店外に放り出された。歩道を自転車が来て、危うく踏まれかけた。生命の危険にヒヤリとしたが、仕方が無い。ここは人の世界だ。
 少し店から離れ、日向で暫く昼寝をしていた。
 とまぁ多少の騒動(?)はあるものの、いつも概ね平穏だ。
 仲間からは変わり者扱いをされつつあるがかまいはしない。己の思う侭にそれぞれが自由に生きる種族ではないか。現在のお気に入りの場所が画廊であると言うだけのこと。




 ……さて、本日も閉店だ。
 開けてくれた自動ドアを通って外へ出る。尻尾を振って挨拶をする。我々の挨拶は少し特殊だ。次にまた、ではなく、『今日』への別れの挨拶だ。気紛れでもあるが為に、明日のことは解らない。
 しかしまた、明日もここに来たいと思う。
 朝に来た道を逆に辿る。
 夜風。
 髭をそよがせる。
 空を見上げる。
 足を止めた。
 藍群青の空。
 満月に近い月。
 葉のない枝の向こう。
 そして。
 桜花の枝の向こう。
 薄い薄い色の花びら。夜空に煙るように咲き誇る。
 それらの向こうに月が見え隠れしている。
 白く輝く月は、ずっと前からそこに在って、多分これからもそこに在るだろう。誰かに振り仰いでもらう期待などしていない。温かいとか冷たいとか、温度の解らない白。
 花びらが散る。
 密やかに足元に落ちた。








(04/04/24)



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