『昆虫博物館』




 入るのには躊躇いました。実は虫が大の苦手なのです。博物館と銘打ってあるからには様々な昆虫が展示されているに違いありません。生きているとは思い難いから、きっと標本でしょう。
「面白いのよ、ここ」
 ですけど提案者の彼女はさっさと行ってしまいました。仕方なく私も後を追います。テナントビル内の一角に、昆虫を模した鉄骨のオブジェが口を開けていました。
「いらっしゃい。ごゆっくりどうぞ」
 チケットを切ってくれたのは、まだ十を幾つも出ていないような男の子でした。白いシャツに藍色のタイが涼しげです。にっこり微笑んで半券を渡してくれました。
 順路と書かれてあるプレートを頼りに入ると室内は薄暗く、天井や床に淡い色合いの照明が取り付けてありました。それに照らされているのは入り口で見たものと同じ、鉄骨のオブジェだったのです。ひとつのオブジェに複数の小型のライトをあてて、とても幻想的です。
 ワイヤーや細い針金などが複雑に入り組んで形を造りあげています。人の身長より大きいものがほとんどなのですが、その精緻さに不気味さはちっとも感じません。広い室内を種別に区分けして、様々な昆虫が展示されてありました。
 羽や肢をピンで留めてガラスケースに収まっている昆虫を想像していた私は、予想外の展示物にすっかり魅せられました。
 いったい誰が造ったものか、製作者の名前はありません。作品タイトルもなく、昆虫の名前だけが表示されていました。
 私の他に客は一人もおらず、とても静かです。空調のファンの音以外に物音は聞こえず、足音も絨毯が吸収してしまうので響かないのです。同行者の彼女の姿も見えません。追わないとまずいかなと思いつつも、自分のペースでゆっくり見て回ります。
「お姉さん、蝶は好き?」
 いつのまにか、受け付けの男の子が横に居ました。タイと同色の半ズボンに白いソックス、黒の革靴を履いています。
「……そうね、大好きとまではいかないけど、翔んでいるのは綺麗だと思うわ」
 嘘です。羽の模様が眼のように見えてしまって気持ち悪いのです。鱗粉がつくのも嫌でした。
「ふうん。ね、こっちの部屋にはいろいろな蝶がいるんだよ。当博物館の一番の自慢なんだから。きっともっといっぱい好きになると思うよ」
 少年の手に引かれて隣室へ行きます。
 自慢と言うだけあって、模様の細部まで精巧に造られた蝶が、広い展示室が狭く見えるほどたくさん陳列されていました。ピアノ線で吊るされて、本当に翔んでいるように見せているものもあります。
 針金の色はモノトーンなのですが、照明で彩られていて不思議と区別がつくのです。蝶など揚羽蝶か紋白蝶くらいしか知りませんでしたが、良く模されているということなのでしょう。
「凄いわね。おとぎばなしみたいだわ」
「でしょう? ほらこの蝶を見て。あのね、これは――」




 少年と一緒に夢中になって見ていましたが、明るいなと思ったときにはそこはもう出口でした。これでもう終わりなのかとちょっぴり残念です。
 結局最後まで案内をしてくれた少年は、行儀良くお辞儀しました。
「本日はありがとうございました。またのご来館、心よりお待ち申し上げております」
 大人びた挨拶に送られて、外へ出ました。
 室内の薄暗さに目が慣れてしまっていた為に、廊下の照明が眩しいほどでした。瞬きをして慣らしていると、先に出てしまっていたらしい同行者が嬉しそうに笑って近づいてきました。
「楽しかったでしょ」
「ほんと。これなら私でも見られるわね」
「だろうと思って誘ったのよ。大成功!」
「……あ、ねえねえ、入り口にいた子ってバイトなのかしら」
 まだ中学生か小学生くらいに見えました。
 私がそう言うと、彼女は怪訝そうな顔をします。あまりにも不可解そうだったので少し不安になりながらも続けました。
「ほら、チケットを切ってくれた。藍色のリボンタイ結んでた男の子――」
「はあ? 何言ってるの? 入り口にいたの中年のおばさんだったじゃないの。嫌だ、誰、その男の子って」
 今度は私が狐につままれたような顔になる番でした。








(00/12/04)



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