ねぇ、覚えてるかい。
曇ってるのに、雲の色が凄く白い。
こんな空模様の時、よく見上げてたね。
僕はその横顔を眺めてる方が好きだったけど。
空見てたって何が良いのか、僕にはちっとも解らなかった。首が痛くなるだけだし。
そう言ったらさ、怒っただろ。夢がないとか童心を忘れちゃ駄目なんだとか。ひとしきり説教してそっぽ向かれちゃった。傷つけちゃったかなって焦ったよ。降ってるの見てるのは良いかなって慌てて言ったら、振り向いて――微笑ったね。
おねだりいっぱいして、やっとおやつを貰えた仔犬みたいだった。普段、他の人には間違っても見せないだろう、はにかんだ笑顔。可愛かったよ。
情けないかな。聞いたら笑うかな。それとも呆れる?(何となく想像はつくよ)
僕だけの宝物。良いよね。それだけ。他には何も要らない。
だから、内緒にしとくよ。
信号が青になって人の群れが動き出す。それに合わせて僕も歩く。けっこう人通り多いんだ。今日は休日じゃないのにね。皆、サボりかな。
スクランブル交差点って便利だよな、反対側に行くのに道路突っ切れんだもん。歩道橋登らなくって楽だし。上から観察してても面白い。あんな大勢渡ってても、ぶつからないで器用に行き過ぎる。実際に歩いてみりゃ結構隙間あって意外と簡単なんだけど。
若干名、ヘタクソなの、いたけどね。しょっちゅう群れに飲まれかけてた。遠慮して譲るのにも限度ってものがあるんだよ。前から人が来るからって、そりゃ当たり前だよ。何回くらい救出に戻ったっけ? ――嘘だよ、数えてなんかないから。
今いきなり僕が歩くのを止めたとしても、周りの人たちは平気で歩いていく。世の中はそういうふうにできてる。僕なんてちっぽけな存在。僕のことはどうでも良いんだ。僕には、僕の中の存在が何より大切だから。
もちろん、その存在には――その存在にだけは、みっともないとか思われたくないし、多少の見栄は張りたい。だからちょっとはエエカッコシする。
頼りにされたかったんだ。知らなかっただろ。
もう伝えられないけれど。
歩道横のショーウィンドウ、大腿くらいの高さまで積まれた煉瓦(さて、本物か、贋物か)を台座にしてる。その煉瓦の出っ張った一番上の部分は座るのに良い感じの高さだった。いつもは、僕は車道側の洒落た鉄柵に座ってた。そっちが僕の定位置。こっち側は初めて。
見慣れない景色。中央分離帯には、電飾をぐるぐる巻きつけられたデッカイ木(何て名前なのかは知らない)が何本も等間隔に植わってる。へえ、ここだと、ちょうど木と木の間なんだね。ははっ。新発見。本当に絶好のポジションだな。空が良く見えるんだね。
気づかれないのもなぁって思うけど、ずるいかな、わざと声かけないってのもどうだろうね。
僕が目の前にいるのに気づくと、ちょっと顎を引いて、恥ずかしそうに睨んでた。それから何回も謝ってくれて、一生懸命言い訳してたね。
でも、眺めていたかったから僕は僕で気づかれないようにしていたわけで、だから謝ることはなかったんだ。ごめんね。
最初は、マジで無視されてんのかと不安になったよ。遅刻したわけじゃなかったけど、僕の方が遅く来たから怒ってるのかなって。待ち合わせとか、時間ちゃんと守るって聞いてたから。
それからも、いつだって僕より早く来てたね。約束の時間には余裕で着けるようにしてたのに。
そして、いつも空を見上げてたね。
視界の隅に何かを捉えて、無意識のうちに探して視線が彷徨う。
車道を挟んだ向こう側の歩道。片側三車線だから距離がある。右から左から行き交う車で一瞬見えなくなる。
こんな雑踏でも、やっぱり解った。
不覚にも、座ったまま、動けない。うーん、不意打ち。ちゃんと会えるなんてね。心の準備ってものが全然できてなかったよ。まぁ、半分くらいは確信犯だったりするけどさ。この辺、よく買い物来てたから。
どうしたんだろう。急ぎの用事かな。あの様子じゃこっちに来たりしないかな。すでに真向かいを、それこそ脇目も振らずに歩いてるのに、Uターンしてこっち側に戻っては来ないだろうね。
ということは、ぐずぐずしてたら何処かに行ってしまうってことだ。
こんなふうに遠くから見れれば良い、なんて思って待ってたんじゃないだろ。こんな一瞬の邂逅のためだけに待ってたんじゃ、ないだろ?
――目を閉じる。
顔を上げて、僕は立ち上がる。
ワンブロック先の交差点。タイミング良く青。渡ろうとしてる。
そう、今日は贈り物を届けに来たんだ。僕にしかできない、あげられない贈り物。だから遠くからじゃなく、側に行ってあげたかった。できるだけ手渡しに近い感じで。
覚えててくれると――いや、絶対に忘れられてないって自信はある。だって、今だって歩きながら空をちらちら見てる。のは良いけど、ほら、ぶつかるって。……うーん、危なっかしいな。そこで立ち止まんなよ。早くしないと、信号、変わっちゃうだろ。
手を引いてくれる人は、まだいないのかな。それとも、今日は一緒じゃないだけ?
どっちでもいいや。ああ、今日は一緒じゃなくてもって方。早く見つけて欲しいなって思うから。……もっと本音を言ったら、そりゃもちろん『寂しい』だけど、見つけた方が良いに決まってる。僕はもういないんだから。
受け取ってくれたら嬉しいな。つうかさ、ごめん、あの時コレしか思い浮かばなかった。苦笑されちゃったよね。期待しないで待ってるって。
他愛もない冗談だったかもしれない。でもさ、叶えてあげたいって思ったのは本当。本当に降ったら素敵だなって。凄く願った。こんなふうにして叶うなんて皮肉だけどね。不幸中の幸いってやつ? ああ、こんなこと言ったら、それこそ怒鳴られるだろうな。うん、これも内緒だ。
出迎えるように交差点の途中で待つ。
久しぶり、元気だった? 声は聞こえないし、見えもしないって解ってても話し掛けたくなる。慌てて目を瞬いた。笑おう。うん、笑って会おうって決めたんだ。
すれ違う。
髪、伸びたね。すぐに通り過ぎて視界から外れる。
立ち止まったまま、僕はポケットに手を突っ込んで空を見上げた。
頭上を覆う雲は驚くほど白くて、明るくて、仄かに輝いて見えさえする。
もうすぐだ。――ほら。
振り返ったら、きっと笑顔だよね。
―― 終 ――