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 人類は戦っていた。

 大人達は、そして子供達も、戦っているという事を知っている。
 知っているだけだ。
 何と戦っているのかは知らないし、何処で戦っているのか、いつから戦っているのか、どうやって戦っているのか、知らない。
 仮想ではなく、妄想でもなく、近所の誰も見た事は無く。
 不明瞭な噂だけが広がり流れ、確証は無く信憑性は薄く、時折行われる避難訓練が妙に現実味を欠いていた。

 しかし敵は存在する。
 何故なら戦う者達が居るからだ。





世界で想うは君





 暑い。
 他に言葉が出ない。
 暑い。
 それは夏なのだから仕方が無く、四季のある日本なのだから当然で、ぶつくさ文句を垂れても特に涼しくはならず容赦無く太陽光は降り注ぐのだ。
 夏休みである。
 世間一般、ありとあらゆる学び舎は休業中だ。
 夏だから休みなのか休みだから夏なのか最早どうでも良い。暑い。
 哲平はよれよれのTシャツを更に撚れさせて、畳の上で寝転がる。
 暫くじっとしていると床は哲平自身の体温であったまるから、気持ち悪くて移動する。自分の熱なのに。
 この古びた日本家屋が恨めしい。建て付けが悪くなっているから障子も襖もちゃんと閉まらない。閉まらないのを良い事に母親は省エネだと言ってクーラーを付けさせてくれない。縁側のサッシを全開にしていても風は通らず、障子の開け放たれた三間続きの和室は無駄に広々としている。自分の部屋は洋間で西向きで更に暑苦しい。
「おにいぃちゃぁあん。おかぁさんが、おつか、いってー」
 中2の哲平とは10歳違いの、4歳になったばかりの妹が、少し舌足らずに哲平を呼びに来る。『おつか、いってー』って何だ。買い物? このクソ暑いのに?
「さやもいくの」
「何処に?」
「おつかい」
「何しに?」
「かどや」
 現れた妹は、肝心な部分を暈すかのように肝心な事を言わない。『かどや』とは近所のスーパーでまさしく交差点の角にある。因みに近所にスーパーは一軒しかない。買い物に行くといったらつまり、かどや、なのだ。
「……何買いに行くんだよーーー」
「てんつゆー」
 ばっ! とタイヘンなモノを見せ付けるように、妹は千円札を両手で掲げ持つ。
 夏はそうめんと相場が決まっている。
 昨日の昼も一昨日の昼も、その前の昼も、そうめんだった。今日もなのか。
 まぁいっか。スーパーはココよりずっと涼しいだろう。
「さや、帽子取ってこいよ」

 哲平の家は県道から少し奥まった位置にある。車がやっとすれ違えるくらいの細い路地の近道を行く。普段はあまり通らないように言われていて、でも今は平日の昼間だから大丈夫だろう。妹はお気に入りの帽子を被り、千円札を入れたポシェットを肩から斜めに提げて、ご機嫌で哲平の真横を歩く。手を繋いで歩いてあげた方が安全なのだが、二人とも手が汗でべたべたになって、二人して苦笑いして、哲平の右側を歩かせて、車やバイクや自転車や変質者には哲平がより注意する事にして一致解決した。
 仲良いよね、と友達にからかわれるのはしょっちゅうだ。
 本当は弟が欲しかったのだけれども、生まれたのは妹でそれは変えられない事実で、大きな瞳をきらきらさせて笑う彼女は誰より可愛いと思うのも変えられない事実だ。まだもっと赤ちゃんだった頃、ぷくぷくの小さい手でぎゅっと指を握られ、哲平は逆転の満塁ホームランを打たれたのだった。
 着いた県道は、陽炎で揺らめいていた。歩道に等間隔に植えられた樹木は真下より少しずれて影を落としている。その影を選ぶように、ぴょこんぴょこんと妹は飛び跳ねながら進む。
 危ないかなぁ。まぁ、転んだら泣くだろうけど、痛いって事も解るだろうから、それはそれで彼女の為かもしれない。転ばなきゃ痛いって解んないんだし。
 兄は躾に熱心だった。
 ――あれ? ナンカ光ったような……
 哲平は裏山に目を凝らす。
 子供達が裏山と称する、山というか起伏の大きな雑木林は山菜採りや昆虫採集くらいでしか人は立ち入らない。持ち主はいるのだろうが子供達の誰もそんな事は気にしないし、下草は伸び放題でちっとも整えられていない。その木立の隙間。銀色っぽい光が微かに視界を掠った。
 何かなぁ。
 誰か虫取りしてるのかも。
 そう言えば徳田っちが双眼鏡を買う話してたっけ。こっそり使ってるんだ、きっと。そんで次に会った時に操作なんかを自信満々に教えてくれるんだ。
 行って脅かしてやろうかな。
 てんつゆを買った後では荷物が重いし。
 今はまだ10時半過ぎ。昼までには些かの余裕がある。
「な、ちょっと寄り道してこう」
「うん!」
 麦藁帽子を被った小さな妹は、元気に返事をする。



 子供の足で頂上まで行けてしまうくらいだから、標高は高が知れている。地面がうねっているから高そうに思えるだけだ。学校のある坂の上と大差ない。
 光った箇所の見当をつけて、細道を行く。妹がいるから藪の奥へは入らない。伸び放題の雑草は彼女の背を軽く越している。妹になるべく道の真ん中を歩かせ(伸びた草で手を切ったら大変だ)、哲平は薄暗い藪の中を覗き込む。
「居ないなぁ」
 見間違いかな。単なる錯覚だったのかな。だったら莫迦だ。こんなところまで来て。つまらなくなって唇を尖らす。
「だぁれ?」
「徳田っち」
「だっち?」
「双眼鏡、買ったんだって。見せて貰おうと思ったんだけどなぁ」
「だっち?」
「うん、違ったみたい」
「だっち、あれ?」
「え? 何?」
 漸く、妹が何か指差しているのに気が付く。
 小さな指の指し示す先。
 林の中。



 第一印象は、蟻。
 直立している。
 見上げなければ頭の天辺が見えない。
 節足というのだったか、手足(と思われる)には大きな節のような繋ぎ目があった。腹は丸く膨れ上がり、括れた胸部と細い頸、その上に乗る頭部は酷く小さく見えた。背後には骨格標本の様な、二つに裂けた傘に似た蓋い。全ての色は金属のような光沢の黒。木々の中の仄暗い影に溶け込んで、木漏れ日で斑に照らされている。光ったのはこの所為だろうか。
 動けない。
 見つかっている。
 動けない。
 逃げなければ。
 声も出ない。
 口腔と喉の奥が乾いて空気すら出入りしない。苦しい。
 それが光の下に現れる。
 小さな頭部の上で蠢いているのは触角だろうか。猫の尻尾の様な緩やかな動き。のっぺりした頭部。目は? それらしきものは見当たらない。解らない。括れた胴から2本の長く細い腕。骨のよう。膨らんだ重そうな腹部を支えているのは4本の足だった。
 黒い骨が1本、振り上げられる。
 空を斬る。
 避け――





 遠くでサイレンが鳴り響いていた。聞き慣れた喧しい音。抜き打ちかな。偶にある。けれど今鳴ったって――
 再び黒い骨を見た時には何かを掲げ持っていた。やはり長くて細いもの。
 その棒のようなものは、薄い茶色で、先端が細かく幾つかに分かれていた。根元から零れ出た液体が雨のように葉を叩く。
 飛沫を払おうと腕を振り回していた。
 両腕だと思っていたけれど回っているのはどうやら左だけだった。
 右側が空虚だった。
 何で。
 見れば赤黒く染まってベタリと張り付く半袖。
 先は?
 その先。
 無い。
 無かった。
 俺の。
 手。
 右側だけがやけに熱い。咄嗟に利き手を出してしまった結果だ。どうしようどうしよう。俺の。取られた。取られた。俺の。熱い。何で。熱い。いつもボールを握っていた。バットを振っていた。秋の公式戦。なつやすみがおわったら。
「お、お――」
 声にならない。出ない。叫んでいるのに。
 バランスを崩して、尻餅を付く。
 慌てているから左腕だけでは上体を支えきれない。力が入らない。突いた手首と肘がくにゃりと折れる。
 柔らかいものが触れた。
 唐突に意識がクリアになる。
 妹。
 視界の片隅に、哲平に両手でしがみつく小さな妹。
 そうだ。
 彼女にはまだ両腕がくっ付いている。両足も。
 このまま、居たら。
 彼女の腕も取られてしまうかもしれない。
 トラレテシマウ。
「走れ!」
 怒鳴り、突き飛ばし、その勢いで妹は転がるように駆け出す。そう、そのまま走れ。止まるな。残りは腕1本と足2本。足りないかもしれない。それでも。彼女を逃がすには。
 逃がす為に。
 できる限り時間を。





 どうやって麓の県道まで行けたのか覚えていない。哲平の言葉がぐるぐると頭の中を回る。走れ。息ができなくて苦しくて体が破裂しそうだった。全身引っかき傷と打ち身と汗と泥だらけで、顔を涙と鼻水と涎でぐちゃぐちゃにした小さな子供は、無事に保護された。ぷつりと途切れた次の記憶は泣きじゃくる母親の腕の中だった。
 哲平は帰ってこなかった。
 4歳の幼女が走れた、ほんの僅かな距離である筈なのに、捜索隊は誰一人として哲平を見つけられなかった。途中で土塗れの麦藁帽子と、現場と思われる藪は奇妙な足跡に踏み荒らされ、血痕しか採取されなかった。



 この日が早也可の、兄の哲平を失った瞬間であり、敵との最初の遭遇だった。










 それはパーツがバラけるかのように崩れ、背の傘のような黒い骨が傾いて倒れる。
 地上に堕ちたこいつらは無力だ。
 個体の見た目はどれも殆ど同じ。少し腹囲が大きかったり小柄だったりする程度。年齢不詳、性別不明。だからどれが兄を殺したやつなのか早也可には解らない。別に解らなくても良い。どれもこれも殺せば済む話だ。
 人里で滅多に目撃されないのは、人目に付かない場所で人知れず倒しているからだ。専ら空中戦。地上戦は稀。空軍の取り零しが地球に降下し、地上部隊が極秘裏に掃討する。そう、こいつらは飛来するのだ。何十年も前から。早也可が生まれる前から。そしてあの日出会った。空軍が殺し損ね、捜索中の地上部隊よりも早く。
 早過ぎたのだろうと思う。あれは。一生出会わない大人もいる中で、子供達が出会ってしまったのは不幸なのか。
 あの騒ぎはニュースにもならなかった。翌日の地方新聞の端っこに、中2少年が行方不明と載っただけだ。規制されたのだと今なら解る。大きな蟻が兄を襲ったなど誰も聞いてはくれなかった。訴えた本人だって実際に戦わなければ夢だったのかもしれないとさえ思う。
 今日が当直で良かった。
 知らず顔が綻ぶ。
 3日後の出撃で接触できたかもしれないけれど、空では直に相対できない。急所は頭部。表殻は硬くても何度も撃ち込めば穿てる。こちらも負傷はするし、戦闘機で追い掛け回してミサイルで木っ端微塵にするのとも勝手は変わるが、地上の方がより実感できる。
 黒い骨のような腕を、踵で踏み付ける。節の部分に、逆向きに力を入れたので案外ぽきりと簡単に折れた。蹴り飛ばす。折れた腕は胴体から遠く離れていった。


 ――これが人類の敵。










2008/03/08

変な書き方というか構成というか、尻切れトンボかつ中途半端であります。
秘密裏に戦う地球防衛軍とか、妹に極甘な兄貴とかの話にするつもりだったのに。



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