3.代表作品 ──会員の自分史(部分史)集より── 
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作品−90 自分史風エッセイ 2題      志津波多
作品−8 私のひとり言――がんばれ!政治屋  志津波多
作品−88 初空襲の記憶 ── 伊藤 浩  大石洋太郎
作品−87 ナマコ談義    ――    姥 桜子
作品−86 火 鉢       ――  中尾信義
作品−85  
鵜飼一郎さんを偲んで ―― ――  講師・平岡俊佑
作品−84
 
首の無い戦闘機――『飛燕』の空冷式化物語――遠藤 毅
作品−83  
『風の風景』  ――吹きだまり――   山上 峻介
作品−82  小学校の同級生たちと――出前自分史作り――岸本  昭
作品−81 同じ戦場(いくさのにわ)に立つ(特別寄稿)伊藤 浩

(以下、バックナンバー03 へ)
作品−80 
竹の秋 ──若竹の勢いと美しさに魅せられて──伊藤 美智子
作品−79 一等大将・三等大将 ─半世紀前は昔じゃない─岡田 忠夫
作品−78
 万博日記      ──お役にたてば──      樋口  倖
作品−77
 
愛・地球博と新しい友人たちこんな楽しみも遠藤  毅
作品−76 光雄さんの告知   ──最後まで生きたひと── 中村 陽子
作品−75 A型とO型  ──人それぞれ違うから面白い── 廣瀬 録郎
作品−74 
不思議ものがたり── 偶然 必然か ── 大石  洋

箱根・地獄谷 (1/25)


作品−90  自分史風エッセイ 2題                      △作品目次へ
                                    志 津 波 多

     
  産学協同
「産学協同」を言われて久しい。広辞苑に『教育において産業界と学校とが協同すること。技術革新に対応した技術者養成を主な目的とする』とある、また「協同」は『心を合わせ、助けあってともに仕事をする事。協心』とある。
 しかし、何時頃からか政治が加わって「産学官協同」になり、私は不満である。国家百年の計、国民の生活向上を考えるべきなのに、次の選挙だけ考えている薄っぺらな政治的要素が入っては本来の目的は得られないのでは、と思うから。
 脱原発運動の機運の盛り上がりを横目に関電の大飯原発の再稼動がきまった。安定した電力の供給には妥当な判断だそうだ。国民は脱原発なら節電、計画停電も協力すると言っている。更に火力発電のための燃料費高騰のため使用料の値上げを提示。企業用の使用料より一般家庭用のそれのほうが割り高であるという有難い計算結果の披露まであった。
 政府と電力会社の遣り方を観ていると時代劇の悪代官と悪徳商人の図で産官協同である。そこで私は「学」はどうした、何をしているか! と言いたい。事故発生当時は映像に出て解説をしておられるのを拝見したが、収束、復興になってからは見かけなくなった。
 日本の無口で、控え目で、遠慮がちな放射能学者よ、口を開けて一歩前へ! そして叫んでくれ! 貴方の存在を示してくれ! 貴方達は広島で、長崎で、第五福竜丸で、スリーマイル島で、チェルノブイリで、の経験・研究の成果を福島に反映しないと前述の沢山の教訓が泣くと言うものだ。無知で不勉強な政治家どもを叱責することも学者の責任なのだ。
 手元の小学生が使う国語辞典に「学者」とは『@普通の人より知識の深い人。A実利を離れ、学問研究に従事している人』とあるが、私はAをもって学者を言い表していると思う。
 原発の再稼働最終判断を放射能に、政治にも? 素人で信頼できない政治家が下ろす現状に国民は納得できない。発電を中止している多くの原発の再稼働の是非を問われるとき、これでは堪らん。
 外国ではスリーマイル島、チェルノブイリの原発事故後に過酷事故対策が進んでいるが日本は大きく遅れている、という報告がある。政府が指導すべきだが、これが出来ない、愚鈍な政府を良いことに甘い安全対策で実利追求のみの業界、大学(学者)は研究費の都合か政府・業界の顔色を窺っている(考えたくないが)ところがあるのでは? 政治家でない政治屋の「政治判断」は無い。
 
 学者先生には象牙の塔を出て政治、経済と対等な立場で学問的な純粋な見解を示していただきたい。
 今や、「産官」には国民は信頼できない。「学者先生」が主導権を持った「産学官協同」で国民を安心させてください。高額な研究費を使う学者の納税者に対する義務でもあるのでは。                                    (2012年7月 記)

 株主総会
 この時期は株主総会が花盛りである。が、私はその手の会には出席したことがない。だから会の雰囲気も知らない。私は株主になった事がないから。
 しかし、興味の有無に関わらず、TVは東電と関電の総会風景を放映していたのでチャンネルを変えるのも面倒で何となく見ていた。
 東電は国民の血税から一兆円も出させ、更に電気代を値上げする。かつて役員の一人がTVのインタビューに「電気料金の値上げは企業の権利だ」と言い放ったのを思い出した。最近は国民を馬鹿にした事故報告書を臆面もなく提示して顰蹙(ひんしゅく)を買っている。
 責任逃れ、言い訳ばかりであり、会場の問いかけの回答になっていない。流石「金持ち喧嘩せず」だ。豊かな生活の株主は更には問い詰めない。
 関電のそれでは橋下大阪市長が脱原発を迫ったが、何時もの迫力はなかったようだ。経営陣は正に「暖簾に腕押し」であった。
 総会のやりとりを聞いていると両社の役員には、電気を供給してやるのだという気持ちであるようだ。「上から目線で見て、ものを言う」ようだ。時代錯誤も甚だしい。
 事故発生時、東電の永年の特異な経営体質が対応を歪めた。自律性と責任感に乏しい特異な経営で全て役所に責任転嫁する経営体質でもあって、事故の官邸への報告も、意向を探るかのような曖昧な連絡をして、官邸の誤解や過剰介入を招いた。と言われている。

 福島の事故以来、東電の一般社員とその家族は肩身の狭い思いをして生活をしているようだ。全くお気の毒に思う。悪いのは会社運営を疎かにした首脳部であって、懸命に働いてきた一般社員、ましてやその家族は胸を張って暮らせば良いのだ。

 腹蔵の無いところを言わせて貰えば、この業界は何れ一社に統合され国営となるであろうと思われる。その時は今の連中は組織から外さなければならない事を付け加えてこの項を終る。                          (2012年6月 記)

作品−89 【エッセイ】 私のひとり言                      △作品目次へ
           ――ガンバレ! 日本の政治屋――       志 津 波 多

 私は「天下国家」を声高に論ずる器ではない。小さな島国にある田舎町の片隅で細々とうつむき加減に生 業をしてきて「彼の岸」に何時渡ろうか迷っている老爺にすぎないからだ。
 東日本の大震災という国難が覆いかぶさってきたこの時、政治屋(?)共が世界に恥をさらしていては と、日本国民の名誉のために筆を否! キーボードを引っ張り出した次第。
 手元の地方紙は「今回の震災と原発事故に対して日本国民は少しも節度を失わず、苦境にあっても天を恨 まず、運命に耐え、助け合っている」と外国の報道陣が母国に配信していると報道していた。
 同じ紙面には「国会議員はもっと被災地のために!」「菅おろしより協力を」と、政治屋共が、あたかも震災、復興について考えていないかのような振る舞いをなじる投書欄の記事満載。
 私は自民党、民主党、公明党も好きではないが、今はそれは問題ではない。危機存亡の折、政治屋同志が足を引っ張るのではなく、協力をして危機から脱出する努力をすべきだと思う。野党と与党の一部のバカ議員共よ、「間違っても危機の最中に『倒閣の愚』だけは避けよ!」と言いたい。
バカ政治屋が自戒のつもりか? 「急流で馬を乗り換えるな」という言葉を引用していたが、正にそのとおりだ。急流を乗り切るまでは、馬を叱咤激励して、前に進ませるべきで。進退を言うのは無事向こう岸に辿り着いてからだ。
  自民党が福島原発事故で政権の責任を問うなら「まともな安全対策もしないで多くの原発を造ったのは自 民党政権だ」という事を自ら深く反省すべきである。 「原発さえなかったら」といって自殺した福島県の酪農家がいた。イタリアの国民投票では原発反対派が多 数だった。これに対して自民党石原幹事長は「集団ヒステリー」発言。原爆・原発の被曝国の政治屋がこん な表現しか出来ないのかと国民として恥ずかしく思う。  原発はわが国の国策だからといって政界、学会、産業界も思考停止になっていたのではないか。それを根 底から考え直すところから始めるべきであると思う。
 耳を澄ますと緑のカーテン(ゴーヤ)の向こうから「日本の国民は立派だが、政治は三等国並だ! 日本 の政治家は日本人でないのか!」と世界の声が聞こえてくるようだ。
 高校野球でヘルメットに「東日本ガンバレ」というシールが貼ってあった。「ガンバレ日本の政治屋」と貼 り替えたい。日本の政治屋さんヨ、自ら「俺は政治家だ!」と胸を張って青空に向かって大声で言えるよう になってくれ。田舎のしょぼくれ老爺に「政治屋」をつき返してくれ。ガンバレ! ガンバレ! 日本の政 治屋!
                                        (20011年8月お盆に)


作品−88 初空襲の記憶(64年前)             △作品目次へ
             ──特別寄稿 H20年の作品──          伊藤 浩

 去る4月18日の中日新聞夕刊に、「初空襲の記憶を形に残す」の大見出しで64年前の今日、名古屋に米軍機が侵入して、焼夷弾を投下した記事が載っているのが目に止まった。岐阜市早田東町の税理士「鵜飼和己さん」の体験記と、思い出のスケッチである。  
 当時、現役兵としてその場に居合わせた記憶が俄によみがえつて来て、また一文を書き残して置こうと思う。
 時は昭和17年の4月18日昼過ぎ、1時をを少し廻った頃、突然空襲警報のサイレンがけたたましく鳴つた。 私は当時3月末に豊橋予備士官学校を卒業して、見習士官となつて中部第二部隊の歩兵砲中隊兵舎に居た。
 兵舎は東営門を入った右手で東堀に近く、敗戦後名大学生寮に転用され、最後まで残った建物であったが今は無い。

 警報と同時に軍装をして文字通りオツトリ刀で営庭に飛び出し、所定の位置に散解待機した。 すると1時半頃か南方市庁舎の方から、超低空でB25 1機が迫って来た。営庭でかなわぬものとは知りながら、軽機関銃で対空射撃姿勢を取った。
 北練兵場に設置されていた高射砲の発射音も聞こえぬ中に、敵機は黒い焼夷弾をバラバラと落として、我々の真上あたりで右に廻り、名古屋駅方面に高度を上げながら飛び去った。
 その時敵機乗員の防空帽、眼鏡をかけた慌てたような顔がよく見えた。それほど低空だつたので、後で聞くと高射砲は撃てなかつたとか、勿論軽機関銃は構えただけだつた。  

 しばらくすると、東の方向陸軍痺院(今の国立病院)の東あたりに火の手が上がり、煙がもうもうと立ち始めた。兵舎を狙ったと思われる焼夷弾がそれて、軍の「秣(まぐさ)倉庫」に落下したものだ。それっ!と云うので中隊の兵器係軍曹らが状況調査に急行した。
 20分もすると、予想通りの株倉庫で枯草に火が付き消火は難しい、病院外への延焼を防ぐために兵力を増員することとなつた。
 その報告に来た軍曹が、防火用砂場に突き刺さるように落ちていた高サ50cm位で真っ黒な爆弾型焼夷弾(不発弾)を2個拾って来たのを覚えている。

 秣倉庫はその後一晩中燃え続けたと記憶している。それではと東の営門を出て見ると、陸軍病院の傷病兵の、北練兵場へ向けての避難最中でごつた返していた。
 ところが、患者を誘導するはずの看護婦さんが動転して、片足の悪い傷病兵に手を引かれ、中には気を失って兵に背負われてと云つた笑えぬ光景が、今も目に浮かぶ。  

 これが、これから戦地に向かう私の戦争序幕であつたわけだ。


[関連作品]
 空襲初体験
                                 大石 洋太郎
 太平洋戦争勃発の翌年、私は神奈川県川崎市内の中学(旧制)へ入学した。  
 戦争は、昭和十六年十二月八日の真珠湾奇襲攻撃で始まり、ニュースでは連戦連勝。中学一年生の私は、神国・日本としては、当然のことと思っていた。しかし、その甘さは早々にうち砕かれた。敵機の本土初空襲に遭遇したからである。
 
 入学して間もない昭和十七年四月十八日の土曜日、天気の良い長閑(のどか)な日であった。
 午前中で授業が終わり、帰り支度をし校庭へ出た。友達と立ち話をしていたとき、北(東京都心)の方から真っ黒い爆撃機が一機、翼を左右に大きく揺らせ、ジグザグ飛行で低空を飛んで来た。後に高射砲弾の炸裂煙が無数に残る中、頭上を通過して西の方へ飛び去った。一瞬の出来事、空襲警報も聞こえなかったので、日本機の演習かと友達と話しながら帰った。  

 翌朝の新聞を見て驚いた。「敵の数機が太平洋上の航空母艦から飛び立ち、東京、名古屋、神戸を空襲したが、我が高射砲隊の猛攻撃にあい大陸方面へ逃走した。被害は軽微」とあった。私達が見たのはその内の一機である。
 敵機が来襲したのに何故、我が軍の飛行機が応戦しなかったのか。なんで一機も落とさずに逃がしてしまったのか。私には不思議であり情けなかった。被害はほとんどないということだったが国民に与える精神的影響は大きかった。
噂では、高射砲弾の破片のためお婆さんが一人亡くなったと聞いた。  

 ある戦史によると、この奇襲(ドーリットル空襲)は日本海軍の真珠湾攻撃の報復と主要都市の航空写真撮影が目的で、懸賞金が懸かっていたとのことである。懸賞とは、アメリカらしい発想であった。 (以降 省略)
 
[参考資料](ホームページより)
ドーリットル空襲
 わが国が最初に空襲を受けたのは、第2次大戦突入4か月後の昭和17年4月18日である。
 空母「ホーネット」から発進したB25爆撃機16機が東京、神戸、名古屋等を爆撃し、死者89名、負傷者600名、家屋の焼失等674件の被害があった。 愛知県にも2機が来襲し、名古屋市内6か所に投弾され、死者8名、負傷者31名を出した。
  これは真珠湾攻撃以降一方的な敗退を続けてきた米国が、士気を高める方策として帝都・東京を爆撃する計画を立てたものであった。
 航続距離の長い爆撃機を空母から発進出来るように軽量化を図った陸軍のB25爆撃機で、東京の約800km東に停泊した空母から発艦のジミー・ドーリットル中佐率いる16機である。
 B25爆撃機16機は東京市、川崎市、横須賀市、名古屋市、四日市市、神戸市を奇襲攻撃 日本列島を横断し、中国東部に着陸した(一機はソ連のウラジオストクに着陸、乗員は抑留された)。
 乗員は戦死が1名、行方不明が2名、捕虜となったのが8名で、残りはアメリカへ帰還した。  
 日本側の迎撃体制はほとんど無い状態であったが、次の記録がある。
 日本に飛来した16機のうち1機は三式戦闘機飛燕(当時、正規の防空戦闘機隊ではないキ61試作機)の追撃をうけ、翼内燃料タンク漏れと旋回銃故障に陥っている。



作品−87
 ナマコ談義

                           姥 桜子         △作品目次へ落合公園の桜
                              
 人間とは勝手なものである。自分以外のこの世の生き物を、相手に関係なく自分の好みで、あれこれと色分けする。
 曰く、風情があるだの、可愛いだの。曰く気色悪いだの、グロテスクだのと人によって様々である。
 子どもの頃、ミミズが苦手だった。ヘビよりもゴキブリよりも気持ち悪かった。道路脇に突然にあらわれ、ただくねくねとのたうち回り、目も口もあるのかないのか認められない(でも実はあるのである)、好きでそんな体で生まれたのではないよと言われそうだが、見るのも嫌で背筋に悪寒が走った。
 けれどそれに負けず劣らず珍妙な生き物がいた。
 「美味しい、おいしい」と正月に喜んで食べていたナマコである。

 北陸人同士の我が家の正月には、寒鱈(かんだら)の煮物とナマコの酢の物、そして数の子の味付けはおせちに欠かせないものである。
 母が料理していたので知らなかったが、母が亡くなり、代変わりで正月に北陸へいくこともなくなってしまった今は、自分でナマコ料理をしなければならなくなった。
 ところがいざ我が身でナマコを料理をする段になると、なかなか手が出せず、一大決心がいった。
 あのヌメーとして、ごろんとした体つき。見ただけではどこに目や口があるのかわからず(つまり私にとって生物の定義とは、かならず口と目がなければいけないのである。)、しかも体のあちこちにイボイボがあり、色柄も赤黒・青黒・黒々とどす黒くて一言でいえば汚らしい。敬遠したくなるような色合い、それが敵に捕まらないようにする彼らの手なのであろうが、まったく「気持ちわりー」で、私にとってはかのミミズとは大差ない。

 店でナマコを買ってきたはいいが、どうしょうと俎上のナマコを眺めていると、嫁いだ娘が顔を出した。
「お母さん、どうしたん」
「うーん。これをゴリゴリと塩もみして洗わないといかんけど…、おお寒。見てるだけで虫唾がはしるわー」
「何やこんなん。たいしたことないやん。私がやってあげる。ついでに体がどうなっているか興味あるから解剖するわ。実験でハツカネズミや兎をいっぱい解剖してきたんやから、これぐらい軽いもんやし」
渡りに船である。
「そうか、なら頼むわ」
「お母さん、ナマコの又の名知ってる?」
「え! ナマコに別名があるの?」
「イエース。そ・れ・は・ネ、海のくせもの
といいつつナマコを開いていくと、体の中は頭から尻まで筒状で空っぽである。
「やっぱり、無いなあ」
「ええ! なんやねん、これ。おかしいなあ、何でハラワタがなんにも無いの。このナマコ変よ。ちょっとこっちのも開いてみて」
何らかの特殊事情で最初のナマコは体が奇形になったのかも知れないと思った。が、六匹いたナマコが六匹とも状態は同じである。
「一緒だよ。どれ開いてもここにあるナマコ全部内臓が無いよ」
「何でなん。これどうやって生きているの。 いくら変な生き物でも何かを食べているだろうし、食べれば糞もするだろうし」
で、なければ生き物は育たない。なのに何で空っぽなんだ。だってナマコの内臓は海鼠腸(このわた)って珍味になっているのに……それとも先に魚屋さんが抜いてしまった?
「違うって。だからナマコは『くせもの』って言うの。あのね、ナマコにもちゃんと口や肛門があるし、腸や消化管もあってそれで食べたエサを消化してるんよ。もちろん生殖器官もあって自分の子孫をそれで増やしてるんだけど、自分が敵に捕まってやばいとなると、肛門から自分の内臓をズボット全部吐き出してしまって、相手がびっくりしてる間にスタコラサッサとはいかないけれど、自分の分身を与えて逃げ隠れる『忍法分身の術』を使うの」
「そしたら、死んでしまうじゃない」
「残念でした。内臓を全部捨てても、そのうちに又無事に再生するんよ。蜥蜴(とかげ)の尻尾みたいにね。やつらにとっては何等支障がないの。」
「へええ、それってすごいことだね。だってその間内臓が無くても生きているんだよね。どれくらいで又内蔵が出来上がるの」
「はっきりとしたことは調べてみないとわからないけどね」
「ねえ、それってひょっとしたら今はやりの再生医療に役立つかも知れないよ。いま盛んに人間の再生医療の研究がされているじゃない、たとえば乳歯から細胞を培養して内臓の一部をつくるとか、皮膚の一部をとって再生するとか、美容の分野でアンチエイジングに役立つとか。」
「お母さんえらい! それってひょっとしてすごい発見になるかもよ、って言いたいけれど、残念でした。そんなこともう既に実験されて一部実用化もしてるんだよね」
「やっぱりね。思いつくことは誰でも一緒か」
「でもね、ナマコって結構人間の役にたっているんよ。たとえば抗菌作用があるので、水虫薬の原料になっているとか、外国では食料が不足している地区で干して飢えをしのぐ食料になっているとか。」
「ふん、そうかそうか、案外人類の役にたっているんだ。」
「我々にとっては害になるどころか美味しいお助けマンなんよ」
「そんなナマコどんには悪いけど、見た目の気色悪さは私にはどうもねー」
「ええやん、私こんなん全然平気やし、いつでもやってあげるよ。自分の目で確かめられて面白かったわ」
 なんだかんだと大騒ぎしているうちに、無事にナマコが細切れになった。三杯酢でしめて日本酒と共に食すと絶品である。
「うん、やっぱりナマコはコリコリして旨い」
 まったく誰が最初にこんな奇妙なものを食べようと思ったか知らないが、いやいや勇気のある人がいたもだと感心する。

 そんなナマコを食しながら今年も又、年に一度の家族大行事である家庭マージャン大会をしながら、新年を迎えた。
 最近、めったに聞く機会がなくなってしまったが、私が子どもの頃、金時顔の父がナマコを肴に日本酒を飲みながら上機嫌で唸っていた、
「♪ハア〜、忘れ〜しゃんす〜うな、山(やま)〜中(なか)あみ〜ち〜いを〜〜〜♪」
という正調山中節のくだりを、いつかは本場で、ナマコ片手に杯をかたむけながらじっくりと聞いてみたいものである。

                                           (『わだち』第40号より)

作品−86
 火 鉢
                      中尾 信義         △作品目次へ

 暦では立春を過ぎたというのに、寒さは少しも和らぐ気配はない。ガラスの窓越しに見える冬空は、鉛色の厚い雲がずしりと垂れさがり、いまにも雪が降りそうな空模様である。
 庭に目をやると、すっかり葉も落ちて幹と枝だけの裸になった木蓮の木が冷たい北風に身震いしているように見える。
 部屋の中も、先ほどからしんしんと冷え込んできたようだ。暖房用のガス温風ヒーターの温度を一段と強くする。

 最近では殆どの家庭で灯油、ガス、電気、エアコンといった暖房器が主流となっていて、炭火を使うところは、全くといっていいほど見受けられなくなってしまった。戦中、戦後の私の若い頃は冬に暖をとるとなれば、もっぱら炭火を使った火鉢や炬燵といったところであった。

 いま住んでいる 私の家に、いまではもう暖房には使ってないが、古い陶製の丸火鉢が骨董品みたいに残っている。丸火鉢といっても、厳密にいえば周りが八角形にやわらかく角をとってあり、幅50センチ、高さが40センチぐらいの大きさのもので、火鉢のふちは手をのせるに格好な幅で平に縁どりがしてある。
 実はこの火鉢、もう50数年以上も前、私が学生の頃に使っていた思い出の火鉢である。

 その頃、私は東京の早稲田界隈にあった或るしもた屋の2階の四畳半の部屋を間借りしていた。
学生の独り暮らしということもあって、部屋の中は机と本棚だけという極めて殺風景なものであった。北向きの腰高窓はすりガラスの窓だけで、雨戸もなく、その上、立て付けが悪いので夜になると外からの隙間風が容赦もなく吹き込んでくる。部屋も狭いけど、これといった生活感のあるものがないせいか、いつもがらんとして寒々としていた。
 窓の下を見おろすと、すぐ目の前に神田川が流れている。ずっとあとになり、南こうせつの「神田川」というフオークソングが流行り有名になったが、当時の私には単にうす汚れた溝川(どぶかわ)に見えた。
 その火鉢を近くの古道具屋で買ったのは、寒さがそろそろ肌身に感じる晩秋のある日だった。
その日のことをいまでも懐かしく思い出す。
 火鉢の他に、火鉢の灰とか木炭、金火箸、火越し器、五徳、火消し壷なども一通り揃えた。当時、貧乏学生だった私には久しぶりのまとまった買い物であった。早速、火鉢の火入れ式となった。
 先ず火鉢に灰をいれて、中央に五徳を埋め込む。次に火越し器に適当な大きさの木炭を3、4個いれてガスコンロで火を付ける。木炭に火が付いたところで、金火箸で1個ずつ摘みながら五徳の中に通気がいいように熾(おこ)(おこ)した炭火の上に木炭をたてかけるようにしてくべていく。しばらくして炭火の先端の赤い火がだんだんと広がり、火力の強さとともに炭火の色が白みをおびてきて火の中心部から赤白い炎がちょろちょろと微かに燃えているようにも見える。掌をかざすと暖かさがじんわりとつたわってきて、躰のすみずみまで温もりがじわじわとひろがり、ほっとした気分にひたった。
 コンロで水を沸かしたアルマイトのやかんを五徳のうえにのせる。やがて、お湯がたぎってやかんの口からふきだす白い湯気が部屋の中に静かにたちのぼっていく。
 さっきまで殺風景で侘びしかった部屋の中が、なんとなく生気に満ちてほのぼのとした温かな生活空間がひろがり、私は小さな自分の城をえたようなささやかな幸福感を味わったものである。

 それから冬の間、外から帰ってくると、先ず真っ先に火鉢に火を熾すことが習慣になった。田舎の母親が送ってくれた餅を五徳のうえに金網をのせて焼き、おいしく頬ばりながら遠いふるさとをしのんだ日々のことを懐かしく思い出す。
 静かな夜のひととき、火鉢に手をかざして物思いに耽りながら、凍てついた冬の闇にもの哀しく聞こえる夜泣きそばのチャルメラの音に哀愁をおぼえたこともあった。失意と挫折に打ち沈んだときなど、中原中也の詩集をとりだして〈 ……汚れちまった悲しみに、今日も小雪のふりかかる…… 〉と声をだして読みながら感傷的になったのも、今では遠い日の想い出である。そんなとき、火鉢の赫々(あかあか)(あかあか)と燃えさかる炭火の温もりは私の冷えきった心を和めてくれた。
 炭火といえば、若いころ、ある映画会社の助監督の試験を受けた時のことである。

 筆記試験の一般常識の問題で―『備長』について解説せよ―と出題されたことがあった。今では備長炭のことだと分かることだが、その時は有名な刀鍛冶の名だろうかなどといろいろと考えあぐねて手こずったことを憶えている。
 入社試験は幾つも受けたが、不思議なもので解答できなかった問題だけは50年以上経った今でもはっきりと思い出すことができる。

 さて、火鉢に話がもどるが、50数年前に私が使ったもので未だに残っているのは、この火鉢ぐらいのもので私にとっては他のなにものにも代え難いものである。
 ところが、この火鉢がいつのまにか植木鉢に変身してしまった。日ごろ園芸に趣味のある妻が物置にしまってあったこの火鉢をひっぱり出してきて、火鉢の底に無造作に穴を開けて観葉植物のポトスを植え込んでしまったのである。

 今は冷気を避けて座敷の明るい縁側でカーテン越しに冬越しをしている。懐かしさのあまり、しみじみと昔の姿を思い出していると、無惨にもこんな姿に様変わりした火鉢に哀れも感ずるが、「ドッコイ、おいらも生きている」と火鉢が私に語りかけているようにも見えてくる。
 私にとつては、過ぎ去った日々のことを思い出させてくれるなによりのものである。

 いつの間にか、窓の外はすっかり暗くなり、細かな雪が降りだしてきた。
庭木の向こうに立っている街路灯のほんのり明るい灯りの周りに乱舞している粉雪が小さな生きものように見える。静かな冬の夜である。
 隣の居間からはテレビの天気予報で「明日の東海地方は雪でしょう」という声が聞こえてくる。
まだまだ、春は遠いようだ。
                    (『わだち』第35号より)

作品−85 
鵜飼一郎さんを偲んで
                               講師・平岡俊佑         △作品目次へ

 春日井市の前市長・鵜飼一郎さんが、この十月十六日の深夜に心不全のため亡くなられました。

 今年の一月初旬の寒風吹きすさぶ中、消防出初式に出た後に市長室で心室細動で倒れて以来、名古屋大学病院を経て春日井市民病院にずっと入院されていたとはいえ、私にとつては「あまりにも突然の死」という感じで、今だに悲しみにたえません。

 鵜飼一郎さんは、全国の自治体がどこも本格的に着手することのなかった「自分史」に着目され、これを市民の大切な文化活動として定着するまでにされた一大功労者であり、私たち自分史サークルにとつても大恩人であります。全国の自治体多しといえどもささやかながら自分史センターを置き、自分史専門の書架を二万冊分つくり、毎年「自分史シンポジウム」を行うなど、予算を組んで継続的に自分史事業を行っている自治体は、他に類を見ません。

 私と春日井市の自分史事業とのかかわりは、ちょうど十年前の平成八年からになります。
 私が所属している日本放送作家協会が自分史活動の支援を全国的に行うという方針をその数年前から打ち出しており、先輩作家の藤本義一さんたちの関西支部ではいち早く「心斎橋大学」なるものを設立して自分史講座などを行っているという下地がありました。そんなわけで、私なりに自分史を研究していたところだったのですが、あるツテを通じて、春日井市の文化課から「お会いしたい」という電話をもらったのがきっかけです。

 そこでいろいろと春日井市が考えている自分史事業の基本構想をうかがったのですが、「どんなジャンルで、どんな活動を進めてゆくか、具体的な計画が必要ではありませんか。まずは『五カ年計画』から立てる必要がありますね」という私の意見に対して、「では、お考えを盛り込んだ『企画提案書』をつくってくれませんか」という話になり、この時点から私と春日井市の自分史事業との本格的なかかわりが始まったわけです。

 あとは、皆さまもご存じのとおり、「文化フォーラム春日井」が建設に着手した平成九年の秋から、「レディヤンかすがい」で第一回の自分史講座を始めさせていただきました。
 さらにこれを口切りとして、毎年継続的に「講座」「サークルの結成」「シンポジウム」「作品公募」などが繰り広げられ、今ではサークルも七つを数えるほどになって「自分史の春日井」は全国に知られるようになつています。


 では、春日井市が自分史というユニークな市民文化のための事業を始めるきっかけとなつたのは、どのあたりからでしょうか。まとめてみます。

 昨年の初秋、「春日井市自分史友の会」「自分史サークルまいしゃの会」「春日井東部自分史友の会」が合同で編集し出版した『平和への祈り』を、各会の代表の方々と市長に直接お届けするという機会がありました。
 その折、市長の口から「実は私は三人の兄を戦争で亡くしていましてねえ。長男は中国戦線で狙撃兵にやられて頭部貫通銃創で、この兄の遺骨は帰ってきました。しかし、沖縄で戦死した次兄と、シベリア抑留中に肺結核で死んだという三番目の兄の場合は、木箱に石ころが入っていただけ。ひどいものでした」と、しみじみ言われたとき、ハッとしました。

 かねがね、春日井市が市長のお声がかりで自分史事業に取り組もうとしたわけを知りたいと思っていましたが、目の前の市長から肉声で悲しい事実を告げられたとき、まさに「腑に落ちた」のです。
 同時に思い当たったのは、鵜飼市長が就任第一期中の平成七年に終戦五十周年記念事業として、市民公募の『戦争体験記集』が出版されていることでした。

 この『戦争体験記集』が平成七年、翌年には私が手伝って「春日井市自分史事業五ヵ年計画」の作成、そして平成九年からの「自分史講座」の開設――どれも、その根底には、ヒューマンな鵜飼一郎市長の志が反映されていると、私は納得したのです。


 さて、鵜飼一郎さんご自身は残念ながら、病のために今年五月に退任されたのですが……。
 六月の初め、今は都市整備課長になつておられる清田健一さんから私の自宅に一本の電話が入りました。
 この清田健一さんという人物は、春日井市の自分史事業がスタートしたときからの担当者であり、私がかねがね「春日井市の自分史事業の『知恵袋』は清田さん、あなただ」と言ってきた方です。

 清田さんからの電話の内容は
「鵜飼前市長が本を作りたいと言っておられ、平岡先生に編集その他一切をお願いしてほしいと頼まれました。お引き受けいただけますか」
というものでした。
 もちろん、「それは光栄の至り。喜んでやらせていただきます」と即答したものの、私はまたまた、鵜飼さんという人物に惚れ込んでしまいました。

 というのは、前述の『平和への祈り』を市長室にお届けして、三人の兄さんの戦死の話を聞いて市長室を辞すことになつたとき、私が冗談で「市長、ところでもしも市長を退任なさったときには、自分史の本を一冊お作りなさいよ。そのときには私が責任編集をいたします」と申し上げたいきさつがあるからです。もちろん、そのときには鵜飼さんは元気いっぱい、急病で倒れるなんて夢にも思わせないご様子でした。
 ――なんて、律儀な! あのときのやりとりをちやんと覚えていてくださったのだ。
 私は電話での話を終えてからも、しばらくはその場を動けませんでした。

 思えば鵜飼さんという方は、まったく飾らない、威張らない、きさくな方でした。廊下で出会えば、いち早く向こうの方から駆け寄ってきて「先生、お世話になつています」と頭を下げる人でした。
 時には、「うちの孫がまだ小学生の低学年ですが、高いテレビゲーム機を買ってくれと言いだしました。先生、教育的にはどんなものですかねえ」と相談されたこともあります。

 またある時には、ひょこつと自分史センターの部屋に入って来られて「毎月『広報春日井』に書いている『散歩みち』の文章ですが、時々、切り口というか、何から書き出してよいやら困ることがあります。あれだけは自分の手で書きつづけたいけど、何かいい切り口を見つける方法はありませんかねえ」と相談されたこともありました。
「それは市長、簡便型の『歳時記』をいつもデスクに置いて、季節に応じてパラパラとめくってご覧なさいよ。花やら虫やら鳥やら、季節毎の話題を思い当たるのに便利ですよ」
「そうか、それはいいことを教えてもらった。ところで、どんな『歳時記』がいいですか」
などのやりとりの後、私が本屋に出向い一冊を選び、「これ、市長にプレゼント」と届けてもらったこともあります。

 清田さんを通じて依頼された鵜飼さんの本は、市長室長を介しての話では「毎月一回『広報春日井』に連載した『散歩みち』を全部収録して一冊の本にしたい」というものでした。

 そこで、平成四年の六月から十八年三月までの『散歩みち』をすべて「一話一ページ」のかたちにするよう編集を始めたのですが、私としてはどうもピンとこないものがありました。
 それは、「これだけでは、『鵜飼市政十五年を振り返る』というような、はなはだ政治色の強い本になってしまう。せっかく自分史にユニークな足跡を残された鵜飼さんらしい、人間的な本にならないだろうか」
というのが、私の「もやもや」の中心でした。

 そこで、市長室長に「今の鵜飼さんのご容態はいかがですか」と訊いたところ、「ICUに入っておられ、一応『面会謝絶』ですが、実はだいぶん元気になられ、室内で歩行訓練などをなさっておられます」とのこと。「それなら、一度、鵜飼さんに会わせてください。一時間いただければ、人間的な、鵜飼さんらしい自分史風の本に仕上げてみせます」とお願いをしました。

 念願の日は、七月八日にやってきました。その日の午後、幾つかの厳重な手続きを経て病室に入ると、鵜飼さんはベッドの上で上半身をやや持ち上げた姿勢で迎えてくれました。浴衣姿で、鼻には酸素が入り、二本ばかり点滴を腕に受けているものの、比較的顔色も良く、声もけつこうクリアに出ていました。市長時代は有名だつた黒々とした頭髪は、さすがに白い部分が目立つ状態になっていましたが、頭髪の量そのものは私などよりずいぶん多く、やはり元気の象徴のように見受けられました。

「本当は五男とお聞きしましたが、どうして一郎さんなんですか?」
「戦争中、昼は坂下町役場で働きながら、夜は明倫中学の夜間部に通学されたと聞いておりますが、その辺りの話を聞かせてください」
 一時間という限られた時間内での取材のため、矢継ぎ早になりがちな私の質問に、さすがは長年の市長経験者だけに、淡々と、しかし的確に、しつかりと答えてくださいました。

 ちょうど一時間テープレコーダーを回し、「では、これににて……」とお別れの挨拶をしかかった私を手で制するようにして、鵜飼さんが発言されました。
「来年は、自分史事業を始めてから、ちょうど十年になるねえ。私が在任中ならば、十周年記念に何かを盛大にやりたいと考えていたのですが……、まったく残念です。自分史をやってらっしやる市民の皆さんに、くれぐれもお詫びをしておいてください」

 私はそれに対して
「承知しました。ですが……、まだ中学生の方も含めて、お孫さんが三人いらっしやるんですね。お孫さんたちに、これまでの市長在任中は寂しい思いをさせたのですから、一日も早くお元気になって、お孫さんたちと小旅行でもなさったらいかがですか。室内歩行訓練どうかお続けになってください」
とお答えして辞去しました。
「できれば、十一月中には退院したいと思ってるけどねえ……」
 これが、半ば背中から聞いた最後の肉声でした。

 私事になりますが、「名古屋で物書き稼業でメシが食えるのか」と長年言われつづけながら原稿料だけで暮らしてきた私の仕事の中に、地方自治体のいわゆる「市勢映画」などのPR映像のシナリオを書く仕事が結構たくさんありました。時には、ある市長から「一代記」を書いてくれと頼まれたこともあります。その市長になりかわって自伝を書く、ゴーストライターの仕事です。

 そんなこんなで、これまで東海地方の自治体の首長にずいぶんたくさん会ったり話を聞いたりしてきましたが、その中の割と多くの人が在任中に逮捕されるというような事態を招き「何ということだ」と、嘆かわしく思ったことが度々ありました。
 ところが、鵜飼前市長には、このようなことは、それこそ「煙もにおいもない」のですね。まったく、その点では清潔そのものの方でした。そして、市のことは「市内の道の一本一本から、行政の仕事の隅々まで知り抜いている」という仕事ぶりでした。

 それにしても、あの七月八日の病院での話の中で「あるときは、市内の行事に顔を出すのに、一日に二十ヵ所も廻ったなあ」というつぶやきが耳に残っています。

 ――十六歳から役場勤めで、地方行政に六十一年。鵜飼さん、あなたは春日井に命を捧げたのですね。
 ――それにしても、それにしても、こんなに早くお別れの日を迎えるとは思いもよりませんでしたよ。
 カラオケが大好きで、中でも都はるみの「好きになった人」がもっともお気に入りだと語ってくれた鵜飼一郎さん、私にとっては、あなたが「好きになった人」でした。

 最後に、自分史をこころざす市民の皆さまにご報告しておきます。鵜飼一郎さんの本『散歩みち』は八月十日に立派に完成し、それを嬉しそうに手にした鵜飼さんの顔色が今までよりももっと良くなり「これなら十一月退院は大丈夫だ」と、前市長室長が思った時期があつたということです。
 まったく「残念!」の一語に尽きます。
                     『わだち』第33号(2006.12発行)「あとがき」より


 
作品−84 首の無い戦闘機
                               遠藤 毅         △作品目次へ

 2006年、元岐阜大学工学部長の松井辰爾氏は、教え子たちが開いた九十歳卒寿のお祝い会に出席した。そして、戦時中、川崎航空機岐阜の設計チームに所属していた頃の思い出話を披露された。

 1944年(昭和19年)9月、岐阜県各務原飛行場に隣接する川崎航空機工場は、スマートな水冷式戦闘機「三式戦『飛燕』」の機体増産に励んでいた。機体生産は順調だつたが、水冷エンジンを生産する同社の兵庫県明石工場が爆撃を受け、生産上の問題も発生して、エンジンの供給が殆ど無くなつた。

 エンジンの付いてない「首なし『飛燕』」は、9月・172機、10月・248機となり、12月には、ついに354機に達した。
 各務原飛行場の北側に沿って、岐阜から美濃加茂市に向かう国道21号線のバイパスは、開通したばかりの未舗装で、石がゴロゴロしているひどい道路だつた。利用価値の少ないこの道路が、工場から溢れた「首なし機」の絶好の置き場となつた。岐阜に向いた道路上の機体は日毎に増え続け、遂に2キロメートルの長さに達した。はじめは事情を知らないまま頼もしく思っていた工場周辺の人たちも、さすがに心配しだした。

 勉強よりも工場作業にと出された、当時中学四年生のT君たちは、翼長12メートル、全長9メートルの機体を、尾翼を前にして主翼前面を「よいしょ、よいしょ」と、大勢で押しながら道路に並べたという。

 春日井市の俳人Fさんは、女子挺身隊員として同工場へ勤務していたが、神社の境内などに、木の枝で隠したエンジンのない飛行機の下で、休憩時間に友人たちと語り合ったそうだ。

 当時の航空機エンジンは、「水冷」(液冷と称した。気筒を水で冷やし、その水を冷却機で外気冷却)と、「空冷」(エンジンの気筒を飛行時の高速外気に当て冷やす)だつた。
 水冷エンジンの長所は、気筒を縦配列して正面面積を小さくし空気抵抗を減らす。短所は、不可欠の冷却機を加えたエンジンが重くなる。冷却機構は配管が複雑で継ぎ手や接合部が多く、過酷な上空の温度差、気圧差、衝撃で水漏れが起こり易い。生産、整備がやや不利である。陸軍機『飛燕』など。

 空冷エンジンは、冷却の効率上、多気筒を放射状に配置した星型が一般的な形になり、正面面積が大きく、空気抵抗を増す。しかし、重量は軽く、生産、整備がやや容易である。海軍機『ゼロ戦』など。
 同一馬力の「水冷」と「空冷」を飛行性能の上でみれば、水平速度と降下加速性は「水冷」がまさり、上昇力は軽い「空冷」がまさる傾向にある。

  当時、戦闘機は、日本は90%が「空冷」で、欧米の列強は逆に「水冷」が50〜90%と多かつた。明治以後80年間に急発展した日本の機械工業だが、数百年の歴史を持つ欧米との基礎工業力の差といえる。
 同盟国ドイツの戦闘機メツサーシユミットが、スマートで性能の良い「水冷」で、これを目指したのが、日本唯一の水冷戦闘機『飛燕』であつた。

 『飛燕』(制作番号(キ61))の基礎設計は、昭和15年3月から、細部設計は同年9月ごろスタートした。機体設計の設計主務者は川崎航空機の土井武夫技師、副主任は大和田信技師。機体設計のメンバーに、24歳の松井辰彌技師がいた。

 外観は、ドイツ機に似ていて「和製メッサー」などと呼ばれたが、独自の改良も多かった。ユニークなのは、主翼位置を胴体の前後に容易に動かせる設計だつた。重心を移動できるので、バランス荷重を余分に積んだりせずにすむ。当時の水冷エンジンは、日本では改良を繰り返しながらの生産であつたので、エンジン自重に10キログラム単位のバラツキがあり、これが役に立った。

 試作機の完成は開戦直後の昭和16年12月11日。エンジンは、ベンツ社製「水冷倒立X型12気筒」をコピー国産した。性能は良かったが、問題もあつた。
「液冷は、飛行後に帰還すると、水漏れ、油漏れが多く発見され、整備泣かせだったな」と、当時三菱の整備担当だつた会社上司のK氏は、私の報告に振り返る。
 生産面でも問題点が多く、その上、エンジン生産拠点の明石工場が爆撃を受けて、生産が大幅に遅れた。

 昭和17年6月にはミッドウェイ海戦の惨敗。生産型の第1号機が完成した8月、米軍はソロモン諸島のガダルカナル島に上陸し、本格的な反攻を始めた。さらに、生産審査を終えた翌18年2月に、日本軍は2万人を失ってガダルカナルを放棄、撤退、5月アツツ島の玉砕など、太平洋戦争も日本軍の不利がはつきりして来て、航空機の増産は至上命令だった。

 昭和19年10月1日、、首なし機に、水冷エンジンに代えて、空冷エンジンを組み付ける命令が出た。
 早速本格的な設計作業に入った土井技師らが、まずぶつかった難題は、胴体幅84センチの機体にどうやつて直径122センチのエンジンを取り付けるかであつた。二重星型、14気筒、公称出力1350馬力「ハ112エンジン」が川崎岐阜工場に運び込まれた。三菱製で、『司令部偵察機』に取り付けられて、信頼性のあるエンジンで、幸いにも数に余裕があつた。

 細い『飛燕』の胴体に、直径の大きな空冷エンジンをつけた図は、頭でっかちで、エンジンの直後か急に細くなるので、ナマズのように不恰好だった。
 幸運にも、先端部(防火壁前までのエンジン架)を切断除去すれば、エンジンの後部に付いた補機類をいじらなくても結合できると分かった。
 もう一つ、エンジンの取付け位置と重量が変わり、冷却機も不要になると、重心が大きく移動する。普通の飛行機だったら大手術を要する主翼の移動も、主翼上のレールに胴体が取り付けられている構造の『飛整』では、容易だった。崩体を前後にずらせることによって、簡単に重心合わせが出来た。

 続く問題は、頭部が胴体より片側20数センチも膨らむため、段差により飛行時に渦流を生じることだつた。胴体を全面的に太くすれば濃は生じないが、大改造になり董重量が増加する。「技術屋は、片手に計算尺、片手にソロバンを持て。君たちの設計は、両手に計算尺で、経済計算を忘れとる」と土井リーダーに叱られながら、段差部分に排気管を集め、排気を後方に噴出すようにして過流を吹き飛ばすことにした。
 改修個所は機首と前部胴体のみで済み、後部胴体と主翼、尾翼は旧のままだった。燃料及びメタノールタンクの配置と容量も同一で、生かすことが出来た。

 技術陣はイモと豆の粗食に耐えて、泊り込みの突貫作業を続け、昭和19年12月末に設計を終えた。必須である筈の風洞実験もする余裕が無く、設計性能は松井技師が担当した机上計算のみで発表した。
 改造した試作機は、翌20年1月下旬に完成。2月1日に各務原で初飛行が行われた。操縦者を驚かせたのは、予想外の高性能である。最大速度は580キロ/時、5千メートルまで6分の上昇性能だつた。

 運動性能は格段に向上し、機首が短縮されて前方視界が広がったことから、離着陸も容易になつた。なによりも「燃料と潤滑油さえ入れれば、いつでも飛べる」と評されたほどの可動率の向上と、未熟練者でも乗りこなせるバランスの良さは、人員機材の不足している状況下では大変な魅力だつた。
 自重で330キロも軽量化され、機体の重量分布が理想的なものになつたのが原因だつた。

 改造機はその高性能から『五式戦(キ100)』として制式採用が決定。川崎・岐阜工場では、生産ライン途上の三式戦『飛燕』をすべて、『五式戦』にすると決め、工場外に溢れた路上の「首なし機」は解消した。

 エンジン不足に悩んだ『飛燕』と異なり、岐阜工場における「五式戦」の生産は、3月、4月と伸び、5月・131機に達した。工場は爆撃を受けながら、8月終戦までに、計390機を生産した。
 優秀機『五式戦』を作り上げた功績により、川崎航空機は終戦一ヵ月前の7月14日付で、陸軍大臣・阿南惟幾大将から感謝状を授与された。

  戦局は、1月・米軍がフィリピンのルソン島に上陸、3月・東京大空襲、4月・米軍が沖縄本島に上陸、ムソリーニが殺され、ヒトラーが自殺した。5月・ドイツが無条件降伏、6月・天皇臨席の最高戦争指導会議で本土決戦の方針採択。7月・ポツダム宣言発表、鈴木貫太郎首相が宣言の「黙殺」を表明。8月・広島、長崎に原爆投下、ポツダム宣言受諾を決定。15日に天皇の「玉音放送」があり、大戦は終わった。     (朝日新聞「天声人語」より)

 学校時代と変わらない、澄んだ通る声で、講義するように立ったまま話される90歳の松井教授の話を、昭和23年から昭和50年までの間流体工学の授業を受けた、昔の学生たちは一心に聞いた。
 炎天下に首のない「キ61」を「よいしょ、よいしょ」と押したT君の感激は一入であつた。
 遠い満州の兵器工場で、昭和刀を研ぐ中学生だった私も、そんなことがあつたのかと知った。

 【参考文献】
『液冷戦闘機「飛燕」』 渡辺洋二著 朝日ソノラマ
『戦闘機「飛燕」技術開発の戦い』日本唯一の冷却傑作機 碇 義朗著 光人社
『日本の戦闘機』写真集 野原 茂 責任編集  光人社


作品−83
掌編小説シリーズ『風の風景』――吹きだまり――               △作品目次へ
                                              山上 峻介

「あっ、それはダメ! いま新しいのを揚げるから、ちょっと待っててよ」
 威勢のよい鐡子さんの声が飛んだ。

 お客の一人が店の隅の皿に盛り上げてある串カツに手をのばすのを見て、思わず出した大声である。
「ごめんなさい。それは捨てようと思っていたの。きのうの晩に揚げたのだからね」
 後半の声は優しく、孫に言い聞かせるような調子になっている。

 鐡子さんは、下町の商店街で小さな串カツの店を一人で切り盛りしている。七十八歳。
 ここ数年前から左の膝に痛みをおぼえるようになり、週に何度か整体師のもとへ通っている。それでも、一度も店を閉じたことがない。
 土曜も日曜もなく働きつづけている。

 家族がないわけではない。十歳年上の夫は、この地方で少しは知られた建設会社の重役にまでなったが、バブル崩壊後の経営不振で会社は倒産し、日ならずして脳卒中で倒れ、寝たきりになった。それを機に始めた串カツ屋である。

 十二年もの間、鐡子さんは、道路に面した窓際のガス台で串カツを揚げ、忙しくキャベツを刻んだり、客の注文するままにビールの栓を抜き、トイレにかこつけて奥の部屋に寝かした夫の様子を覗くという生活を続けてきた。そして、八年前に夫を見送った。

 苦労の種はしかし、それで去ったわけではない。今年でもう五十二歳になる次男坊が同居している。この息子は、何が原因でそうなったのか、社会に対しても人に対しても、いっさい心を開こうとしない。結婚はおろか、就職もせず、日がな一日、部屋の中に籠もったきりである。

そうして、夜になると時には、いつの間にか家を抜け出してパチンコに通う。鐡子さんのわずかな稼ぎの売上金をこっそりと懐にして。
「まったくもう、寝たきりだった亭主より始末が悪いよ」
 鐡子さんは親しい人に愚痴ることもあるが、細かないきさつまでは明かさない。

 この都市に古くからある名門の女学校を出て、かつては華やかな彩りのある時を過ごしたこともあったに違いないが、いまの彼女にその名残を見ようとすれば、時折、領収証などに書いているペン字の鮮やかさぐらいのものである。


 大戦の戦火も襲うことのなかった古びた住宅と商店の並ぶこの界隈は、労働者の多いところである。とりわけ鐡子さんの店は値段が安いこともあって、泥や塗料のはねのついた服や靴のままの土木建設の労働者、時に安アパートの学生たちという客で、十人ほどしか坐れない店内が満員状態になることもある。常連の客たちは「かあちゃん」と鐡子さんを呼ぶ。

「かあちゃん、ビールもう一本」
「あいよ。けど、足の悪い婆さんに重たいものを運ばせなさんな。自分で冷蔵庫から出してきな」
「また始まった。まったく、客を顎で使う店だからな」
「値段は最低、店は吹きだまり、かあちゃんは足の悪いばばあ。それがいやならやめとくれ」
 つけつけと言われても、常連客は笑っている。

 だが、時にはホワイトカラーらしいサラリーマンの話しかけにも、カタカナことばなど違和感なく混ぜながら、平気で応酬する。
「そんな、あんた、私には政治の事なんかわからん。わからんが、もっとバランスのとれた行政をやってくれなくちゃねえ」などと。

 聞かされた方は一瞬、虚をつかれたような表情になり、
「かあちゃんって、学があるんだなあ」
と、つぶやいたりする。
「学も額縁もないよ。ないけど、これでも元は……、ああ、やめた、やめた」

 また時には、お色気をまじえたからかいを仕掛ける客もいる。
「かあちゃん、死ぬまでにもういっぺん、素敵な男性と何を……って思うことないかい」
「もう一度って、めくるめく思いをするってこと? この歳でか……? ええよ、あんたなら。ホテル行こうか」
「ほんと? 行こうか」
「行こ、行こ。でも、電気だけは消してよ」

 こんな鐡子さんが、一度だけ、色をなして客をなじったことがある。
 ある日、七十代の客がビールを飲んでいるところへ、十歳ばかり年上に見える、足もとのおぼつかない老人が入ってきた。
 すでにアルコールのまわっている先客が軽口をたたいた。

「おう山本の爺さん、まだ生きとったかね」
 直後に鐡子さんの、細くて小さな身体のどこから出たかと思われる大声が飛んだ。
「まだ生きとったかとは、何という言いぐさだね!」

 一瞬、言われたほうがとまどっている間に、ふたたび彼女の声。
「年長者に向かって、何てことを言うんだ、あんたは。勘定いらんから、帰っていってくれ!」
 機嫌を損じて早々に出ていく客を、椅子に坐ったまま見送りながら、吐き捨てるように鐡子さんは言う。その目に、うっすらと涙がにじんでいる。
「もうあと何年、もうあと何年と思って、頑張って生きてる人間だって居るんだ。なんだい、あいつは!」

 こんな下町の、気概のある小さな店は、このごろどんどん消えつつある。「串カツの材料なんか、今は東南アジアからでも、串に刺して冷凍した手間いらずのものが輸入されてるよ」とすすめる人がいても頑としてうなずかず、吟味した豚の三枚肉を包丁で細かく切り、串に一本ずつ丁寧に刺していく鐡子さん。

 古い串カツは決して客に食べさせない。値段はここ十年も据え置きのままという信条をかたくなに守っている彼女は、毎日、夕方の五時には赤い小さな提灯を店の軒に吊るして、店を開ける。

「吹きだまり」と自嘲する店は、長年の串カツ一筋の仕事で跳ね飛んだ脂のために隅から隅までてらてらと飴色に輝き、ちょっとやそっとでは落ちそうにない。
 そんな小さな店の中を、痛む膝をかばいながら、肩を揺らして歩き、カツを揚げ、ビール瓶の栓を開け、キャベツを刻む鐡子さん。
 今夜もまた、陽気な声がひびく。

「そのうち、きっと、ホテル行こうよ」
「ええよ。でも、電気だけ消してよ」
 客たちはその声を背中に受け、ほのぼのとした気分で暖簾を分けて帰っていく。




作品−82 【エッセイ】 小学校の同級生たちと                     △作品目次へ
                                      岸本 昭

 戦争が始まった翌年の春、小学校を巣立った男30人、女28人の1学年1クラスの同級生たち。
 あれから60年余経つ。戦死者こそいないが、三河地震、交通事故、病魔などで鬼籍入りはもう15人。男が9人で、女は6人。やはり女性は長寿らしい。

 還暦旅行のとき、男は農家もサラリーマンも「まだまだ頑張る!」と意気軒昂なら、女は「杓文字(しゃもじ)は嫁に渡したが、財布は握っている」と、しつかりしていた。
 さらに10年。古希を過ぎた頃、農家は米作りを大型農業機械導入の請負に付託して、もっぱらキュウリ、ナス、スイカなどをハウス栽培している。織布工場経営の三人組は、東南アジアの廉価で豊富な製品に押され廃業してしまった。

 女は曾孫の守りと、畑と屋敷の草取りに励む毎日。家での活動範囲が狭くなつた今「気楽に出歩けるようになった」と言うが、腰が曲がり背も低くなり、介護施設に通う者もいる始末。 「交通事故に遭った」「脳梗塞で入院」の知らせで、見舞いが増えた。「雪掻きで転んで腰骨を折り、まだコルセットを外せない」と言う仲間を笑えない。明日は我が身かも……。気をつけて過ごすこの頃である。

 同級生で、『成人の日』に寺で追弔会を行い、あと懇親会を開くようになつて、もう10数回も続いている。
  初めの頃は三十余名の出席者が、近年は二十余名と少し寂しい。「亡くなった者や、病気や足腰が弱ったための欠席」と知らされる。それでもこの歳で毎年集まるのは、私らの学年だけだ。なぜか纏まりがよい。

「懇親会は失礼するが、追弔会だけは……」と、近い者は杖をつき、数珠を握って足を運ぶ。  読経が始まっても足が痛くて座れず、椅子に頼る男女が増えた。この十年、とみに老いを実感。
「この会は、最後の一人になるまで続けるぞ」と、リーダーは言う。
 この集い、川柳ではないが、 ――クラス会 お寺でやれば 勢ぞろい――だ。
 どうせ参加なら、拝まれるより拝む側で――。
『御文』の「我ヤサキ、人ヤサキ」を、「人ヤサキ、人ヤサキ」と、読み替え念ずる私は不信心者か?

 宴会ではみんな昔に戻って「チヤン」呼ばわり。「元気だった?」と笑顔を交わし、声も弾んで気持ちは小学校のあの頃にスツ飛んでいる。 握る掌は永年の農作業でゴツゴツでも温かいのだ。  年に一回、心のふれ合ういっときを楽しみに、心弾ませ集う同級生たちがいる。
 古里はよきかな!

 平成十七年は喜寿の年。懇親会の席で、「みんなで文集を作ろう」と提案された。
「今年は終戦60年目に当たる。喜寿の記念に、戦前、戦中、戦後の、苦しかった私らのあの頃を、子や孫たちに書き残そうではないか!」
 以後、毎月一回、車を転がして2年間。「鍬やペンチは握っても鉛筆は苦手」、「書けない」、「忘れた」と渋る仲間を、「書けなければ箇条書きのメモでよいから……」と説き伏せ、原稿の材料集めから始めた。

 午前中は友の家での聞き書き。鳳来町(現在は新城市)に嫁いだ友には、日帰りで車を飛ばした。  原稿やメモをワープロ、それをコピーして配るのは一仕事。午後は執筆者が音読したあと検討会とする。
 このとき初めて聞く話に驚くのも、文集作りの楽しみの一つ。杖の要る者、酸素ボンベ携帯の者は、近くのメンバーが車で送迎する仲の良さ。

 メンバーは十人足らずで、ズブの素人集団だが、熱心なのが強み。  会場は西尾市米津町の『老人いこいの家』。隣室から、ゲートボールや、グランドゴルフの常連のダべりが聞こえる。それと比べたら、文集の作成は、ボケ防止どころか、脳細胞の再生に役立つかも?と思うと、編集の疲れを忘れ「もう少しだ。頑張ろう」と、自らに鞭をくれる。

  ようやく原稿に目鼻がつく。「印刷と製本はどうしよう。そして予算は?」頭を悩ます私をよそに、気の早いのが「全部で何部作ろう?」と、
『取らぬ狸の皮算用』を始めた。  いろいろと懐かしい想い出の迸る今回の文集作りは、あの頃の心の旅路を探る作業でもある。

 気心の知れた幼馴染たちと共にする時間は、私にとって長い人生の一刻の夢の花であるかも知れない。  櫛の歯ではないが、欠けることはあつても増えることは絶対にないこの集いが、サークルのように、いつまでもどこまでも続けられるよう、切に願う私である。

    ―― 風吹くな 今日見た夢の 花が散る ――






作品−81 【特別寄稿】
       同じ戦場(いくさのにわ)に立つ                                              △作品目次へ
           続 暗号教育と暗号系将校
                                        伊藤 浩

 先日、自分史サークルの共同編集になる『平和への祈り』を拝受、通読させていただく機会に恵まれた。 一読後、最初の「落下傘でつくったチマチョゴリ」を再び読み返した。それは私の頭にこびりついているシベリア抑留の影からである。

 私は小学校時代に両親に別れ、叔母に育てられた。昭和16年4月から兵役で、昭和20年12月復員まで、その大部分は旧満州西北部の海拉爾(ハイラル、今はモンゴル)で、ソ連との国境守備が任務。冬季は零下20度、ときには、30度を超える酷寒の地で4回も雪と氷の中で新年を迎えた。

 シベリア抑留だけは免れたが、20年12月3日の夜中に復員帰宅した時は、弟も義兄もシベリア抑留、叔母はすでに逝き、家は私の知らない疎開者の他人に貸してあった。

 夜の10時過ぎ、高蔵寺駅から、当座の食糧をつめたリュックを背にして、戸口をたたき「これこれしかじかの次第で……」と告げ、自分の家ではあるが、使用していない部屋を空けてもらい、空腹を持参した乾パンで充たし、ごろ寝したことを思い出す。


 戦後数年を経て、シベリアから死線を越えた戦友たちが帰ってきた。それからまた数年、健康と落ち着きを取り戻した者たちでハイラル・シベリア戦友会が始まり、今もその第一地区第二中隊会を続けているが、豊橋の予備士官学校の同期生は私1人になった。
 この『平和への祈り』に触発されて、戦場で3度「これが最後か」と覚悟したことの一つを記してみよう。

 昭和20年4月の初め、敗戦の噂が広がる海拉爾部隊は、後方興安嶺山中に防御陣地(穴掘り)を構築中、突然内地転属命令を受けた。

「本土決戦に備えての兵力増強、その下級幹部補充のため中部軍管区へ転属」と。
 その頃、前年から沖縄戦線が急で関東軍精鋭は、武器・弾薬と共に大移動したが、その多くは輸送船と共に敵の魚雷攻撃や航空爆弾により海底深く藻屑となった情報しきりで、同期の連中が水盃の宴を2回も開いてくれた。

 海拉爾を出発。東支鉄道で2昼夜、ハルピンで南満州鉄道に乗り換え、奉天(瀋陽)を経て、鴨緑江を渡り朝鮮釜山へ到着した。その間、各地からの転属者は26名になった。ところが、階級は少尉か見習士官が多く、中尉の古参ということで輸送の指揮を命じられた。

 4月19日、釜山着と共に聯隊区司令部に申告に行ったが、そんな連絡、情報は未だ受けていない、と。しかし、我々は転属命令を受けているから、何としても任地へ行かなければならないと、輸送船の手配を申し込んだ。

 半日経って夕方、ともかく漁船を徴発したものを用意したからというわけで、見るからにお粗末なぼろ船に乗船、博多へ向けて出発した。無理に乗っても3、40人乗り。船尾に対潜水艦砲という名のみの赤錆びた大隊砲が積んであった。勿論、使いものになるような代物ではなかった。

 そこで各自持参の将校行李から、一装(新品)の襦袢袴下(シャツ、ズボン下)を取り出し、褌から下着全部を着替え、大事なものは身に付けるよう私は全員に指示した。で、遺書までとは言わなかったが、自分が識別出来るものも身に付け、覚悟をさせて出発した。

 ところが、そんな格好のおんぼろ船が、かえって幸運だったのだ。あの波の荒い海峡をよたよた行く様は漂流する笹船ぐらいにしか見えなかったのだろう。1昼夜近くかかって、博多へ無事到着した。やっとたどり着いたといった方がぴったりである。 
                      (以下一部省略)

                                         (『わだち』第30号特別寄稿)
   続 同じ戦場(いくさのにわ)に立つ
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 前回に引き続き、九死に一生を得たこと二回目として
「軍隊は運(うん)隊である」との巡り合わせについて追記し、今は亡き戦友の更なる冥福を祈りたいと思う。

 まず、当時の経過が判るよう軍歴から必要部分を抄き書くとしよう。
昭和17年12月 1日……任陸軍少尉 第八国境守備第一地区第二中隊附
                  (此間に暗号係将校教育奉天派遣3ヵ月)
昭和19年 8月16日……独立歩兵大隊副官
昭和19年 9月15日……任陸軍中尉
昭和19年11月18日……二五五連隊第七中隊長
昭和20年 4月20日……中部軍管区転属
昭和20年 8月 9日……ソ連軍ソ満国境侵入
昭和20年 8月15日……終戦(第一地区陣地河北山全滅)
               (保安山全滅に近く17日目に降伏)

 昭和19年に入って、太平洋戦争は南方諸島の敗戦が続き、世に言う関東軍の精鋭は、武器弾薬共に逐次南方戦線に移動しはじめた。
 私の属する海拉爾(ハイラル)第八国境守備隊第一地区隊は、その穴埋めとして新設された歩兵第二五五連隊の中に再編成された。8月になつて地区隊の大部分が東山に移動、新連隊の第一大隊となつた。

 ところで、空になつた陣地に元第一地区歩兵隊長竹中大尉が、独立歩兵大隊長として残られ、それまで本部で暗号・情報係を担当していた私が副官として仕えるよう命令された。

 その9月15日付で竹中隊長は少佐に、私は中尉に任ぜられた。当時の兵員は隊長以下250名ぐらいで、往時の5分の1にも足らず、重火器は迫撃砲2門と重機関銃2挺だけ、小銃は兵員の半数といったお粗末さ。どうしたら広大な陣地配備をと、連日策を練るうちに、11月になって連隊の第三大隊編成で第七中隊長に任命され、第一地区陣地竹中少佐とも離れ、東山に移動した。
 東山の連隊では既に後方の興安嶺山中に防禦陣地(穴掘り)を築くべく行動中であった。

 さて、この転属命令書が私の運命を支える最初の一札となつた。
 昭和20年8月9日午前零時。ソ連は日本に宣戦布告をすると同時に、ソ満国境全線にわたつて進撃を開始した。日ソ中立条約を破っての不意打ちであった。戦闘は重戦車の援護の下、78連発の自動小銃を遮二無二撃ちまくって突進してくるソ連兵に対して、単発銃の日本兵は全く歯が立たなかった。

 以下糸永英一氏の手記の一コマを拝借して、その一端を紹介することにする。

『10日未明には、ソ連軍は河北山陣地の攻略を開始した。日本軍守備隊は、挺身大隊から派遣された木元見習士官以下30名と二五五連隊の小畑分団あわせて数10名にすぎない。戦車を先頭に立てて徐々に包囲網を縮めたソ連兵は、山麓にたどりつくと、ひしめくように山頂をめざして進んだ。日本兵の抵抗もはげしく銃が火を噴き、手相弾が破裂した。安保山陣地から戦闘の様子を双眼鏡でハッキリ認められたが、支援する火器はなく、援軍を送ろうにも、山麓に待ちかまえる戦車の餌食となるばかりで、手のうちようがなかった。

 ソ連軍が山頂に近づくにつれ、日本兵の必死の反撃も徐々に人影が薄れ、銃声はとだえがちとなった。その間、大隊本部の橋本副官(中尉)と電話で連絡をとり続ガた木元見習士官は、
「敵は50メートルに迫ってきました。30メートルに近づきました。20メートルとなりました。私はいまから爆雷を抱いて突込みます。万歳!・・・・・・・・・・」と叫んで、報告は途切れた。河北山は1時間ほどの戦闘で全滅した』

 こんな悲惨な状況で、停戦の使者が来るまで次々と陣地は攻撃され、竹中隊長以下大多数が戦死され、数えるほどの生存者がソ連軍に武装解除された。

 私がそのまま副官であつたら、隊長と運命を共にしただろうに……。
 また、私が七中隊長となつた第三大隊は、八中隊が上田中尉、九中隊が浜田中尉で、私が4月に内地本土決戦要員として転属を命ぜられた後、彼らは興安嶺の防禦地でのソ連軍との戦闘中、2人とも将校斥候として海拉爾陣地に派遣されたが、消息は判らず戦死と断定されたことを、後の戦友会誌で知って呆然とした。

 私にあの日あの時、転属命令が無かったとしたら、そのままだつたとしたら、私の命日は8月15日頃になつていたであろう。鳴呼!……。


   続 「暗号教育と暗号係将校」
                                  
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 昭和十七年九月初、第二中隊付見習士官として、思わぬ暗号教育を受けることとなる。第二中隊は当時上山重介中隊長の下、金盛中尉、藤本中尉と本部勤務の友田中尉の三人が所属され、比較的人員に余裕があつたのと地区隊で暗号係将校の必要性があつたのかも知れない。

 教育はハイラル市内の第八国境守備隊内で兵舎の一角を教室として、各地区から選抜された下士官、兵長、上等兵など二十名余と記憶している。見習士官は私のみで第一地区から通学の身分、他の者は派遣分屯の生活であつた。
 私は毎日7時発の第1地区将校を出迎える専用バスに逆乗りして、飯盒(はんごう)に昼食を詰めてもらつての通学である。それでもバスのボンネットの先には青い小旗(尉官乗車の目印、佐官は赤)を立ててあつたので、道行く兵は敬礼をして呉れるので窓越しに答礼した。

 教官は、第3地区の藁科中尉と助教の軍曹であつた。毎日午前午後、昼食をはさんで8時間の訓練。途中20分づつの休憩があつたが、何しろ数字の計算と、暗号書文句の暗誦の連続で、逐次速度を要求されるので頭脳的疲労でうんざりすることが多い。時には競技会形式で尻を叩かれる思いで、楽しみは少し難読の電文が人より早く解読出来た時ぐらいである。従って休憩、終了が待ち遠しい日々であつた。
 練習用の暗号は、聯隊暗号で全て3桁数字。暗号書には3桁数字に百の熟語が当てられていて、別途3桁数字の乱数表がある。一例をあげると、  
 
 乱数は無作為でいくらでも出来るので、暗号書はそのままで1作戦通用させる。(師団、艦隊、大本営、外交暗号は4桁数字となり作り替えは極めて困難だが、ガダルカナルで暗号書を取られてから米国に解読されていたと云う)

 この教育は3ケ月で終わり少尉任官(17年12月1日)後、奉天にある関東軍通信学校暗号将校集合教育に派遣された。期間は18年1月13日から同年4月12日まで、軍の宿舎で一人寝、時には夜1升瓶を抱え込んで、酔い覚ましに満鉄線を歩いていて満人に世話をかけたこともあつた。

 大きな思い出は、練習用の暗号書が1冊紛失して、2人づつの組で探索に出掛けた時の一件である。私達は城内を割り当てられたが、当時治安はまあまあ良いと云われた奉天でも、城内の日本人1人歩きは危険とされていた。
 2人で用心しながら、とある大きな家の門をくぐった。母屋に至るまでに門が3っ、その道の両側には漬物の大甕(おおがめ)がいくつか並んでいて如何にも大家らしい雰囲気。
 取り付いた母屋は赤煉瓦の平屋で横に長く立派なもの、真ん中の玄関扉を開けて入ると、六十歳過ぎにも見える下男が取り次ぎに、こちらはニイハァオぐらいしか中国語が分からず全然通じない。

 暫くして土間の長い廊下の後方から、美しい服を着た一見30歳を既に廻ったと思われる娘がやって来て、『日本の軍人さん、今日は何の用ですか?』と、流暢な日本語で話しかけられたので、渡りに舟とばかり自分たちの身分を名乗り『散歩がてら余りに立派な家だから、ちょつと見せてもらいたい』と挨拶と共に頼み込んだ。

 続いて家の様子など二、三聞いている内に、警戒心も取れたか娘さんの顔に少し赤みがさし、これは二十歳台だなと思い直した。
 それから世間話がはずみ、この家は満州銀行の頭取の家で、娘さんは大学で日本語を学んだが、学校の登下校は老下男の付ききりで、家の門から馬車での単独行動。行き交う人との挨拶もなく、ましてや途中で買い物など下車したこともない。

 我が国で云う箱入り娘といったところ。気兼ねが取れたか用件そこのけで話がはずみ、家の中まで案内してもらつた。朱塗りの各部屋の中は見られなかつたが、さぞ豪華な室内であろうと想像した。

 こんなフロックもあつたが、予定の集合教育が終わり原隊に帰る時に、一大珍事に見舞われた。4月13日に奉天駅へ着き、昼間1本しかない満州里(マンチュリ)行き国際列車に乗るべく、切符売場の長い行列に並んだ。                              
 十数分も過ぎていよいよ自分の番。袴(ズボン)のポケットから財布を出して、若干の札を窓口に出し、脇にちょつと置いた財布が、切符とつり銭をもらううちに消えてしまった。アッと云う間の出来事。

 どうも彼がと人混みを分けて跡を追おうとしたが何とも仕方がなかった。そこらに警察官はと見廻したが見当たらず、列車の時間に迫られて改札ぎりぎりで一等車に乗り込んだが手間取ったことで立ちん棒。

 暫くして憲兵伍長が廻って来たので呼び止めて事情を告げると、返事がふるつていた。『ここらのスリは集団で巧妙だから、取った奴をたとえ捕らえても、財布は既に1人、2人と廻していて証拠を挙げることは難しい、まして現金は全然出てこない。もし財布が欲しければ一時間も過ぎたら城外のショートル市場(泥棒市場)に行けば売りに出ている、まあ諦めることだね』と。

 こんな具合で奉天の集合教育は幕切れとなつた。幸い切符と小銭があつたので、2日間の列車の旅は終わつて、無事ハイラル原隊に着いた。



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