作品集(バックナンバー 03)──< 作品- 61  〜  作品-69 >──

 
 

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作品−80 竹の秋       

                            伊藤 美智子

 知多半島のお寺参りで出合った若竹の美しさに感動して描いた竹は、一生懸命に描いたが満足できる絵にはならなかった。
 あれから一年経て、次の年、市民展募集要項が広報にのっているのを目にした。そのとき、また竹を描いて参加したいと思った。去年より立派な描きにしたい。 ちょうど竹の子のシーズンでもある。

 東神明町、神屋町、明知町の竹藪の下見をした。早朝に出かけては、スケッチをしてきて構図をまとめ、五十号のキャンバスに描いて彩色にかかった。
 竹の子が勢いよく皮をはぎ、伸びる力の表現がしたいと思っていたが、若竹のさわやかな緑色、竹の子のはいでいく皮の色、形の多様さに力を入れた描きになってしまった。
 まあ、仕方がない。搬入が迫っているので、それなりの仕上げにして運んだ。去年と同じ轍を踏むことになった。

 次の年、三度目の挑戦である。
 テレビ映像で、九州大分県の竹の子産地の竹藪を見た。親竹がゆとりある広い間隔を得て立派な容姿である。平面でなく竹藪は斜面になっていた。
 テレビで見た大分県の竹畑をイメージして、立派な親竹になる若竹を描いた。かなりしっかり描いたつもりだったが入選どまりであった。

 四年目の描きは、叔父の家の竹藪のスケッチをそのままの風情で三十号のキャンバスに描いて搬入した。そして、市民展には毎年出品することにしたい。出すことによって、描く励みにしようと思った。

 今年は期待することもなく暮れていたが、市役所文化課より、市民展奨励賞の案内が届いた。
「ええっ、まさか、ほんとう?」
と自問していた。
 市民展開催を待って見に行くと、確かに賞のラベルが貼ってあった。
 三十号で小さめだし、地味な描きであるし、恥ずかしい気がした。でも知人に、「よかったね」「おめでとう」と言われて、来年はしっかり描かねばと強く思った。
 
 五年目、五十号のキャンバスに水野町の竹藪を主として描いた。奨励賞だった。
 六年目、玉野の竹藪を描いた。奨励賞だった。
 七年目、神屋町の竹藪を百号に描いた。観光協会賞になった。
 八年目、明知町の竹藪を百号に描いた。市議会議長賞・無鑑査となった。
 九年目、『竹の秋』五十号 無鑑査出品の第一号である。
 
 その後、十年目から三年は竹を描かなかった。生活環境の変化で一年出品しなかった。
 十四年目、元気を出そうと描きかけに筆を入れて心もとないまま、恥もかこうと搬入した。それで、竹の描きが十点となったのだ。

 竹ばかり描いてきたのに特別理由はない。去年より今年は良い描きにしたい。その向上心からと思える。竹の描きの卒業ができなかったわけだ。
 百号の大作二点は、自分として完成度の高い描きになっているように思う。無鑑査にもなれたから、竹から離れられる気がしていたが、里へ墓参に行って出合った「竹の秋」の感動が、竹作品九作目を描かせてくれた。
 廻間町のお寺の西口に二十本ほどの竹叢がある。そこを通り抜けようとしたとき、一陣の風が吹きつけた。薄黄色の竹笹が軽やかに斜傾し流され散ってきた。風のまにまに暫く笹舞を見る幸運を得た。
 
 知多の竹の子の勢力ある緑の太さ、はがれる竹皮のおもしろさで得た感動と同じくらい脳にやきつく美しさ、楽しさを味わうことができた。
 竹の秋をその時まで知らなかった。耳にしたことも目にとらえたこともなかったのだ。麦秋と同じころなのだ。麦が作付けられなくなって久しい。麦秋を懐かしんでいるこの頃だが、竹の秋は知らずに私の方が老人になってしまっていたのだ。

 昔は、村中どの家にも家屋敷近くに竹藪があった。我が里にも、裏堤防は竹藪になっていた。竹の秋を知らずに暮れてきてしまったことが不思議なくらいだ。
竹作品、九作目の『竹の秋』はとてもむつかしかった。情感を描くむつかしさだ。
竹作品十作目、『竹の秋 U』を描く予定は果たせない年となった。

 二〇〇五年五月一八日、小京都・出石町と丹後半島へバスの旅をした。麦がかなり作付けられていて、昔懐かしい麦秋を楽しみ眺めた。遠く里山が連なり山裾が多く竹藪で黄変していた。竹の秋なんだと眺めることができた。
 竹の秋、里の寺の竹群の笹降りを思い出したり、「竹の秋」の描きを……と思い続ける自分がバスに
揺られていた。
                                                『わだち』第28号より


作品−79 
一等大将・三等大将                                         △作品 バック総目次へ
                                  岡田 忠夫

 最後の海軍大将井上成美氏が「大将の中に一等大将もいれば三等大将もいる。
 国を興隆に導いた大将もいれば、亡国に追いやった大将もいる。
 その中であえて一等大将と言えば、明治の山本権兵衛、大正の加藤友三郎、昭和では米内光政だ」と言われたのを、私はテレビ、ラジオで聴いたのか、雑誌の雑談会で言われたのを読んだのか、記憶は定かではないが「一等大将、三等大将」のことは今も鮮烈に残っている。

 これを陸軍にあてはめたらどうなるだろうと、私は前々から考えていた。
 その結果、明治では児玉源太郎、大正では宇垣一成、昭和では山下奉文ではないかと思った。
 児玉は日露戦争で日本を勝利に導かれたが、戦勝の美酒に酔われた期間もわずかで、過労と心労か、脳溢血で急逝した。

 宇垣は全陸軍の反対を押し切って軍縮を実行した。これが後の宇垣内閣流産の因になってしまった。
 山下はシンガポール攻略で一躍、名声と人望を集めたが、当時、陸相・首相だった東条英機が自分の足下をおびやかされるのを恐れてか、大将(シンガポール攻略時、山下は中将だった)への昇格は認めたものの内地への帰還は許さず、満州へ転属せしめてしまった。

 このことは新聞にも発表されずにいたが、当時、中学生だった私たちの耳にも「山下大将は満州にみえる。
 ソ連の国境侵攻をにらんでみえるそうだ」と聞いて、妙に納得したものだ。

 昭和はあまりにも戦争が長引き、多くの大将が生まれた。戦争末期に入りかけたころ、元帥の称号を受けた大将が2人いるが、この2人とも戦後の真相誌やバクロ誌等によって、元帥どころか、三等大将以下の存在だったと知った。

 2人の元帥(SとH)の中、Sは日米開戦不可避を上奏したところ、天皇が「もし、開戦ということになれば、どれぐらいの期間か」と問われたところSは「半年か1年もあれば十分でございます」と答えたそうだ。

 その時、天皇が「支那事変の時、確かにそちが陸相だったと記憶する。その時、3ヵ月か半年もあれば十分と思います。と申したはずだ。それがもう4年もたっているのに、いまだに収拾もつかぬ状態ではないか。これは如何なる理由に基づくものか」と言われたところ、Sは「なんとしましても支那は奥地が広うございまして」と答えたそうだ。
 
 すると天皇は「支那の奥地が広いというのであれば、太平洋は更に広いのではないか」と言われ、Sはぐうの音も出ず、冷汗タラタラで御前を退出し、参謀本部に戻った。待ちかまえていた参謀たちが「ご奏上の結果は」と聞いた。Sは親指を出し「これ(天皇)のご機嫌がななめでな」と言って、いきさつを参謀たちに語ったという。まさに三等大将以下の存在だ。

 もう1人の元帥Hは、米内内閣の陸相だったが「米内は親米派だ。そんな内閣は打閣だ」という陸軍の意によって、陸相を単独辞任という行動に出た。その時、米内首相は「単独辞任も結構。後任を」と言ったところHは「単独辞任という形をとりましたが、私の辞任は全陸軍の総意ですので、後任の推薦はできません」と言ったそうだ。

 それに対して米内首相は「俺も軍人、貴君も軍人だ。軍人は潔くあらねばならぬと俺は常に部下に言ってきている。貴君も同じだと思う。
 それに対して貴君の行為はあまりにも卑怯ではないか、陸軍の総意というのなら今までにも閣議において、そう言っていただく機会はいくらでもあった筈だ。
 それを今になって陸軍の総意と言われるのは解しかねる」。そう言われたHは黙したまま首相官邸を出ていったそうだ。

 米内内閣は総辞職したが、陸軍に反省の色なく、とうとう東条内閣の出現というところまで行ってしまった。

 Hもまた、三等大将以下の存在だ。こんなことを読んだり知ったりした結果、私は山下奉文にたどりついた。
 そして私たちが山下奉文の名を新聞紙上で大きく見たのは、日本の敗戦がほとんど決定的になった比島戦線へ軍司令官として赴任の記事だった。昭和20年の1月だと記憶している。

 赴任されたものの、兵器、兵站の補給も無く、制海権、制空権も米に押さえられていたため、山下大将といえども成すすべもなく、比島の山野を彷徨するだけだった。

 そして終戦。山下大将は比島戦線における全日本軍すべての行為の責任者とされ、戦犯として刑場の露となられた。(昭和21年3月23日フィリピンで絞首刑)
 シンガポール陥落以来、一度も日本内地に帰ることの出来なかった山下大将。冥福を祈って止まない。

                                      『わだち』第27号より

 

作品−78 万博日記                       △作品 バック総目次へ
                                         樋口  倖

大地の塔 と こいの池(ナイトイベント待つ間)

 3月25日に開幕した「愛・地球博」もいよいよ終盤です。 前売り入場券を購入して、まだお出かけでない方もいらっしゃるのではないでしょうか。
 そんな方へ・・・

「前売り入場券1枚」を「夜間割引入場券2枚」に交換できるのをご存知でしょうか? 私はこのような裏ワザがあるとは知らず、日に日にうなぎ上りに増えて行く入場者数が気になって「とにかく前売り券を使わなければ」と、梅雨明け早々の6月12日、真夏日の炎天下、思い切って出かけました。

 後日、万博に行った話を知人にしたところ「前売り入場券」を「夜間割引入場券2枚」に交換してもらえる街の金券ショップを教えてもらいました。前売り入場券との差額分も手数料もいらないとのこと。しかし、実際に私が交換したわけではないので、本当かどうか断言できなかったのですが・・・

 でも、でも、確かな情報をキャッチ!! 7月24日、夜間割引で入場しました。当日、会場の入場券販売所で入場券を買うために並んでいたところ、後にいた人が「前売り券を夜間割引券2枚に変えていただけるって聞いたんですけど、いいですか?」と、前売り券を見せながら案内係りの人に尋ねていました。「ハイ!大丈夫ですよ」との返事。差額の料金も手数料も要らないそうです。そんな制度を知っていれば、私も初めからそうしたかったです。

 まだ前売り入場券をお持ちの方、よろしければこの交換制度を是非利用してみて下さい。 人気パビリオンのハシゴは難しいかもしれませんが、まずは、お目当てのパビリオンを何か1つだけ決めてお出かけすることをお勧めします。 遊びと参加ゾーンのイルミネーションによる演出「光のプロムナ−ド」や、大石さんの『わたしの万博徘徊録』の「こいの池のナイトショー」など、夜間しか味わえない楽しみもあります。一時中止となったパレードやショーも再開されるようです。 炎天下を避け、涼しくなった夜に出かけてみるのもいかがでしょうか。

 以下、私の万博日記です。何かお役に立てることがあれば嬉しいです。

 6月12日(日)晴れ。 愛・地球博へ行った。 今日、一番のお目当てはマンモス。 朝の開場時の混雑を避けるため、少し遅らせて出かけることにした。 テレビで宣伝していた外国館での食事に魅力があったが、会場の様子がわからないので、今日のところは、おにぎりと水筒を持って出発(結果的には正解だった)。
 JR春日井駅9時32分発、多治見行き快速列車に乗り込んだ。 高蔵寺駅で後続の『快速万博シャトル』に乗り換え、10時3分、万博八草駅に着いた。 後にいた小母さんたちが、瀬戸会場からゴンドラで長久手会場に行くほうが早いとしゃべっている。以前、そんな話を聞いたことがあったけど忘れていたのを思い出す。
 
 案の定、瀬戸会場行きのシャトルバスの待ち時間は「0分」。私も瀬戸会場から長久手会場入りすることにした。 瀬戸会場の入口ゲートには、一緒にバスを降りた人しかいない。入場券売り場の窓口にいるのは一組二人だけ。あの"手荷物検査"も簡単で、すんなり通り抜けた。ここが万博会場の入口?と思うほど閑散としている。 こんなことなら、朝一番に瀬戸会場から入場すれば良かったなっ。 モリゾー・ゴンドラ乗り場では5分も待てば乗れた。約8分後、長久手会場に到着。
 逆へ向う瀬戸会場行きのゴンドラは既に40分待ちになっていた。 長久手会場の人波はやっぱり万博!!

 人気パビリオンの待ち時間は120分、180分の長蛇の列。げんなり。 11時25分にマンモスの整理券をゲットしたら、16時40分のブルーホール。 マンモスを見るのは5時間先!!これから、どう過ごそうか?
  ジョン・ギャスライトさんがプロデュースしたパビリオン(グローイング・ヴィレッジ)へ向かうことにした。 途中、オアシスを発見!!「風の広場」と「水の広場」。 「風の広場」の入口で大きな風車の付いた遊具を右手に眺めながら坂道を下って行くと、「水の広場」から子どもたちの歓声があふれてきた。

 棚田風の浅い池に大勢の子どもたちが入ってはしゃいでいる。水で遊ぶ遊具も多少ある。水面の輝きも涼しげだ。 雑踏を離れ、一気にリラックスした気分へと誘(いざな)われた。ここは別世界である。こんなオアシスが万博会場の一角に広がっているとは驚きだった。 雑木林の小道を上って行くとジョンさんのメイン・パビリオン、味噌樽の形をしたツリーハウスが見えてきた。ジョンさんは、あいにく不在で残念だったが、ツリークライミング(木登り)を見学して、のんびりと1時間ほど費やした。

  周りの木々の緑が、ふりそそぐ陽ざしにキラキラときらめいてきれいだった。「自然の叡智」にピッタリのパビリオンであるが、訪れる人が少ないのが残念。 その後、地球市民村に行った。ここもあまり人がいない。 「私にできることは、なんだろう」というキャッチフレーズで5つのユニットが組まれている。一つ一つのユニットで足が止まる。今の自分の生活を考えさせられる。一人一人がちょっとしたムダに気づけば、もう少し地球の環境も変わるのではないだろうか? ここでは掛川茶の冷茶の無料サービスがあり、遠慮なくいただいた。おいしかった。 グローイング・ヴィレッジと地球市民村では、すっかりくつろいでしまった。私には、なんだかホッとするゾーンである。

 16時、喧噪の世界へと再び吸い込まれていった。 マンモスラボのブルーホールで地球と人類をテーマとした迫力ある映像を楽しんだあと、ホールを出て待望のユカギルマンモスと対面した。 その後、テレビで宣伝していた「国際赤十字館・赤新月館」(グローバル・コモン2)を見てみようと列に並んだ。最後尾は70分〜80分待ち!! 「夕方6時になると人がガタッと減るからねらい目だ」と知人から聞いていたが、この日は全く違っていた。 赤十字館を出ると20時近くになっていた。もうこれ以上、足が前に進みそうにないので、家路に着いた。

 万博だというのに、5時間ものんびりくつろいで、最先端の技術や各国の文化・芸術に触れることなく帰ってきてしまった。 決して有意義な過ごし方をしてきたと思ってもらえないかもしれない。でも、こんな楽しみ方もあってイイと思う一日だった。 (最高気温 31.5℃ 入場者数 147,967人)
 

 7月24日(日)くもり。 夜間割引で万博に行った。 今日のお目当ては長久手日本館。

 今日は特に予定もなく朝から家にいた。 一日中くもりの予報。風があって凌ぎやすい。 お昼のニュースでは万博の入場者数が5万人ちょっと。 先週の日曜日、215,976人に躊躇しているのだろうか。 日曜日の割には空いている。今日は涼しい。夜間割引を狙って急きょ出かけた。 夕方4時半ごろ会場に到着。入場券販売所へ向う。 販売所に並んでいる間、後から来た人がドンドン北ゲートに並ぶ。先を越されてしまった。 やっぱり事前に入場券を購入しとけばよかったなっ。

 5時20分、手荷物検査を終え、お目当ての「長久手日本館」へ直行。 「100分待ち」に断念!! グローバル・コモン3(ヨーロッパ)に向い、今日は外国館を楽しむことにした。 …といっても、人気の外国館は長蛇の列。 フランス館20分、ドイツ館100分、イタリア館20分待ちを横目で見ながら、「10分待ち」を見つけて入った。スペイン館。 スペイン館を出て、さらに奥に進み、結局30分待ちのクロアチア館に並んだ。クロアチア館を出ると薄暗くなっていた。

 急に人が減ったような気がした。 「踊るサテュロス」像が見たかったので、先ほど20分待ちだったイタリア館へ様子を見に戻ったら、誰も並んでいない。ラッキー!!中もガラガラだった。ほぼ貸切状態でゆっくり「踊るサテュロス」が見れた。 外はすっかり暗くなってしまったが、先日、雅子さまが訪れたイギリス館を見たかったので、「グローバル・コモン4」へ行った。 イギリス館はガラガラだった。

  イギリス館を出ると、待ち時間なしのポーランド館が目に止まったので入った。岩塩坑ツアーを楽しんだ。 ポーランド館を出たら人気(ひとけ)がない。気味が悪いほど人がいない。 9時までにまだまだ時間があったが、あまりの静けさに落ち着かず、目の前のキッコロ・ゴンドラに飛び乗り、慌てて北ゲートに戻ってきた。ごった返していた。

 今日はお土産を買っていこうと「公式記念品ショップ」に入ったら、身動きが取れない。それほど、まだまだ、たくさん人がいた。 日曜日の夜は、外国館は比較的空くが、企業パビリオンは人が引かないのがわかった。 「グローバル・コモン4」では、勇気を出して、もう少しゆっくりしても良かったかなっ。 (最高気温 30.5℃ 入場者数 108,132人)
 

 8月2日(火)晴れ。
  私のお目当てのパビリオンは、日曜日の夜では入るのに難しいことがわかった。 こうなったら平日の夜に行くしかないと、今日は3回目の万博に出かけた。 今日のお目当ては「企業パビリオンA」。 大石さんの『わたしの万博徘徊録』の「展覧車」からの夜景が楽しみだ。 夕方5時に仕事を終え出かけた。 出かける前にホームページで4時現在の入場者数をチェック。77,149人。これは、なかなかイイかもしれない。期待して出かけた。 腹ごしらえ用に、駅前のパン屋さんでパンを買ってから5時44分発、エキスポシャトルに乗った。

 会場には6時半頃到着。 最初に40分待ちで「ワンダーサーカス電力館」に入った。 その後・・・「展覧車」は60分待ちだったので後回しにして、先に30分待ちの「もしも月がなかったら」を見ることにした。 ここでは待ち時間のあいだ、周りの人がお弁当を食べたり、お菓子を食べてくつろいでいる。私もパンを食べて腹ごしらえをした。 このパビリオンでは、中に入ってから出てくるまでに40分かかるとは想定外だった。 最後は一番楽しみにしていた「展覧車」。 60分待ちが短くなっていることを願って向ったけど・・・

「8時7分を持ちまして本日は締め切らせていただきました」と断られてしまった。 時計を見たら8時10分!!うぅぅぅ、、、残念!! パビリオンは9時までと思っていたが、これは外に並ぶ時間ではなく、パビリオンを閉める時間なのだと気づいた。 9時に閉められるように、受付時間は調節されるのだった。 先に「展覧車」に乗っておけばよかったなっ。 失敗!失敗!大失敗!!それにしても悔しすぎる。 一番のお目当てには、一番に並ぶべきだった。

 まだ8時10分。一瞬、「光のプロムナ−ド」に足が向いたが、グローバル・コモン1(アジア)へ行ってみた。 韓国館の待ち時間が「10分」と入口の表示板に出ていたので、一目散に目指した。 待ち時間なしで入れた。オマケに運よく3Dシアターが始まるところだった。8時30分から13分間、メガネをかけて映像を楽しんだ。 韓国館を出て、お隣の中国館に入った。中に誰もいないようだったが思い切って入った。 5分もしたら容赦なくパチパチと電気を切られ、追い出されるように出てきた。なのに、出口のお土産コーナーでは、しっかり捉まえられ、あれこれ勧められる。9時までといっても、お土産コーナーは別。手厚い待遇が待っていた。ゆっくり見たかったけど、見るだけ見て何も買わないのも申し訳ないので早々に出てきた。 今日はここでタイムリミット!!

 仕事帰りでは会場に6時半の到着。 9時にはパビリオンが閉まるので、考えてみたら2時間半しかなかった。 でも、これだけ楽しめたんだから良かったことにしておこう。 (最高気温 35.7℃ 入場者数 90,997人)

※風の広場、水の広場、グローイング・ヴィレッジは夕方6時に閉鎖されます。


作品−77 
愛・地球博と新しい友人たち         △作品 バック総目次へ

                                                遠藤  毅

 どういうわけか、若く美しい女性と並んで歩いている。遠い青春時代に誰かと……、その後20年近く経って、大学生の娘と……、歩いた記憶があるが、更に20年余り経過している。

 白い鍔広のカウボーイハットに、黄色いベストと名札を着け、白いポーチを下げたお揃いの姿である。背と腰をのばし、帽子を目深にかぶり、すたすたと歩いていれば、遠目には若い2人に見えるに違いない。

 平成17年3月下旬「愛・地球博」開幕5日目。私のボランティア初日で夕方から夜にかけての「長久手会場、北エリア巡回」。困っている方たちへのサービスや、不審物が無いかなど点検する。

 2回の研修で習ったボランティアの心得「おもてなしの心」を思い出す。エレベータ、エスカレータなど乗り物は使わない。自販機で物を買わない。お客用のトイレは使わない。パビリオンや食堂に入らない。客が依頼する写真撮影は進んで受けるが、ボランテイア相互や、自身のための撮影は駄目。2人を越えて横並びでは歩かない等、きびしいが当然かとつぶやきながら、アップダウンの多い会場を歩いている。

 グループ毎に、3枚のコース地図を渡された。各コース約60分。初めはAコース、少時休憩後Bを、次いでCをと回る。合計3時間歩くことになる。 『話を聞かない男、地図が読めない女』の書名を思い出し、男の私が地図を持ったが、薄暗くて良く見えない。親切にすがって、同僚のNさんにお任せした。彼女はすばらしい。判断も的確だ。聞くと、N大経済学部3回生だそうだ。嬉しくなった。

 3月の夜は寒い。強風で「瀬戸会場へのゴンドラ」運行が中止。「鯉の池」水中から巨大な猿が出現する夜のイベントも中止になった。すれ違う客も減ってきた。不思議なことに質問は、笑顔を作って無視されない努力をしている私でなく、必ずNさんに向けられる。

 「中国では『道は年寄りに聞け』と言うのですがね」とぼやくが、「日本は違うのでしょう」と慰められる。この日、万歩計は2万6千歩だった。 Nさんにボランティア姿の写真を送った。メールの返事が来て『春日井市自分史友の会』のホームページの作品を見ましたよ、面白かったという。可愛いメル友が出来た。

 万博ボランティアは、毎回、新しい友人との出会いが新鮮で、その度に元気を貰う。東口の「べビーカー担当」の時は、退場時刻に3百台も集中する返却カーの清掃、格納作業に汗を流したフランス人男性語学講師のBさん、韓国籍自営業のSさん、看護婦のKさん達は、自分の仕事が休みの日にボランティアに出ている。遅番は、深夜の帰宅になるが「明日は仕事です」と言いながらも手は休まない。

 「案内所担当」の、徳川美術館勤務の熟年女性Yさん。「絵巻や新装の庭園がすばらしいからぜひ見にいらっしゃい」と誘ってくださる。中国長春からの留学生Lさんとは、夜食休憩時だけの出会いだったが、私にとって第2の故郷である長春の現在をもっと聞きたかった。

 

 一日、ボランティアを離れて、万博観覧に出かけた。10万余の人出で人気パビリオンは人の列である。空いている所を探しては、観覧する。 午後になって、日立館は90分待ちとあった。朝は200分待ちだったから、半減している。「ようし」と、ジグザグ並びの後尾についた。

 熟年のアジア系男性がいた。「どこからお見えになりましたか」と聞くと「台湾・高雄市」と流暢な日本語である。「日本はどこへ行かれましたか」「仙台で林子平の墓に参りました。あそこは宮城県ですね……」と詳しい。81歳。台湾で戦前に、日本の小中学校教育を受け、日本にも友人が多いと言う。「私たちは同世代だね」と話が弾んだ。

 名刺を拝見すると、社長業の他に、世界林氏宗親会常務理事とある。中華民国林氏宗親会常務理事ともある。「へーえ、世界の林さんの会とはすごいですね。中国人ばかりか、韓国にも、日本にも林さんはいますね」「林子平や、アヘンを焼いた林則徐は、同姓の先輩です。
 日本では扇千景さんも旧姓が林で、会に出席されますよ。大林さんも小林さんも会員です。会員は8千人いますよ。近く大阪で会合があります」 興味津々のお話で、待ち時間は短く感じた。

 日立館を出た所で、同行のお孫さん共々写真を撮って、台湾へ送った。数日後、台湾から電話があり「写真着いたよ。時差一時間を忘れていて遅く電話してごめん。万博では、あの日に、合計65のパビリオンを見学したよ」という。丁重な日本語の書簡も受け取り、熟年の新しい友人の元気に脱帽した。



作品−76 光雄さんの告知            △作品 バック総目次へ
                                           中村 陽子

 英会話同好会に出かけて行き、私が前の年にモロッコ旅行して撮った写真が、春日井市民美術展覧会で奨励賞に入賞したことを下手な英語で報告した。報告することも勇気のいることだったが、皆さんが祝福してくださったので、嬉しかった。

 午後から永野さん、満島さん、菅さんらを誘って一緒に市役所へ見に行った。奨励賞に入っている作品ばかりでなく、いい写真がたくさんあって、私が入賞したことが信じられないほどありがたかった。英会話の川地先生も見に来ていただき嬉しかった。

 娘の柳子たち家族は一泊で知多の海に出かけており、光雄さんに受賞の報告をしたが、反応もただ黙って聞いているだけで、「おめでとう」なんて言ってくれない。    

 十年も前に離婚した人に付き合っている私のほうが異常なのだから仕方がない。 本当に馬鹿な私。遠い山形に兄弟がいるだけの私と、奈良に弟さんがいるだけの光雄さん。

 二人とも親戚もないこの地での生活、大切な娘は結婚して幸せに暮らしているものの、十年余りも別居してきた私のけじめとして「これまでどおり同じように交流は続けていきますから」といって籍を抜いてもらったのだった。

 そんな私に光雄さんは電話をしてきた。
「健康診断でわかったんだが、肺がんだって」 
「えっ?」 
 驚きですくんでしまった。
「今すぐ行くから待っててー」と言って車を走らせた。

 私は震えているのに、光雄さんは冷静である。市民病院での精密検診では「転移しているので手術はできない」と言う。
 千葉にある重粒子線治療をする放射線治療最先端の病院でも、検査の結果「副腎に転移しているため治療はできない」と、いわれたそうだ。

「抗がん剤治療はしない。ガンは4センチにもなって、あと1ヵ月持たない。骨董屋を呼んで売れるものは皆持っていってもらった。本も処分した」
 えっ? そう聞いて本棚を見たらもう何もない空の棚になっていた。

 光雄さんから打ち明けられたのが去年(2002年)の5月22日だった。
「抗がん剤治療はしない」「もうだめだ」
 万策尽きて覚悟を決め、誰にも知らせることなく、たった一人で千葉県まで出かけて検査するなど、やれるだけのことをやって初めて私に伝えてくれたのだ。

 その当時、私も2月から米沢(山形県)の兄が突然の事故で意識不明の重症の床にあって4月1日に亡くなったり、法事に行ったりと忙しい毎日で、光雄さんのところへ行くことも出来ずにいた。悪いことは重なるというが本当に実感した無念な知らせだった。

 ひと通り聞いてから
「私も抗がん剤治療は賛成じゃないけど民間療法だってあるじゃない。アガリクスでも何でも試してみればいいじゃない?」
 悔しさに真剣に話しかけていった。
「そんなもので治るならガンで死ぬ人はいないはずだ!」いかにも「つまらないことしか言わない」という言い方だった。

 光雄さんが話を聞く気のないことを感じて家に帰った。涙があふれた。
 誰よりも元気で、若々しく見え、長生きできる人だと思ってきたのに、どうして?
 光雄さんのお母さんも、お兄さんも、弟の正雄さんも、みんなガンで亡くなっていた。
「体質遺伝があるかもしれないから、ガンにならないように〇〇の栄養補助食品を食べて欲しい」と3年前に話したことがある。

 私の話に耳を貸すような人ではなかった。ガンを予防するビタミンエース(ACE)が、〇〇の4商品には含まれていて継続して食べることで、ガンにはなりにくいという。
 また実際にガンになった人に、妻や娘がしっかり食べさせてあげたので、ガンから開放された事実を聞き知っていた。私は前向きに信じていた。「私を信じて取り組んでもらったらこんなことにはならなかっただろうに」と思うと、本当にたった一人の人にも分ってもらえない自分の無力さにも泣けた。

 ガンにならなかったら、百歳までも元気で生きられる能力と体力を持った人だと思っていただけに、本当に情けなく、ただ悲しかった。
 娘の柳子に電話をして家に来てもらう。
 話をすると娘の目からも涙があふれた。まったく予期しないことに二人とも絶望的な現実に成すすべもなく悲しかった。

 光雄さんの友人河村さんに電話してみた。彼も光雄さんがガンに侵されたことを知ってひどく驚いていたが「せめてアガリクスでも勧めて、試して欲しいと思っても、聞こうとしないの」といったら「僕もアガリクスを飲んでいるので勧めてあげる」といってくれた。

 その翌日光雄さんから電話で「アガリクスを飲んでみるワ……」の言葉を聞いて一安心する。“ガンに効く”がうたい文句の民間療法である。
 数日して河村さんから名古屋の営業所を紹介してもらい、飲み始めた。どうぞ少しでも寿命が延びますように。ガンには高価な原液でないと効かないという。

 必死に5ヵ月飲んだが、がん細胞は小さくならず、少しずつ大きくなっていった。
 そしてアガリクスの服用をやめてしまった。
 そんな頃、NHKで放映した金沢医大病院の『ガンの休眠療法』を観て、軽い抗がん療法に賭けてみる気になり、金沢まで列車で通った。週1回1日がかりで行って治療をうけたが、がん細胞は小さくなることはなく、気分の悪さ、下痢、嘔吐、脱力感、脱毛などの、はげしい副作用に悩まされ、行けなくなってしまった。テレビに出てくる病院の映像を見ただけで苦しくなるほどになって、休眠療法も断念した。

 肺がんの治療薬イレッサが、2割の患者を治癒させて保健薬として認められたので、名大病院に通って服用してみたが、3ヵ月後には副作用がでて、またしても断念してしまった。
 現在の医学では、肺がんと診断された患者を救う道はないように思われた。

 光雄さんも覚悟を決めたようで、最後に世話になる病院を探しはじめた。春日井市民病院では、抗がん剤治療を拒否した患者として冷たく扱われ、「行かない」と決めていた。病気を知らされてから毎日のように食事を作って様子を見に行った。
「まだ買い物にも行けるからそんなに持ってこなくていいよ」
 痛みがないのが救いだった。
「夏服まで早いうちに処分してしまって、しまったことしたな」と苦笑していた。

 後1ヵ月といっていたが、あれから1年、胸に圧迫感はあるものの、我慢強い人だったから、寝込まずにかな習字に行き、自分史の合評会にも出かけていた。
 息苦しかったかもしれないのに弱音は吐かなかった。ある日、そっと入っていったら押入れの前で光雄さんは仰向けに倒れていた。
 動きがあるので様子を見ていたら、ゆっくりと起き上がったのでほっとする。病院に入るよう勧めたが、「まだやりたいこともあるし、大丈夫だ」とがんばった。

 とうとう8月15日に倒れた。
「もう何も出来なくなった。病院へ連れてってくれ!」と電話がきた。
 光雄さんが最後に世話になろうと決めた病院は、名古屋市港区にある協立病院だった。早速娘の柳子に連絡して二人で光雄さんの家に行った。光雄さんはベッドに横になっていた。顔はむくんで紫がかっていた。息も苦しそうだった。

 病院に連絡すると「15日は病院も休みですが、緊急医がおりますからどうぞいらしてください」と言われた。入院に必要なものを用意して娘の運転で病院まで急いだ。
 病院には少しの職員しかいなかったが、すぐに医師に診てもらうことができてほっとする。そのまま入院して酸素吸入が行われた。緊急医は循環器(心臓)の先生だった。本人が選んだ病院は、再建されて1年くらいの明るくて通路が広く、ゆったりした空間が見られるいいところだった。光雄さんは少し前から通院していた。

 私が以前勧めた栄養補助食品を万策尽きたときから飲みはじめていた。食べ物なので即効性はないものの、体が少しずつ楽になるようで、飲み続けてくれた。
 がん細胞はすでに15センチにもなって、肺の中の大静脈を圧迫していて血流が悪く、危険なので、「検査してバイパス手術をしたい」と担当のドクターに言われた。
 検査した結果、バイパス手術は不可能であることがわかり、はかない望みも断たれて諦める以外に道はなくなった。

 入院して5日目から光雄さんの症状が落ち着き、『朝顔の音』の原稿書きが始まったのである。
 作家がホテルに泊まりこんで原稿を書いているのと変わりない感じで、意欲的に書き出していた。私たちが病院へ行っても、ベッドの食事台を机にして健康な人と変わりないように原稿用紙の上でペンを走らせていた。
「飯は食べられるし、原稿書きもはかどっている」酸素を吸いながら嬉しそうである。

 何よりも気がかりだったことができて本当に良かったと思う。「あの着物持ってきてくれ」など、私たちにして欲しいことを言うと、「もう帰ってもいいぞ」である。
 付き添いのいない夕食後や朝など、寝たきりの同室の患者さんにコーヒーを入れて飲ませてあげたり、起こしてあげたり、病人らしからぬことができる人である。

 気分のいい日は夜中も書き続けていたようで、同室の患者さんたち(皆さん光雄さんより先に亡くなられた)には、ご迷惑をおかけしたと思う。原稿は3度も校正をし、紙質は「これ」と指定されて春日井印刷社長は苦労された。「廃版になっていて、東京の問屋まで探しに行ってきました」と聞いて驚いてしまった。本のサイズから、字数、表紙などいろいろなことに独特のこだわりをみせ、春日井印刷社長(営業の方に任せては不安だから)は、車で片道1時間の病院まで7回も足を運び、光雄さんに納得してもらえる本ができるよう尽力された。入院以来、2ヵ月半で完成にこぎつけた。

 娘の柳子も名古屋市港区の病院へ1日おきに通い、春日井の北島さん(かつての同人誌『睡花』の会長)に原稿を校正してもらうために、原稿を持っての往復を繰り返していた。私も娘と交代で病院に通った。病院でのもやもやを処理できずに帰り道鶴舞で、あわやの交通事故を起こしかけて、命の縮む思いをした。「もう年だから車で名古屋まで行くのはやめにしよう」と、心に決めた。

 原稿を書き上げ、八階のホスピス病棟に移った。心安らかに最後を過ごしたかったのだろう。娘の付き添いで1日外出してデパートで大好きなケーキとうなぎを買ってきた。
 家の前の3段の石段がなかなか登れなかった。見ていて胸が締め付けられ、思わず手助けしてしまった。

 それでも休憩すると読みたい本や病室に置きたい『雨にもマケズ』の額や時計、絵など見て楽しみたいものを用意し、夕飯に美味しいうなぎを食べて病院へ戻っていった。
 翌日は病室を好みの雰囲気に模様替えし、住み心地のいい部屋にしていた。
 残された日々をゆっくりと読書しようと楽しみにしていたと思う。

『朝顔の音』は出版を待つばかりになった。私もこれまでゆっくり話をすることがなかったので、「優しい気持ちで、話を聞いてみよう」と、思っていた。

 病院から「薬のことで話したい」と、電話があり、私は来客中だったので娘に行ってもらった。「モルヒネを服用させたい」とのことであった。昨夜は苦しんだようだった。モルヒネは光雄さんから苦しみをなくし、娘の柳子とゆったりした話をして「お父さんの優しさ」が判ってもらえたようだ。本当に良かったと思う。

「夕食は後で食べるから」といって眠り、柳子も八時過ぎに帰ってきた。
「明日、お母さんに写真を撮ってもらってくれ(模様替えした病室の)」と、楽しみにしながら眠りに入り、そのまま、とても穏やかな顔をして、その深夜、誰にも別れを告げずに息を引き取った。
 いい加減な妥協をせず、自分にもきびしい人だった。

 光雄さんの通夜の席に仮表紙で綴じられたすがすがしい水色の『朝顔の音』が届けられ、枕元に供えられた。本当は生前葬の席で挨拶したかったのだろうが、無情にも運命の幕は閉じられた。
                                  『わだち』第26号より



作品−75 
A型とO型                  △作品 バック総目次へ

                                       廣瀬 録郎  

「明日はゴミの日だから、机の上のものを今日中に片付けてくださいね」と、月曜日の朝の掃除のとき、家内に言われた。

 居間の机の上には、三、四日の間に来た手紙や書類が無造作に積まれている。毎朝掃除をする家内には、たしかに一日一日増え続ける書類は目障りだろうと思う。月に二、三回はこの言葉を聞く。

 家内は机の上には何にもないのが良いと思っている。が、私は色んな人や色んなところから来たものは、しっかり見て、その上で処理したいという、いわば習慣のようなものが身についている。なかなかすぐには捨てることができない。

 昨今は、広告宣伝のチラシなどが多く、一見して捨てたいものも結構沢山来る。そういった類のものは、すぐゴミ箱に入れるようにしている。しかし、そうでないものもある。家内には関係なくても私には必要なものがある。

 何ヵ月か前、彼女から「この整理不能症は貴方の最大の欠点ね」と言われたことを思い出していた。

 今日中ということは、ゴミ出し時間の夜までに、まだ十時間の余裕がある。私は朝の散歩に出た。冬にしては暖かい日差しが心地良い。

 家に戻ったら家内は居ない。「○○へ買物に行って来ます」と置き手紙が机の上にあった。

 ゴミの回収は、週二回ある筈だ。今日という日を逸しても、また金曜日という日があると思うと、気が楽になった。

 若くて会社勤めをしていたころ、机の上は何時も書類が山のようであった。それでも、どの書類がどのあたりにあるか、総てが分かっていた。古希を過ぎた今はよく忘れたりするようになったが……。

 私が整理して片付けないと、知らぬ間に家内が私の机に移してしまうため、ある筈と思ったところになく、大探しをしなくてはならない。

「こういう書類知らないか?」

と聞くと、

「貴方の机の上でしょ」とくる。

「ないから聞いているんだ」

 そんな会話が最近は絶えない。その度ごとに

「また貴方の最大欠点が始まった。きちんと整理もしないで大声で怒鳴るんだから」となる。

 日本人の血液型は、A型とO型で八割近くを占めているという。一般にA型は几帳面で、O型は大雑把でアバウトな性格が多いと言われている。私はA型で家内はO型である。

 一緒になって四十余年が経った。この長い人生生活の過程で私はO型の大雑把な性格に侵食され、家内にはA型の几帳面さが浸透したのか。

 家内は今のままで良い。私がO型を退治して早目の整理整頓を心がけようと一人でコーヒーを淹れながら考えていたとき、家内が買物から戻って来た。



作品−74 
不思議ものがたり 

── ──           △作品 バック総目次へ

                                  大石  洋

 つい数ヵ月前のゴルフ場での出来事。古くからの友人に、久しぶりのプレーに誘われた。当日は、あいにく小雨模様であったが、9時過ぎにアウトコースから傘をさしながらスタートした。

 まあまあの調子で3ホール目まで来たところで、私がとんでもない事故を起こしてしまった。

 第1打のドライバーショット。距離は出なかったがフェアウエイはキープしたので、気をよくしながらメンバーの打ち終わるのを待って、「今日は雨おとこさんの天下だな……」など冗談を言いながらコースを歩き始めた。

 打ったボールの近くまで来たとき、傘を忘れたのに気が付いた。置き忘れたティ・グラウンドまで走って傘を取ってきて、荒い息使いが納まらないうちに、迷惑をかけまいとすぐ第2打を打った。

 ところが、引っかけ(極端な左方向へのミスショット)をしてボールが低空で飛んで行った。「あっ!」と大きな声を出したが間に合わず、斜め前のラフにいた、N氏のこめかみを直撃してしまった。最悪! 運悪くというか、見事にというのか、的中である。

 N氏はその場に倒れた。メガネは飛んでしまい、暫くは起き上がれなかった。ややあって、顔をしかめながら起きあがったが、ボールの当たった箇所は、タンコブがみるみるうちに大きくなり、血も滲んできた。

 私はこれ以上ない程の平身低頭。幸い、N氏は歩けそうなので、肩を貸しながらコースを逆に歩いて、やっとの思いでハウスまでたどり着き、病院へ直行した。楽しかるべきゴルフはお流れになってしまった。

 もう40年も細々と続けている“付き合いゴルフ”。このような、とんでもない方向へ飛ばしたのは初めてである。

 今回の事故を振り返って考えてみる。

 偶然というのか、悪いことの重なりは驚くばかりであった。

 先ず、3番ホールまで来た頃、雨が止んでいたので、つい傘を忘れてしまった。次に、後のパーティーが早くも回ってきていて、私たちが圏外に出るのを待っているのが見えた。私は後の人にも、同僚にも迷惑をかけまいと、忘れた傘を取りに走り、息せき切ったまま、第2打を打ったのがいけなかった。雨でグシャグシャになった不安定な足場も加わった。

 さらに悪いことに、N氏が、私の打つ瞬間、丁度目をそらし、汚れた自分のボールを綺麗にしようと、しゃがんだ途端である。

 結果は、そのジャストタイミング。事故のベクトルが寸分違わず繋がっていた。そのうちの一つでも欠けていれば、あるいは、ずれていれば事故には結びつかず、よくあるヒヤッとする程度で済んだのだろうに。

 “偶然”の悪魔が仕組んだ罠なのか。

 N氏の傷は医者の診断では、局部的な骨折と打撲とのことで、1週間ほどで腫れも引き3週間で完治した。

 その後、「次は天気のよい日に、気を取り直して(ゴルフを)やろうよ」とN氏らは言ってくれたが、彼には顔向けできない後ろめたさと、他の2人にも薄皮のようなわだかまりが残ってしまった。
 

 もう何十年も前のある事故のニュースを、不思議にも思い出した。

 九州のある駅でのことである。夢と希望を胸一杯に、新婚旅行で駅のコンコースを歩いているカップルがあった。そこへ遥か高いところの天窓か、梁に何年も、乗っていたのであろう数センチ大のガラスの破片が落ちてきて、男性の首に突き刺さり、その場で絶命した事件があった。

 当時、新聞やテレビにも報道されたが、これが一秒でも、数センチでも、あるいは、ガラス片の向きが少しでも違っていれば、死ぬほどの事故は起こらなかったはずなのに。ほんとに偶然なのか、何かの定めで、見えない運命の糸で結ばれていた事故なのか、と思いたくなる。

 また、昭和30年代、こんなニュースもあった。ジョンソン基地(埼玉県、現在の自衛隊入間基地)のアメリカ兵が夜半、遙か遠い所を走っている西部鉄道の電車に向かって小銃かピストルかを発砲。車内はすいていて、たまたまそこの座席に腰掛けていた学生に命中し、彼は即死した。当時、駐留軍問題として報じられていた。

 撃った兵隊はまさか電車にも当たるまいと安易な気持ちだったのだろうと、私には確信的に思えてくる。
 それは同様な体験を私もしているからである。

 学生時代、寮生活にも飽きて、同級生と2人で甲府郊外の山を背にした民家の2階に自炊契約で下宿した。

 その家には成人した娘2人と男子高校生がいて、勉強を見てやったり、忙しいときには、たまにではあるが畑仕事も手伝ったりしたので、家族同様に扱ってくれた。

 高校生の使わなくなった空気銃があったので、勉強に飽きると、それを借りて何回か裏山へ小鳥を撃ちに出かけたりした。しかし鳥は射程距離範囲に入る前には必ずといっていいほど逃げてしまい、1羽も仕留めることはできなかった。それよりも、2階の障子の陰から庭で餌を啄んでいる雀は狙いやすく、たまには仕留めることができた。

 あたりが春めいてきた頃、2階の窓から見上げる柿の枝に、雀が群がっていたので、それを狙って撃ったが、案の定、当たらず一斉に逃げてしまった。

 ふと裏山の方を見ると遥か遠くの畦道を白い猫がのんびり歩いているのが見えた。 放物線の弾道を予測して、やや上向きに標準を定めて、当たるはずはないと軽い気持ちで撃った。

 ところが、猫はぴょんと跳ねて一目散に藪の中に逃げ込んでしまった。尻にでも当たったようである。目の前の雀には、当てようとしても、当たらないのに、2、3百メートルも先の猫に当たるとは、偶然とは恐ろしいものである。

 先の、米兵の例も同じだったのだろう。昔から、「魔がさす」という言葉がある。危ないことはするものではない。

 人との出会いも、面白い。偶然なのか、縁なのか。出会いによっては人生航路に関わることも多く、友人、恩師、はたまた伴侶との出会いなど様々。

 世の中には、偶然な出来事は多いだろうが、あとから振り返ってみると、前から「縁の糸」で繋がっていて、起こるべくして起こるという事件、事例も多々あるように思われてしかたがない。



作品−73 ラ・クンパルシータ
  ──若き日の酩ピアニスト──         △作品 バック総目次へ

                                   佐藤 孝雄

 三月のある朝、寝室から居間へ下りると、何かしら音楽を聴きたくなった。

 特にこれといった曲が思いつかないので、CDラックから、ふと手に触れた1枚を見ると、ラテン・カーニヴァルだった。アルゼンチン・タンゴ集である。第一曲は歯切れの良いラ・クンパルシータ。
 聴いていると、ふと、ある情景が浮かんだ。


 30年ほど前の雪深い札幌の歓楽街ススキノの一角、年末の華やいだ客で賑わうキャバレー。

 高校で英語を担当していたわたしは、20人ほどの学年仲間と忘年会のビールを楽しんでいた。話し、飲むほどに頭が空っぽになる。ピアノが目に入った。ふらふらと歩み寄り、こともあろうに無断でぽろんぽろんと弾きだしていた。わたしの好きなラ・クンパルシータが鳴り出した。

 アルゼンチン・タンゴの軽快なリズムに魅力を感じ、何種類かのレコードを買い込んでは楽しみ、楽譜が手に入ると放課後の音楽室でピアノを弾いて、ひとり悦に入っていたころのことである。

 和声学を無視した左手と、でたらめな右手の指使いは二度と同じ演奏ができない、まさしくアド・リブ。
 それでもいささか自分の演奏に酔いしれて弾き続けた。頭ふりふりだ。きっと丸椅子の上で体が左右に揺れていたことだろう。ここがどこかもお構いなしで楽しんでいた。

 ふと、まわりに異常な雰囲気を感じた。鍵盤から左右に目を移すと、なんと、わたしのピアノに合わせて数十人の男女が身体を寄せ合い、タンゴを踊っているではないか。仰天した。

 さては、困ったことになった。突然演奏をやめると恍惚の紳士淑女の興を殺ぐことになる。かといってまずい演奏や、ちゃらんぽらんなリズムでは踊りにくかろう。

 やめようか、続けようかと頭が混乱し、酔いもいささか覚めてきたような気がする。指はまだ動いている。
困った、こまった。どうしよう。

 えーい! とばかりに一区切りのフレーズでやめることにした。テンポを落として終りが近いことを予告し、指を放した。

 踊り手たちから拍手が起きた。ダンスのエチケットなのかもしれないが、わたしの戸惑いに拍車をかけた。
 仲間の待つ席に戻ってほっとした。

 今にして思えば、キャバレーのしかるべき人が、よくぞ見逃してくれたものだと冷汗が出る。

                                                  『わだち』第23号より




作品−72  特別寄稿〈掌編小説〉                       △作品 バック総目次へ
         風のおと  ──ホームレスの紳士──
                                     山上 峻介

 今日の将棋は、いつになく箱根さんが猛攻をかけてきて、織田さんは、ただ受けるだけに必死だった。しのぎにしのいだが、ついに力尽きて織田さんが投了したのは午後の3時をまわる頃だった。

「ふふふ……」
 満足そうな含み笑いを箱根さんが漏らす。
「いやあ、参りました。今日は格別にお強い」

 織田さんは軽く頭を下げ、持ってきた小さなアイスボックスから缶ビールを取り出す。
「どうです、やりませんか」
「いや、恐縮」

 2人は缶を開け、それぞれに口をつける。肩の力を抜いた織田さんが見上げる空。成層圏の近くに、刷毛で掃いたような薄い雲が白く光っている。

 ベンチの脇の木槿の木が、直立した枝の葉をかすかに鳴らす。
「風のおと、か」
「藤原朝臣敏行ですな」
「『秋きぬと目にはさやかに見へねども風のおとにぞおどろかれぬる』でしたか。受験勉強の古典で覚えただけですから、風情も何も味わったことはありませんが」

 織田さんは恥ずかしそうにそそくさと言い、将棋盤に向かった。
「どうですか、もう一局」
「いいですな」

 箱根さんも気軽に応じ、駒を並べ始める。そして、何気なく言う。
「織田さん、何かありましたか。今日は私が強いのではなく、織田さんに心の乱れがあるようですが」
「わかりますか。実は本来なら、今日は家に帰る日なんですよね」
「そうでした。織田さんは月に2回は家にお帰りになっておられましたね」
「単身赴任でこの街に来てから2年、ずっと守ってきたのですが、今日初めてそれを破りました」
「なるほど」

 箱根さんは、いつの時も、こちらの心に踏み込むような質問などしない。だが、今日の織田さんは、ついつい愚痴を聞いてもらいたい心境になっている。

「昨夜も家内が電話で訴えてきましてね」
「………………」

「タバコをね」
「ほう、タバコ?」
「私の高校二年生になる一人娘なんですが、喫茶店でタバコを吸ってて補導されたというんです」
「補導、ですか」

「家内は学校に呼び出され、これから1年は受験勉強の正念場だというのに、どういうしつけをしているのかと、教師にこってり厭味を言われたそうです」
「なるほど」

「挙げ句の果ては、『私の言うことなどまるで聞いてくれないで、タバコを吸いつづけてるあなたの娘だから』って、八つ当たりですよ」
「ほう、ほう」
「さすがに頭に血がのぼりました。それとこれとは問題が違う。何を混同してるかと言ったら、ヒステリーを起こしましてね。私も気がふさいで、家に帰る気をなくしてしまいましたよ」
「ふーん」

「大体、家内も、私がこちらに来てから、住まいをのぞきに来てくれたのだって、一度だけ。あとはしらんぷりですからね。娘は高校生で手がかかるわけでもなし、電話してもいない時が多くて、一体、何をしているのやら」
「そうですか……。あなたの番ですよ」
「これは失礼」

 2人が将棋盤に向かっているのは、この街一番の大きな公園の「普選記念演壇」の前に設けられたベンチ。織田さんと箱根さんの2人だけでなく、そこここで同じような対局風景が見受けられる。

 野外ステージといっていい演壇の両脇には、控えの間のような小スペースがあり、多少の雨風は凌げるようになっている。そうした造りのせいか、ここには数人のいわゆるホームレスの人々が住みついている。箱根さんと言われる初老の男もその1人である。

 いつの頃からか、この場所へ将棋や囲碁の道具を抱えた地域の人がやってくるようになり、小さな社交場か囲碁・将棋クラブのような雰囲気をかもしている。かなり知られた企業のビジネス戦士として単身赴任してきた織田さんは、散歩の途中でこの場所を知り、箱根さんと気が合って、何度か将棋を指すようになっていた。

 織田さんが、対局の途中でふと首をもたげ、耳をすました。
「つくつく法師ですね」
「そうですか。もう出ましたか」

 耳をすませば、確かにどこか遠くでつくつく法師が鳴いているのが聞こえる。
「油蝉の次は、つくつく法師。秋ですね、いよいよ」
「もういい、つくづく。もういい、つくづく……。もういいよ、もういいよ……」
「なるほど、そういうふうにも聞こえますね」

「いろんなことがあったような気もするし、何もなかったような気もする。いずれにしても、もういいよ、ですよ。この人生も」
「箱根さん、失礼ですが、ご家族は?」
「家族? 家族なんて!」

 いつになく強い口調で吐き出すように言う箱根さんの様子に、織田さんは息を呑む。
 仲間の口から、ある時は、ハコネさんと呼ばれ、ある時はキョウジュと呼ばれているこの人の心の奥底に、どんな暗闇が広がっているのだろうか。

「何だか、今日はこれ以上勝負を続ける気をなくしました。失礼していいですか」
「もう帰りますか。明日からまた戦士の日々ですな」

 2人は挨拶を交わし、箱根さんは演壇の脇に消える。段ボール箱のマイホームへ。



作品−71 

小牧山にまつわる思い出  ──“兎追いし彼の山”は いずこに──           △作品 バック総目次へ
                                                    長谷川 峯生
 

 小牧市の住人で小牧山を知らない人は、まずいないと思う。
 小牧市内ならばまず何処からでも見ることができるし、通りすがりであってもすぐに目に入るはずだ。
 小牧山は由緒ある史跡でもあるし、今は立派な公園となっているので、小牧市民ならずとも知っている人は多いと思う。

 この小牧山は幼き日の私の遊び場であった。
 小学生時代から、青春の時期を過ぎ、老境に至るまで、私の生涯を通じての遊び場であり、思索の場所でもあり、憩いの場でもあった。

 先日(平成16年6月)、2歳半の孫の手を引いて行ってきたが、以前ならば、あの山のことなら隅から隅まで知っていたつもりだったが、近年は状況が大きく変わってしまって、そのことを自負できなくなってしまった。

 小学生の頃は、あそこでよくターザンごっこをしたものである。
 丁度、今の小牧市役所のある辺りは、昔は掘割りのような窪地になっており、その中には水がたまって、周囲の木々からは蔦がいくつも垂れ下がっていたので、その蔦につかまっては汚くよどんだ水溜りの上を行き来した。

 この堀の跡は今でもかすかに残っているようで、合瀬川の西(旧小牧中学校正門、今の公園の入り口付近)に意味もなく窪んだところがそれである。
 そして今の市役所の庁舎の真裏から頂上に向けて、当時の悪餓鬼の間では「兵隊道」と呼んでいた、頂上に出る最短の近道があった。

 最短なだけに一番きつかった。
 道といっても両手両足を使って、這って上り下りをしなければならないので、普通に歩ける状態の道ではなかったが、今は階段が整備されている。
 同じく今の大手口(市役所の建物の西側にある登り口)の西には、大きな洞窟が2つ、3つあった。 恐らく防空壕であろう、その洞窟の底には水がたまっていて、その水溜りを渡って奥に行くと、得体の知れない骨がごろごろしており、恐ろしかったものである。
 
 小牧山の西側というのは鬱蒼とした竹薮で、その竹薮の中にどういうわけか畳が敷いてあって、これも不思議でならなかった。
 その上の方(現在は観音洞といわれている)では「首吊りの木」というのがあり、これも不気味な印象を受けた。

 多分、首吊り自殺でもあったに違いないが、それを子供同士で語り継いでいるうちに、話に尾ひれがついてそういう怖い話になったものと思う。よって真偽の程はわからない。
 
 今は小牧中学校もユニー、いやアピタというべきか、そのアピタの南側に移転してしまったが、小牧中学校というのはあの小牧山の東側にあった。
 しかも、その中学校はアメリカ占領軍が小牧飛行場の滑走路を拡張するのに、小牧山の土を掘って、その土で飛行場の拡張をしたので、その時、土を取った跡に小牧中学校が建てられた。
 
 私はそこの卒業生ではないので、そこで思春期の一時期を過ごしたわけではないが、その中学校の場所は出来る前から知っていた。
 当時、私は小牧の町中に住んでいた。

 今のNTTの小牧支店、昔の呼称は日本電信電話公社の小牧支店、要するに電話局であったが、その電話局になる前は小牧警察署(終戦直後)、またまたその前は税務署(戦前)だったと聞く。

 私は小牧警察署の時から知っている。
 今の建物は鉄筋コンクリートで、その東側には背の高いブロック塀が奥の方に向かって出来ているが、あそこが警察署だった頃は、槙の木の生垣になっており、素掘りのドブがあって、一番奥が溜池になっていた。

 我が家は、そのドブの東側にある四軒長屋に住んでいたので、少し雨が降ると水の行き場がなく、すぐに床下浸水ぐらいの状態になった。
 今のNTTの建物の前を、つまり当時の小牧警察署の前をアメリカ軍のダンプカーが何度も何度も往復して、小牧山から土を運んでいた。
 小牧基地の一番北のゲートから出て、旧名犬国道を通り、小牧市内の絹庄のガソリン・スタンドを西に曲がって、小牧のお宮さんの前を通ってピストン輸送していた。

 私は、山の麓を流れている合瀬川の堤防から、作業現場の様子を飽かずに見ていたものである。
 その時のダンプカーの威力、パワーショベルの迫力というものは子供ながらに大いに驚いたものだ。 パワーシャベルのバケットが、3回土を掬ってダンプの荷台に開けると、荷台が一杯となって、次の車と入れ替わり、そうして次から次へと土を積み出していた。

 昭和23、4年の頃のことで、朝鮮動乱前の話だ。
 飛行場拡張の土を取った跡には広大な空き地が出来て、それは露天掘りの石炭採集場のような情景を呈し、山の裾の方は階段状の形状を成していたので、その起伏をそのまま利用して中学校の校庭になった。

 だから学校の校庭としてはかなり巨大な校庭ではなかったかと思う。
 その頃はまだ小牧の市役所はあの位置にはなくて、冒頭に述べたように、あそこは私達子供のターザンごっこの舞台であった。
 当時あの辺りは鬱蒼と木が繁っていた。

 その木がまばらになったのは、昭和34年の伊勢湾台風のためである。
 伊勢湾台風の後、すぐに小牧山に行って見たが、驚くほど沢山の木が倒れていた。
 実に無残な光景を呈しており、それ以降というもの、山の木々に鋤を入れたように、山全体が明るくなってしまい、鬱蒼とした神々しさがなくなった。
 その事が良いのか悪いのか今でも判断に苦慮する。

 この頃になると私もそろそろ子供の域を出て、いろいろな事を思い悩む年頃と成り、思索にふける時期になった。
 そして、その頃我が家ではハリーと名づけられた中型の犬を飼っていた。その犬は、私と散歩するのが大好きで、よく小牧山に連れて行ったものである。

 このハリーは、父が粉ミルクの缶1つという持参金付きでもらってきたものだが、その時まで母の犬好きということは家族の誰もが知らなかった。
 母は無類の犬好きで、散歩はもっぱら母の仕事であったが、私も母に代わってよく散歩に連れ出したので、母と私が散歩係であった。
 母の散歩は町内の決まったコースを一巡してくるだけのもので、ハリーとしては物足りなかったのではないかと思う。

 ところが私との散歩は、自転車で遠くまで連れて行かれるので、ハリーとしてはきっと私との散歩を喜んでいたに違いない。
 街中では紐でつないだまま自転車の脇を走らせたが、家がなくなった辺りから綱を解いてやると、喜んで一目散に駆けて行った。
 名前を呼んでやると又一目散に駆け戻って来て、最大限に喜びを表現する。
 
 時には、家からボールを1つ持っていって、ボール拾いをさせてやるのだが、ハリーは実にそれを喜んでやっていた。
 この山の中で、叢にボールを放り投げてやると大抵は拾ってくるが、それは犬の持つ本性なのであろう。
 ところが飼い犬というのは飼い主に似るといわれている。
 
 我が家のハリーも、結構粗忽もので、ボールを投げると目で追うのではなく、落下した時の音でボールの所在を確認して拾ってくるので、投げる振りをして投げずに騙してやると、ボールの落下する音がしないものだから、めくら滅法あたりを探し回るのだが、どうにも不思議だといわんばかりに、一生懸命探し回る様がおかしくもあり、健気でもあった。

 我が家にハリーがきてからというものは、小牧山に出かけるときは必ず連れてきたので、犬ともどもこの山の隅から隅まで知り尽くしたつもりでいた。
 ところが、不思議なことに小牧の市役所が出来たことは定かに記憶していない。
 又、頂上に城が出来たのも記憶にない。

 もっとも、伊勢湾台風の後しばらくして、たぶん昭和38年頃だったと思うが、父が同じ市内でも北外山に家を建てて、そこに転居したので、それ以降は小牧山も少々遠くなり、そのため山の変化には疎くなったのかもしれない。

 小牧のお城に関しては、どうも私が北海道にいたときに出来たようだ。
 私が子供の頃は、まだお城などは出来ておらず、頂上にある記念碑の石の上からは四方八方が見渡せた。
そこから見た光景は実に不思議な気がしたものである。

 なにしろ、北は犬山の向こうの山並み、東は低い丘陵地帯、南は名古屋に向けて全面的に解放されており、西側は遙か遠くに養老山脈をのぞむことができ、その間というのは実に広大な平地がひろがっている。他から観ると、小牧山だけがぽつんと屹立していて、まるで水面に浮かぶ浮島のような感じがしたものである。

 春には黄色い菜の花と、白い大根の花のまだら模様が展開し、四季折々には時に応じた季節の色を呈した自然に恵まれ、人の佇まいというのは城下町としての小牧の旧町並みしかなかった。

 小牧山を中心として360度というもの、見渡す限り皆農地で、人々が田や畑を汗水たらして耕した結果としての美田が広がっていた。
 小牧山の頂上から見た濃尾平野の眺望というのは、まさしく名実共に美田という言葉そのものであった。
 私の人生60年の間に、この小牧山を囲む地域も大きく変貌してしまった。

 それは良い事なのだろうか、それとも悪い事なのであろうか。
 良い悪いという言い方は、視点の置き方次第で、同じ事でも評価が正反対になりかねないので、そういう捉え方は適切でないかもしれない。
 ならばどういう表現が適切なのであろう。

 昔の美田が乱開発で、準工業地帯、準住宅地になってしまったことを、どう捉えたら良いのであろう。
 本当に乱開発であったのだろうか、それとも人間の営みの自然の進展であったのだろうか。

 私が物心ついてから約50年、半世紀という時の流れは、我々にどういう価値観を与えたのであろう。
「兎追いし彼の山、小鮒釣りし彼の川」というものが無くなってしまった現状というのを、我々はどう受けとめたら良いのであろう。

 因みに、今の小牧山というのはもう山全体が立派な公園になっており、史跡としても十分に管理されて、昔の面影は全く見当たらない。
 そして小牧市のホームページには、史跡としての記述はあっても、アメリカ占領軍が山の東側を削り取った、という事実には一言も触れていない。

                                                          『わだち』第25号より



作品−70 自分史発刊余話――反響――
                       △作品 バック総目次へ
                                            岸本  昭

 自費出版した『禿岸在鷲録』を知人、友人に配ってから家の電話番は専ら私の役目となった。
 電話はジャンジャン、手紙もくればメールも入る。

 なかには祝いの品まで届く始末に、かえって迷惑をかけてしまったのかな? と心配にもなる。
「家まで来てくれたの。折角なのに申し訳なかった」これは留守でポストに投げ込んできた友から。

「主人の仏前に供えさせて頂きました」は、小山康子さんと、稲生千枝子さんなど。
「この本のタイトル、どう読んだらいいの?」予想したとおり、この問い合わせは多かった。

「音読みでも、訓読みでも、重箱読みでも。好きなように読んでよ」

 この無責任ともいえる私の返事には、ひとつ引っかかっていることがあるからである。
 タイトルをつけた由来は前号で述べた。実はその巻物を受け取ったとき、”正しい読み方を聞いてなかったから答えようがない”という私のこだわりなのだ。

「送っていただいた本のタイトルの読み方を教えて下さい」
 この国立国会図書館からの問い合わせには、私なりの読み方で答えた。
「ハゲキシ ザイシュウロク」です。
 これがどうやら正解である。

 配ったあと、「これを機会に集まろう!」の誘いも多く、案内を受けてあちら、こちらと顔を出す。
 いち早く『立地渉外グループの会』が名古屋で開かれて、野々垣部長以下が久し振りに一堂に集まった。

 野々垣さんが「大腸の腫瘍をとり、現在治療中」と報告された。頭髪がめっきり薄くなったのは薬の副作用のせいだろうか?
『一成語録』の上田君は体調不良で飲まず、期待した懐かしの弁が聞けなかったのは残念至極。

 表紙の画とカットを描いてくれた本田君が謝礼を受け取らないので、「会費の足しに」と幹事に渡した。

 加代子嬢は社内結婚して今は本店の部長夫人。息子が高校生というから時の過ぎ去るのは早い。

「野田さんが魚の研究をされていたとは、全く知りませんでした。知多事業所で一緒でしたが、魚の話など一度も聞かなかったです。一度三人で飲みませんか?」
 この電話は潟eクノ中部西名古屋事業所の原田君だ。

 『火力の魚屋さん』で登場の野田君は、相手が魚だったせいばかりではないが、どちらかといえば寡黙なタイプ。だから原田君が知らないのは当たり前の話。
 その野田君。養魚の研究を終わり三号機が増設されてから転籍し、今は知多事業所に勤務中で、隔週ごとに尾鷲に帰る単身赴任の身。私と違いマージャンも酒をやらないから、宿で時間をもて余している様子だ。

 久し振りに金山総合駅近くの店で一杯やった。楽しいひとときが終わってお愛想となる。「ワリカン(割前勘定)で……」と言っても二人は、「ここは任せて」と譲らない。「済まないね」と礼だけ言って帰ったが、後からそれぞれの家に、信州高森町の蜜入りリンゴを届けて謝意を表した。

 元尾鷲三田火力環境保安課のメンバーから、
「名古屋近辺の仲間だけで一杯会をどうです? 尾鷲の野田君も知多にいることですし……」

 この打診があったとき、
「上田君が中部プラントの社友会、中電同友会の両方とも欠席した。立地の会には来たのに? と不審に思って問い合わせたら、『久し振りに名古屋まで出たら、ふくらはぎが痛くなって』と言っていた。どうも体調がイマイチらしい。風邪をひいて寝込まれてはいかんので、暖かくなる春にしたら……」
 そう言って先に延ばしてもらったのには、実は私にもそれなりの訳があったのだ。

 この秋は、中電、中部プラントのOB会、飲み仲間の月例会のほか、発刊をダシにされた飲み会の連続。加えて忘年会のシーズンとあって、いささか私もバテ気味。そしてこの頃は飲めば必ず乗り物で失敗を繰り返している。
 

 十月のことだ。小学校の同級生から、
「いい機会だから一度昼飯でも食おうよ。美恵ちゃんも静枝さんも旦那に死なれて寂しいだろうし、恵美ちゃんは脳梗塞で目下リハビリ中だが、飯ぐらいなら出てこれそうだから。男も五人ほど……」

の電話である。今まで昼食会など開かれたことなどないのに? それとなく気をつかってのお誘いに、ホイホイと出かけたらシッカリ飲まされた。もっとも飲んだ私が悪いのだが……。

 西尾線の米津駅でみんなに送られ、電車に乗るとすぐに寝込んだらしい。ひょいと目を覚ますと電車は次の碧海桜井駅だった。アレッ! 電車がバックしたぞ? 車掌も「次は米津、米津」と言う。なんだ! 眠っていた間に、電車は終点から戻ってきているのだ。そのまま終点の西尾から折り返し、そして新安城駅へ。

 名鉄の豊橋本線とJR中央線では、「今度乗り過ごすとどこまで行くか判らんぞ」と用心してドアの側に立つ。
 家に着いたら妻が言う。
 
「香さんから『まだ帰らんのか』と、電話があったわよ」
 ことの顛末を報告する電話を、傍で聞いていた妻が「またー」と笑った。

 この間もJR金山駅で仲間と別れ、”帰るコール”して電車に乗った。家に帰ると妻が冷やかす。
「電話があってからもう二時間よ。今日はどこまで行って来たの?」

 今日はチャンと降りた筈だが? どうやら電話した後ベンチで寝てしまい、乗ったのは大分あとの電車らしい。この頃は本当にだらしなくなった。我ながら情けないなー。これが@老いAというものかな。

 中電の川口社長から手紙で、
「三十九年入社以来、尾鷲には縁があり、最初は四十年度点検短縮計画で出張を数回。二度目の津支店資材担当のときは、火力部の皆さんにお世話になった。三度目は和田支店長の下で、酒の薫陶を受けたなどなど。『在鷲録』に登場のお名前各位も懐かしく――」

 手紙は、珠洲原発計画の凍結で現地訪問(十二月五日)など超多忙のなかのもの。誠に恐縮の極みである。

 中電芦浜原発の断念は地元情勢に拠ったが、今回は会社側(中部、関西、北陸の三電力共同立地)の事情によるもの。立地に携わった者として、最高責任者の心情をどう察してよいものやら。

 メールや手紙には、尾鷲三田火力三、四号機増設の関わりと、一、二号機の思い出話が多い。
「文才と記憶力には脱帽!」に類したお褒め? のメールも多いが、豚ではないから樹には登らない。

「この著書は、立地部門のバイブルのひとつに加えさせて戴きます」は、立地推進本部の伊藤常務。バイブルとは大袈裟な! それでもケーススタディーの材料ぐらいにはなるのかな? しかし常務も不況で電力需要が激減、発電所の建設計画凍結で、立地推進本部が殿本部? となり辛い立場である。

「大変懐かしく、かなりの部分が私自身の自分史になります」
「これからも何度も何度も読み返し、当時を思い出すでしよう」

「懐かしい方のお名前は、自分の過去をどんどん膨らませてくれるものですね。人生の楽しいことも、辛いことでも、思い出すことが多いほど、豊かだと思います。本を読んでまた思い出が膨らみました」

 これらは現地で公害対策や、苦情対応で奔走した人たちだ。彼らは私が赴任する前から、そして離任した後も、私の二倍も三倍も頑張ったのだ。

”かつての仕事仲間に読んでもらいたい”のが私の願いだから、この反響は嬉しい。「@尾鷲 あのころAを偲ぶ縁となれば幸い」の発刊の目的は、どうやら達したようだ。
 
「上田一成さんとは知多五、六号機の建設で一緒させて頂き、お酒が入ると『在鷲録』のとおりの乱れ方で、特に巻末の部分は懐かしく感じた」これは現職の浅野取締役火力部長のメール。当時課長として上田係長のそれにはヘキエキされたらしい。彼も『一成語録』の被害者? なんだ。

 そのほかいろいろな感想を頂き、平成十六年の年賀状にもそれらの添え書きが多かった。頂いた葉書、封書は勿論、メールも印刷してファイルした。これで私の宝物がまた一つ増えた。

『火力人生』(自費出版)の寄贈を受けた広瀬六郎元火力部長や、同じく『火力発電あの日あの時』の稲生満男元火力運営部長も亡くなられた。『禿岸在鷲録』の発刊がもう少し早かったらお返しができたものを……と、悔やまれてならない。

 尾鷲三田火力発電所三号機増設で、お世話になった鈴木茂磨副社長、高橋仁志津支店長、後任の和田愿支店長、本店の鈴木幸治支配人など、いずれの方々も既に鬼籍入りされてしまった。

 立地の仕事を離れて二十五年、この歳月は長いようだが、過ぎ去ったのは早い。

                                           『わだち』第24号より



作品−69 
特別寄稿〈掌編小説〉                        △作品 バック総目次へ
            荒南風 (あらはえ)
                                     山上 峻介

  龍男は夢を見ていた。
  夢の中身は、かつて龍男が駆けめぐったあちこちの海の情景ばかりである。
  漆黒の沖合に向かって、無数の星々が天空に輝く夜明け前の海を船出していった数えきれない日々。
  凪ぎわたり、とろりと油を流したような亜熱帯の海上で、潮の動きが変わるのを辛抱強く待った夏の午後。
  荒れ狂う巨大な壁となって襲いかかる波と風の唸りの中、波頭を切り裂いて突き進む船の舳先。

  トリヤマを発見するとフルスピードでカツオの群れに突っ込んで行う一本釣り。このときばかりは、船内の全員が龍男の指揮下で立ち働く。ポイントへ船を進め、船上から海水をはげしく噴射し、撒き餌のカタクチイワシに狂奔するカツオを、舳先に並んだ釣り子たちが次々にごぼう抜きしていく。幾たび経験しても飽きることのない興奮と緊張の瞬間である。夢の中でも龍男は乗組員たちに大きな声で指図をし、思わず自分の声で目覚めたりする。

  病院のベッドで横たわりながら見る海の夢は、ひとときの安息を龍男に与え、束の間、痛みを忘れさせてくれる。最初、龍男の胃に発生した新生物は、はやい速度で増殖を進め、それはもう腹膜全体に転移していた。

  待合室で、2人の老女がひそひそと話し込んでいる。
 「石倉の龍男が入院しとるんじゃってなあ」
 「ほうじゃてなあ。初めは胃潰瘍じゃちゅうて入院したそうなが、だいぶ悪いらしいわ。隣のお春さんが見舞いにいったときには、げっそりやせてしまいよったと言っとったで」
「あの大男の龍男がなあ。あの子、いくつになったじゃろ」
「ありゃあ、48か9じゃ。死んだ父親が復員してきてからだいぶ経ってからの子じゃから」
「あの子は、早うに父親を海で亡くしたし、身体も大きくて、『まるでスサノオの生まれ変わりじゃ』と受け持ちの先生も嘆くくらいの暴れん坊じゃったなあ」
「それが、カツオ船がよっぽど性に合ったとみえて、20歳過ぎてからは『龍男にかなう漁労長はおらん』とまで言われるようになったのに、のう……」

  龍男は80トンクラスのカツオ船の漁労長である。春から秋まで、龍男が乗り組む船はカツオの群れを追い、長いときは10日も寄港せずに漁を続ける。時には、種子島南方の海までも出かけていく。

  カツオの漁ができない時季には、モジャコ採りのために、やはりはるか洋上で操業する。モジャコというのはブリの幼魚のことである。黒潮に乗って漂う流れ藻に産みつけられたブリの卵は、そこで孵化し幼魚時 代を過ごす。それがモジャコであり、生きたまま採取されたモジャコはハマチ養殖場に回される。そもそもハマチ養殖は、モジャコなくしては成り立たないので、モジャコ採りはいい稼ぎになる。

  近年、中型以上の漁船は急速にハイテク化が進み、無線やレーダーはもちろんのこと、高性能の魚群探知機、自船の位置や航跡を即座に割り出せる装置などを満載している。人工衛星から赤外線を利用して海表面の温度を測定し、どの辺りにマグロやカツオがいる確率が高いかを知ることができる装置さえある。

  だが、最終的に物を言うのは、ベテランの船長や漁労長の長年の経験と、そこから手繰りだしてくる直観の冴えである。龍男はこれまで何人かの船長とコンビを組んできたが、どの船長からも、漁労長として高い信頼を得てきた。

  待合室では、2人の老女が、さらに顔を寄せ合ってひそひそ話を続けている。
 「それにしても、龍男の嫁の徳子のヤツは、どんな考えでおるんかいの」
「徳子? ああ、あの噂かいな」
 「この町で知らん者はおらんよ。いくら龍男が漁に出とる日が多いといっても、あんな若いもんと浮名を流すなんて……のう」
「龍男が知ったら、ただでは済まんじゃろう。なんせスサノオとまで言われた男じゃで」
「龍男も、働き抜いた挙げ句に嫁に裏切られるなんて、不憫じゃのう」
 「ほんに……のう」

 龍男は眠らず、目を閉じていた。その閉じた眼の中に、またしても海が広がってくる。岬のはずれの岩場から、明るい波に挑んで飛び込んだ子どもの頃のこと。輝き、うねり、ひろがり、重なりあって、波が次々に立ちあらわれてくる。龍男の記憶の中にある海は、絶えず動き、躍動している。その躍動に身を任せなが ら俺は生きてきたような気がする……龍男は思う。

  この地方で漁師たちが言う梅雨の半ばの荒南風(あらはえ)が、時に激しい雨をともなって窓を叩く。龍男の病状は日に日に悪化していた。今はもう、全身を走り回るような痛みが龍男を苦しめていた。

  そんなある日、龍男は回診にきた主治医に、身体を振り絞るようにして言った。
「先生……、もう今しか言っておけないかも知れん」
「えっ、なに、どうしたの石倉さん?」

  つとめて明るく医師が応じる。
「だから……、ほんとにようしてくれました。今のうちに……お礼を……、先生」

 龍男は、医師に向かってやせ細った両手を合わせ、ふし拝むようなそぶりをした。医師は、ありきたりの慰めを言おうとしたが果たせず、息を呑んでうなずくしかなかった。

  3日後、ナースセンターで龍男の心拍のモニター画面を見ていた看護婦が異常に気づいた。ぱたぱたと集中治療室に飛び込んできた医師が聴診器を当てる。
  荒い息が次第に弱まりかかったとき、龍男がしきりに口を動かして何かを言おうとした。
 「えっ、なに、龍男?」
 口もとに耳を近づけた母親には、何も聞き取ることができなかった。

 「あんた!」
 代わって妻の徳子が呼びかけた。その瞬間、医師や看護婦にも聞き取れるはっきりした声音で龍男が言った。
 「バカ」

  部屋の空気がにわかに硬直し、徳子が肩をうち震わせる中、龍男は逝った。
                                         ── 『わだち』第24号より ──
 

作品−68 硬くなった脳味噌で                        △作品 バック総目次へ
                                 高谷 昌典

 古希と呼ばれる年齢になってから、自分史、エッセイといった類(たぐい)の文章を書きはじめた。それまで、50年近いサラリーマン生活の中で書いてきた文章は、ほとんど仕事のための定型的なものだったから「自分の意思で、書きたいことを自由に書いてみたい」そんな気持ちからである。

 しかし書きはじめてみると、なかなか思うように書けない。公務員の仕事が長く、ワクにはまった思考を繰り返してきたせいか、私の脳味噌はすっかり硬くなってしまったらしい。

 著名な作家の文芸作品などを読むたびに、文筆のプロとはいえ、どうしてこんなに巧い文章が書けるのだろうと感心する。私は、ジョークやユーモアまでとは考えないが、せめて、やわらかい文章で読みやすい作品が書きたいと思う。だが、これがとても難しい。

  ところで、最近読んだ阿刀田高氏のエッセイ集『まじめ半分』(角川文庫)の中に、たいへん興味をそそられた一文があった。  


 原稿を書き終えると、原稿用紙の右肩に小さな紙片を当て、その上下からホッチキスでガチャンと留める。(中略)

 しかし私の場合は、この ”ガチャン” の時が本当の意味での脱稿ではない。一応の完成をみたあとで、何度も何度も読み返して手を入れるくせが    ある。優柔不断なのかなあ。
 音読してリズムのおかしいところがなかろうか。論理の矛盾があるまいか。同じ表現を何度も使っていやしまいか。誤字? 脱字? 読み返したからといって駄作が急に名作に変わるはずもないのだが、さながら四六のガマが鏡に映るおのが姿に恥じて油汗を流すように、私も不快の汗を流しながら読み返す。
 「今度こそ最後」 
 と思って、読み通し、机の引き出しに投げ入れるのだが、そのあとでまた引き出して2度、3度読み直すこともめずらしくない。(中略)

  ある意味では、自分の書いたものが、自分で考えているより「いい出来だ」と自覚したいために……いや、錯覚したいために読み返しているところもある。だからこそ、なかなか錯覚ができなくて何度も読み直すことになってしまうのだ。
 

  阿刀田流のスタイルで書かれているので誇張された部分があるだろうが、原稿をホッチキスで留めるまでにも、何遍となく読み直し、書き直しが行われていると思う。ともあれ、エッセイやお得意のショートショートのような小品を書き上げるのにも、たいへんな苦労があったのだ。

  なにしろ直木賞受賞の一流作家である。蓄積された知識と豊かな感性が、卓越した表現力によって沸き出る泉のように書かれていくのだろうと、想像をしていた私には大きな驚きだった。

 反面、この事実を知ったことで、ホッと救われた気分になった。私とて、推敲と称する読み直しや書き直しは何度となくやっている。なのに思うように書けないし、気に入った作品に仕上がらない。四苦八苦の末に自信喪失して、しばしば途中で投げ出したくなってしまう。だから、プロの作家でも文章を書くのにこんなに苦しむのかと思うと、なんとなく安心した気持ちになる。

  とは言うものの、同じ推敲でもプロとは精度が違う。いくら回数だけ2倍も3倍もやったところで文章が上手くなるわけがない。いまさら硬くなった脳味噌の入れ替えはできないし、これから老化が進むにつれて、ますます硬くなっていくだけ……。と考えたとき、
 「もともと、書きたいと思う文章を自由に書いてみようと気軽に始めたこと。なんとか、ひとさまに読んでもらえる文章が書ければ、それでいいではないか」

 どこからかこんな声が聞こえてきた。と、すっと肩の荷が下りて、にわかに気持ちが楽になった。 そうだ、あれこれ難しく考えることはない。リラックスして楽しみながら書き続けることにしよう。
                                         ── 『わだち』第24号より ──
 




作品−67 
三十三年目の修学旅行                       △作品 バック総目次へ
                                   志 津 波 多

 クラス会の幹事から「小学校の修学旅行」案内と出欠の問い合わせがあった。昭和55年春のことだ。

 国民学校四年生の夏、空襲で焼け出され、やむなく転校した黒野小学校(岐阜県稲葉郡黒野村、現在岐阜市)の昭和22年度の卒業であるが、修学旅行は中止になっていた。日本中が戦後の混乱で修学旅行どころではなかった。誰もが口にすらしなかった。先の戦争と戦後の混乱が昨日の事のように再び思い出された。

 卒業後まもなく名古屋に移住して、ほとんどクラスメートとの交流がないまま、20何年が過ぎたのだ。
 担任であった2人の恩師にも連絡をしているが、参加して頂けそうだ、とのこと。久しぶりにやんちゃ坊主やお転婆娘達に会えるのを楽しみに、二つ返事で参加することにした。40歳代半ばの修学旅行と相成ったのである。


 当時、岐阜地方では修学旅行の行き先は、小学校は伊勢、中学は京都・奈良、高校は鎌倉から関東方面が定番だった。
 今回の修学旅行も小学校だから伊勢神宮参拝、アルコールはなし。ただし宿は修学旅行専用旅館でなく鳥羽のリゾートホテル1泊。9月7日朝、国鉄(JR)岐阜駅前集合、観光バス利用と決まった。

 当日は早めに岐阜に着くよう名古屋から下り列車に乗った。子供の時の遠足の朝と同じ気分になっている自分に驚いた。
 早足で岐阜駅前バスターミナルに行くと、貸切バスはもう来ていて、幹事役のK君が名簿を片手に参加者のチェックをしていた。

 驚いたことにK君と並んで、当時学校医であったN先生の姿があるではないか。学校行事だから、万が一のために同行されるのだろうが、ご苦労様なことだ。それにしても先生はお変わりもなく、髪は薄くなったがツヤツヤしたおでこは昔と変わりがない。
 バスに乗ったら「おお!、懐かしい。ここに掛けろよ」と声がかかった。「有難う」と言って座った。が、誰か判らない。見覚えはあるのだが……。まあいいか、そのうち思い出すさ。

 何かきっかけを掴もうと話し掛けてみた。
「それにしてもN先生はお変わりがなく、むしろお顔の艶は昔より良いのではないか」と言ったら「違う、違う。あれは息子の方だ。そら、我々のクラスに先生の長男がいただろう、餓鬼大将の……」親子というものはこんなに似るものか。N君は親の跡を継いで医者になったそうだ。

「担任の男前のK先生と美人のT先生のご出席はやっぱり無理だったようだな」
「一番前の席にお雛さんのように座ってござろうが」

 立ちあがって覗き込むと、なんと、お二人は我々より若々しく、どちらが先生か生徒か判らない。これでは見過ごしてしまう。ご挨拶をすると
「お、お、シズハタ君? 大きくなったなあ!」ときた。
 私の頭の中はパニック寸前だ。恩師は覚えていて下さったのだ。この時は四十男も目頭にウルウルするものを感じた。


 伊勢神宮の参拝も済み、宿の大広間で親睦会が始まった。朝から気になっていた隣席の男は誰だったのか。見渡すと、いたいた。向こうでも、キョロキョロとこちらを見ている。どうやら彼も私同様のようだ。

 小学校の修学旅行だが、幹事役の機転か、宿の営業方針か、「お伊勢さんのお神酒」なるものが振舞われ、会の方は大変な盛り上がりようであった。テレビ局が取材にきていた。


 懇親会も終り、割り当てられた部屋に入ったが、なかなか寝付かれないので地下の大浴場へ行った。そこに予想をしなかった場面が待っていたのである。

 大浴場は照度を落とした灯りと湯気で視界がわるい。目が慣れてくると私の廻りには、頭の上にタオルを乗せた首、また首であった。
 とその時。
「お! お! シズハタ君だ!」
と私を指さして前も隠さず立ち上がった男がいた。同時に私も同様に立ちあがり「お、お、浅野君でないか?」と言って濡れた手で長い握手をした。

 彼こそ、バスで隣に座っていた同級生の浅野君であった。バスでは帽子をかぶっていたので判らなかったが、苦労をしたのか髪がなくなっていたのだ。子供の時は何時もあおばなを垂らし、袖口がテカテカに光った服を着ていたことを思い出した。彼は家の農業を引き継いだそうだ。

「立派な服装、ハイカラな靴に帽子は同窓会には邪魔なだけだ」と言って湯船の中でいつまでも肩を叩き合って大笑いした次第だ。


 行きの車中はどことなく空々しい雰囲気だったが、帰りの車中は20何年間の空白は何処へやら、カラオケに華が咲いていた。
 浅野君は、もう帽子を被っていなかった。

 今回の修学旅行の様子をテレビ放送する日時を幹事が説明していたが、そんなことは、我々にはどうでもよかった。


 興奮状態で帰宅し、夕餉の支度をしている妻にその話をしたら、「本当に良いおみやげばなしだこと」と言って笑っていたが、背中では「鳥羽なら真珠のみやげ物屋も沢山あっただろうに!」と言っているようだった。

                                         ── 『わだち』第24号より ──
 

 

作品−66 遊びごころ

──杉本健吉画伯のこと──           △作品目次へ

                                   

高谷 昌典

 2月13日の新聞は、その一面に「杉本健吉さん死去」の見出しで、98歳の画家の死を大きく報じていた。 

 日本と世界を描き続けてきた杉本健吉さんが10日逝った。「描くということは、自分を見つめる巡礼の旅」という言葉通り、晩年まで制作を続けた。求道的な生き方ときさくな人柄で多くの人々に愛された。

(朝日新聞)

 新聞が、この著名な画家を画伯と呼ばず、さん付けで呼んでいるのは、飾らない親しみやすい人柄だったからであろう。

 私は昨年10月、図らずもお元気な杉本画伯にお会いした。晩秋の一日、夫婦で知多半島を旅行した折りに美浜緑苑に在る「杉本美術館」を訪れたときである。

 私たちには初めての美術館だったが、週1回(火曜日)来館されるという杉本健吉画伯ご本人に会えるという幸運に恵まれたのだ。

 館内を回ってまず驚いたのは、油彩・水彩・墨・パステルなどを使って、油絵をはじめ水彩画・水墨画・仏画・スケッチなどさまざまな絵画が描かれていること。まさに何でもありという感じだった。気の向くまま、興が乗るまま、自由自在に描くことを楽しんでおられる様子が目に浮かぶ。

 常設展示室の正面に、畳2枚分はある大きな曼陀羅の図絵が掛けられていた。中央には阿弥陀如来と思われる仏がハスの花の台座に鎮座し、周りに、おおぜいの仏や菩薩が模様のように極彩色で克明に描かれている。

 たいへんな労作に感心しながら見入っていると、男性の館員が「この絵の中に杉本先生がおられるのが分かりますか」と訊く。なんのことかと訝る私たちを見ながら、彼が指さす先を眺めると、仏たちに混じって、メガネを掛けた画伯がうれしそうに飛び跳ねている姿が描かれているではないか。

 隣の展示室では、おかしな「ト音記号」に出合う。五線譜の上に付いているト音記号だが、どこか違うと考えていると、さきほどの男性がやってきて「これはト音記号を裏返しにして、ローマ字のSに見立てたものです」と教えてくれた。

 そして、Sの横に、UGIMOTOと並べて「スギモト」のサインになっているのだと説明しながら、「先生のイタズラですよ」と笑った。

「週刊朝日」に連載された有名な、吉川英治作「新・平家物語」の挿絵(下絵)なども拝見して館内をひと回りしたとき、杉本画伯が車椅子で来館された。

 直ぐ応接の部屋に入られると、画伯の作品集(杉本美術館発行)を手にして待っていた人たちに、毛筆で丁寧にサインをされる。これを見て、私たちも作品集を買いサインをしてもらった。

 その時、付添いの人から「先生にお話しされることがあったら、どうぞご遠慮なく。でも、耳が遠いので大きな声で」と勧められる。

「曼陀羅の中の先生や、裏返しのト音記号のイタズラ、拝見いたしましたあ。とても楽しかったです」妻がよく通る声で話しかけると、画伯は、ひと言「遊びですよ」とつぶやくように言って、頬をほころばされたのだった。

 この言葉を聴いた私は、画伯の生き方をうらやましく思った。ずっと、常識と呼ぶワクの中で考えたり行動したりしてきた私に、いちばん欠けているのが「遊びごころ」だからである。

 今、杉本美術館で見たさまざまな作品と共に、画伯の姿が瞼に浮かぶ。あのとき私は、杉本画伯から「遊びごころ」の手本を示されたような気がしてならない。

 やがて八十路を迎える私だが、せめて、遊びごころを交えた楽しい文章が書けたらと思う。  (平成16年3月)

                                        『わだち』第23号より


 



作品−65 

埋木細工うもれぎざいく                          △作品 バック総目次へ
                                     松波 逸雄

 昭和46年の暮れのことである。近所の指物屋さんの材料置き場の一角で、廃材の焼却が行われていた。暮れの大掃除だろう。
 通りかかった私は、消却される廃材の山の中に何本かのガラス障子を目にした。

 料理屋さんの障子を新調したので古いのを引き取ったとの話である。木目もよく通り、日頃の手入れを思わせる渋い光沢が時代を感じきせる。 何に使おうという考えは浮かばなかったが、物好きがむくむくと頭をもたげた。

「焼却するのは勿体ない私にください」

 早速店のリヤカーを借り、桟の折れた建具を積み我が家に運んだ。年末大掃除で片付けた車庫の一角にでんと鎮座することになった。

 例年、お正月の年賀状の一部を色紙に仕上げて贈っていた。
 ヒラメクものがあった。あの障子の桟である。来年のお正月には色紙掛けを添えて贈ったら効果抜群ではないかと。

 試作を繰り返し夏の頃には完成した。廃材のほんの一部しか利用できなかったが、我ながら満足の作である。

 30個ほど完成した。評判を呼んであちらこちらから声がかかり、自慢話を付けて進呈した。気がついたら家に残す作品はひとつも無い状態であった。材料が材料であるので、もう後継ぎを作ることも出来ない。

 新しい材料で作ることにしたが、大変な労カである。

 特に色紙の入る溝の切削には苦労した。まず面相ノコギリで案内溝を、次に普通のノコギリの横引きで巾を広げ、最後は幅3ミリになる特殊ノコギリで仕上げる。3種類をうまく使い分けて色紙の入る溝を完成するわけである。

 7〜8ミリ幅の材料に3ミリ幅の溝を刻む作業を行うわけであるから、需要が増えても片手間ではおっつかなくなった。

 大枚はたいてルーター(みぞほり機械)に投資し、一方材料を保持する治具を工夫し能率を上げることにした。
 しかし解決出来ない問題がある。最初に作った、あのしっとりした高級感のある作品には到底及びもつかない。

 いろいろ塗装を試みた結果、「古代色塗装(千年以上土の中に埋まっていた木材を磨きあげた高級材に似せた塗装法)──私の考案──」を試みた。現在各方面に進呈している作品はこの方法で作ったものである。 一方庭木の剪定のとき出る小枝で出来ないかと、発想を広げていった。桜・楠・南天・楓等材料に事欠かない。

 素直な枝は少なく、みぞ作りには相変わらず苦労した。しかし逆に曲がりくねったところをうまく使えば思いがけない作品になり、作る楽しみが増えてきた。

 一年以上乾燥させた材料を扱うために、あちらに一山こちらに一抱え木切れや小枝の山に埋まっての今日この項である。

 松波式古代色塗装

 基本的には焼き杉の応用で、材料としては木目のはっきりした木材を使う。

 まずバーナーで材料を一様に焦がし、水中でワイヤブラシを使って炭化したところをこすり落とす。これで木目が浮きでて、やわらかい部分が腐食した感じになる。

 この材料に水

8、ボンド2の割に混ぜた溶液で「とのこ」を練り、ぼろきれで擦りこむ。半乾きになったところで適当にふきあげると、千年以上土の中に埋もり木目の固い部分のみ残ったしぶい「埋木」の感じが出る。

 とのこに青色の絵の具を少し加え、部分的に使えば青銅具があった跡に、べんがらを少し加えれば鉄器とともに埋もれていたと思わせる「埋木」に変身する。

 あとは使う目的によりワックス等で仕上げる。     (平成14年12月11日)

                                           一宮自分史友の会ふくら第4号より

 



作品−64

本の注射                           △作品 バック総目次へ
                              
西田 美恵子

 平成15年もあと数日を残すのみとなりました。 私にとっては8月の中旬を境に前半が優ならば、後半は最悪の事態となった年でした。

 社会は米英によるイラク攻撃、新型肺炎SARSなど、世界を巻き込んだ争乱と混乱が後を絶たず、私たちの生活にも少なからず影響がありました。

 国内においても長引くデフレ、過当競争にもてあそばれた中小・零細企業の景気回復の遅れを、日夜新聞をにぎわしています。明るい話題の少ない年で、政治、経済、教育、医療、福祉など、私たちを取り巻く環境も不安のみを感じさせました。
 何の抵抗力を持たない幼児が命を落とす。それも守らなければならない親によって……。何とも気の重い年でした。

 あれは、息子、娘一家と盆の夕食会を笑顔一杯で過ごし、各々元気に戻り、何かしらうれしさを心に、すごしているときでした。

 まさかの追突事故。そしてこんなにも痛みに泣くことになるとは、露ほどもおもっていませんでした。頭の重さとしびれにより、何度となく夜中に目覚め、体位を変えたり、枕を変えたり熟睡の出来た夜を思い出せません。浅い眠りの中、考えることは重苦しいことばかりです。

 追突された時、相手のボーイフレンドが近づいて来たタイミング、道路状況、そして私が「メールやっていたんじゃない」と、問うたときの彼女の態度、どう考えても携帯電話と思われて仕方がない。

 11月の末、2度目のMRI検査の結果では、まだ1ヵ所完治していませんでした。それが原因で、しびれと首の痛みが取れないのでしょうと、医者から説明されました。

 しかし、リハビリ後には少し楽になるし、自分で痛くなるところが予測できるようになりました。湿布薬を貼っておけば何とか事なきを得るようになってきたので、これが少しずつ快方へ向かっていると自分に言い聞かせる。もう少し、もう少しと……。

 年の瀬も押し迫り、掃除をと思うものの、首筋から右手にかけての痛み、後のことを考えると、とてもやる気になりません。
 主人の「掃除はするから」の言葉にお任せしました。

 いつの間にか今年の最終診療日。

 年末年始、10日余りの休診中のことが心配でなりません。最初から私の状態をよく知っていてくれる看護師さんに話しました。

「急ぐ?」
「特別、急いではいないけれど……」
「ちょっと、待ってて」と下の診察室へ

「この後、治療室へ行って。連絡しておいたから」
「ありがとう」と治療室へ直行。

「先生すぐ来ますから、先に血圧を測らせてください」
「血圧はだいじょうぶ」

 この注射をしましょうと言って、効用書きの説明書が手渡されました。

 星状神経節ブロック(SGB)。星状神経節は首の左右にある星形をした神経で、顔や上肢をつかさどる自律神経が集まっているところ。歯医者さんで打たれるのと同じ麻酔注射で、一時的に自立神経をしびれさせ、顔や上肢の血のめぐりをよくし痛みも強く感じなくなり、首、肩、腕の痛みやこりによく効き、全身の治癒力を高める効果があると説明されています。

 一抹の不安を残しながら、首に注射ということも心配でしたが、打ってもらうことにしました。

「ゆったりと力を抜いて!」
「甲状腺腫があります」
「細いから大丈夫」

 上向きで首の中心に針先が入り、深いところまでいくようです。

「このまま、十五分ほどベッドで静かにしていてください」
「時間になりましたらお知らせします」
「わかりました」

 看護師さん達のあわただしさの中、身体のだるさのみを感じていました。

「起きてみてください。どうですか?」
「瞼が重いし、声も出しづらく、鼻もつまっているような感じです」
「一時的なものですから心配はありません。そのほかには何もないですか?」

「感覚がぼやけているみたい」
「すぐ元に戻ります」

「少し休んで気をつけて帰ってください」
「ありがとうございました」

 新年の予約を取り、「よいお年を! 来年もよろしくお願いします」

 その夜の眠りはしばらく忘れていたものでした。そして、何ヵ月ぶりかのことです。
途中、一度も目覚めることなしに朝を迎えました。感激でした。しばらく忘れていた快感でもありました。

 痛みのない、心配しなくてよい日が一刻も早く来るように、努めたいと思います。
                                 
                                             (『わだち』第23号より)


作品−63
特別寄稿〈掌編小説〉                   △作品 バック総目次へ

    風 光 る
                                   

 横山さんは国内線のジェット旅客機の機長であるが、たいへん熱心な渓流釣り師でもある。

 3月に入って、飛騨の渓流釣りが解禁されると、待ちかねたように横浜の自宅から高級車を飛ばして、なじみの民宿へやってくる。
 それも、たいていの場合は、クルーと一緒。副操縦士、機関士、パーサー、時には女性の客室乗務員が2人か3人、加わることもある。「家族主義がモットー」だと、横山さんは折にふれて言う。

 四十代半ばの横山さんは、誰にでも気さくに話をし、聞く人の気を逸らさない。

「大阪〜新潟航路ですとね、ちょうど飛騨の真上を通るように飛ぶんですよ。そんな時には自動操縦をしていますから、目の下の渓流ばかり眺めています。
 2万5千分の1の地図なんかよりうんと鮮明に、それこそパノラマのように谷の様子が見えましてねえ。そりゃあ、いいもんですよ。そして、『今度はあの谷に入ってみようか』とわくわくして、非番の日が待ち遠しいんです」

 同宿の釣り人たちは、横山さんの話に目を輝かせ、うらやましそうな顔をする。
 横山さんはまた、こんな話をする時もある。

「冬の間は、犬の散歩を兼ねて雑木山を歩きます。横浜といっても、うちは郊外に近いですから。そして、ブドウムシを採るんです。趣味と実益……いや、趣味一筋の散歩ですか。ハ、ハ、ハ」

 ブドウムシは、ノブドウの蔓に蜂の一種が産卵し、蔓の中で成長する幼虫のこと。カブトムシの幼虫を細身にしたような白い虫で、アマゴやイワナ釣りの恰好の餌となる。慣れた人はノブドウの蔓の膨れ具合で虫の有無を判断し、蔓ごと折って冷蔵庫に保管する。そうすれば春には釣りの生き餌として使える。

 趣味一筋の散歩と横山さんが自称するそんな話は、優雅な生活を連想させる。高給取りのパイロット。横浜の山の手の瀟洒なたたずまいの家。経済的な面でも、家族の人間関係でも、何の心配もない安定した暮らし。

 民宿の朝。早くから起き出た横山さんは、厨房の片隅を借りて、納豆料理を始める。
「納豆はねえ、何といっても、豆を細かく刻んでねえ、よくよくかき混ぜるのがコツ。それに、味噌と刻み葱。卵など入れるのは邪道だよ、うん」

 トントントントン、納豆を刻む音。葱を切る音。大きなボール一杯にそれらの材料を入れて、横山さんは力を込めてかきまぜる。そうして、クルーが囲む朝食のテーブルに運び、さかんに勧める。ほかのテーブルの釣り客たちにも勧める。全身全霊で納豆に打ち込んだ横山さんは、鼻の頭にうっすらと汗をかき、嬉しそうにどっかりと腰を据えて、納豆をたっぷりかけた飯をかき込む。幸せそのものの表情。

 朝食が済んで、それぞれに釣りの支度のため個室に引き取った後の食堂。居残った機関士が副操縦士に言う。
「でも、何だなあ。家族主義といっても、フライトも一緒、スナックやクラブでも一緒、釣りまで一緒じゃあ、かなわねえな」

「そう言うなって。機長の家、子どもがついに出来なかったろ。それに奥さん、この頃じゃギャンブルに凝って大変だっていうことだぞ」
「へえ、ギャンブル?」

「聞いた話だけどな。高級ホテルのスイートを取って、男はタキシード、女はイブニングドレスでポーカー博打なんだってよ。一晩に2、3百万は軽く動くらしい」
「それで、機長の奥さん……」
「鴨にされて、借金だらけ。夫婦の間も、文字通りの家庭内離婚だって、ついこの間、ぽろりと漏らした」「ふうん、そんなにひどいの?」

 食後に仲間たちと連れ立って入った小さな谷。横山さんは、流れの脇に少し開けた砂地を見つけ、持参のザックから様々な物を取り出す。登山用のストーブ、コッフェル、カップ、これも自慢の自ら豆を煎り荒挽きにしてきたコーヒー。そして、香り高いコーヒーを淹れ、「これを飲んでから釣りに行けよ」と、しきりにクルーに勧める。釣りに入った谷では必ずやる一種の儀式。自ら名づけて“カフェ横山”。
 横山さんの笑顔は崩れっぱなし。

 3月の飛騨の谷は、所々に厚い雪の層が残ってはいるものの、まぶしいほどに明るい。秋にすっかり葉を落としたまま、枝先にピンク色の鋭く細い蕾をつけただけの広葉樹林は、はるか向こうまで見通せる。雪の上に残る小動物の足跡は、兎だろうか、狐だろうか。

 快い微風が頬をなでる。少し離れた山かげの針葉樹の枝に乗っていた雪が、風に揺さぶられてバサッと落ちてくる。そんな背景の中、渓流が陽光にきらめきながら走り下っている。

 横山さんは、心ゆくまで風景を堪能し、ゆっくりと片付けにかかる。それから、やおらザックから取り出すのは釣竿ではなく、ウイスキーボトル。
 グビリ……。

 熱く快い刺激が横山さんの喉を通りすぎていく。フライトの前の晩には、クルーにも自身にも厳しく禁酒を課している横山さん。しかし、今は何の制約もない自由な時間。横山さんのピッチは上がる。谷の水はそのまま飲めるほどきれいだが、横山さんの喉は水すらも必要としない。ひたすらにウイスキーをあおる。
 グビリ……。

 鋭く細い鳥の声が谷の空気を震わせる。それも一瞬。空気はあくまで澄み、太陽は梢越しに明るく笑いかけてくる。
 10分。20分。

 横山さんの頬にはまだ笑顔が漂っているが、眼のほうは少しずつ引きつってくる。上体がふらりと揺れる。
 そしてまた、グビリ……。

 横山さんはボトルの首を右手の親指と人指し指で器用につまみ持って、谷筋を歩きはじめる。釣道具も、自慢のブドウムシもザックに入ったまま。
 たまたま谷に入ってきて横山さんに出会った釣り人は一瞬、ギョッとして足を止める。だが、人のよい横山さんは、相手の表情にはお構いなし。

「やあ、釣れましたか。どうです、一杯やりませんか」
 明るく呼びかける横山さん。言葉を濁して早々に谷の奥へ入っていく釣り人。

 逃げられた横山さんは、笑顔を頬に張りつけたまま、ふらりふらりと歩いていく。
 風光る、飛騨の三月。横山さんの至福のひとときはつづく。
                                      『わだち』第22号より

      


作品−62

戯 言 ── P C ──           △作品 バック総目次へ

                                    

北野 政治

 煌びやかに輝く家電量販店のテレビやパソコン売場は、各社製品が競って顧客の気を引こうとアピールしている。

 わたしは思いを秘め商品を眺めていた。店員は「買う気だな」と見て取ったか近寄ってパソコンの説明をはじめた。
 「うん、うん」と相槌を打ち、「あれやこれや……」と質問した。店員は買う気を煽るから摩訶不思議な存在である。

 衝動的に購入し、ともかく恐る恐るパソコンに触る。(操作するなどと格好のよいものではない)

 突然、作成中の文章が中途半端に改行して飛んだ(Entetrキーを押した感覚はない〉。間違えてどこかに触れたのであろう。
 元に戻そうと焦ったが、元に戻す操作が分からず、二進も三進もならず、しばしの立往生である。

 僅かな知識でパソコンを購った行為は無謀の謗りは免れない。 天罰か。困った挙句、むかし馴染みのワープロに舞い戻った。

 高蔵寺ニユータウンのサンマルシェの隣接地に丸善系列のI書店が開店している。そこのパソコン・コーナーでパソコン入門書やパソコン用語事典を見つけて、早速く購入した。

 用語辞典の〈あ〜お〉の部には〈アーカイブ・アイコン・アウトプット・アクティブ・圧縮・インプット・インデント・エデュテイメント・エクステンション……〉また、パーソナル・コンピュータ(

Personal Computer)は〈パソコンと略称〉など解説や用語・単語が載っていた。

 わたしはパソコンと対決・格闘した。挙句の果て“何てこった”カーソルの矢印が動かない。 パソコンの使用中、何かのエラーが発生したのかキーボードやマウスから、一切の入力を受け付けない。事典ではこの状態を〈フリーズ〉として解説している。

〈フリーズの場合は『

Ctrl』、『Alt』、『Delete』のキーを同時に押しながら操作すると起動する〉と解説してあったが、動かない。慌てて再度事典を見る。
〈アプリケーションを終了してもOS自体が動かない場合は強制再起動させるか、電源を切るしか方法はない〉とある。

 平成15年(2003年)8月15日付け中日新聞一面に、「ウィンドウズ被害最悪、国レベルでウイルス対策、徹底防御を求める。OS・ウィンドウズXPなどの欠陥を狙うコンピュータウィルス〈ブラスター〉の被害発生」などの報道に「マイ・パソコンは大丈夫か」と不安がよぎる。

 経済産業省は、緊急連絡窓口を開設し同月16日から、「ウイルス関連の緊急情報を同省ホームページで公開する」と発表した。よそごとのように思え直接関係はないと、そのときは気にも留めなかった。

“どうしたことか”ともかくパソコンの立ち上がりが鈍い。

 近くのパソコンショップE店にマウスを持ち込み診断してもらうと「綿埃が張り付いている」とのことで、千枚通しのような道具でつつき出す。「はい、分解掃除終わり」とあっけない。

「立ち上がりが遅いのですが」
「ウイルスの感染かもしれませんね。MSブラストウイルス対策をやりましたか」
「ウイルスに感染の有無も分からないのです」

と恥を忍んで質問した。

「それではシステムを調べて下さい。『スタート』から『すべてのプログラム』を選択し『アップデート』をクリックし、駆除ツールの『FIX・BLASTファイルをダブルクリック』して『W32BLASTER』のメッセージが表示されるまで操作を続けて下さい」

といわれ帰宅した。

 半信半疑で操作を行う。脳みそが(カラカラ)音を立てた気がし「助けて」と絶叫したい。ともかく、「やるしかない」と〈すべてのシステムの更新〉を続けた。

 W32BLASTERのメッセージが画面に現れたのは夜中の零時を過ぎてからであった。

 8月29日付け、中日新聞を見てまたも驚いた。

〈マイクロソフト社のコンピュータ基本ソフト《OS》を攻撃するプラスターの感染が次々に発生している。ウイルス対策は、ウィンドウズの修正とウイルス対策ソフトの対応が必須である。ウイルス対策ソフトも最新のものに更新して使うことが肝要である〉などと報道しているではないか。

 ウイルス攻撃に恐怖と疑心暗鬼でパソコンに触る。

「ウイルスバスターウイルス対策ソフト」を、E店に問う。

「現在品切れ、入荷は一週間後くらい」
「予約できますか」
「できません。そのころ来てみて下さい」

と店員は全く事務的である。問い合わせが殺到したのであろう。

 9月6日、同ショップに行きウイルス対策ソフトの入荷の有無を質す。
「これが2003ウイルスバスターです。」

といわれ〈ウイルス対策ソフト〉を購入した。

 しかし、またもやトラブルが発生した。 マイ・パソコンには元々(MCAFEEウイルス対策ソフト)が入っていたがアンインストールしなかった。これが原因と判明した。

 戦略なきパソコンとの苦闘は続く。 
                                    『わだち』第22号より


 

 


作品−61

ヤギこうちゃん           △作品 バック総目次へ

                                         

草尾 知子

 ヤギはこうちゃんが連れてきたものらしかった。

 こうちゃん、といっても小学校の低学年のわたしたちと違って、人手の足りない農家に住み込みで働きにきている青年だった。やせていて背も高く大人びて見えたが、しゃべりかたや動作は、要領を得ず、的外れに思えることがあった。

 夕暮れにはまだ間があったが、日差しにはもう真夏の強さは感じられない。
 道端には男の子が数人、こうちゃんを取り囲んでいる。同級生の達夫、みのる、誠治もいた。

 みんなのうしろには、堤がせまっていて、水面はかすかな風をうけて、白い無数のきらめきを反射している。
 堤は、田に水を引き入れるためにつくられたもので、村のなかほどにあった。
 子供たちにとっては、大事な遊び場になっていた。

 春と秋には堰が落とされて、池はどろの海になる。そのなかを網や竹のざるをゆすって川魚をすくいとるのは大人だけではなかった。
 さらえた池にふたたび水が満ちると、周囲の古木の枝先や笹やぶの間から釣り糸が投げられて、鶏のえさにでもなりそうな小魚がたわいなく引っかかった。

 真夏の楽しみは水遊びにつきた。

 つれだって池に入ろうとしていると、先に来て遊んでいた男の子たちの1人が足の裏をけがしたといって、ぞろぞろと上がっていった。たいした傷でもなかったようで、ほどなくしてアイスキャンデー売りの鐘がなると、道路に姿をあらわして氷の入った木箱のまわりをとりかこんだ。

 涼をもとめて堤に来るのは子供だけに限らなかった。
 夕暮れがせまったころ、父は、夕闇にまぎれるようにしてひと泳ぎして汗を流した。

 水位が半分くらいに下がると、馬にまたがった青年が浅瀬のところから、ゆっくりと馬を水のなかに引き入れていった。こげ茶色の馬は、興奮していななきながら、荒々しい動作で水の中に半身を沈めていく。

 ひとしきり、青年と馬は堤のなかを歩きまわると道路にあがってくる。ぬれた馬の背は黒々とひかり、青年はひきしめていた手綱をゆるめて馬から降りた。乾いた路面に水滴をふり落とすように、たてがみをふったり、小刻みにひずめをうごかしたりしていた馬は、やがて青年に引かれて帰っていった。

 同級生のユリ子の家は、道路を挟んで堤の反対側にあり、しかも一段低い位置にあった。そのために台風がきて思いがけず堤が増水すると、水はユリ子の家に流れこんだ。村の人たちは総出で、道端に土嚢を積み上げてユリ子の家を水から守った。

 わたしとユリ子は一緒に遊んでいて、男の子たちがさわいでいるのに気づいたのだった。
 こうちゃんは、こまったような怒ったような表情で、色白の顔をあからめて言った。
「おれがわるいんじゃないぞ。おやじさんが捨ててこいといったんだぞ」
 こうちゃんは、とりかこんだ子供たちに向かって、そうくりかえした。

「あ、流される」

 みのるが指さしたさきには、白い子ヤギの頭があった。堰の近くの深くて流れの速いところで、村の子供たちから危ないと恐れられている場所だった。子ヤギの頭が、水草や流れてきた木の枝やあくたと一緒になって今にも沈みそうにみえていた。

「こうちゃん、早くひきあげろ」
 達夫が飛び上がってどなった。

 

 四十年近くまえのできごとである。
 昨日やおとといのことすら覚えていないことがあることを思うと不思議なほどに、子供のころに見た光景は、脳裏にくっきりと刻みこまれていて、ふとしたきっかけでまるで白昼夢のようによみがえってくる。そして、現実の生活をこなさせながら、わたしのたましいの一部を遠いかなたへさまよいださせる。

 あのあと、こうちゃんがどんな行動をとったのかはどうしても思いだせない。無意識にいやな記憶は消されたのだろうか。
 ただ、こうちゃんはあれから間もなくひまをだされて自分の村へ戻っていったように記憶している。

 空のいろや、まわりの木々をうつしてたゆたっていた堤の水は、いまでは干されてしまって埋め立てられ、そのあと地はゲートボール場になっているらしい。
                                                 『わだち』第21号より

 
 

 

 

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