作品集(バックナンバー 03)──< 作品- 61 〜 作品-69 >── |
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作品−80 竹の秋 伊藤 美智子
知多半島のお寺参りで出合った若竹の美しさに感動して描いた竹は、一生懸命に描いたが満足できる絵にはならなかった。 |
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最後の海軍大将井上成美氏が「大将の中に一等大将もいれば三等大将もいる。 これを陸軍にあてはめたらどうなるだろうと、私は前々から考えていた。 宇垣は全陸軍の反対を押し切って軍縮を実行した。これが後の宇垣内閣流産の因になってしまった。 昭和はあまりにも戦争が長引き、多くの大将が生まれた。戦争末期に入りかけたころ、元帥の称号を受けた大将が2人いるが、この2人とも戦後の真相誌やバクロ誌等によって、元帥どころか、三等大将以下の存在だったと知った。
2人の元帥(SとH)の中、Sは日米開戦不可避を上奏したところ、天皇が「もし、開戦ということになれば、どれぐらいの期間か」と問われたところSは「半年か1年もあれば十分でございます」と答えたそうだ。
その時、天皇が「支那事変の時、確かにそちが陸相だったと記憶する。その時、3ヵ月か半年もあれば十分と思います。と申したはずだ。それがもう4年もたっているのに、いまだに収拾もつかぬ状態ではないか。これは如何なる理由に基づくものか」と言われたところ、Sは「なんとしましても支那は奥地が広うございまして」と答えたそうだ。 もう1人の元帥Hは、米内内閣の陸相だったが「米内は親米派だ。そんな内閣は打閣だ」という陸軍の意によって、陸相を単独辞任という行動に出た。その時、米内首相は「単独辞任も結構。後任を」と言ったところHは「単独辞任という形をとりましたが、私の辞任は全陸軍の総意ですので、後任の推薦はできません」と言ったそうだ。
それに対して米内首相は「俺も軍人、貴君も軍人だ。軍人は潔くあらねばならぬと俺は常に部下に言ってきている。貴君も同じだと思う。 米内内閣は総辞職したが、陸軍に反省の色なく、とうとう東条内閣の出現というところまで行ってしまった。 Hもまた、三等大将以下の存在だ。こんなことを読んだり知ったりした結果、私は山下奉文にたどりついた。 そして終戦。山下大将は比島戦線における全日本軍すべての行為の責任者とされ、戦犯として刑場の露となられた。(昭和21年3月23日フィリピンで絞首刑)
『わだち』第27号より |
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作品−78 万博日記 △作品
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3月25日に開幕した「愛・地球博」もいよいよ終盤です。 前売り入場券を購入して、まだお出かけでない方もいらっしゃるのではないでしょうか。
「前売り入場券1枚」を「夜間割引入場券2枚」に交換できるのをご存知でしょうか? 私はこのような裏ワザがあるとは知らず、日に日にうなぎ上りに増えて行く入場者数が気になって「とにかく前売り券を使わなければ」と、梅雨明け早々の6月12日、真夏日の炎天下、思い切って出かけました。 後日、万博に行った話を知人にしたところ「前売り入場券」を「夜間割引入場券2枚」に交換してもらえる街の金券ショップを教えてもらいました。前売り入場券との差額分も手数料もいらないとのこと。しかし、実際に私が交換したわけではないので、本当かどうか断言できなかったのですが・・・ でも、でも、確かな情報をキャッチ!! 7月24日、夜間割引で入場しました。当日、会場の入場券販売所で入場券を買うために並んでいたところ、後にいた人が「前売り券を夜間割引券2枚に変えていただけるって聞いたんですけど、いいですか?」と、前売り券を見せながら案内係りの人に尋ねていました。「ハイ!大丈夫ですよ」との返事。差額の料金も手数料も要らないそうです。そんな制度を知っていれば、私も初めからそうしたかったです。 まだ前売り入場券をお持ちの方、よろしければこの交換制度を是非利用してみて下さい。 人気パビリオンのハシゴは難しいかもしれませんが、まずは、お目当てのパビリオンを何か1つだけ決めてお出かけすることをお勧めします。 遊びと参加ゾーンのイルミネーションによる演出「光のプロムナ−ド」や、大石さんの『わたしの万博徘徊録』の「こいの池のナイトショー」など、夜間しか味わえない楽しみもあります。一時中止となったパレードやショーも再開されるようです。 炎天下を避け、涼しくなった夜に出かけてみるのもいかがでしょうか。 以下、私の万博日記です。何かお役に立てることがあれば嬉しいです。 6月12日(日)晴れ。 愛・地球博へ行った。 今日、一番のお目当てはマンモス。 朝の開場時の混雑を避けるため、少し遅らせて出かけることにした。
テレビで宣伝していた外国館での食事に魅力があったが、会場の様子がわからないので、今日のところは、おにぎりと水筒を持って出発(結果的には正解だった)。
人気パビリオンの待ち時間は120分、180分の長蛇の列。げんなり。 11時25分にマンモスの整理券をゲットしたら、16時40分のブルーホール。
マンモスを見るのは5時間先!!これから、どう過ごそうか? 16時、喧噪の世界へと再び吸い込まれていった。 マンモスラボのブルーホールで地球と人類をテーマとした迫力ある映像を楽しんだあと、ホールを出て待望のユカギルマンモスと対面した。 その後、テレビで宣伝していた「国際赤十字館・赤新月館」(グローバル・コモン2)を見てみようと列に並んだ。最後尾は70分〜80分待ち!! 「夕方6時になると人がガタッと減るからねらい目だ」と知人から聞いていたが、この日は全く違っていた。 赤十字館を出ると20時近くになっていた。もうこれ以上、足が前に進みそうにないので、家路に着いた。 万博だというのに、5時間ものんびりくつろいで、最先端の技術や各国の文化・芸術に触れることなく帰ってきてしまった。
決して有意義な過ごし方をしてきたと思ってもらえないかもしれない。でも、こんな楽しみ方もあってイイと思う一日だった。 (最高気温 31.5℃ 入場者数
147,967人) 7月24日(日)くもり。 夜間割引で万博に行った。 今日のお目当ては長久手日本館。 今日は特に予定もなく朝から家にいた。 一日中くもりの予報。風があって凌ぎやすい。 お昼のニュースでは万博の入場者数が5万人ちょっと。 先週の日曜日、215,976人に躊躇しているのだろうか。 日曜日の割には空いている。今日は涼しい。夜間割引を狙って急きょ出かけた。 夕方4時半ごろ会場に到着。入場券販売所へ向う。 販売所に並んでいる間、後から来た人がドンドン北ゲートに並ぶ。先を越されてしまった。 やっぱり事前に入場券を購入しとけばよかったなっ。 5時20分、手荷物検査を終え、お目当ての「長久手日本館」へ直行。 「100分待ち」に断念!!
グローバル・コモン3(ヨーロッパ)に向い、今日は外国館を楽しむことにした。 …といっても、人気の外国館は長蛇の列。
フランス館20分、ドイツ館100分、イタリア館20分待ちを横目で見ながら、「10分待ち」を見つけて入った。スペイン館。
スペイン館を出て、さらに奥に進み、結局30分待ちのクロアチア館に並んだ。クロアチア館を出ると薄暗くなっていた。 イギリス館を出ると、待ち時間なしのポーランド館が目に止まったので入った。岩塩坑ツアーを楽しんだ。 ポーランド館を出たら人気(ひとけ)がない。気味が悪いほど人がいない。 9時までにまだまだ時間があったが、あまりの静けさに落ち着かず、目の前のキッコロ・ゴンドラに飛び乗り、慌てて北ゲートに戻ってきた。ごった返していた。 今日はお土産を買っていこうと「公式記念品ショップ」に入ったら、身動きが取れない。それほど、まだまだ、たくさん人がいた。
日曜日の夜は、外国館は比較的空くが、企業パビリオンは人が引かないのがわかった。
「グローバル・コモン4」では、勇気を出して、もう少しゆっくりしても良かったかなっ。 (最高気温 30.5℃ 入場者数 108,132人) 8月2日(火)晴れ。 会場には6時半頃到着。 最初に40分待ちで「ワンダーサーカス電力館」に入った。 その後・・・「展覧車」は60分待ちだったので後回しにして、先に30分待ちの「もしも月がなかったら」を見ることにした。 ここでは待ち時間のあいだ、周りの人がお弁当を食べたり、お菓子を食べてくつろいでいる。私もパンを食べて腹ごしらえをした。 このパビリオンでは、中に入ってから出てくるまでに40分かかるとは想定外だった。 最後は一番楽しみにしていた「展覧車」。 60分待ちが短くなっていることを願って向ったけど・・・ 「8時7分を持ちまして本日は締め切らせていただきました」と断られてしまった。 時計を見たら8時10分!!うぅぅぅ、、、残念!! パビリオンは9時までと思っていたが、これは外に並ぶ時間ではなく、パビリオンを閉める時間なのだと気づいた。 9時に閉められるように、受付時間は調節されるのだった。 先に「展覧車」に乗っておけばよかったなっ。 失敗!失敗!大失敗!!それにしても悔しすぎる。 一番のお目当てには、一番に並ぶべきだった。 まだ8時10分。一瞬、「光のプロムナ−ド」に足が向いたが、グローバル・コモン1(アジア)へ行ってみた。 韓国館の待ち時間が「10分」と入口の表示板に出ていたので、一目散に目指した。 待ち時間なしで入れた。オマケに運よく3Dシアターが始まるところだった。8時30分から13分間、メガネをかけて映像を楽しんだ。 韓国館を出て、お隣の中国館に入った。中に誰もいないようだったが思い切って入った。 5分もしたら容赦なくパチパチと電気を切られ、追い出されるように出てきた。なのに、出口のお土産コーナーでは、しっかり捉まえられ、あれこれ勧められる。9時までといっても、お土産コーナーは別。手厚い待遇が待っていた。ゆっくり見たかったけど、見るだけ見て何も買わないのも申し訳ないので早々に出てきた。 今日はここでタイムリミット!! 仕事帰りでは会場に6時半の到着。 9時にはパビリオンが閉まるので、考えてみたら2時間半しかなかった。 でも、これだけ楽しめたんだから良かったことにしておこう。 (最高気温 35.7℃ 入場者数 90,997人) ※風の広場、水の広場、グローイング・ヴィレッジは夕方6時に閉鎖されます。 |
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作品−77 愛・地球博と新しい友人たち △作品 バック総目次へ 遠藤 毅 どういうわけか、若く美しい女性と並んで歩いている。遠い青春時代に誰かと……、その後20年近く経って、大学生の娘と……、歩いた記憶があるが、更に20年余り経過している。 白い鍔広のカウボーイハットに、黄色いベストと名札を着け、白いポーチを下げたお揃いの姿である。背と腰をのばし、帽子を目深にかぶり、すたすたと歩いていれば、遠目には若い2人に見えるに違いない。 平成17年3月下旬「愛・地球博」開幕5日目。私のボランティア初日で夕方から夜にかけての「長久手会場、北エリア巡回」。困っている方たちへのサービスや、不審物が無いかなど点検する。 2回の研修で習ったボランティアの心得「おもてなしの心」を思い出す。エレベータ、エスカレータなど乗り物は使わない。自販機で物を買わない。お客用のトイレは使わない。パビリオンや食堂に入らない。客が依頼する写真撮影は進んで受けるが、ボランテイア相互や、自身のための撮影は駄目。2人を越えて横並びでは歩かない等、きびしいが当然かとつぶやきながら、アップダウンの多い会場を歩いている。 グループ毎に、3枚のコース地図を渡された。各コース約60分。初めはAコース、少時休憩後Bを、次いでCをと回る。合計3時間歩くことになる。 『話を聞かない男、地図が読めない女』の書名を思い出し、男の私が地図を持ったが、薄暗くて良く見えない。親切にすがって、同僚のNさんにお任せした。彼女はすばらしい。判断も的確だ。聞くと、N大経済学部3回生だそうだ。嬉しくなった。 3月の夜は寒い。強風で「瀬戸会場へのゴンドラ」運行が中止。「鯉の池」水中から巨大な猿が出現する夜のイベントも中止になった。すれ違う客も減ってきた。不思議なことに質問は、笑顔を作って無視されない努力をしている私でなく、必ずNさんに向けられる。 「中国では『道は年寄りに聞け』と言うのですがね」とぼやくが、「日本は違うのでしょう」と慰められる。この日、万歩計は2万6千歩だった。 Nさんにボランティア姿の写真を送った。メールの返事が来て『春日井市自分史友の会』のホームページの作品を見ましたよ、面白かったという。可愛いメル友が出来た。 万博ボランティアは、毎回、新しい友人との出会いが新鮮で、その度に元気を貰う。東口の「べビーカー担当」の時は、退場時刻に3百台も集中する返却カーの清掃、格納作業に汗を流したフランス人男性語学講師のBさん、韓国籍自営業のSさん、看護婦のKさん達は、自分の仕事が休みの日にボランティアに出ている。遅番は、深夜の帰宅になるが「明日は仕事です」と言いながらも手は休まない。 「案内所担当」の、徳川美術館勤務の熟年女性Yさん。「絵巻や新装の庭園がすばらしいからぜひ見にいらっしゃい」と誘ってくださる。中国長春からの留学生Lさんとは、夜食休憩時だけの出会いだったが、私にとって第2の故郷である長春の現在をもっと聞きたかった。
一日、ボランティアを離れて、万博観覧に出かけた。10万余の人出で人気パビリオンは人の列である。空いている所を探しては、観覧する。 午後になって、日立館は90分待ちとあった。朝は200分待ちだったから、半減している。「ようし」と、ジグザグ並びの後尾についた。 熟年のアジア系男性がいた。「どこからお見えになりましたか」と聞くと「台湾・高雄市」と流暢な日本語である。「日本はどこへ行かれましたか」「仙台で林子平の墓に参りました。あそこは宮城県ですね……」と詳しい。81歳。台湾で戦前に、日本の小中学校教育を受け、日本にも友人が多いと言う。「私たちは同世代だね」と話が弾んだ。 名刺を拝見すると、社長業の他に、世界林氏宗親会常務理事とある。中華民国林氏宗親会常務理事ともある。「へーえ、世界の林さんの会とはすごいですね。中国人ばかりか、韓国にも、日本にも林さんはいますね」「林子平や、アヘンを焼いた林則徐は、同姓の先輩です。 日立館を出た所で、同行のお孫さん共々写真を撮って、台湾へ送った。数日後、台湾から電話があり「写真着いたよ。時差一時間を忘れていて遅く電話してごめん。万博では、あの日に、合計65のパビリオンを見学したよ」という。丁重な日本語の書簡も受け取り、熟年の新しい友人の元気に脱帽した。 |
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作品−76 光雄さんの告知 △作品 バック総目次へ 中村 陽子 英会話同好会に出かけて行き、私が前の年にモロッコ旅行して撮った写真が、春日井市民美術展覧会で奨励賞に入賞したことを下手な英語で報告した。報告することも勇気のいることだったが、皆さんが祝福してくださったので、嬉しかった。 午後から永野さん、満島さん、菅さんらを誘って一緒に市役所へ見に行った。奨励賞に入っている作品ばかりでなく、いい写真がたくさんあって、私が入賞したことが信じられないほどありがたかった。英会話の川地先生も見に来ていただき嬉しかった。 娘の柳子たち家族は一泊で知多の海に出かけており、光雄さんに受賞の報告をしたが、反応もただ黙って聞いているだけで、「おめでとう」なんて言ってくれない。 十年も前に離婚した人に付き合っている私のほうが異常なのだから仕方がない。 本当に馬鹿な私。遠い山形に兄弟がいるだけの私と、奈良に弟さんがいるだけの光雄さん。 二人とも親戚もないこの地での生活、大切な娘は結婚して幸せに暮らしているものの、十年余りも別居してきた私のけじめとして「これまでどおり同じように交流は続けていきますから」といって籍を抜いてもらったのだった。 そんな私に光雄さんは電話をしてきた。 「健康診断でわかったんだが、肺がんだって」 「えっ?」 驚きですくんでしまった。 「今すぐ行くから待っててー」と言って車を走らせた。 私は震えているのに、光雄さんは冷静である。市民病院での精密検診では「転移しているので手術はできない」と言う。 千葉にある重粒子線治療をする放射線治療最先端の病院でも、検査の結果「副腎に転移しているため治療はできない」と、いわれたそうだ。 「抗がん剤治療はしない。ガンは4センチにもなって、あと1ヵ月持たない。骨董屋を呼んで売れるものは皆持っていってもらった。本も処分した」 えっ? そう聞いて本棚を見たらもう何もない空の棚になっていた。 光雄さんから打ち明けられたのが去年(2002年)の5月22日だった。 「抗がん剤治療はしない」「もうだめだ」 万策尽きて覚悟を決め、誰にも知らせることなく、たった一人で千葉県まで出かけて検査するなど、やれるだけのことをやって初めて私に伝えてくれたのだ。 その当時、私も2月から米沢(山形県)の兄が突然の事故で意識不明の重症の床にあって4月1日に亡くなったり、法事に行ったりと忙しい毎日で、光雄さんのところへ行くことも出来ずにいた。悪いことは重なるというが本当に実感した無念な知らせだった。 ひと通り聞いてから 「私も抗がん剤治療は賛成じゃないけど民間療法だってあるじゃない。アガリクスでも何でも試してみればいいじゃない?」 悔しさに真剣に話しかけていった。 「そんなもので治るならガンで死ぬ人はいないはずだ!」いかにも「つまらないことしか言わない」という言い方だった。 光雄さんが話を聞く気のないことを感じて家に帰った。涙があふれた。 誰よりも元気で、若々しく見え、長生きできる人だと思ってきたのに、どうして? 光雄さんのお母さんも、お兄さんも、弟の正雄さんも、みんなガンで亡くなっていた。 「体質遺伝があるかもしれないから、ガンにならないように〇〇の栄養補助食品を食べて欲しい」と3年前に話したことがある。 私の話に耳を貸すような人ではなかった。ガンを予防するビタミンエース(ACE)が、〇〇の4商品には含まれていて継続して食べることで、ガンにはなりにくいという。 また実際にガンになった人に、妻や娘がしっかり食べさせてあげたので、ガンから開放された事実を聞き知っていた。私は前向きに信じていた。「私を信じて取り組んでもらったらこんなことにはならなかっただろうに」と思うと、本当にたった一人の人にも分ってもらえない自分の無力さにも泣けた。 ガンにならなかったら、百歳までも元気で生きられる能力と体力を持った人だと思っていただけに、本当に情けなく、ただ悲しかった。 娘の柳子に電話をして家に来てもらう。 話をすると娘の目からも涙があふれた。まったく予期しないことに二人とも絶望的な現実に成すすべもなく悲しかった。 光雄さんの友人河村さんに電話してみた。彼も光雄さんがガンに侵されたことを知ってひどく驚いていたが「せめてアガリクスでも勧めて、試して欲しいと思っても、聞こうとしないの」といったら「僕もアガリクスを飲んでいるので勧めてあげる」といってくれた。 その翌日光雄さんから電話で「アガリクスを飲んでみるワ……」の言葉を聞いて一安心する。“ガンに効く”がうたい文句の民間療法である。 数日して河村さんから名古屋の営業所を紹介してもらい、飲み始めた。どうぞ少しでも寿命が延びますように。ガンには高価な原液でないと効かないという。 必死に5ヵ月飲んだが、がん細胞は小さくならず、少しずつ大きくなっていった。 そしてアガリクスの服用をやめてしまった。 そんな頃、NHKで放映した金沢医大病院の『ガンの休眠療法』を観て、軽い抗がん療法に賭けてみる気になり、金沢まで列車で通った。週1回1日がかりで行って治療をうけたが、がん細胞は小さくなることはなく、気分の悪さ、下痢、嘔吐、脱力感、脱毛などの、はげしい副作用に悩まされ、行けなくなってしまった。テレビに出てくる病院の映像を見ただけで苦しくなるほどになって、休眠療法も断念した。 肺がんの治療薬イレッサが、2割の患者を治癒させて保健薬として認められたので、名大病院に通って服用してみたが、3ヵ月後には副作用がでて、またしても断念してしまった。 現在の医学では、肺がんと診断された患者を救う道はないように思われた。 光雄さんも覚悟を決めたようで、最後に世話になる病院を探しはじめた。春日井市民病院では、抗がん剤治療を拒否した患者として冷たく扱われ、「行かない」と決めていた。病気を知らされてから毎日のように食事を作って様子を見に行った。 「まだ買い物にも行けるからそんなに持ってこなくていいよ」 痛みがないのが救いだった。 「夏服まで早いうちに処分してしまって、しまったことしたな」と苦笑していた。 後1ヵ月といっていたが、あれから1年、胸に圧迫感はあるものの、我慢強い人だったから、寝込まずにかな習字に行き、自分史の合評会にも出かけていた。 息苦しかったかもしれないのに弱音は吐かなかった。ある日、そっと入っていったら押入れの前で光雄さんは仰向けに倒れていた。 動きがあるので様子を見ていたら、ゆっくりと起き上がったのでほっとする。病院に入るよう勧めたが、「まだやりたいこともあるし、大丈夫だ」とがんばった。 とうとう8月15日に倒れた。 「もう何も出来なくなった。病院へ連れてってくれ!」と電話がきた。 光雄さんが最後に世話になろうと決めた病院は、名古屋市港区にある協立病院だった。早速娘の柳子に連絡して二人で光雄さんの家に行った。光雄さんはベッドに横になっていた。顔はむくんで紫がかっていた。息も苦しそうだった。 病院に連絡すると「15日は病院も休みですが、緊急医がおりますからどうぞいらしてください」と言われた。入院に必要なものを用意して娘の運転で病院まで急いだ。 病院には少しの職員しかいなかったが、すぐに医師に診てもらうことができてほっとする。そのまま入院して酸素吸入が行われた。緊急医は循環器(心臓)の先生だった。本人が選んだ病院は、再建されて1年くらいの明るくて通路が広く、ゆったりした空間が見られるいいところだった。光雄さんは少し前から通院していた。 私が以前勧めた栄養補助食品を万策尽きたときから飲みはじめていた。食べ物なので即効性はないものの、体が少しずつ楽になるようで、飲み続けてくれた。 がん細胞はすでに15センチにもなって、肺の中の大静脈を圧迫していて血流が悪く、危険なので、「検査してバイパス手術をしたい」と担当のドクターに言われた。 検査した結果、バイパス手術は不可能であることがわかり、はかない望みも断たれて諦める以外に道はなくなった。 入院して5日目から光雄さんの症状が落ち着き、『朝顔の音』の原稿書きが始まったのである。 作家がホテルに泊まりこんで原稿を書いているのと変わりない感じで、意欲的に書き出していた。私たちが病院へ行っても、ベッドの食事台を机にして健康な人と変わりないように原稿用紙の上でペンを走らせていた。 「飯は食べられるし、原稿書きもはかどっている」酸素を吸いながら嬉しそうである。 何よりも気がかりだったことができて本当に良かったと思う。「あの着物持ってきてくれ」など、私たちにして欲しいことを言うと、「もう帰ってもいいぞ」である。 付き添いのいない夕食後や朝など、寝たきりの同室の患者さんにコーヒーを入れて飲ませてあげたり、起こしてあげたり、病人らしからぬことができる人である。 気分のいい日は夜中も書き続けていたようで、同室の患者さんたち(皆さん光雄さんより先に亡くなられた)には、ご迷惑をおかけしたと思う。原稿は3度も校正をし、紙質は「これ」と指定されて春日井印刷社長は苦労された。「廃版になっていて、東京の問屋まで探しに行ってきました」と聞いて驚いてしまった。本のサイズから、字数、表紙などいろいろなことに独特のこだわりをみせ、春日井印刷社長(営業の方に任せては不安だから)は、車で片道1時間の病院まで7回も足を運び、光雄さんに納得してもらえる本ができるよう尽力された。入院以来、2ヵ月半で完成にこぎつけた。 娘の柳子も名古屋市港区の病院へ1日おきに通い、春日井の北島さん(かつての同人誌『睡花』の会長)に原稿を校正してもらうために、原稿を持っての往復を繰り返していた。私も娘と交代で病院に通った。病院でのもやもやを処理できずに帰り道鶴舞で、あわやの交通事故を起こしかけて、命の縮む思いをした。「もう年だから車で名古屋まで行くのはやめにしよう」と、心に決めた。 原稿を書き上げ、八階のホスピス病棟に移った。心安らかに最後を過ごしたかったのだろう。娘の付き添いで1日外出してデパートで大好きなケーキとうなぎを買ってきた。 家の前の3段の石段がなかなか登れなかった。見ていて胸が締め付けられ、思わず手助けしてしまった。 それでも休憩すると読みたい本や病室に置きたい『雨にもマケズ』の額や時計、絵など見て楽しみたいものを用意し、夕飯に美味しいうなぎを食べて病院へ戻っていった。 翌日は病室を好みの雰囲気に模様替えし、住み心地のいい部屋にしていた。 残された日々をゆっくりと読書しようと楽しみにしていたと思う。 『朝顔の音』は出版を待つばかりになった。私もこれまでゆっくり話をすることがなかったので、「優しい気持ちで、話を聞いてみよう」と、思っていた。 病院から「薬のことで話したい」と、電話があり、私は来客中だったので娘に行ってもらった。「モルヒネを服用させたい」とのことであった。昨夜は苦しんだようだった。モルヒネは光雄さんから苦しみをなくし、娘の柳子とゆったりした話をして「お父さんの優しさ」が判ってもらえたようだ。本当に良かったと思う。 「夕食は後で食べるから」といって眠り、柳子も八時過ぎに帰ってきた。 「明日、お母さんに写真を撮ってもらってくれ(模様替えした病室の)」と、楽しみにしながら眠りに入り、そのまま、とても穏やかな顔をして、その深夜、誰にも別れを告げずに息を引き取った。 いい加減な妥協をせず、自分にもきびしい人だった。 光雄さんの通夜の席に仮表紙で綴じられたすがすがしい水色の『朝顔の音』が届けられ、枕元に供えられた。本当は生前葬の席で挨拶したかったのだろうが、無情にも運命の幕は閉じられた。 『わだち』第26号より |
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廣瀬 録郎 「明日はゴミの日だから、机の上のものを今日中に片付けてくださいね」と、月曜日の朝の掃除のとき、家内に言われた。 居間の机の上には、三、四日の間に来た手紙や書類が無造作に積まれている。毎朝掃除をする家内には、たしかに一日一日増え続ける書類は目障りだろうと思う。月に二、三回はこの言葉を聞く。 家内は机の上には何にもないのが良いと思っている。が、私は色んな人や色んなところから来たものは、しっかり見て、その上で処理したいという、いわば習慣のようなものが身についている。なかなかすぐには捨てることができない。 昨今は、広告宣伝のチラシなどが多く、一見して捨てたいものも結構沢山来る。そういった類のものは、すぐゴミ箱に入れるようにしている。しかし、そうでないものもある。家内には関係なくても私には必要なものがある。 何ヵ月か前、彼女から「この整理不能症は貴方の最大の欠点ね」と言われたことを思い出していた。 今日中ということは、ゴミ出し時間の夜までに、まだ十時間の余裕がある。私は朝の散歩に出た。冬にしては暖かい日差しが心地良い。 家に戻ったら家内は居ない。「○○へ買物に行って来ます」と置き手紙が机の上にあった。 ゴミの回収は、週二回ある筈だ。今日という日を逸しても、また金曜日という日があると思うと、気が楽になった。 若くて会社勤めをしていたころ、机の上は何時も書類が山のようであった。それでも、どの書類がどのあたりにあるか、総てが分かっていた。古希を過ぎた今はよく忘れたりするようになったが……。 私が整理して片付けないと、知らぬ間に家内が私の机に移してしまうため、ある筈と思ったところになく、大探しをしなくてはならない。 「こういう書類知らないか?」 と聞くと、 「貴方の机の上でしょ」とくる。 「ないから聞いているんだ」 そんな会話が最近は絶えない。その度ごとに 「また貴方の最大欠点が始まった。きちんと整理もしないで大声で怒鳴るんだから」となる。 日本人の血液型は、A型とO型で八割近くを占めているという。一般にA型は几帳面で、O型は大雑把でアバウトな性格が多いと言われている。私はA型で家内はO型である。 一緒になって四十余年が経った。この長い人生生活の過程で私はO型の大雑把な性格に侵食され、家内にはA型の几帳面さが浸透したのか。 家内は今のままで良い。私がO型を退治して早目の整理整頓を心がけようと一人でコーヒーを淹れながら考えていたとき、家内が買物から戻って来た。 |
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──
偶 然
か ── △作品
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大石 洋 つい数ヵ月前のゴルフ場での出来事。古くからの友人に、久しぶりのプレーに誘われた。当日は、あいにく小雨模様であったが、9時過ぎにアウトコースから傘をさしながらスタートした。 まあまあの調子で3ホール目まで来たところで、私がとんでもない事故を起こしてしまった。 第1打のドライバーショット。距離は出なかったがフェアウエイはキープしたので、気をよくしながらメンバーの打ち終わるのを待って、「今日は雨おとこさんの天下だな……」など冗談を言いながらコースを歩き始めた。 打ったボールの近くまで来たとき、傘を忘れたのに気が付いた。置き忘れたティ・グラウンドまで走って傘を取ってきて、荒い息使いが納まらないうちに、迷惑をかけまいとすぐ第2打を打った。 ところが、引っかけ(極端な左方向へのミスショット)をしてボールが低空で飛んで行った。「あっ!」と大きな声を出したが間に合わず、斜め前のラフにいた、N氏のこめかみを直撃してしまった。最悪! 運悪くというか、見事にというのか、的中である。 N氏はその場に倒れた。メガネは飛んでしまい、暫くは起き上がれなかった。ややあって、顔をしかめながら起きあがったが、ボールの当たった箇所は、タンコブがみるみるうちに大きくなり、血も滲んできた。 私はこれ以上ない程の平身低頭。幸い、N氏は歩けそうなので、肩を貸しながらコースを逆に歩いて、やっとの思いでハウスまでたどり着き、病院へ直行した。楽しかるべきゴルフはお流れになってしまった。 もう40年も細々と続けている“付き合いゴルフ”。このような、とんでもない方向へ飛ばしたのは初めてである。 今回の事故を振り返って考えてみる。 偶然というのか、悪いことの重なりは驚くばかりであった。 先ず、3番ホールまで来た頃、雨が止んでいたので、つい傘を忘れてしまった。次に、後のパーティーが早くも回ってきていて、私たちが圏外に出るのを待っているのが見えた。私は後の人にも、同僚にも迷惑をかけまいと、忘れた傘を取りに走り、息せき切ったまま、第2打を打ったのがいけなかった。雨でグシャグシャになった不安定な足場も加わった。 さらに悪いことに、N氏が、私の打つ瞬間、丁度目をそらし、汚れた自分のボールを綺麗にしようと、しゃがんだ途端である。 結果は、そのジャストタイミング。事故のベクトルが寸分違わず繋がっていた。そのうちの一つでも欠けていれば、あるいは、ずれていれば事故には結びつかず、よくあるヒヤッとする程度で済んだのだろうに。 “偶然”の悪魔が仕組んだ罠なのか。 N氏の傷は医者の診断では、局部的な骨折と打撲とのことで、1週間ほどで腫れも引き3週間で完治した。 その後、「次は天気のよい日に、気を取り直して(ゴルフを)やろうよ」とN氏らは言ってくれたが、彼には顔向けできない後ろめたさと、他の2人にも薄皮のようなわだかまりが残ってしまった。 九州のある駅でのことである。夢と希望を胸一杯に、新婚旅行で駅のコンコースを歩いているカップルがあった。そこへ遥か高いところの天窓か、梁に何年も、乗っていたのであろう数センチ大のガラスの破片が落ちてきて、男性の首に突き刺さり、その場で絶命した事件があった。 当時、新聞やテレビにも報道されたが、これが一秒でも、数センチでも、あるいは、ガラス片の向きが少しでも違っていれば、死ぬほどの事故は起こらなかったはずなのに。ほんとに偶然なのか、何かの定めで、見えない運命の糸で結ばれていた事故なのか、と思いたくなる。 また、昭和30年代、こんなニュースもあった。ジョンソン基地(埼玉県、現在の自衛隊入間基地)のアメリカ兵が夜半、遙か遠い所を走っている西部鉄道の電車に向かって小銃かピストルかを発砲。車内はすいていて、たまたまそこの座席に腰掛けていた学生に命中し、彼は即死した。当時、駐留軍問題として報じられていた。 撃った兵隊はまさか電車にも当たるまいと安易な気持ちだったのだろうと、私には確信的に思えてくる。 学生時代、寮生活にも飽きて、同級生と2人で甲府郊外の山を背にした民家の2階に自炊契約で下宿した。 その家には成人した娘2人と男子高校生がいて、勉強を見てやったり、忙しいときには、たまにではあるが畑仕事も手伝ったりしたので、家族同様に扱ってくれた。 高校生の使わなくなった空気銃があったので、勉強に飽きると、それを借りて何回か裏山へ小鳥を撃ちに出かけたりした。しかし鳥は射程距離範囲に入る前には必ずといっていいほど逃げてしまい、1羽も仕留めることはできなかった。それよりも、2階の障子の陰から庭で餌を啄んでいる雀は狙いやすく、たまには仕留めることができた。 あたりが春めいてきた頃、2階の窓から見上げる柿の枝に、雀が群がっていたので、それを狙って撃ったが、案の定、当たらず一斉に逃げてしまった。 ふと裏山の方を見ると遥か遠くの畦道を白い猫がのんびり歩いているのが見えた。 放物線の弾道を予測して、やや上向きに標準を定めて、当たるはずはないと軽い気持ちで撃った。 ところが、猫はぴょんと跳ねて一目散に藪の中に逃げ込んでしまった。尻にでも当たったようである。目の前の雀には、当てようとしても、当たらないのに、2、3百メートルも先の猫に当たるとは、偶然とは恐ろしいものである。 先の、米兵の例も同じだったのだろう。昔から、「魔がさす」という言葉がある。危ないことはするものではない。 人との出会いも、面白い。偶然なのか、縁なのか。出会いによっては人生航路に関わることも多く、友人、恩師、はたまた伴侶との出会いなど様々。 世の中には、偶然な出来事は多いだろうが、あとから振り返ってみると、前から「縁の糸」で繋がっていて、起こるべくして起こるという事件、事例も多々あるように思われてしかたがない。 |
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作品−73 ラ・クンパルシータ ──若き日の酩ピアニスト── △作品 バック総目次へ 佐藤 孝雄 三月のある朝、寝室から居間へ下りると、何かしら音楽を聴きたくなった。 特にこれといった曲が思いつかないので、CDラックから、ふと手に触れた1枚を見ると、ラテン・カーニヴァルだった。アルゼンチン・タンゴ集である。第一曲は歯切れの良いラ・クンパルシータ。 聴いていると、ふと、ある情景が浮かんだ。 30年ほど前の雪深い札幌の歓楽街ススキノの一角、年末の華やいだ客で賑わうキャバレー。 高校で英語を担当していたわたしは、20人ほどの学年仲間と忘年会のビールを楽しんでいた。話し、飲むほどに頭が空っぽになる。ピアノが目に入った。ふらふらと歩み寄り、こともあろうに無断でぽろんぽろんと弾きだしていた。わたしの好きなラ・クンパルシータが鳴り出した。 アルゼンチン・タンゴの軽快なリズムに魅力を感じ、何種類かのレコードを買い込んでは楽しみ、楽譜が手に入ると放課後の音楽室でピアノを弾いて、ひとり悦に入っていたころのことである。 和声学を無視した左手と、でたらめな右手の指使いは二度と同じ演奏ができない、まさしくアド・リブ。 それでもいささか自分の演奏に酔いしれて弾き続けた。頭ふりふりだ。きっと丸椅子の上で体が左右に揺れていたことだろう。ここがどこかもお構いなしで楽しんでいた。 ふと、まわりに異常な雰囲気を感じた。鍵盤から左右に目を移すと、なんと、わたしのピアノに合わせて数十人の男女が身体を寄せ合い、タンゴを踊っているではないか。仰天した。 さては、困ったことになった。突然演奏をやめると恍惚の紳士淑女の興を殺ぐことになる。かといってまずい演奏や、ちゃらんぽらんなリズムでは踊りにくかろう。 やめようか、続けようかと頭が混乱し、酔いもいささか覚めてきたような気がする。指はまだ動いている。 困った、こまった。どうしよう。 えーい! とばかりに一区切りのフレーズでやめることにした。テンポを落として終りが近いことを予告し、指を放した。 踊り手たちから拍手が起きた。ダンスのエチケットなのかもしれないが、わたしの戸惑いに拍車をかけた。 仲間の待つ席に戻ってほっとした。 今にして思えば、キャバレーのしかるべき人が、よくぞ見逃してくれたものだと冷汗が出る。 『わだち』第23号より |
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作品−72 特別寄稿〈掌編小説〉 △作品 バック総目次へ 風のおと ──ホームレスの紳士── 山上 峻介 今日の将棋は、いつになく箱根さんが猛攻をかけてきて、織田さんは、ただ受けるだけに必死だった。しのぎにしのいだが、ついに力尽きて織田さんが投了したのは午後の3時をまわる頃だった。 「ふふふ……」 満足そうな含み笑いを箱根さんが漏らす。 「いやあ、参りました。今日は格別にお強い」 織田さんは軽く頭を下げ、持ってきた小さなアイスボックスから缶ビールを取り出す。 「どうです、やりませんか」 「いや、恐縮」 2人は缶を開け、それぞれに口をつける。肩の力を抜いた織田さんが見上げる空。成層圏の近くに、刷毛で掃いたような薄い雲が白く光っている。 ベンチの脇の木槿の木が、直立した枝の葉をかすかに鳴らす。 「風のおと、か」 「藤原朝臣敏行ですな」 「『秋きぬと目にはさやかに見へねども風のおとにぞおどろかれぬる』でしたか。受験勉強の古典で覚えただけですから、風情も何も味わったことはありませんが」 織田さんは恥ずかしそうにそそくさと言い、将棋盤に向かった。 「どうですか、もう一局」 「いいですな」 箱根さんも気軽に応じ、駒を並べ始める。そして、何気なく言う。 「織田さん、何かありましたか。今日は私が強いのではなく、織田さんに心の乱れがあるようですが」 「わかりますか。実は本来なら、今日は家に帰る日なんですよね」 「そうでした。織田さんは月に2回は家にお帰りになっておられましたね」 「単身赴任でこの街に来てから2年、ずっと守ってきたのですが、今日初めてそれを破りました」 「なるほど」 箱根さんは、いつの時も、こちらの心に踏み込むような質問などしない。だが、今日の織田さんは、ついつい愚痴を聞いてもらいたい心境になっている。 「昨夜も家内が電話で訴えてきましてね」 「………………」 「タバコをね」 「ほう、タバコ?」 「私の高校二年生になる一人娘なんですが、喫茶店でタバコを吸ってて補導されたというんです」 「補導、ですか」 「家内は学校に呼び出され、これから1年は受験勉強の正念場だというのに、どういうしつけをしているのかと、教師にこってり厭味を言われたそうです」 「なるほど」 「挙げ句の果ては、『私の言うことなどまるで聞いてくれないで、タバコを吸いつづけてるあなたの娘だから』って、八つ当たりですよ」 「ほう、ほう」 「さすがに頭に血がのぼりました。それとこれとは問題が違う。何を混同してるかと言ったら、ヒステリーを起こしましてね。私も気がふさいで、家に帰る気をなくしてしまいましたよ」 「ふーん」 「大体、家内も、私がこちらに来てから、住まいをのぞきに来てくれたのだって、一度だけ。あとはしらんぷりですからね。娘は高校生で手がかかるわけでもなし、電話してもいない時が多くて、一体、何をしているのやら」 「そうですか……。あなたの番ですよ」 「これは失礼」 2人が将棋盤に向かっているのは、この街一番の大きな公園の「普選記念演壇」の前に設けられたベンチ。織田さんと箱根さんの2人だけでなく、そこここで同じような対局風景が見受けられる。 野外ステージといっていい演壇の両脇には、控えの間のような小スペースがあり、多少の雨風は凌げるようになっている。そうした造りのせいか、ここには数人のいわゆるホームレスの人々が住みついている。箱根さんと言われる初老の男もその1人である。 いつの頃からか、この場所へ将棋や囲碁の道具を抱えた地域の人がやってくるようになり、小さな社交場か囲碁・将棋クラブのような雰囲気をかもしている。かなり知られた企業のビジネス戦士として単身赴任してきた織田さんは、散歩の途中でこの場所を知り、箱根さんと気が合って、何度か将棋を指すようになっていた。 織田さんが、対局の途中でふと首をもたげ、耳をすました。 「つくつく法師ですね」 「そうですか。もう出ましたか」 耳をすませば、確かにどこか遠くでつくつく法師が鳴いているのが聞こえる。 「油蝉の次は、つくつく法師。秋ですね、いよいよ」 「もういい、つくづく。もういい、つくづく……。もういいよ、もういいよ……」 「なるほど、そういうふうにも聞こえますね」 「いろんなことがあったような気もするし、何もなかったような気もする。いずれにしても、もういいよ、ですよ。この人生も」 「箱根さん、失礼ですが、ご家族は?」 「家族? 家族なんて!」 いつになく強い口調で吐き出すように言う箱根さんの様子に、織田さんは息を呑む。 仲間の口から、ある時は、ハコネさんと呼ばれ、ある時はキョウジュと呼ばれているこの人の心の奥底に、どんな暗闇が広がっているのだろうか。 「何だか、今日はこれ以上勝負を続ける気をなくしました。失礼していいですか」 「もう帰りますか。明日からまた戦士の日々ですな」 2人は挨拶を交わし、箱根さんは演壇の脇に消える。段ボール箱のマイホームへ。 |
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小牧山にまつわる思い出 ──“兎追いし彼の山”は いずこに── △作品
バック総目次へ 長谷川 峯生 小牧市の住人で小牧山を知らない人は、まずいないと思う。 この小牧山は幼き日の私の遊び場であった。 先日(平成16年6月)、2歳半の孫の手を引いて行ってきたが、以前ならば、あの山のことなら隅から隅まで知っていたつもりだったが、近年は状況が大きく変わってしまって、そのことを自負できなくなってしまった。
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自費出版した『禿岸在鷲録』を知人、友人に配ってから家の電話番は専ら私の役目となった。 なかには祝いの品まで届く始末に、かえって迷惑をかけてしまったのかな? と心配にもなる。 「主人の仏前に供えさせて頂きました」は、小山康子さんと、稲生千枝子さんなど。 「音読みでも、訓読みでも、重箱読みでも。好きなように読んでよ」 「送っていただいた本のタイトルの読み方を教えて下さい」 配ったあと、「これを機会に集まろう!」の誘いも多く、案内を受けてあちら、こちらと顔を出す。 野々垣さんが「大腸の腫瘍をとり、現在治療中」と報告された。頭髪がめっきり薄くなったのは薬の副作用のせいだろうか?
表紙の画とカットを描いてくれた本田君が謝礼を受け取らないので、「会費の足しに」と幹事に渡した。
加代子嬢は社内結婚して今は本店の部長夫人。息子が高校生というから時の過ぎ去るのは早い。
「野田さんが魚の研究をされていたとは、全く知りませんでした。知多事業所で一緒でしたが、魚の話など一度も聞かなかったです。一度三人で飲みませんか?」
『火力の魚屋さん』で登場の野田君は、相手が魚だったせいばかりではないが、どちらかといえば寡黙なタイプ。だから原田君が知らないのは当たり前の話。
元尾鷲三田火力環境保安課のメンバーから、 この秋は、中電、中部プラントのOB会、飲み仲間の月例会のほか、発刊をダシにされた飲み会の連続。加えて忘年会のシーズンとあって、いささか私もバテ気味。そしてこの頃は飲めば必ず乗り物で失敗を繰り返している。
十月のことだ。小学校の同級生から、 中電の川口社長から手紙で、 メールや手紙には、尾鷲三田火力三、四号機増設の関わりと、一、二号機の思い出話が多い。 ”かつての仕事仲間に読んでもらいたい”のが私の願いだから、この反響は嬉しい。「@尾鷲 あのころAを偲ぶ縁となれば幸い」の発刊の目的は、どうやら達したようだ。 『火力人生』(自費出版)の寄贈を受けた広瀬六郎元火力部長や、同じく『火力発電あの日あの時』の稲生満男元火力運営部長も亡くなられた。『禿岸在鷲録』の発刊がもう少し早かったらお返しができたものを……と、悔やまれてならない。
『わだち』第24号より |
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