戦後60年に、語りつぐ
      平和への祈り             Home(トップ)へ

外地、内地を問わず、当時を必死に生きた
自分史サークル会員の戦争体験・自分史集

     ──戦争はもう“こりごり”──

                (44編 総140頁)
共同編集
 春日井市自分史友の会
 春日井市自分史サークル・まいしゃの会
 春日井東部自分史友の会
文化フォーラム春日井(2F)・自分史センター前に
関連自分史多数も含めて展示(8月末まで)


                 平和への祈り  目  次    

 

        題        名

執筆者名

掲載既刊誌名

 
    第一章 内地を生きる      
  落下傘でつくったチマチョゴリ 山下 勝子 『ちちんぷいぷい』  
  想い出す儘に(その一)  武内 文代 『まいしゃ』第8号  
  戦後六十年を振り返って──終戦、そして授業が再開された頃──  伊藤 武久 『まいしゃ』第10号  
  グラマーな男への恐怖──私の戦争体験── 大石洋太郎 『わだち』第4号  
  岡崎の空襲 岸本  昭 『わだち』第6号  
  狂った歯車(その三)  中尾 信義 『わだち』第10号  
  疎開(その十)──広島が燃えているぅ〜── 中崎 光男 『わだち』第21号  
  疎開(その十一)──終戦、そして家出── 中崎 光男 『わだち』第22号  
  疎開(その十四)──サイレンはもう鳴らなかった── 中崎 光男 『わだち』第25号  
  靖国神社参拝とみかんのおじさん 梅村  隆 『わだち』第25号  
  学童疎開(その一) 伊藤 錦一 『わだち』第26号  
  昭和二十年夏の思い出 小川  昇 『まいしゃ』創刊号  
  一勤労学徒の終戦 伊藤 武久 『まいしゃ』第7号  
  私の八月十五日 花元 靖子 『まいしゃ』第10号  
  敗戦の日──小父さんも戦死した── 古瀬みち子 『わだち』第21号  
  青年教師・丸山一彦先生(その二) 大澤今朝夫 『わだち』第21号  
  私の八月十五日 大澤今朝夫 『わだち』第27号  
  学校が森になった 加納 孝子 『学校が森になった』  
         
    第二章 外地を生きる      
  今だから話せる 澁倉みどり 『まいしゃ』第6号  
  今を生きる──夏の思い出── 澁倉みどり 『まいしゃ』第8号  
  八月十五日の郡上おどり 澁倉みどり 『まいしゃ』第9号  
  Mさんと私 遠藤  毅 『わだち』第3号  
  ラジオの時間(その二)──旧満州で聞いたラジオ── 遠藤  毅 『わだち』第24号  
  八月九日の夢 田中 壽一 けやき別冊『残照』  
  母のロシア語 田中 壽一 けやき別冊『絆』  
  匪賊の襲撃 伊藤  務 けやき別冊『残照』  
  味噌汁と茶漬け 神戸 孝允 けやき別冊『絆』  
  凍った馬糞が馬鈴薯にみえた 神戸 孝允 けやき別冊『残照』  
  空腹なんかに負けてたまるか 神戸 孝允 けやき別冊『残照』  
  予期しない出来事 神戸 孝允 けやき別冊『残照』  
  つるし上げ 神戸 孝允 けやき別冊『残照』  
  メーデ!に雪が降った 神戸 孝允 けやき別冊『残照』  
  シベリア鶴はカササギであった 神戸 孝允 『まいしゃ』第4号  
  小指 神戸 孝允 『まいしゃ』第8号  
  シベリア第八八八部隊 神戸 孝允 『まいしゃ』第5号  
  ハラショラボート 岡田 国雄 『まいしゃ』第6号  
  シベリアの涙雨 岡田 国雄 『まいしゃ』第9号  
  馬橇の風景 斎藤  登 けやき別冊『残照』  
  フレップの味 斎藤  登 けやき別冊『残照』  
  故郷の雪 斎藤  登 けやき別冊『残照』  
  貰わなかった卒業証書 斎藤  登 『けやき』第6号  
  わが家の二十世紀(その二) 遠藤  毅 『わだち』第9号  
  私の戦後は終らない 成瀬 嘗子 『まいしゃ』第10号  
  封印されていた父の青春 成瀬 嘗子 『わだち』第22号  
 

         

     


       

『平和への祈り』作品抜粋 ──新聞関連──


  疎 開 (その十) ―― 広島が燃えているぅ〜 ――

                                    中崎 光男 

 ピカッ≠ニ教室の窓ガラス全部が光った。それは何万枚もの手鏡を校庭に並べ、いちどきに教室に向かって反射させたかのように、壁を照らし、黒板を照らし、机上を光らせた。やや間をおいて「ドーン」という腹に響く轟音がガラスを震わせた。

 私達は思わず窓際に走り寄り、校舎の2階の窓から身を乗り出して真夏の雲一つない空を見上げた。

「おい、発電所に爆弾が落ちたな」と口々に言い合った。僕は「さっきのあの音ならあれは1トン爆弾だぞ」と街場仕込みだといわんばかりに声に出していた。
──この1トン爆弾というのは、その模擬弾を疎開してくる前に、わが家の近所にあった横浜高等工業《後の横浜国大工学部》の校庭で見た記憶があった。人の背丈の2倍以上もあり、今のところこれが爆弾としては一番大きいものだと聞いており、その時この爆弾が破裂したら凄い音が出るだろうなと子供心に思ったので──

 太田川やその支流の上流には幾つかの発電所があると聞いていたので、そのうちに爆撃されたどこかの発電所から煙が立ち昇るだろうと周囲の空を見上げていたが、何一つ変ったことはなかった。教室の騒がしさも少し薄れてきた。

 それは昭和20年80月6日朝、4年生の級友全員が教室に揃って間もなくの時であった。

 その日がいわゆる夏休み中の一登校日であったのか、或いはきびしい戦局のさなか、国民学校(今の小学校)でも夏休みなどという悠長なものはすでになく、毎日が普段通りの登校日であったのかは記憶が定かでない。そして受持の先生がその時すでに教室に来ていたのかどうかも覚えていない。

 ピカッ≠ニ光り、「ドン」と響いてからどのくらい経ったろうか。それは三十分であろうか、あるいは一時間であったろうか。それとももっと短い時間であったのかも判然としていない。
 南の空に入道雲のような白い煙が見えはじめた。それがどんどん大きくふくらんできた。最初白いだけだった煙に少し色がつき始めた。先を行く白い煙を茶色の煙が追いかけて行く。更にそれを黒い煙が追いかけ出した。

 やまあい山間の空が見る見る青空から煙空にかわっていく。やがて全天が黒い煙に覆われてしまった。

 もうその頃になると誰も太田川の発電所が爆撃されたなどと言わなくなっていた。どう見てもこれは広島の街が大空襲を受けたのだということがあきらかであった。

 その頃になると先生も生徒も全員が校庭に出てただただ空を見上げていた。空に鳥が飛ぶかのような幾つかの点が見え始めた。高い所からふわふわと漂いながら地上に降ってくるようであった。

 私は思わず叫んでいた。「あれは焼夷ビラだ。拾うと危ないぞ!」と。横浜にいた頃、私は大人に聞いたことがあった。それは敵は爆弾、焼夷弾を落とす他に焼夷ビラというのを撒くということであった。そしてその焼夷ビラは一枚の紙片で、空から降りて来たのを手で受けたり、或いは地上のものにふれると燃え出すのでとても危険だから絶対に触っては駄目だと言われていたのを私は突然思い出したのである(今にして思うと、厭戦(えんせん)気分をあおる敵の宣伝ビラ等を子供達、いや大人達にも拾わせない為の方便だったのかもしれないのだが)。

 たまたまそばにいてこれを聞きつけた校長先生から「こら! 君、そんなことを言ってはいかん。そんなことを言うと非国民と言われるぞ」と、強く注意され、私は思わずしゅんとなり首をすくめた。

 それらが校庭や田圃の畦道や川の土手に舞い降り始めると、男子生徒達は拾い集めに走り出した。それは焼夷ビラなどというものではなく、すべてが周囲が焼け焦げた新聞や書類や伝票の切れ端であった。

 突然、女生徒の一人が叫んだ。「広島が燃えてるぅ〜」と。それは涙声のようでもあり、悲鳴のようでもあった。その言葉は誰も恐ろしくてとても口に出せないでいたことでもあった。何人かの女生徒の声がそれを追った。

 最初に誰が叫んだのか私は知らない。或いは広島からの疎開学童であったかもしれない。そして同じ広島からの疎開学童の平岡君へ私はどんな励ましの言葉をかけたのか、あの平岡君と、私に特に目をかけていて下さった担任の女の先生が、彼にどんな慰めの言葉をかけていたのか、記憶は乳白色の霧に包まれた感がして皆目覚えていないのである。

 教室で静かにしている雰囲気ではなくなり、私達は間もなく下校した。

 集落に帰ってみると、あちらの家でもこちらの家でも出たり入ったりしながら、お天道様を遮って昼なお暗い空を心配そうに何度も見上げていた。

 今迄空襲もなく、戦争のさ中とはいえどこかのどかであった空気も一変していた。本当に戦争の真只中にいるのだというように感じ始めたようであった。一種の怯えすらあるようにも見受けられた。そしてそれは夜になり、無気味に真赤に照り映える空を見上げることになると、その感を一層深くしていったようであった。

 夕方、警防団の招集がかかり、出動の服装に身を固めた叔父は何故か竹槍も携えて出掛けて行った。その竹槍に、私は「上陸した敵と戦うのでもないのに……」とちらっと不審に思った。何食分かの握り飯をつくった祖母と叔母は、「何日で帰れるかわからない」との叔父の言葉に不安を募らせていた。

 叔父達が消防車やトラックで出発した後も、対岸の広島へ続く道路は一晩中車が続々と南下して行った。島根県の益田市やその近隣の石見地区からの応援の人達を運ぶものだとのことであった。

 4日程して叔父は疲れ切って帰ってきた。その話では「1日目は火勢が強くて、どうすることもできず、次の日からは殆んど死体のかたづけで、焼跡の整理などはあまりできなかった」ということであった。後年、叔父は一時期身体の不調を訴えたこともあったが、その時のことが原因だったかどうかははっきりしない。

 私が山の中の火葬場で見たあの狐火は、30キロ南の広島で現実となって出現したのである。そこでは城が焼け、ビルが焼け、学校が焼けた。公園の樹が燃え、街が燃え、家が燃えた。人も燃えた。そして十万を越す鬼火が燃えた。

 相手方は爆弾が1個燃えただけであった。いや1個燃やしただけである。そして鬼火は1個たりとも燃え上らなかた。
0対100,000(年月と共に更にふえるのだが)という冷厳たる数字がこの時、刻まれたのである。これ以上ない効率的なこととして。

 当時の新聞はこの爆弾に関してこう伝えている(朝日新聞東京版の見出しより抜粋)

 ──広島へ敵新型爆弾、相当の被害、詳細は目下調査中、人道を無視する惨虐な爆弾──(昭和20・8・8)
 ──敵の非人道断乎報復、新型爆弾に対策確立──                 (昭和
20・8・9)

 だが、これへの対策として挙げられていることとは左記の如くでいささか頼りない

 ──人傷の惧れあり、必ず壕内待避  屋外防空壕に入れ、地下生活に徹せよ  白衣を着て横穴壕へ──
                                                  (昭和
20・8・9  8・10  8・12

 そしてBBBB原子爆弾の名がチューリッヒ特電≠ニいう外電の中に初めて登場するのである。

 ──国際法規を無視せる惨虐の新型爆弾、帝国米政府へ抗議提出──
 
──原子爆弾の威力誇示、トルーマン・対日戦放送演説──          (昭和
20・8・11
 ──長崎にも新型爆弾──                               (昭和
20・8・12

 9日にはまた、たった一発の爆弾で「長崎が燃えた」。
 戦争のない日々が約束される8月15日の終戦まではあと数日となっていた。




  空腹なんかに負けてたまるか ──シベリア抑留記より──
                                               神戸 孝允

 その日の作業は腰の近くらしかった。 十名前後の作業グループは警備兵が一人つくだけで、収容所から五百メートルほどのクイブシ駅に向かった。

 道は駅の手前から小さな坂になり、中腹に以前馬鈴薯の選別に行った貯蔵庫があつて、そこから線路を跨ぐ長い跨線橋になつていた。

 橋を渡って左下の道路におりるとすぐの所に、警備隊糧株倉庫.があり、門を入った所で待っていろと言って警備兵は倉痺の奥の方へ行ってしまった。此処が今日の作業場だろうかと、なかなか顔を見せない警備兵を私達は所在なく待っていた。

 倉庫はかなり広い敷地で、右側には大きな建物が、また左側には木造の倉庫が建っており、右側の建物はパン工場らしく、折からパン焼き中のよい匂いが辺り一面にただよって、日夜劣悪で少量の食料のため空腹にさいなまれている私達にその匂いは非情なまでに私達をつつんだ。しかもそのパン焼きの匂いは毎日支給される 350グラムの黒パンのものではなく、内地にいたころ慣れしたしんだ、白いパンの匂いであつた。

「たまんないな」、「腹の虫がグーと泣いているよ」、匂いだけかがせていつまでまたせやがるんだとぶつぶつ言っていると、右側倉庫の扉が開いて、中で床を掃いているらしい音と共に、外に向かって勢いよくごみが掃き出されたすると 一緒にいた下士官が、目ざとくそのごみに温じった、乾燥黒パンの細かいかけらを目ざして駆けより両手でごみの中のパン屑を拾い口にするではないか。

 下士官といえば、兵隊がそうした行動をした時、制止する立場である筈、4、5人の兵隊もつられて駆けよった。私と残りの者は見苦しいことをするなと、声が出かかったが、同じ初年兵ばかりならいざしらず、下士官が 一番に駆けよったのではその声も出なかった。

 日夜の空腹でパンを焼く匂いに自制心さえ失ってしまったのだろうか。ゴミを掃きだしたロシア人も呆気にとられて見ていた。この時程囚われの身の惨めさと情けなさを感じたことはなかった

C私達が毎日支給される 350グラムの黒パンは、酸っばい味で、始めはとても口に出来なかったが、三食のうちの一食で、生きるためには食わないわけにはゆかず、毎日食う内に何時しか味になれてしまったが、とても美味いとは言えない代物で、燕麦の一番中の薄皮が混じっていた。

 ロシア人に聞くと、戦争前は牛のえさであつたが、戦争がきびしくなって物資が不足するようになり、結局人間が食うようになったと言う話であつた。

 そう言えば私達も長い戦争の末期、食に不自由したが、広大な国土を持つソ連でさえと思った。

 下士官といえば、中隊のなかでも私達兵隊に尤も身近な上官である内務班の 班長で、夜寝る所は下士官室であるが、毎日の教練では厳しく私達を叱咤した下士官が、いくさに敗れたとはいえ、関東軍の軍人として軍律の中での生活から半年と僅かを過ぎたばかりで、掃き出したごみの中のパン屑にむらがるとは、 一体全体どうしたことであろうか。

 私と共に半数のパン屑にむらがらなかった者は、たった半年間の軍隊生活であったが、日本人として、また軍人としてのプライドの欠けらが頭のすみに残っていて、ロシア人の前ではしたない姿を晒さずにすんだ。

 空腹は抑留者すべての者が一様に被ったことである。それはソ連政府が「ハーグ陸戦条約」の捕虜の扱いについてきめられたうちの待遇を署名しながら全く無視をして守らなかったからである。 1907年ハーグで各国代表によって署名された「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約第一章」

 勿論我が国代表も参加し署名しているし、日露戦争のロシア人捕虜は条約通り行われた。
 私は歯をくいしばって絶対祖国に帰るという気概を失わないよう、その時空腹に負けてたまるかと自分自身に言い聞かせた。

 その時の下士官が、私の中隊ではなく、他中隊の者であったことは、せめてもの救いであつた。

 

  グラマーな男への恐怖
  ―――私の戦争体験―――
                                           大石 洋太郎


 それは昭和20年6月のある薄曇りの日、戦争も終焉を迎えようとしていた頃である。 私は中学四年。学徒動員で軍需工場へ駆り出されていた。
 場所は静岡県下の富士町(現、富士市)、東芝冨士工場。秀麗・富士が裾野から見えるところである。そこで、電波探知機(対空レーダー)の製造に従事していた。

 その頃になると、敵B

29爆撃機が大編隊で、連日昼夜、来襲するようになっていた。サイパン島を飛び立ち、一万メートルの高高度で富士山を目標に飛来、私達の頭上で旋回して関東か、関西方面へ向かうのが常であった。
 ニュースでは、敵の無差別爆撃の非道さを盛んに報じていた。これにより多くの都市・民家が焼かれ、多数の死傷者がでているという噂が流れていた。

 私達の工場にも、構内の空き地に簡単な防空壕が沢山作られていた。しかし、この地区がB

29の通過地点にあたり、その都度鳴る空襲警報のサイレンにも慢性になっていて、防空壕に退避しなくなっていた。

 そんな6月のある朝、空襲警報が発令されていたが、いつものように作業を始めていた。そのとき、敵の艦載機・グラマン(F6F)の急襲を受けた。ロケット爆弾の 3次にわたる波状攻撃で、数時間のうちに東芝冨士工場は完全に破壊されてしまった。

 忘れられない私の戦争体験として、このことについて綴ってみる。

 工場内は殆どが木造・モルタル仕上げの建物の中で、唯一の鉄筋コンクリート造りの建物が私達の作業場だった。

 いきなり、ものすごい音響とともに、天井から降るコンクリートの破片、真っ白な砂埃。なにが起こったのか……。

 配属将校の叫び声で空襲と判った。部屋の隅の工作機の陰に隠れて耐えるのがやっとだった。何処かで呻き声がしている。攻撃が何回も続いた。

 このままでは危ない、どこか安全な所へと考えているうちに、爆撃が他の建物に移ったようだ。この機会にと、将校の制止を振り切って友達と3人、屋外へ駆け出し、近くの防空壕へ転がり込んだ。

 中は水浸しで、何やら喚き声が聞こえる。目が暗さに慣れてみて、唯ならぬ状況が判ってきた。水だと思ったのは血だった。3人いて、1人の男は倒れ、1人の男は側頭部から血を流していた。もう一人は女性で、顔面蒼白、震えていた。こんなさ中、何故か不思議 に絶世の美人に見えた。

 倒れている人をよく見ると、片腕をその付け根から飛ばされ、皮だけで繋がっている。「チクショー」、「チクショー」と言いながら唸っていた。私達3人は唯オドオドしていた。

 また、次の空襲が始まった。遠くからダダダッと次第に大きくなる機銃掃射の音、一瞬、間をおいてドカーンとロケット爆弾の炸裂音・地響き。これが何回も繰り返され、生きた心地がしなかった。こんなチャチな壕へ飛び込んだのを後悔した。「一緒に死のうな」、「こんな所で死んでたまるか」と友達と言い合いながら身体を固くしていた。随分長い時間のように思えた。やがて静かになり我に返った。

 友達の一人が、負傷者の助けを求めて走り出ていった。私は倒れている人の血止めを試みた。切断された腕の肩骨間の大動脈を強く指圧してみた。しかし、血液が流れ出てしまって、血管の手応えがない。これではしようがないと思っが、本人は「強く押していてくれ !」とすがる眼で助けを求めていた。      

 気休めぐらいにしかならないと私は思いながら も、それを止(や)めるわけにいかなかった。

 頭を負傷した人は、壕の壁にもたれ手ぬぐいで傷口を押さえ、痛さに耐えていた。震えていた女性も、やっと落ち着いたのか、話し始めた。傷ついた2人は浜松工専の学生だった。この壕へ慌てて飛び込んで、扉を閉めようとした途端、至近で炸裂したロケット弾で吹き飛ばされたとのことである。

 待つこと久しく、やっとタンカが持ち込まれ、負傷者が運び出された(腕を切断された学生は翌日、出血多量で亡くなった)。「次波が来るかもしれない。工場外へ退避しろ」の命令。皆一目散に裏から田圃へ逃げ、大分離れた所の樹の下に隠れていた。

 案の定、あのずんぐりしたグラマンの一隊数十機が飛来。頭上で反転しては数珠繋ぎに急降下、例の攻撃が始まった。私達の工場が次々に破壊されるのを、映画でも見ているような感覚で 呆然と眺めていた。

 その日以来、工場の生産活動は完全にストップしてしまった。敵の為すまま、やられっぱなしの状態を体験し、もう勝ち目はないと実感した。しかし、軍・大本営は本土決戦を盛んに唱えていた。広島、長崎の原爆投下で戦争は終わった。

 終戦の8月15日は、たまたま風邪で休暇をとり、疎開先の2階で玉音放送を聞いた。天気の良い日であった。グラマンが二機、パイロットの顔が見える程の低空で飛んで来て、勝ち誇ったように悠々と旋回して飛び去った。母は泣いていた。私も泣いた。京浜地区の空襲で父の生存も判らない時でもあった。敗戦による虚脱感と同時に、死なずに済んだという安堵感も噛みしめた。

 もう五十数年も経つというのに、何かの時に聞こえるダダダッという音に、あの日の恐ろしさがよぎる。また、あの壕の中の美人は今どうしているだろうかとも思う。

 戦後史によると、あのときの戦闘機は零戦に対抗してアメリカが國を挙げて開発した傑作機とのこと。
 飛行機マニアによると、他に例のない太っちょの胴体、愛嬌のあるスタイルで、零戦に並んで名機の一つだそうである。
「グラマン」とは「グラマーな男」の意味もあったのかなと、ふと思ったりする。しかし、私には、恐怖のイメージが今でも強く残っている。

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