彼については詳しいことを知っているわけではないが、登板成績をひっぱり出してみた。
1990年、中日で豪速球を武器にルーキーながら抑えのエースとして活躍。
50試合・4勝5敗31S、防御率3.26の成績を残した。
最優秀救援投手のタイトルを獲った。とうぜん新人王。
しかし、翌年は不振。1年目の酷使が響いた。
チームは2年続けて新人森田を抑えに使う。
50試合・10勝3敗17S、防御率3.03でまたもや新人王。ちなみにこの年は大野が最優秀救援投手だった。
与田は29試合・3敗2S、防御率3.18に終わった。
翌92年、与田は復活し、41試合・2勝5敗23S、防御率3.48と活躍。
2年目の森田は同じく41試合で6勝5敗4S、防御率4.05。91イニングを投げたので、中継ぎだ。
が、これ以降、与田は一軍での戦力にならなかった。
故障に継ぐ故障。93年は15試合1勝3敗3S、94年7試合3敗、95年5試合1勝。
3年でたった27試合の登板。この95年が与田のセ・リーグ最後の登板となった。
96年・一軍の登板がないままシーズン途中に
ギャオス内藤(なつかしい〜)・森廣二-吉鶴憲治・与田のトレードでロッテに移籍。
97年はロッテ在籍のまま、アメリカに野球留学もしたが、やはり一軍登板はナシ。退団となった。
98年、テストでFsに入団。しかしこの年も一軍登板はナシ。
99年、久々の一軍登板が訪れた。
が、なんとそれは10月2日、シーズン最終戦。戦力としての登板ではなかった。
ひさびさに与田が出場登録ということで、私は生観戦した。1イニングを5打者、1四球1安打1失点だった。
相手は奇しくも前所属球団のロッテ。
ストレートは140km/hを超え、なかなか走っていた。
しかし、四球のランナーをあっさりと初芝のセンター前ヒットで返された。
試合後、花束を持って球場を後にする与田の姿があった。
引退なのか、久々の一軍登板祝いなのかわからなかったが、とにかく普通の感じではなかった。
その後、イースタンの残り試合にも登板したが、結局戦力外通告。
いい加減、引退かと思われたが、こんどは再生工場長・野村監督が拾った。
抑えでの復活を期待されたが、古傷をかばったプレーは、他の箇所を傷めやすい。
故障につぐ故障で、結局阪神は1年でお払い箱に…。
ついに、引退となった。
結局、去年私が見た千葉マリンでの登板が彼の最後の一軍登板になってしまった。
豪速球を生むそのフォームは、傷みやすいフォームだったのか?
1年目の鮮烈なイメージのまま、11年間をプロ野球選手として過ごした訳だが、
戦力になったのはわずか3年間だった。
ここまで粘って残っていたのは奇跡だろう。
これからは解説者になるという。
現役の間、いろいろな視点で見てきたプロ野球の世界を存分に伝えてほしいなぁ。
いろいろな意味で、なかなか経験できないことを経験したんだから。
とりあえず、ご苦労様でした。