●9 ファイターズ雑談●

この「ファイターズ」のコンテンツの存在そのもののタイトルだなぁ。
いろいろFsに関する細かい話を書いて行こうということ。
いろいろ資料が手に入ったので、ファイターズ以前の話も混ぜていきます。
(ごめんなさい。ずーーーーーーーーーーっと更新してません…)

【田中幸雄が二人】
86年・都城高から田中幸雄内野手が入団した。当時Fsには田中富生、田中学、田中幸雄の3投手がすでに在籍しており、4人めの田中となった。
ミスタイプではない。同姓が4人というのも珍しいが、漢字も読みもまったくおなじタナカユキオが2人になってしまった。
スコアボードの表記は先輩である投手を従来の「田中幸」のままにして、ルーキーのほうを「田中雄」とすることになった。
ルーキーのほうには少々可哀想な表記だが、田中投手がさらに2人いたために「田中投」「田中内」という表現が使えなかったための策なんだろう。
選手の間では投手を「オオユキ」野手を「コユキ」と呼んだ。184cmでコユキとはヘンな話だが、オオユキが190cmじゃぁしょうがない(笑み)
イチロー登場後、姓がダブる若手がファーストネームを登録名にすることが多くなったので、今だったらコユキの登録名は「ユキオ」になってたかもしれない。
88年に富生が中日へ移籍、そのオフには学が引退して、89年の田中は幸雄の2人だけになったが、表記は変わらず。
88年にできたばかりの東京ドームは、ドーム見たさの客が当日券で入れるFs戦に訪れることが多く、Fsのことを全く知らない客が多かった。
場内アナウンスは「1番・ショート・タナカユキオ」と言うもんだから、
「“雄”で始まるユキオって、どんな字書くんだろ?」っていうつぶやきを何度も聞いた。

1988.9.7(東京ドーム) Fs×阪急戦 現オリックス・バファローズの前身の阪急ブレーブス最後の年である。
このドーム元年のみ、スコアボードのチーム名は企業名での表記だった。
2003・04年はこの状態に戻り、05年は横書きの旧後楽園球場と同じ向きに変更になった。
東京ドームのスコアボードとオーロラビジョンは現在まで幾多の改良を経ている。
この試合で阪急の7番に入ったダラス・ウィリアムズが初めてドームの屋根に打球(ファウル)を当てた。
私の座っていた一塁側内野席の上空の内側屋根のタテ長の穴に入り、外側屋根との間へ消えていった。
この出来事が1年で去ったウィリアムズのハイライトである。


90年にはオオユキが富生を追う形で中日に移籍。コユキは晴れて「田中」単独になった。が、これも2年間だけ。
92年・大内実が戸籍変更(当時の新聞ではそうとだけ報じられた)で田中実と改姓。コユキはこんどは「田中幸」に。
田中実は93年限りで退団。今度は韓国名である金実(キムシル)となって韓国プロ野球へ移籍した。
田中実の息子は「翔人」と書いて「ふぁいと」君。当時のFsのマスコットと同じ名前をつけたことで話題になった。
2000年に田中賢介が入団、2001・2002の2年間は田中聡も在籍し、Fsの田中好きは一向に収まらない(笑み)
2001年には中日引退後Fsのスカウトを経てアメリカでコーチ留学をしていたオオユキが二軍投手コーチとしてユニフォーム復帰。
2003年、ヒルマン監督就任とともに一軍投手コーチへ昇格し、田中幸雄がまた同じベンチに収まることになった。
ちなみに、86年のFsはほかにも高田繁(監督)・博久、佐藤誠一・文彦、渡辺弘(ひろむ)・浩(ひろし。のち浩司)、
島田誠・嶋田信敏、そして木村孝・悟の兄弟と姓がダブりまくっていた。


【あの人たちもいた!】
八名信夫 悪役商会のボスとして有名な俳優・八名信夫は56年に東映に投手として入団。背番号は13だった。
 すでにスカウトから目をつけられていた八名は明大の2年生だったが、寮生活がイヤで中退を決意。
 プロ入りが決まると何と寮を夜逃げしたという。同じ2年生だった、てんびん打法で有名な近藤和彦(58年大洋入団)にも手伝ってもらった。
 3年目の58年、試合中に痛めた腰の状態が改善されず解雇。東映・大川社長に勧められ東映の俳優に転身した。
 月給50,000円だったプロ野球生活から、名のある役に付いてやっと2,500円という世界のギャップに悩んだとき、
 すぐに殺される悪役のほうが早く次の作品に出会えて金も稼げることに気づく。以後、名物悪役として名を馳せるまでに成長した。
ケニー野村  野村克也・沙知代夫妻の脱税騒ぎの時にたびたびワイドショーに登場した、沙知代氏の前夫との息子・ケニー野村氏は
 82・83年の2年間、捕手としてFsに在籍していた。登録名は野村克彦だった。
テツ定岡  定岡三兄弟のいちばん下の弟・定岡徹久は88年途中に広島からFsへ移籍。
 59番をつけて90年まで在籍したが、出番が少なかったためあまり知られていない。
 91年、59番の後を継いだのが木村拓也で、のち広島へ移籍していったのはヘンな縁だ。
 定岡はルックスを活かし、解説者以外にテレビタレントとしても定着した元巨人の兄・正二を追うように、俳優・テツ定岡となって活躍中。
角盈男  巨人でストッパー、セットアッパーとして活躍した角。引退後はヤクルトや巨人の投手コーチを経て、解説者・タレントとして活躍。
 タレントのほうはパンチ佐藤とともに旅番組で旅館で魚を喰っているイメージが強い(笑み)
 巨人でプロ入り当時は「角三男」だった登録名のみつおの文字は「光雄」「盈男」と変遷。
 89年、巨人で衰えを見せていた角はシーズン途中でFsに金銭トレードされる。
 巨人では左のワンポイントリリーバーにまで成り下がっていた角を、近藤貞雄監督は先発で起用。プロ野球ファンを驚かせた。
 Fsでのハイライトは、近鉄・ラルフ・ブライアントに天井スピーカー直撃弾を浴びたこと。
 東京ドーム初の「認定ホームラン」を仕組んだのが、この角なのだ。
 その後、先発・リリーフの両輪で91年まで在籍。92年に野村克也監督が求めてヤクルトへ移籍。
 当時流行の「野村再生工場」の先鞭で、同じくFsからセに復帰していた金沢次男とともにロートルリリーバーとして大活躍した。
 引退後の角がバラエティ番組で語っていたが、パの頃の話はあまりしたくないようだ。
 やはり同じ東京ドームでも客の入りが全然ちがうFsへ移ったとき、同じプロ野球でもそのギャップにショックだったんだろう。
 ちなみに金沢は大洋で近藤監督在籍時にFsへ放出されたが、90年に再びFsで監督に就いていた近藤監督に放出されてしまった。
 ヤクルトで頑強なリリーフとして再生したのち、再びパに移りロッテで引退を迎えている。


【山本八郎】
「駒沢の暴れん坊」と言われたフライヤーズの選手の中でまさに「暴力選手」と思われてしまった選手。長打力もある好打者だが、頭に血が上りやすい。
「ケンカハチロー」と呼ばれる山本は浪商高出身。同じく激情派で有名な張本勲は浪商の2年後輩、尾崎行雄もその後輩になる。
試合中にグラウンドでモメ事が起きると、この山本と張本が一目散に駆け付けたという。
駒沢球場での58年5月10日の南海戦、1回裏・4番の山本は二死無走者からサードゴロ。サードの送球は山本の到達より後に一塁に達したように見えた。
しかし塁審の判定はアウト。駒沢での南海戦は4月6日のダブルヘッダー第二試合が、1点ビハインドの8回無死三塁という絶好の場面で
濃霧コールド負けにされてしまった因縁があった。山本だけではなくチームも駒沢の観客も、審判には強い不満を抱いていたのだ。
そんな中試合は進み、6回裏に事件が起きる。先頭打者の山本はショートゴロ。
ショートの送球がそれ、タイミングはアウトだがファーストの足がベースから離れていたように見えた。
これがまたもやアウトの判定。山本は審判の腕を引っ張り、ベースから離れたファースト・島原輝夫の足跡を見るよう指差した。
しかし審判が無視したために山本に火がついてしまい、山本は審判を突き飛ばし退場宣告を受ける。
ベンチへ引き下がった山本はなぜか裏に消えず、角田隆良一塁塁審を眺めているうちにまた怒りがこみ上げてきた。
酒でテンションが高まった客が「ハチ、やっちまえ!」と叫ぶと、山本は角田塁審にふたたび襲いかかり、殴り倒したうえにケリを見舞った。
酔った客たちはグラウンドになだれこみ場内は騒然。仲間に抑えられて山本はベンチ裏に下げられて収まったが、
東映が大敗した試合後は南海の選手の乗ったバスが観客から投石を受け、警察が出動する騒ぎになった。
後日、反省した山本は角田審判の自宅に赴き、直接謝罪した。しかし、山本には無期限出場停止という処分が科せられてしまう。

4番打者・山本の処分を解いてもらうため、ファンは署名運動を開始。これには他チームの選手まで加わった。
じつは、駒沢で行われた5月3日の近鉄戦で、球審に酒ビンを持って襲いかかった乱入客を山本が羽交い締めにして追い出したということがあったのだ。
山本はプロ野球選手の中でもズバ抜けて腕っ節が強く、当時の握力計を破壊してしまうほどだったとか。
曲がったことが嫌いな性格な山本も、普段は礼儀正しく敬語も使う紳士だったという。そんな人柄を買っての周囲の行動が実り、6月23日に処分は解除された。
翌59年5月30日、駒沢での近鉄戦の1回に、三塁走者の山本は一塁走者の稲垣正夫とダブルスチールを敢行。
捕手・加藤昌利は二塁へ投げるもセカンドがカットして加藤へ返球。突っ込んできた山本が加藤の左腕をスパイクしてしまった。
怒った加藤がベンチへ戻ろうとする山本の背中をつかむと、山本はその腕を振り払うついでに加藤の首を小突いて逃げていった。
近鉄・千葉茂監督が「あの野郎、またやりやがった」と東映側に詰め寄り、東映・岩本義行監督も前年を踏まえて自ら山本の退場を申し出た。
前年の一件に比べたらまるで大した行為ではなかったところだが、山本は再犯とされてふたたび無期限出場停止処分となってしまう。
その後、山本は永平寺にこもり、精神修養に務めた。野球がもうできないと考えた山本だったが、9月1日に処分が解除された。
63年、因縁の相手である近鉄にトレードされ、自己新の22本塁打を放つ活躍をした。
二度の無期限出場停止処分とは、他に例がないはずだ。


【木田勇】
(準備中)

【21番と18番】
(準備中)

【ほかいろいろ】
(準備中)


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