●7 歴代外国人選手●

私の好きなウインタースのほかにも、いろんな外国人選手がファイターズにやってきた。
外国人枠の存在で、実力があっても日本人に比べたらその在籍年数はとても短い。
ということで、私の知らない時代も含めて「ファイターズ」以降の選手を紹介してみたい。

私がファンになってからの流れとして「途中加入の助っ人はハズレがない」というのがある。
イースラー、グロス、ブリトー、オバンドー、リーがそれ。ハズレはタティスやミッチくらいだ。

(名前の前の数字は背番号 成績:野手は試合数/打率/本塁打/打点、投手は登板数/勝敗・セーブ/防御率。在籍年度・通算成績はファイターズ在籍分のみ 英語表記はわかる範囲で正式名で表記)

7 白 仁天●はく じんてん 外野手 1974 114試合 .261 15本 42打点
ファイターズの前身・東映フライヤーズ時代の1962年から13年間在籍した韓国人選手。
「ファイターズ」には創設年の1974年の1シーズンだけ在籍。
以後、太平洋(西武の前身)、ロッテ、近鉄と19年間パ・リーグで活躍した。
歴代外国人最高の通算1831安打。太平洋に移籍した年に首位打者になっている。
近鉄を1年で退団すると、翌82年に韓国プロ野球創設に伴ってMBC(テレビ局が持っているチーム)のプレイングマネージャーとなった。
2002年6月、シーズン途中から韓国ロッテジャイアンツの監督として復帰。
【補足:外国人選手に関しては「出生時日本国籍だった場合は外国人枠に含めない」というルールがある。白仁天は戦中の日本占領下の韓国での出生のため、外国人枠には含まれなかった】

18 バール・スノー●Lawrence Snow 投手 1974 出場なし
本名ローレンス・スノー。輸出入会社の社員として来日したついでにテストを受けたら受かってしまって入団。
ユタ工大の投手コーチを務めた経験があるが、プロは未経験。長嶋茂雄現役最終年だが、日本のプロ野球がまだまだ呑気だったことがわかる。
モルモン教徒で「超マジメ人間」と言われたはずが、4月の初月給を手にして蒸発。5月になってアメリカへ帰国していたことが判明→クビ。
呼び方はバールだったりスノーだったりしたそうだが、どっちか確定もしないうちに消えた。この行動に、プロ野球機構は無期限の失格選手とした。
それにしても、こんな男が「ファイターズ第1号外国人選手」となってしまったのは悲しい。

18 マイク・ケキッチ●Mike Kekich 投手 1974 18試合 5勝11敗 4.13 (打撃)24試合 .352 1本 8打点
74年は前後期制の時代。バールに代わり後期に入団、背番号もバールの空き番号を継承。 後期開幕3連勝も、結局5勝11敗で退団。
1試合10四球するなどコントロールが悪かったようだ。74年のリーグ最多の5ボークも記録した。
打撃の方が数字が芳しい。DH制はケキッチの在籍した翌年・1975年からの採用だった。
18登板なのに試合出場数は24試合なので、代打か野手としての起用もあったみたい。

3/17 テリー・レイ●Terry Ley 投手 1974〜1975 24試合 5勝5敗 4.09
74年後期に入団。翌年前期まで在籍したが、通算5勝に終わった。初登板でイニング3ボークのプロ野球記録を残した。
「ボーク仲間」のケキッチとはヤンキースでチームメイトだったこともある。
背番号は74年が3、75年が17。投手として珍しい3は入団以来51だった大杉勝男が73年の1年だけつけた番号だった。
Fsの前身の東映の大打者・大下弘の番号でもあるが、なんでまた助っ人投手なんかに与えたのか不明。
大杉は74年に51に戻した後、翌75年ヤクルトへ移籍した。

3 ゲーリー・ジェスター●Garry Jestadt 内野手 1975 130試合 .242 9本 45打点
本名ジェスタット。打撃より守備の腕がよかったらしい。130試合出場ながら物足りない成績。
レイが17番に代わり、空いた3番を背負ったが、コイツもまた背番号に恥じた結果を残して去った。
Fsでは「ジェスター」だったが、翌年大洋に移り「ゲーリー」でプレー。倍の18本を放ったが打率.236、打点はたったの37に終わり退団。

18 ジョージ・カルバー●George Culver 投手 1975 9試合 1勝4敗 6.50
シンカーの得意な変化球投手というふれこみだったが、36イニング投球で被安打47・四死球26とサンドバッグ状態。
初登板の7イニングのロングリリーフでの勝利のみに終わった。
18番を2年で3人の外国人投手がつけたことになるが、この3人以外で18をつけた外国人投手は東映時代の1957年のホセ中村のみ。

39 ボビー・ミッチェル●Bobby Mitchell 外野手 1976〜1979 474試合 .250 113本 294打点 ◎78年本塁打王
ファイターズになってから初のマトモな助っ人。78年は36本でホームラン王。在籍4年すべて三振王といういさぎのよい選手(笑み)
32本打った77年には2本のホームランが降雨ノーゲームで記録に残らず、最終的にレロン・リーが34本でタイトルを獲ったのは悲運。
1995年にダイエーにやってきたケビン・ミッチェルも39番をつけたのは奇縁か。

13 ウォルト・ウィリアムス●Wolt Williams 外野手 1976〜1977 239試合 .277 44本 122打点
168cmというチッサイ黒人選手。2年で22盗塁している。76年はチームの打撃三冠王、77年もホームラン・打点がトップだった。
76年の23本はミッチェルと同数。77年オールスター出場。

30 ジーン・ロックレア●Gene Locklear 外野手 1978 108試合 .240 8本 38打点
大砲の期待を受けDHでプレーしたが、大した成績は残せなかった。

32 サム・ユーイング●Sam Ewing 外野手 1979〜1980 118試合 .286 15本 65打点
やはり大砲の期待だった現役メジャーリーガー。15発しか打てず、80年のオープン戦後にクビ。

39 トニー・ソレイタ●Tony Solaita 外野手 1980〜1983 510試合 .268 155本 371打点 ◎81年本塁打王・打点王
この人こそ元祖・サモアの怪人。出身は米領サモア諸島ヌウィリ…いったいどこだそりゃ?(笑み) 4年で155本塁打したファイターズ史に残る強力助っ人。
ミッチェルの39番を継いで、ホームラン王、打点王、最多勝利打点、ベストナインを各1回受賞。81年のリーグ優勝に貢献した。
80年は4打数連続本塁打を二度も記録した。 引退後、事件に巻き込まれ銃殺されたのが惜しまれる。

44 トミー・クルーズ●Tommy Cruz 外野手 1980〜1985 712試合 .310 120本 466打点
ソレイタとセットで恐れられた助っ人。通算打率が3割を超えるアベレージヒッター。81年の日本シリーズはケガで出られなかったのが残念。
84年は.348でリーグ2位の打率。83年に巨人にいたヘクター・クルーズは実の弟。
弟はシーズン中地味だったが、西武との日本シリーズ第5戦でサヨナラ3ランを放ち、兄と正反対の活躍となったのが面白い。

33 マーシャル・ブラント●Marshall Brant 外野手 1984〜1985 118試合 .244 25本 58打点
ソレイタに代わる大砲の期待だったが、1年目は16本。2年目は第三の外国人に終始。

45 マイク・パターソン●Mike Patterson 外野手 1985 88試合 .225 16本 44打点
84年の秋季キャンプに自腹で参加して入団したという変わり種。
前年のブラントと同じくして16本塁打を放ったものの、低打率・パワー不足で1年でクビ。

6 パット・パットナム●Patrick Putnam 内野手 1986〜1987 243試合 .266 37本 121打点
1年目の25本塁打・78打点はチーム最高でリーグでも最多勝利打点のタイトルを獲得。
2年目は不振で、終盤は出番がなかった。いかにもアメリカにいそうな太ったオッサン風だった(笑み)

44 トニー・ブリューワ●Tony Brewer 外野手 1986〜1990 498試合 .307 99本 302打点
パットナムとともにやってきた選手。好打者クルーズと入れ代わりで背番号を受け継ぐ。
ドーム元年の88年は腰痛で開幕から欠場。結局1試合も出られなかったが、クビを切られることなくさらに2年間プレーした。
それだけの期待も持てる成績を残していた。実働4年で打率.307。87・89年はチーム三冠王だった。
打率が高い割にチャンスに打てないイメージも強く、最後のさいごの90年10月14日のロッテ戦では1試合3併殺を演じている。

9 ブライアン・デイエット●Brian Dayett 外野手 1988〜1991 145試合 .268 21本 66打点
実績の割には異例の4年契約をまっとうしたが、第三の外国人に終始。ブリューワとともに開幕からケガで欠場した88年は35試合。
89年が84試合・14本塁打といちばんいい成績。90年は15試合、91年は11試合出場にとどまった。
自分の立場を理解しているなら二軍戦に出るべきだったと思うが、常に一軍に帯同していたというナゾの選手。肩はかなり強かった。

6 マイク・イースラー●Mike Easler 外野手 1988〜1989 142試合 .302 26本 90打点
88年に上の2人が故障したことにより急きょ獲得した大ベテラン選手。当時37歳だった。のちメジャーで打撃コーチを務める。
練習中にカメラが自分の所にくると「キェ〜〜〜〜〜〜」と奇声を発したりする、明るくキレ気味のキャラクターだが、根はしっかりした人だ。
スイングは一見アッパーに見える「ゴルフ打ち」だが、球を捉える時点ではしっかりレベルスイングになっている打法だった。
その理論はしっかりしていて「レクチャーをしてやるから二軍選手を集めろ」と球団に言ったこともあるとか。
来日初打席でホームランデビューの88年は4番に腰を据え、.304・19本塁打と、当時の貧弱なFs打線の中で気を吐いた。
2年目もデイエットを押しのけブリューワとのクリーンナップで開幕を迎えたが、
ケガと高齢に泣きデイエットと代わるがわる一軍でプレー。最後は胸部の亀裂骨折で戦線離脱し、そのまま現役引退した。

10 マット・ウインタース●Matt Winters 外野手 1990〜1994 637試合 .267 160本 428打点
このサイトでは説明済みの打って踊れるスター選手(笑み) 5年で160本塁打を放ったが、西武・デストラーデのカベが厚く、キングは一度も獲れず。
打席の一番後ろに山をつくり、そこに軸足をのせて右足を大きく前へ踏み出す。巨体をフル回転させるそのバッティングフォームは豪快そのもの。
まさにホームランだけを狙った打ち方で好感が持てた。そのため打率がさほどあがらず、打点も90年の97が最高と、100を超えられなかった。
守備はからっきしダメだった。藤井寺では単純なレフトフライをはじいてサヨナラエラーを犯したこともあった。
しかし、その明るいキャラクターは当然珍プレー番組でクローズアップされ、人気を集めた。記憶に残る名選手だ。
イースラー同様、日本で現役を終えた選手でもある。
なお「ウィンタース」と書いているうちは、ウインタースを語る資格ナシ。

8 ビル・ベイス●Bill Bathe 外野手 1991〜1992 156試合 .236 16本 52打点
本来は捕手。1989年にワールドシリーズ第4戦で初打席代打3ランを打ったことがある、という密かな自慢があった。
1年目はデイエットに競り勝ったが16本塁打・打率.248・41打点と物足りない成績。2年目はマーシャルの加入で出番がほとんどなかった。
テレビのドキュメントで、外国人の集まる酒場で件の代打アーチのビデオを背にウインタースに励まされている姿が流れていたのが印象に残っている。

9 マイク・マーシャル●Mike Marshall 外野手 1992 67試合 .246 9本 26打点
ベイスが頼りないので獲得した選手。1億9500万円という破格の年俸で迎えられたが、ケガもあり大した活躍はできなかった。
イースラー同様、来日初打席ホームランを放っている。メジャーでは84年のオールスターに出たことがあるそうだが、
それ以上に来日前から「トラブルメーカー」との噂が先行していたイメージが強い。

9 リック・シュー●Rick Schu 内野手 1993〜1994 257試合 .257 38本 124打点
93年の優勝争いの原動力としてウインタースとともに大暴れ、ソレイタ&クルーズ以来の強力助っ人コンビを形成した。
当時の親分こと大沢啓二監督をして「シューさん」と言わしめた頼れる存在。
しかし2年目はスランプで、同じく力の落ちたウインタースとともにその年限りで退団となった。
メジャーのプライドにおぼれることのないヘッドスライディングは豪快。
広瀬をはじめとしたFsの選手たちもきわどいゴロならこぞって一塁へヘッドスライディング。そのビジュアル面がウケて、にわかにFsが世の中に注目された。
反面、デッドボールを喰らってもマウンドへ向かうことなく冷静に一塁へ歩く。ホットでありクールでもあるカッコイイ選手だった。

42 フランク・カンポス●Frank Campos 投手 1994 出場なし
93年の秋季キャンプでテストを受け入団。明けた春季キャンプはビザの取得が遅れて予定より1日遅刻してきた。
当時の親分こと大沢啓二監督をして「ポンカス」と言わしめた頼りない存在。
ストッパーの期待もかかった彼の話題はこれだけで、登板がないままヒジの故障により5月でクビになった。

60 キップ・リー・グロス●Kip Lee Gross 投手 1994〜1998 124試合 55勝49敗 3.60 ◎95・96年最多勝
カンポスに代わって5月に入団。94年は6勝12敗だったが、95年16勝13敗、96年17勝9敗と2年連続最多勝。97年13勝11敗。ローテの柱として大活躍した。
98年、オープン戦のさなか肩の違和感を感じていたが、検査予定日の前日に無理して登板。なおさら悪化させてしまった。
結局この年は7試合の登板だけで退団となった。
遠征先の仙台で酔っぱらいとケンカしてケリを喰らい肋骨にヒビが入っていたにも関わらず、それを隠して平然と登板を重ねていたこともあるスゴイ選手。
球威はないものの、ムービング・ファーストボールというわずかに揺れる直球は、打者からすれば簡単に打てそうに見えるが、バットの芯を外してゴロの山を築く。
打者が少ない球数で手を出してしまうとともに投球テンポの早さも一級品で、彼が完投すると大概2時間台でゲームが終わった。
同じような攻め方の投手、近鉄のデニス・パウエルと藤井寺で投げ合った95年4月2日の試合はなんと1時間56分で終了。
グロスが8安打、パウエルが9安打されて4-1で近鉄が勝った試合だが、ふつうなら1時間台で終了する試合とは思えない数字。
25日後の4月27日、グロスはその試合に次いでの近鉄戦先発で見事完封勝利。試合は1-0、ユキオのサヨナラ本塁打で決した。
やはり短い試合時間といえる2時間34分だったが、なんとこれは延長10回の試合だった。

20 ロブ・デューシー●Rob Ducey 外野手 1995〜1996 237試合 .248 51本 120打点
ウインタースとシューの抜けた穴を埋めるべく獲得した選手だが、当初線の細さから「迫力不足」との評価が多かった。
しかし、ふたを開けてみれば開幕戦で3番に座り2発。その後珍しい外国人のトップバッターとして活躍。初回先頭打者本塁打のパ・リーグ記録も作った。
迫力不足の評価もウソだった。
95年の9月16日のダイエー戦、ホーム突入の際、明らかにホームインのタイミングのため無防備だった捕手・坊西(当時、ひ弱だった)にタックル。
ダイエーのベンチからスタメンを外されていたライマーが飛び出してきてデューシーに殴りかかり乱闘に… 2人が退場処分。
出場停止処分はなく出場した翌17日はダイエー先発・藤井(2000年逝去)から死球を受け、マウンドに向かいかけたところを捕手・坊西(当時・ひ弱だった)が制止。
結局坊西(当時・ひ弱だった)は殴られてしまい、デューシーは史上初の2日連続退場処分となった。ともに1回裏で、坊西(当時・ひ弱だった)が絡んでいる。
俊足・好守で長打力もあるが肝心の打率が低かった。選球眼はよく、低打率のわりには出塁率が高い選手。
2年目は打率がリーグ29位の.246ながら四死球88はリーグトップだった。
結局は打率の低さが災いして退団となったが、もう少し日本でプレーを続けてたら、タフィ・ローズ級にもなれたような気がしてならない。
そのタフィと同じ20番は、来日4年前までのブルージェイズ時代に5年間つけた番号。94年の20番・山原はウインタースの10番を継いだ。

9 ティム・マッキントッシュ●Tim McIntosh 外野手 1995 56試合 .220 3本 15打点
野球を知らない子どものような、両手が離れたバットの持ち方が特徴の選手。4番も打っていたがとにかく打てなかった。3本塁打で解雇。
マッキントッシュという長い名前は、応援団も苦心。しょうがなく「ティム」とコールすることにしたが、
タイムリーを打ったイニングのあとに讃えるコールをしても本人が聴き取れず無反応だった。
日本人が「ティ〜ッムッ!」ってコールしてもわからないのは当然だ。
本来捕手で、ロッテ・バレンタイン監督の音頭で95年夏に行われた「日本人vs外国人オールスター」ではマスクを被る予定だったが、結局それに間に合わず帰国となった。
ちなみに、その試合の捕手はバレンタイン・ロッテの定詰が「ジョー(背文字がJOEの特製ユニフォーム着用)」、
米マイナーに野球留学の経験がある巨人の大久保が「デーブ」として外国人チームでマスクを被った。
彼の代わりに来日したブリトーの活躍もあり「話題の下地づくり」で貢献した選手とも言える(笑み)

42 バーナード・ブリトー●Bernado Brito 外野手 1995〜1996 182試合 .272 50本 133打点
マッキントッシュの代わりに6月の末に入団。
「ミスター・マイナーリーグ」と呼ばれ、マイナーでは常に打ちまくるものの鋭い変化球に弱いため、
レベルが高いメジャーに上がるとからっきし打てなかったという選手。
当時西武・巨人・ロッテも狙っていたが「三振が多すぎる。あのフォームは日本では通用しない」という同じ見方で慎重だったところをFsがかっさらった。
しかし、パワーはホンモノで1年目は56試合で21本塁打。特大160m弾も放った。
95年はダイエー・小久保がたった28本で本塁打王になった年で逆転キングも狙えたが、終盤身内の不幸で母国へ帰国、奇跡は起きなかった。
2年目は前半で22発したものの、終わってみたら29本だった。結局2年で「日本の野球・練習法などが馴染めない」ということで惜しまれながら退団。

9 ジェリー・ブルックス●Jerry Brooks 外野手 1997〜1998 263試合 .261 41本 136打点
ウィルソンとともに入団。キャンプ来日当初、見慣れるまではウィルソンと区別がつかず「双子助っ人」として話題になった。
1年目は16本塁打・打率.277と地味だったが、2年目の前半に爆発。
一時は不動の四番になったが、後半絶不調に陥りそのままシーズン終了を迎えた。
その後半戦激落ち込みのバイオリズムはまさに98年のビッグバン打線の象徴だった。よくチャンスで内野フライを打っていた印象が強い。
1988年のデイエット以来、9番は5人連続で外国人選手が背負ったがことになる。1999年から、22番だった荒井修光が9に変わって途切れた。

15 ナイジェル・ウィルソン●Nigel Wilson 外野手 1997〜2001 427試合 .268 113本 323打点 ◎97・98年本塁打王 98年打点王
フロリダ・マーリンズのエクスパンションドラフト第一位指名選手という輝かしい経歴をもっている。
これはメジャーリーグが26球団から28球団に増えたときにできた2つの新球団・フロリダ・マーリンズとコロラド・ロッキーズが
在来26球団からプロテクトのかかっていない選手を引き抜いていくドラフトである。ここで、マーリンズがいの一番に指名したのが、このウィルソンなのだ。
常に古傷のヒザが痛そうにプレーをしていたが、意外と俊足だった。
打率は3割を超えなかったが、一発の破壊力は抜群。97(37本)・98年(33本)と連続ホームランキング。98年は124打点で打点王も獲得した。
99年、開幕に合わせムリをしたヒザを悪化させ、6試合に出ただけでそのままシーズン終了。2000年に再び37本を打って復活したところはブリューワと被る。
2001年は他のケガも重なり、一時は復活を期してファームの試合に出たが、その1試合が最後になってしまった。
パイレーツのギャグ「だっちゅーの」を持ちネタにするなど、常に笑顔を絶やさないいい人だった。
日本でのプレー継続を希望し、2002年近鉄に移籍。中村紀洋、タフィ・ローズらのいる打線で恐怖の7番打者としてスタートしたが、
34試合、.221・6本・14打点で二軍落ち。8月に解雇となった。ケガを押して出場する根性は買えるが、結果が出なかった。
現在はメジャーを含め、アメリカ球界でプレーを続けている。

68 ビリー・レイ・ムニョス●Billy Ray Munoz 内野手 1997 出場なし
知る人ぞ知る、近年のマイナー外国人。同期入団の林田投手とはアリゾナ・ウエスタン・コミュニティカレッジの同窓生で、
林田の紹介で日本にやってきて初めてプロ入りした選手。ファームで20試合出るのがやっとで、結局は林田ともども一年でクビになってしまった。
チームは長い目で育てるつもりだったが、素材の段階でプロレベルでないと烙印を押された。年俸700万円で林田より200万円余計にもらっていた。

23 エリック・シュールストロム●Erik Shullstrom  投手 1998〜1999 52試合 9勝4敗15S 2.66
ストッパーとして獲得した選手。しかし、抑えきれないことが多く、1年目8S、2年目7Sに終わった。球は滅法速いがコントロールがなかった。
頭はツルツルのスキンヘッドで、髪の毛があったら被れなそうな小さい帽子を目深に被ったスタイルが印象的だった。
利き腕のケガもあって2年で退団。のち、手術を行って2001年に広島へ入団、球が遅くなったが制球力は異常にアップしていた。
2001年は元気な間だけ守護神として活躍。ふたたび故障して戦線離脱したが、2002年も残留。故障癖は一向に改善されずその年限りで解雇。
「坊主にケガなし」は日本古来のダジャレであるが、この男は真反対だった。

49 ラファエル・オレラーノ●Rafael Orellano 投手 1998〜2000 36試合 2勝8敗 6.17
グロス、シュールストロムに続く第三の投手として入団。ムニョスにめげず日本で育てようとしたが、一軍のカベは厚かった。
一軍登板は3年間で36試合。99年はウィッテムの故障で出番ができ、一時は先発ローテーションにも加わったが、目立った活躍はなかった。
ヤクルトのラミレスが持ちギャグにした「アイーン」は、この男が先にマスターしている。

42 シャノン・ウィッテム●Shanon Withem 投手 1999〜2000 17試合 6勝7敗 5.76
グロスに代わる先発要員として期待されたが1年目は6勝7敗と振るわず、2年目も残留したがケガで出遅れ、一軍登板のないまま途中解雇となった。
グロスに似て、打たせてとる投球のはずだったが、打たれっぱなしだった感が強い。42番もまた3人連続で外国人選手が着けた。
ケガの状況が悪く、Fsを最後に現役引退。日米を股に掛ける企業に就職し「日本にいる間に身につけた日本語を駆使し」対日の部署で働いているという。
通訳がいるアメリカ人選手が1年半いたところで、大した語力は身に付いていないとも思えるが(笑み)

10 マイカ・フランクリン●Micah Franklin 外野手 1999〜2000 136試合 .237 30本 80打点
ドミニカ出身のスイッチヒッター。強肩でもある。キャンプではその顔から「ダミー・ソーサ」と言われ話題になったが、私は決して似てるとは思わない。
元来長打率が高い選手で、1年目は30本塁打したが、打率は.238と低かった。
左打ちに専念したり、オープンだったスタンスをスクエアに変えたり、 ヘルメットを両耳にしたり、ストッキングを出したり、
どう見てもレジャー用のサングラスをかけてプレーしたり…と、とにかく見た目がコロコロ変わる飽きない選手だった。
2000年はウィルソン・オバンドーとの争いに負け、二軍落ち後さらに故障。故障が癒えたところを阪神が拾って活躍したが、すぐに再故障でそのまま日本を去った。

67/64/23 シャーマン・オバンドー●Sherman Obando 外野手 1999〜2002・2004〜2005 437試合 .294 102本 314打点
ウィルソンの故障の長期化が判明し、途中加入で獲得した選手。
来日当初時差ボケにしては長すぎるスランプだったが、ベンチがガマンして使い続け、慣れ始めたら打つわ打つわ、
最後の1本がなかなか出なかったものの、結局20本塁打した。レベルスイングでセンター返し中心の打撃が光る。
2000年は107試合の出場ながら30本、101打点。さらに打率.332の高打率だったが、惜しくもイチローに次いで2位。
この年のイチローは7連連続首位打者に輝いた期間の7年目で、なんと史上最高の.387での首位打者獲得だった。
2001年は開幕期に故障を繰り返し、復帰後も夏になって疲労性の腰痛で二軍落ちして以降の出場はナシ。52試合出場に終わった。
大きすぎるカラダはカタいらしく、故障がついて回る。
2002年は背番号を64から23に変えて臨むが、チャンスに打てない男に変貌。
.268・26本・68打点も、得点圏打率は.225と低迷、ユキオ(得点圏打率.217)・クローマー(得点圏打率.189)とともに戦犯となり、最後は故障もして解雇。

2004年、オリンピックイヤーの6月に突然Fsに復帰。
なんと売り込みのため自腹で来日、かつての本拠地・東京ドームの試合開催日に合わせて球団に掛け合っての入団決定だった。
背番号は3つ目となる67になった。
小笠原が五輪代表で抜けるので、穴埋めとしての期待がかかった。
ただしFs退団後はパナマのアテネ五輪代表チーム(予選敗退)やメキシカンリーグでプレーしていたものの、
無所属の期間もあったようで、周囲の期待は大きくなかった。
救いは、同じパナマ出身・同じノッポのセギノールがいること。このツインタワーは壮観だ。
04年の通算は42試合・.338・8本・25打点という数字。
往年の勝負強さが戻ってきて、彼の打席を復帰当初の「こわいものみたさ」で見ることはなくなった。
セギノールを楽にするためにスタメン・一塁ということもあったが、こちらは安心して見られた、とは言い難い。
ヒルマン監督も敢えて常時スタメンに入れることはせず、体力消耗の考慮か、実力を見計らった結果なのかはわからないが、適度に休ませながらの起用となった。
セギノール・エンジェルと3人でスタメンに名を連ねる日もあれば、カタカナはセギノールだけのときもよくあった。
後者のときはエンジェルの項にもあるように「恐怖の右代打カルテット」を形成した。

05年も残留。アルモンテとナイトの加入により、ミラバル・セギノールとからんだ一軍外国人枠争いに挑むことになった。
ところが、1年の始まりであるキャンプのスタートにその姿はなかった。渡航に関する手続きの不備により、パナマから渡った先のアメリカを出られずにいたのだ。
結局来日したのはキャンプ終了後。ナイトを除く4人が開幕登録メンバーとなり、イースタンで開幕を迎える。
4月9日にミラバルが右肩痛で、翌10日にトーマスが不振でファーム落ちし、同10日、入れ替わるように一軍に合流した。
4月23日、思い出の東京ドームでオリックス・光原逸裕からセンター左へ来日100号アーチ。
しかし出番は04年よりも減少ぎみ。交流戦でDHの使えないセ主催試合になると、3連戦すべて代打という起用も見られた。
見逃しの三振など覇気の見られない結果も多かったためか、5月23日に二軍落ち。6月4日にはやばやと解雇され、同10日に自由契約公示された。
不振に加え外国人投手を獲るため(結局コリー・リーが入れ替わりで入団)の枠の確保が解雇の主な理由とされている。
5月5日にはアルモンテとナイトが一軍で戦力にならず二軍落ちしたものの、即解雇にはならなかった。
オバンドーはかつての主力選手だっただけに、この冷たい扱いは非常に残念だった。

00 カルロス・ミラバル●Carlos Mirabal 投手 2000〜2005 180試合 39勝38敗37S 4.32
台湾プロ野球でプレーしていたクローザー。
2000年は19セーブを挙げたが肝心なところではしっかり打たれるイメージが強く、ヒヤヒヤの投球内容は「ミラバル劇場」とも称された。
2001年も18セーブと半端。二軍落ちするなど信頼は薄かった。
このシーズン最終の西武戦になんと松坂大輔相手に先発起用され、5回を投げて勝ち投手になった。

2002年は当初フリューリーとの競争と言われたが、紅白戦・オープン戦で好調を維持し開幕一軍。
4月10日のロッテ戦では先発で8回終了までパーフェクト。
9回の先頭、代打・吉鶴にヒットを浴びたが、その後もランナーを出さず、28人で終了の準完全試合。無四球完封で投球数80球は驚異的な少なさ。
先発に回って多くの球種を使えるようになってからコントロールが格段によくなったのだ。
2002年は18試合すべて先発。2ケタを狙えるペースで白星を重ねていったが、中盤から指の故障に数度見舞われ、9勝止まり(6敗)。完投は4試合。
西武・アレックス・カブレラとは台湾でチームメイトだったが不仲で、
6月2日の試合ではミラバルが死球を与えたことで乱闘に発展、カブレラは来日初退場処分になった。

2003年、同じアメリカ人のトレイ・ヒルマン監督就任ということもあり開幕投手の栄誉を手にし、見事勝利を挙げた。これまた相手は松坂だった。
ガラスのクローザーはFs投手陣の柱と変貌を遂げた。防御率が4.64と振るわないものの、16勝と勝ち運を見せた。
ちなみに115失点・100自責点はリーグワースト。
2004年は11勝9敗・4.82と、負けが減ったことしかいい要素なし。こんどは被本塁打24、与死球13がリーグワーストだった。
2005年は春先に出遅れた金村をさしおいて開幕投手に。しかし、3戦3連敗したところで右肩の違和感を訴え二軍落ち。
アメリカに帰国し、手術を受けることに決定。
05年中の復帰は手術をしてもしなくても無理ということで、新加入のリーと入れ替わるように7月5日についに自由契約となった。
通算成績は39-38-37という、へんてこな並びに。

27 ケビン・オーミー●Kevin Arthur Ohme 投手 2000〜2001 15試合 2勝5敗 6.20
左の先発要員として期待されたが、とにかく気が弱かった。
右脚がクロスステップしてくる投法でタイミングがとりづらい感じだったが、球威が不足していた。
2001年も残留、開幕はサンダースに勝ってベンチ入りしたものの先発2試合・リリーフ1試合で二軍落ち。
その後脾臓(ひぞう)から出血する病気を発して途中解雇。この病気も精神力の弱さから来たものだったかもしれない。

53 ラモン・タティス●Ramon Tatis 投手 2000 1試合 0勝0敗 54.00
シーズン途中に来日した左腕だが、一軍登板はたったの1試合で終わってしまった。
2/3イニング、打者9人、3安打4四球で失点・自責点4という散々な成績だったが、ファームでは8試合で5勝2敗の成績を残した。
外国人としては珍しく秋のハイサイリーグに参加。残留を賭けて登板した試合で見事に打ち込まれ、直後に解雇が発表された。
東京ドーム開場以降のFs途中入団助っ人では異例の「使えない」選手だった。

32 スコット・サンダース●Scott Sanders 投手 2001 24試合 3勝5敗 4.36
メジャーでローテーションに入ったこともあり、先発要員の期待だったが、何をやっても中途半端だった。開幕は一軍に入れず。
先発すると打たれるくせに、敗戦処理でリリーフさせると好投を演じる。それを踏まえて先発に戻すとまた打たれる…の繰り返しだった。
結局先発11試合、リリーフ13試合。86.2イニングを投げて87安打。1回に必ず1本ヒットを打たれるということだ。
当初2002年も残留の方向だったが、結局解雇となった。

15 DTクローマー●David Thomas Cromer 外野手 2002〜2003 181試合 .233 27本 79打点
ウィルソンに代わる野手として獲得した一本足打法の左打者。背番号も継承した。
メジャーでの守備位置はファーストが多かった。
父はカージナルスでプレーしたメジャーリーガー、兄弟もみんな野球選手という一家。性格は寡黙で試合中は滅多に笑わない。
レッズ時代の2000年にチームの連続イニング得点メジャー記録を樹立するアーチを打ったことがあり、野球殿堂にそのボールが飾られているらしい。
長打力はそこそこ。引っ張りでライトに叩き込むアーチはいつも豪快だった。守備は無難とは言い難いか。
2002年は開幕15試合目・4月17日に5号アーチといい滑り出しだったが、次の6号が出たのは5月21日。
調子の波が大きく、またチャンスに打てない。
得点圏打率は.189、特に満塁で11打数でヒットがなく、02年両リーグで満塁10打数以上の選手の中では唯一の無安打。
NPB史上D.J、C.Dに続いて3人目の登録名に英字が入った選手だが、球場のアナウンスやスコアボードでは「クローマー」となるのが通例。
スポーツ新聞や公式記録のスコアテーブルでの表記は正式表記の「DTクローマー」となっている。
よく考えたら、背中の名前は「CROMER」だから、本人もDT省略は認めているってことか?
03年はオープン戦で絶好調もシーズンに入ると不振。故障も加わりファームにいることが多かった。
9月に昇格後、打撃はいい感じだったが、再び故障でファーム落ちするとシーズン終了を待たずに解雇となった。
「日本での 一番大きな思い出は、娘の誕生」だったそうな。

32 クリス・シールバック●Christopher Don Seelbach 投手 2002〜2003 38試合 10勝15敗 4.32
腕が遅れて出てくる投球フォーム、150km/h台がでるストレート、縦に落ちるカーブが持ち味との触れ込みで入団。しかし球速はそこまで速い印象はない。
4月2日のオリックス戦に来日初登板初先発、東京ドーム開幕試合で2002年チーム初勝利投手となる。
調子がいいんだか悪いんだかはっきりしない、ウィッテム、サンダースとイメージの被る白人の右腕。二人より少しマシなようだが。
2002年はすべて先発。制球難で球数が多くなりがちで66四球はリーグワースト(セ・ワーストは最多勝ホッジスの67)。完投は2試合。
防御率がソコソコでも制球難は試合時間が長くなるので野手にも影響が出て困る。
先発コマ不足とも言われる2003年はローテ三番手でスタートしたが、2勝8敗と期待を大きく裏切り、
9月に一軍へ戻るも中継ぎですら結果を出せず防御率は最終的に5.61で解雇。

49 パット・フリューリー●Patrick Flury 投手 2002 10試合 0勝0敗 3.46
2002年のキャンプに連れてきた婚約者は現役女子大生で7つ年下の22歳。
ミラバルとシールバックに敗れ二軍暮らしが続いていたが、8月にミラバルの故障があり数度昇格。緊迫した場面での登板は与えられなかった。
ファームでは健闘して30試合・3勝1敗4S・2.04という数字。年の瀬12月20日に戦力外に。

43 エンジェル・エチェバリア●Angel Santos Echevarria 外野手 2003〜2004 204試合 .268 47本 138打点
オバンドーに代わる選手として獲得。メジャーでは99年にロッキーズでの102試合が最多出場で、.293・11本・35打点の成績。
2002年はカブスで外野とファーストの控えで50試合出場にとどまったが、打率は.306だった。
メジャー通算は21本塁打だが、マイナーではコンスタントに30本近く打ってきたようだ。

2003年開幕直後の印象としては、身長に対して脚が長いために構えたとき(ほぼ棒立ち)の重心が高く、
日本の多彩な変化球に対応できずに振り回されている感じがある。
2002年にオリックスに在籍した足長パナマ人、フェルナンド・セギノールと似た状態である。
これを改善するには、2003年ヤクルトから巨人に移籍したこれまた足長のベネズエラ人、ロベルト・ペタジーニのように、
もっと腰を落とした構えのほうが、タイミングを外されても変化球に幾分か対応しやすいのでは? とも思える。
しかし、これまで育んできたフォームを簡単に変えるようでは自身の実力を出し切れないことが多いので、とりあえずは慣れることに期待。
守備は獲得時の寸評どおりなかなかのもので、私の実見したFsの外国人史上最も動ける選手。
【03年オフ追記】
以上はシーズン序盤の文であるが、長く見ていると守備はいささか不安なようにも感じた。打球の追い方が淡泊な面がある。
打撃のほうは最後まで変化球に対応できずに終わった感があるが、その面と故障離脱があっても31本・84打点の記録を残せたのは立派かも。
空振りがよく“気のないスイング”と言われるが、同じように見られがちなユキオ同様、
スイングの回転ではなく「バットを強く握ってその剛性で弾き返す」打法なので、スイングスピードが遅いのだ。
そのため、「弾き返す対象に出会えなかったスイング」の場合、非常にフヌケなスイングに見えてしまうのだ。
04年1月中旬の時点で、DTに代わる助っ人として、奇しくも前述のフェルナンド・セギノールの獲得が濃厚とされている。
この2人と2年連続の首位打者を獲得したオガでクリーンナップを組むというが…
【04年オフ追記】
セギノールの活躍に加え、オバンドーの復帰もあり、04年の特に後半はエンジェルの出番が減ってしまった。
オバンドーと2人揃ってスタメンから外れると、ユキオ、島田一輝と「恐怖の右大砲カルテット」として相手左投手への脅威となった(だろう)。
けっきょく04年のエンジェルは試合数、打率、本塁打、打点とすべて03年を下回り、オフに退団となった。

5 フェルナンド・セギノール●Fernando Alfredo Seguignol 内野手 2004〜2007 524試合 .284 122本 339打点 ◎04年本塁打王
エンジェルの項のとおり、Fsは2004年のクリーンナップ用にセギノールを獲得。2003年のシーズン中から目をつけていたとか。
ホームランを量産できるスイッチヒッターという、基本的には恐ろしい存在だ。
2003年はヤンキース傘下AAAコロンバスで.341・28本の2冠。松井ゴと一緒になるメジャーでは5試合で8打席・7打数1安打に終わった。
入団は春のキャンプまでずれ込んだが、オープン戦では3月14日のハマスタでセンター右へ場外アーチを放つなど活躍。
オープン戦はマイナーの成績どおり打率.344で終えた。
2002年のオリックス在籍時は89試合で23本塁打ながら打率は.204、47打点。三振は打数の37.1%の104個を喫した。
唯一の勲章は日本タイ記録である「一試合左右打席本塁打を年間三度」で、うち二試合は5月5・6日と連日の記録でこれは日本球界史上初だ。
日本でまた低打率にあえぐ心配の目がある中、2004年の来日時の本人は「経験を積んだために打撃のバランスがよくなった」と語った。
構えはオリックス時代とさほど変わらないが、始動すると腰がグッと沈むところは当時と変わったような気もする。
この動きがある分、体を硬直せずに球に合わせに行くことができるので、打率が上がったのではないか?
まさに、2003年のエンジェルに対して私が書いた文の通りの話なのだ。
4月を終えて打率は.457で首位打者(2位の近鉄・北川博敏は.385)、9本塁打、
24打点(ともに10本・29打点のダイエー・城島健司に続く2位)とヒルマン監督も「うれしい誤算」旨の発言をしたほどの大活躍。
4月29日、それまで『194cm・92kg』としていた身長・体重を『201cm・110kg』に訂正した(笑み)
7月のオールスター戦の時点で打率.325(6位)、30本塁打(1位)、71打点(2位)と未だ猛威を振るっている。
【04年オフ追記】
04年のFsの3位滑り込み・プレーオフ進出はこのセギノールの加入が大きな要因。
予想通りというか、後半はスランプもあって最終打率は.305となったが、02年のような低打率に落ち込むことはついぞなかった。
三振は02年より打席数が163も増えたにもかかわらず、110個。つまり02年より6つしか多くないのだ。
02年の日本での失敗と、03年のマイナーでの経験が大きく彼を変えた。
44本塁打は三冠王のダイエー・松中信彦と同数で本塁打王に輝いた。
【05年オフ追記】
05年は打率はそこそこに安定するものの、ホームランが出にくくなってしまった。
シーズン後半からようやく暴れはじめ、最終的に133試合出場で.288・31本・86打点。
試合数は前年を8試合上回ったが、打撃三部門はすべて下回ってしまった。三振141個はリーグトップ。
前後を打ったオガ・キモもそろって100以上の三振を喫し、Fsのチーム総三振は1151で史上ワースト記録となってしまった。
2006年シーズンの契約は難航したが、1月にようやく完了した。
【06年オフ追記】
06年は4番を務めあげたが、前半は地味。
後半は、同じく前半地味だった5番・稲葉とともに爆発、日本シリーズ優勝までその勢いは続いた。
しかし通年では77打点・26本塁打。04年108打点・44本塁打、05年86打点・31本塁打と数字は年々下降線。
前年同様、06年内の再契約には至らなかったが、年が明けてから再契約した。
【07年オフ追記】
年々迫力が落ちる一方で、134試合ほぼ四番専任で出たものの打率.249・21本塁打・68打点とFs入団後最低の成績。
日本シリーズで目を覚ましたように活躍したが、時すでに遅し。札幌から名古屋への移動中に戦力外確定の知らせを受けた。
多く立つ左打席での確実性がかなり落ち、オリックス時代に戻ってしまった感じがあった。

50 ライアン・ループ●Ryan Kittman Rupe 投手 2004 6試合 1勝4敗 6.67
シールバックに代わる先発投手として獲得。1975年3月31日生まれ、195cm104kgの大型選手である。
メジャーは1999〜2002年までデビルレイズ、03年はレッドソックスで登板している。
5年のキャリアで89試合のうち84試合が先発。
しかし、防御率は初年度の4.55(投球回数142.1回)以降、6.92(91回)、6.59(143.1回)、5.60(90回)、6.30(10回)と推移し、通算は5.85。
03年に移ったレッドソックスでは6月13日に初登板初先発で6回を投げ勝利したが、16日にすぐリリーフで2回を投げ負け投手。
22日、27日も1回ずつ投げたが、以降メジャーでの登板はなし。6月だけメジャーで投げていたわけだ。
日本にあてはめると学年は私Sizeや松井ゴと同じ昭和49年度で29歳。この数字を見ただけでは、日本で結果が出るのか微妙な線である。
いいところをとるなら、四死球が通算476.2回で162個ということ。コントロールがいいのか、すぐ打たれる球を投げているのかだ。
三振は355で、こちらもイニング数より少ない。
…と書いたあとに始まった2004年のオープン戦は防御率6.16と不振。
3月17日の東京ドームの近鉄戦では先発で5.2回で6失点。11安打1四球と、純粋に打たれて点を獲られていた。
球威もキレもなくただただ真ん中に投げるだけの投手という感じで、防御率も含め、私の書いたイメージ通りであった。
開幕ローテ入り。1度目の出番は雨で流れ初登板は4月6日のマリンでのロッテ戦。勝ちはつかなかったものの、6回1失点と好投した。
本番に強いのかという期待をされながら4月12日の札幌でのオリックス戦に先発するも、2.2イニングで7自責点・11失点の醜態。
つづく4月18日のロッテ戦の先発で1.2イニングで4失点の失態を演じ、防御率は通算10.45に。
ヒルマン曰く「あいつはメジャー時代から、打たれだすと止まらない」んだそうだ。この日を限りに即二軍落ちとなった。
以降、再昇格して前よりは安定感を見せるものの、勝ちには縁遠い状態だ。
【04年オフ追記】
「再昇格して前よりは安定感」の内容を書こう。
6月14日、再びマリンでのロッテ戦で6回7安打3失点。味方が3回に清水チョキから4点を奪ったのが功を奏して初白星。
これが日本で最初で最後の白星だった。2週間後には本拠地札幌ドームで得意のロッテ戦。
再び清水チョキと投げ合い7.1回を3失点で降板するも、味方の援護がなく黒星。
7月6日の札幌ドームでの近鉄戦は開幕11連勝中の岩隈との投げ合い。ファンは「捨て試合」と判断せざるを得ない組み合わせだ。
6.0回を4失点で降板。この試合を最後に二度と一軍のマウンドに立つことはなかった。
通算6試合は上記のとおりすべて先発。29.2回で四球9はさすが、そして被安打41もまた彼なりの数字である(笑み)
シーズン前の私の見方どおりの結果となったわけだ。05年はドジャース入りも、メジャー登板なし。

43 エリック・アルモンテ●Erick Almonte 内野手 2005 34試合 .193 3本 8打点
アルモンテという姓では、巨人に在籍したセットアッパー、ヘクター・アルモンテ投手が思い浮かぶ。
エリックはその実の弟。兄は巨体から剛速球を繰り出すも大味なイメージがあった。
こちらはFs初のショートを守れる内野手。が、エラーは決して少なくはないんだとか。
2003年にはヤンキースで故障のデレク・ジーターの代役としてショートでスタメンを張った期間がある。
メジャーでは01年8試合、03年31試合とそれぞれヤンキースで出たのがすべて。.269・1本塁打・11打点。
04年はインディアンズ傘下のAAA級で17本塁打。
彼の自慢はこれまでの野球人生で大きな故障が全くない頑丈な体だそうだ。
04年のFsのベストラインナップを考えると、ショートの金子が唯一、パワー不足のイメージがある。
ここにアルモンテが入って、助っ人として合格点の数字をはじきだすことになると、12球団でもトップクラスの重量打線になるはずだ。
問題は、守備マターで生きてきた金子がはずれたショートの穴を埋めることができるかどうかである。
なお背番号43は退団したエンジェルの番号が空いていたこともあるが、インディアンズでも43が登録の番号だった。奇縁なり。
さて、開幕すると打撃はサッパリ、守備はガッカリでまったく結果が出せず。
27試合・.205・3本・8打点というさみしすぎる数字を残し、5月5日という早い段階でナイトとともに二軍落ちした。
5月23日に二軍落ちしたオバンドーは6月4日に解雇の憂き目に遭っているが、アルモンテはイースタンながらプレーが続いた。
97打席で17四球。
打率の割に出塁率.354が目を見張るが、印象としては「なかなか振らない… というか変化球に手を出せない」バッターだ。
7月13日に一軍へ復帰したが秘めた力を出すことができず、8月8日に同じ崖っぷち助っ人のナイトと入れ替わって二軍落ち。
9月12日にそのナイトとともに退団・自由契約になることが発表された。

24 ブランドン・ナイト●Brandon Michael Knight 投手 2005 8試合 2敗 11.12
前年のセギノールにつづき、Fsはまたもや日本経験者を獲得。
ナイトは2003年にダイエーに先発候補として入団。すべて先発の16試合で87回・6勝4敗・4.86という数字を残した。
04年は故障に苦しみ、一軍では6試合の登板がすべてリリーフ。うち5試合は完了…つまり敗戦処理的な使われ方だった。
勝ち負けなしで防御率は12.00と振るわず解雇となった。
ダイエーでの最長イニングは日本初登板・03年3月29日のロッテ戦での7回と物足りない。
Fsはローテの一端を期待したループが失敗に終わり、先発のできる投手を求めて獲得。
かつてマイナーでヒルマン監督のもとでプレーしていたことも獲得の要因となった。
05年は前年二軍に加入したブラウン投手コーチの一軍昇格もあり、ナイトもダイエー時代よりは相談相手が増えたわけだ。
しかし03年の数字も飛び抜けていいものではなく、投球には荒さが目立つイメージ。
一軍外国人枠や04年の故障のこともあり、どれくらいやってくれるのかは未知数といえる。
ナイトもまた、ダイエー時代と同じ24番を背負うことになったが、これは前年35番だった隼人と巨人・河本育之が交換トレード、
さらに河本がオフに退団となり、04年24番だった山田勝彦がその35に変更したため。
05年のオープン戦では一発を浴びる場面が目立っていた。
開幕外国人枠の4つの席には入れず、オバンドーとともにイースタンで開幕を迎える。
開幕1・2戦目に先発したミラバル・トーマスがローテ3周目でそろって二軍落ちしていたこともあり、
一軍初登板は4月27日と意外と早く回ってきた。
先発。相手は古巣のソフトバンクだったが、4回7失点と見事にヒネられた。
それでもローテで回った5月4日の西武戦は、なんと打者9人に対して石井義人のサードファウルフライの一死しか獲れず。
ホセ・フェルナンデスの3ランを含む4安打3死球8失点(自責点5)で再びKOされると、翌日二軍落ち。
ちなみに4月12日の西武-Fs戦では、西武・クリストファー・ライト投手が先発、
先頭のSHINJOのセンターフライの一死しか獲れず5安打5失点でKO、翌13日にリリーフ登板し、14日二軍落ち。
その後登板がないまま6月6日に自由契約となっている。
ライトはかつてダイエーの入団テストを受けて落ちた経験があり、ナイトとライト、似たところが多い。
ナイトは8月8日にアルモンテと入れ替わりで一軍に復帰したものの、敗戦処理班。
9月3日に同じく敗戦処理班として昇格となったガンと入れ替わりに二軍落ち後、12日にアルモンテとともに退団・自由契約になることが発表された。

36 MICHEAL●Micheal Yoshihide Nakamura 投手 2005〜2008 198試合 11勝4敗102S 2.20 ◎06年最優秀救援投手
2003年はツインズ、04年はブルージェイズでメジャー登板した右投げのリリーバー。
独特のサイドスローからの、ヒルマン曰く「バレてても打てない」カーブは絶品。
名前のとおり日本にルーツがあり、国籍は日本とオーストラリアの二重、3歳で渡米するまでは奈良に住んでいた。
日本国籍があることからオリックスのマック鈴木や2008年Fs入団の多田野数人同様、メジャー経験があるにもかかわらずドラフト経由で入団となった。
登録名は前年加入のSHINJO(新庄剛志)に続いての英語表記。
標準的な“マイケル”はナイトのミドルネームのように“MICHAEL”と綴るが、彼の場合はEとAが逆になっていて、
これはメジャー時代の資料も同様のつづりとなっている(通常はMike Nakamuraだった)。
兄が巨人にいたアルモンテ、ダイエーから移籍のナイトとともに、2005年加入の助っ人はみんな日本にゆかりがある。

2005年は開幕当初多少のつまづきがあったが、調子を上げた6月はMICHEAL-横山のリレーが勝ちパターンに定着。
不調の建山を補う活躍を見せていたが、登板過多気味で月末に腰痛を理由にリタイア。
ファームでの調整を経て、9月23日にようやく一軍復帰を遂げた。
2006年から2008年までは不動のクローザーとなり、39S、34S、28Sと年々セーブは減ったが、防御率は2.19、2.16、2.14とほぼ同じ。
2008年オフ、工藤隆人とともに巨人・二岡智宏・林昌範との2対2の交換トレードが成立。
球団は代理人からの高額な昇給要求を警戒しつつ、右の強打者と左投手を獲りに行った。
MICHEAL本人はFsがお気に入りだったようだが、致し方なしというところか。
巨人では「M・中村」という登録名となった。

なお、懸念された“MICHEAL”のスペルミスはたまに起きたが、
いちばん酷かったのは2008年の『WE LOVE HOKKAIDOシリーズ』用オルタネイトユニフォーム。

着用期間が短期集中だったこともあり、修復されないまま2試合に登板した。
【補足:MICHEALは日本国籍があるため外国人枠には含まれないが、メジャー経験もあるためあえてこの項に加えた】

70/17 ブラッド・トーマス●Bradley Richard Thomas 投手 2005〜2006 38試合 5勝6敗2S 4.21
2005年の春季キャンプにテスト生として参加、合格となったサウスポー。
オーストラリア人で、MICHEALとは幼なじみだとか。
メジャー通算11試合登板。2001年は5試合すべて先発で登板。
02年はメジャー登板はなく、03・04とリリーフで3試合ずつ登板。
勝敗は01年2敗、03年2敗の通算3敗、防御率は9.89とメジャーのみの成績は振るわない。
Fsでは3月27日の開幕二戦目・ソフトバンク戦に先発(前日の開幕投手はミラバル)。3.1回4安打7四死球2失点で降板。
4月2日のオリックス戦では1.1回7安打3四死球8失点で1敗目。
4月9日のロッテ戦では1.1回8安打2四死球7失点で2敗目、翌日二軍落ちとなった。
試合では日本のストライクゾーンに不満があるように見受けられた。
イースタンで鍛え直し、5月31日に再昇格すると、リリーフで好投が見られるようになる。
6月29日の西武戦に再昇格後初・05年4度目の先発。しかし2-0で迎えた3回に四球・ヒット・四球で無死満塁とし、
4番・アレックス・カブレラを迎えたところで無念の降板。
リリーフの立石が三者凡退に斬ると、後続も無失点で4-0で勝利したが、
トーマスが先発に向いてないことが改めて露呈された試合となった。
以後、セットアッパーに専念。徐々に安定感が増し、立石、武田、建山とともにリリーフ軍団「フォーティーズ(4Ts)」を形成した。
9月23日にはスカイマークスタジアムでMICHEALの復帰祝いとばかりに155km/hを計測した。
シーズンが終わってみれば、4.66という「まぁ、見られる」防御率に落ち着いた。
結局、05年開幕期には誰もが想像できなかった「06年残留」が実現。背番号は伊達の巨人移籍で空いていた17に変更。
【06年オフ追記】
06年は中継ぎに専念。同じ左腕・岡島のトレード加入により、ビハインド要員的な扱いだった。
防御率は前年の4.66から3.74に上がり、安定感が増した。
アジアシリーズでも登板があったが、結局契約更新はされなかった。
岡島がFAでレッドソックスへ移ってしまったため、トーマスの離脱は少々勿体ない。

67 コリー・リー●Corey Lee 投手 2005〜2006 20試合 8勝7敗 3.42
先発候補として6月末に獲得したサウスポー。彼の獲得のために解雇となったオバンドーの背番号を継いだ。
来日前はエンゼルス傘下AAA級ソルトレイクで先発メインに13試合登板・5勝2敗・2.90の数字を残している。
140km/h台のストレートと、チェンジアップをはじめとした変化球のキレが武器。
面白いのは、投手ながらスイッチヒッターであること。交流戦は終わってしまったので、その器用な打撃は見られないが。
ひとまずはシーズン終了までの契約だそうだが、私Sizeの単なるカンでは、来季エース級にのし上がっているんではないかと…
(これは05年7月1日・未登板・姿もまったく見ていない状態で書いています…)
で、どうなったかというと、スゴイ! という部分はないが、先発投手としては5回以上の投球を守っていたので、合格点だ。
来日後に二度の左肩痛発生で、それによる先発回避も2度。ともに立石が代役先発をしている。
左肩にはガングリオンがあることもわかり、オフに手術の可能性が浮上した。
【06年オフ追記】
06年は安定して先発ローテを守っていたが、5勝3敗の数字の時点で故障再発・退団となった。
故障がなければ私の思ったとおりの形になったと思うので残念。

9 ホセ・マシーアス●Jose Prade Macias 内野手 2006 73試合 .229 3本 21打点
オバンドー、セギノールと同じパナマ人ながら、こんどは175cmという助っ人としては小柄な選手がやってきた。
メジャーの実績は7シーズンで659試合・打率.256・173打点・26本塁打。
デトロイト・タイガース時代の2001年はレギュラーでプレーしたようで、137試合に出場、打率.268・131安打・51打点・8本塁打という数字。
そして注目すべきはこの年の62得点・21盗塁・24二塁打・6三塁打という俊足っぷりが見える項目。
05年シーズンオフのベネズエラでのウインター・リーグでは84打数34安打・.405で首位打者に輝いたらしい。
スイッチヒッターでもあり、「セギの弟分」と言いたいところだが、セギは1975年、マシーアスは1972年生まれでこっちが年上。
最終所属のシカゴ・カブスではサードの控え。ほか、セカンドや外野もこなすユーティリティープレーヤー。
背番号は立派な番号である1をつけていた。Fsではブルックス以来の定番「背番号9の外国人」となった。
ベテラン。日本で化けるかも。
【06年オフ追記】
シーズン当初は1番打者として出ていたが、のちひちょりに奪われた。
二軍落ちがあったり、後半は代打や守備固め的起用が多く、化けることなく解雇となった。
日本シリーズに出られたのは幸運。
ただ、明るいキャラクターはベンチのムードメーカーとして貢献、セギノールにもいい影響を与えたようだ。

66 フェリックス・ディアス●Felix Antonio Diaz 投手 2006 8試合 3勝5敗 4.91
マシーアスに続き1月に入団が発表されたドミニカ共和国出身の選手。ベテランのマシーアスに対し、こちらは25歳と伸び盛りだ。
メジャーでは2004年にシカゴ・ホワイトソックスで18試合に登板。2勝5敗・防御率6.75。7試合は先発だった。
04年はAAA級でも19試合で10勝2敗・2.97の好成績だった。
三振・四死球ともに投球回数よりだいぶ少ない数字で、制球重視で打たせてとる感じなのかもしれない。
昨年はメジャー登板はなく、ホワイトソックス傘下のAAA級で21試合に登板し6勝8敗・5.00というなんともいえない成績。
三振・四死球が少なくメジャーでの防御率がよくないというのはループとキャラが被る。
ただ、若いという部分がちがうので、いい目が出る(芽でなくサイコロの目ね)といいのだが…
【06年オフ追記】
44イニングで奪三振22・四死球16はいつもどおりの数字だった。
外国人枠の関係で出番は少なく、6・7月に先発で頑張ったが、信頼は得られなかったようで、
シーズン途中での早い解雇となった。もうちょっと待ってあげてもよかったと思うのだが。

14 ライアン・グリン●Ryan David Glynn 投手 2007〜2008 50試合 16勝22敗 3.06
2006年4月下旬に楽天に途中加入した投手。7勝7敗・3.95の成績だったが、自軍の貧打のために勝てなかった試合もあった。
オフに再契約が難航したところでFsがかっさらった。力強いフォームの激投派。リーに代わる安定したローテ投手。
2007年4月15日に古巣・楽天を相手に移籍初勝利。ノムさんの楽天編成部に対するボヤキが止まらなかった。
一旦故障離脱したが復帰後は交流戦で活躍、先発した6試合はすべてチームが勝ち、自身も5勝。
交流戦MVPと6月のパ・月間MVPをダブル受賞。
ダルビッシュとともに、先発ローテの軸となって奮投。プレーはせっかちなのでボークが多かったりキレやすかったりするのが玉にキズだ。
防御率2.21ながら9勝に終わったが、打線が同点での降板直後に決勝点を叩き出したことも多く、
球数制限がなければあと4つくらいは勝っていたと思う。シーズン終盤に1試合だけリリーフ登板している。
2008年は7勝14敗と大きく負け越し。シーズン後半は盛り返したが、18被本塁打など、簡単に点を獲られるイメージだった。
2009年は横浜に移籍となったが、1年でまた戦力外となった。横浜ではかつて高橋雅裕に使われた『グリーングリーン』を用いた応援歌が復活した。

4 アンディ・グリーン●Andrew Mulligan Green 外野手 2007 18試合 .197 0本 3打点
ダイヤモンドバックスから来た野手。内外野守れるということだが、メジャーでは「左翼手」となっている。右投右打。
77年7月7日生まれ・176cm77kg・年俸7,600万円・07年入団 …と、生年月日ほか、いろいろと7がつきまとうが、中途半端な部分も(笑み)
Fsではサードを任される。開幕以降、攻守に渡って結果が出ず、4月中旬にはスタメンを外れることも…。
背中の張りを訴えていたこともあり、4月19日に二軍降格。
回復後はファームで2番を打ったりしているが、ジョーンズの加入で一軍は遠くなり、誕生日もファームで迎えた。
鎌ヶ谷では『キャンディ・キャンディ』のテーマが応援歌。
8月19日、ミッチの二軍落ちにより「ファームに外国人は2人もおけない」という理由で戦力外通告を受け退団決定。
ファームでは鎌ヶ谷で特大弾を放ったりしたが、パワー不足もあって再び一軍には呼ばれずじまい。
イースタンの成績は27試合・.214・6本・14打点。目立ったのは19四球。ヤクルトのガイエル同様なかなか振らないのが特徴だった。
どうやらチームが求めていない長打狙いの打撃を続けたのが失敗の元だったとか。

42 ブライアン・スウィーニー●Brian Edward Sweeney 投手 2007〜2009 70試合 23勝21敗 4.10
パドレスから来た投手。2006年は37試合・56.1回・2勝2Sというリリーバー。右投右打。
球威は大したことがなく、変化球で勝負するタイプ。
Fsでは先発。グリンとともに開幕から先発ローテーションに入る。制球が乱れ始めると手がつけられなくなる。
2007年はグリンに続いて4月18日の西武戦にて来日初勝利をマーク。5回1失点。
5月9日に再調整で二軍落ち。その後ファームでは好投を重ね、6月26日に中継ぎ要員として再登録。
中継ぎ勝利を経て8月に先発ローテーションに本格復帰、11日、17日と初の連勝。ようやく期待した力が出はじめた。
9月29日・勝てば優勝というマリンでのロッテ戦で先発し7回3安打1失点の好投を演じた。
登板日の天候が悪いことがよくあり、台風がらみで予告先発が2日連続流れるなど、雨男的存在でもある。
2008年はリーグトップの22被本塁打で防御率は3.48だったが、1完封を含む12勝5敗と勝ち運に恵まれた。
2009年はレギュラーシーズンで5勝8敗・5.32と低迷。大きなウリがない中2年連続3点台の防御率が拠り所だっただけに痛かった。
日本シリーズでは故障持ちのダルビッシュの代役としての準備をしていたが、ダルが登板したため出番は来ず。
結局ポストシーズンの登板はないまま戦力外となった。

15 ミッチ・ジョーンズ●Mitchell C. Jones 内野手 2007〜2008 38試合 .149 1本 7打点
2007年6月15日に獲得。ドジャース傘下AAAラスベガス51sでプレーしていた。
メジャー経験はないが、来日前まで52試合・.303・19本・60打点・長打率.697という「旬」の選手。
打点が試合数を超えているのがすごいが、いっぽうで三振もまた60を数える。
向こうでは外野手だったが、Fsは一塁手。打順は6-8番あたりでスタート。
AAA級で好成績=日本で成功する、というのはもはや成り立たないが、何かこの男は違う気がする…
…としていたが、来日後27試合で84打数14安打・1本・7打点、そして27三振(これは計算どおり?)と泣かず飛ばず。
下位で好きなように打つ形で使われていたが、8月14日の試合ではついに送りバントのサイン。これをしっかり決めたが、3日後の17日についに登録抹消。
以降、日本シリーズも含め一軍に呼ばれることはなかった。
鎌ヶ谷では『インディ・ジョーンズ』のテーマが応援歌。イースタンでは4本塁打。
2年契約のため残留したが、08年キャンプでは守備力や練習の積極性などに周囲から疑問符が出ている。
2008年は故障で出遅れ二軍スタート後昇格、一軍では8試合で3安打・打点0・10三振と結果がまったく出ずまた二軍落ち。
イースタンでは3本塁打したが、打率は.227と低迷。6月9日に戦力外通告を受けたことが発表された。
まさかホームランが1本で終わろうとは…

10 ターメル・スレッジ●Terrmel Sledge 外野手 2008〜2009・2012〜 230試合 .277 43本 157打点
2007年12月5日に獲得。アメリカ人と韓国人のハーフで、色が黒いがアジアっぽい顔をしている。
2007年はサンディエゴ・パドレスで100試合に出場し7本塁打した左打ちの選手(打率.210・23打点)。
外野のほか一塁もできるパワーヒッター、というふれこみだが、左投げなのでこの4ポジションしか守れない。
ミッチ同様三振が多いのが気になるところ。マイナーでは3割20発を打てる力がある。
メジャー通算成績は291試合・705打数174安打・25本・100打点・82四球・151三振・6盗塁。
春のキャンプなどでは流し打ちなどもみせスプレーヒッターかと思われたが、
開幕後は引っぱりが目立ち、相手チームのサードやレフトがライン側を大きく空けるシフトをとることもある。
試合のポイントでの打点の印象が強いが、意外に得点圏打率は低かった。
しかし、後半は故障離脱があったものの流し打ちも目立つようになり、最終的に得点圏打率は.355。
終盤の試合でもおいしいところでの活躍が多かった。
2009年は5番に座り、ホームランが11本増の27本、打点も19多い88打点を残した。打率は.289→.266と下がったが、前年より迫力が増した。
2年連続で故障離脱があったことが引っかかったのか、球団は大幅年俸増の提示はせず、11月中に契約更改ができずに自由契約に。
球団はマネーゲームを避けるとし、そのまま戻ることなくベイが獲得・移籍した。
このスレッジの退団で、2009年度に在籍したすべての外国人選手(他はボッツ・ウィング・ヒメネス)がチームを去った。
なお、2010年・ベイ1年目の成績は129試合・.252・28本・78打点と、数字から見える雰囲気はFs時代と変わっていないが、打率は毎年下降している。
2011年もベイでプレーしたが故障離脱もあり契約解除。2012年、Fsに再度加入、背番号はウルフが譲って再び10番を付けている。

39 ジェイソン・ボッツ●Jason Carl Botts 内野手 2008〜2009 66試合 .252 6本 22打点 
2008年6月13日に獲得。ミッチの解雇により入れ替わりでの入団。
レンジャーズに在籍したスイッチヒッターで、193cm、113kgと大柄な選手。
メジャーでは一塁手という登録だったが、外野も守れるとのこと。
2005年メジャーデビューで獲得時27歳と助っ人としてはピチピチのお年頃だ。
メジャー通算は93試合・.230・5本・28打点・108三振。
282打席でこの三振数… 大丈夫か?
…との懸念はやはり当たった。
来日後の鎌ヶ谷でのイースタンで左右両打席ホームランを打つなど期待を背負って一軍に合流、
五番・DHでデビューしたが、高めは身長の割に弱く、落ちる球にも見事に引っかかる穴だらけのタイプだった。
とくに左でヒットが出ないことから、一時は対左投手だけの起用や、出場後に投手が右に変わっても右打席で打たされたりと苦労が続く。
シーズン終盤、落ちる球へのガマン力が上がってくるとゴロが多いもののヒットが増えた。
打率も1割が精一杯だったところ、最終的に.254まで引き上げた。
レギュラーシーズンで5本塁打に終わったが、CS1stステージで完璧な一発を放つなど、ファンからは2009年での大化けが期待された。
少なくともミッチよりは…と思ったが、2年目はヒメネスの加入でDHですら出番がなく、一軍にほとんど呼ばれずに過ごす。
リーグ優勝翌日に久々に登録され3試合に出たがアピール仕切れず。CS前に戦力外となった。2009年の出場はわずか11試合。
使わずしてクビは惜しいが、イースタンでも42試合で7本・.252と物足りなかった。

49 ライアン・ウィング●Ryan Christopher Wing 投手 2009 出場なし 
2008年11月末に獲得した左投手。
2008年はアスレティックス傘下AAAサクラメントでプレー。
メジャー登板ナシ。マイナーではセーブを記録していない。
カットボールとカーブが武器。
球団は中継ぎ起用をメインに考えているが、力次第では先発もあるかも
…としていたが、3月に故障したっきり投げずじまいで、治療のために渡米したものの復帰ならずクビ。

14 ルイス・ヒメネス●Luis Jimenez 内野手 2009 39試合 .231 5本 14打点  
インテル・ミラノのオフェンシブ・ハーフで「魔術師」のニックネームを持ち、チリ代表のキャプテンでもある。
…というのがスポーツ界の「Luis Jimenez」のポピュラーなプロフィールだが、別人。
2009年春季キャンプに26歳でテスト生として参加し合格した内野手。
ベネズエラ出身で、2001年のプロデビューからマイナーリーグ一本。
左投左打・ポジションは一塁・左翼・DHとスレッジと丸被り。
ただし決定的に違うのは194cm・120kgというパワフルなスペック。
2008年はナショナルズ傘下AAで77試合で14発。AAAででは33試合で1発ながら、打率は3割を記録。
開幕からレギュラーでプレーしたが、徐々に見かけ倒しであることが判ってきた。
日本球界史上「最太」はまちがいないボンタンパンツでも話題をさらったが、球団上層部に注意を受けお蔵入り。
それからほどなく不振で二軍落ち。ファームでは覇気がなかったようで、練習もまともにやらず7月27日に戦力外となった。

10/17 ブライアン・ウルフ●Brian Thomas Wolfe 投手 2010〜 68試合 16勝14敗3S 3.43
2010年、Fsは外国人野手を獲らず、 長身の白人右腕投手ばかり3人を獲得した。
3人ともファーストネームが「B」なので「BBB(トリプルビー)」としよう。
このウルフは2007年にトロント・ブルージェイズでメジャーデビュー。
このデビューのタイミングが良く、歴史の浅いブルージェイズ史上500人目のプレーヤーとなったそうだ。
剛速球が武器のリリーバーで、開幕時はセットアッパーとして3試合各1イニング無失点と結果を出したが、
続く抑えの武田久がリリーフ失敗を続けると、その武田久と役どころが入れ替えられた。
4試合目が早くも抑えとしての登板となったが、オリックスのT-岡田に逆転3ランを浴び撃沈。カーライルのFs初勝利をフイにした。
剛球ながら低めに集めるコントロールが光るが、どうも安定しすぎるようだ。
抑えに入ってから変化球の不安定さが露呈され、僅差での起用は不安があり再び中継ぎへ。
その後安定したが、二軍落ち。これは先発転向の調整をするためだった。
9月3日に一軍で初先発するとストレートの勢いでガンガン攻め、5.2回を投げ先発での初勝利を挙げた。
当初キャッチャー(とくに大野奨太)と息が合わずカリカリする姿が目立ったが、チームに溶け込むとそれもなくなり、先発転向後はその大野とバッテリーを組んだ。
ヒーローインタビューでは大野の写真のプリントされた抱き枕をかかえながら大野とともにお立ち台に立った。
先発担当の9月・10月はなんとリーグの月間MVPに選出された。
オフにウィルフィン・オビスポや新人の斎藤佑樹、榎下陽大など先発候補が加入したことや建山義紀がFAで抜けたことにより2011年の配置は流動的だったが、
26試合すべて先発登板し、12勝11敗とローテーションの一員として活躍した。シーズン後半に息切れ感があったので、2012年は先発で1シーズン通す体力が課題となる。
スレッジの再加入により背番号10を譲り、2012年は17番となった。

12 バディ・カーライル●Earl L. "Buddy" Carlyle 投手 2010 7試合 3敗 4.88
2010年入団・BBBの2人目。
2001〜02年に阪神に在籍し、1年目は先発ローテーションに入り7勝10敗・3.87とまずまずの成績。
2年目はファーム暮らしが長く一軍では3試合の登板で退団した。
その後メジャー・マイナー・韓国とさまざまな環境でプレーした。
2010年は序盤の変則日程の都合から開幕8試合目にようやく初登板・初先発。
プレシーズンからの安定感そのままに6回4安打無失点と上々の投球だったが、
抑えとして初登板となったウルフがひっくり返されて初勝利はお預けとなった。
以後ローテで3試合に登板したが、被安打が多く3連敗し、3敗目の翌日・4月24日に二軍落ちとなった。
キャッチャーと息が合わずイライラする姿が目立った。
二軍で中継ぎ投手として調整し一軍にも帰ってきたが、敗戦処理格にとどまり、3試合に投げただけで再び降格。オフに退団となった。
結局1勝もできなかったが、ダルビッシュ有にワンシームを伝授するという置きみやげを残した。

31 ボビー・ケッペル●Robert Griffin "Bobby" Keppel 投手 2010〜 51試合 26勝14敗 3.28
2010年入団・BBBの3人目。BBBの中では196cmと最も長身。
2009年はミネソタ・ツインズでリリーフ専門に37試合・54回を投げたピチピチのメジャーリーガー。
プロ入りは2000年のニューヨーク・メッツのドラフト1位と輝かしい。
若干シュート回転するクセ球が武器で、テンポのよさも持ち味。
開幕3戦目の先発として初登板したが、わずか17球で脇腹痛を発症し1回限り降板。
同じく移籍加入の木田優夫がスクランブル登板し、そちらが初勝利を挙げた。
2度目の登板で初勝利を挙げ、BBBの中では一番いいスタートを切った。
温厚な性格だが、試合になるとキャッチャーと息が合わずキリキリする姿が目立ち、キレはじめると連打を喰らう姿はライアン・グリンに似ている。
開幕期の離脱以外はシーズン通してローテを貫き、25登板はすべて先発。
武田勝の14勝につづき、ダルビッシュ有と共にチーム2位の12勝を挙げた。リーグでは防御率8位(3.35)、勝利7位タイ。
シーズン後半は不調に陥ったため、攻略されがちな2年目は勝負になる。
…その2011年もすべて先発登板で14勝6敗・3.22と前年を上回る成績で2年目のジンクスは跳ね返した。

12 ウィルフィン・オビスポ●Wirfin Obispo 投手 2011  2試合 0勝0敗 54.00
2002年にボストン・レッドソックスと内野手として契約、2年後にシンシナティ・レッズに移ると投手へ転向した。
2007年に巨人に育成選手として入団。その後は支配下と育成の間を行ったり来たりした。
2009年に6勝を挙げシーズン後半戦のローテを支え、Fsとの日本シリーズでは第3戦で先発し勝ち投手になっている。
2010年は2勝にとどまり、防御率も5点台と不振。シーズン終了後須永英輝・紺田敏正と2-1のトレードでFsに移籍となった。
原辰徳直伝の握りのスライダーは「ハライダー」と命名されている。
Fsでは開幕当初一軍で2試合に登板したが、制球難で戦力にならなかった。札幌ドームのマウンドもフィットしないようだった。

9 マイカ・ホフパワー●Micah Hoffpauir 内野手 2011〜 112試合 .222 12本 36打点
2010年11月19日契約。2011年3月に31歳になる選手。左投左打で一塁手兼外野手。
キャリアはシカゴ・カブス傘下のマイナーが中心で、メジャーでのプレーはカブスで2008〜2010年の3シーズン。
2009年は105試合に出場し打率.239・10本塁打・35打点。2008年は33試合、2010年は24試合の出場にとどまっている。
2010年はAAA級アイオワ・カブスで118試合・.283・22本・95打点の活躍。
2008年には同チームで71試合の出場ながら.362・25本・100打点。同年のメジャーでも.342の高打率。
球団の評価では「リーダーシップもある頭脳的なパワーヒッター」。左利きのため守備位置は限られ、2010年のメジャーではファースト、レフト、ライトを守っている。
2010年シーズンは外国人野手不在で終始しFs打線は一発の魅力に欠けた(小谷野栄一・稲葉篤紀の16本がチーム最多。続いて糸井嘉男の15本、中田翔の9本…)ため、待望のタイプ。
同じファーストネームのマイカ・フランクリンの応援歌が復活した。
2011年は開幕直後に満塁弾を含むホームランを量産したが、梅雨時以降弱点がバレてまったく打てなくなってしまった。
人間的には人見知りがなく、明るい性格でチームに溶け込んでいるが、スタメンを外されていても陽気なのは難しいところ。ヘルメットを取ると意外にイケメン(笑み)
CS1stステージで西武・西口から久々に一発を放ったのが効いたのか?2012年も残留となった。

2 ボビー・スケールズ●Bobby Leon Scales 内野手 2011 80試合 .261 9本 30打点
2011年6月27日契約。カブスではホフパワーとチームメイトだったスイッチヒッター
。ジェロっぽい顔をしている。
田中賢介のシーズン絶望の故障離脱を受け急遽補強した選手で、セカンドを任せたものの守備はイマイチ。
元巨人・ロイド・モスビー的なフォームの打撃ではホフパワー同様デビュー当初はホームランを連発し「掘り出し物」か?と期待させたが、
伝統の助っ人の失敗パターン「スラッガーじゃないのにたまたま一発が続いたから大振りになる」にハマり、シーズン終盤はすっかり打てなくなっていた。
キャラクターは明るく、名前と“助っ人”の意味も合わせて「スケさん」と呼ばれ親しまれたが、ホフパワーと一緒に残留することなく契約終了した。
翌2012年、オリックス・バファローズへ再度シーズン途中加入。

62 ダスティン・モルケン●Dustin Molleken 投手 2012〜 
2012年7月18日契約。ピッツバーグ・パイレーツ、コロラド・ロッキーズのマイナーでプレーしてきた右腕

150km台のストレートとスライダーが武器で、増井浩俊・森内壽春らの疲れが目立ってきたセットアッパー担当として期待。
背番号はシーズン途中阪神へ移籍した今成亮太の62を継いだ。どことなく木田優夫に顔が似ている?

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