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栗花落 光さん


FMP(The Fedaration of Music Producers Japan)
FM802取締役編成部長の栗花落さんのインタビューをまたしてもネット上で発見!【わんたん】
(以下、FMP2001年1月2月合併号より抜粋)


●今月のVOICE 2001年1月2月合併号
栗花落 光さん 株式会社FM802取締役編成部長
 アーティストが出演依頼を受けた時に、マネージメント側が「果たしてこの番組(放送局)は音楽を大切にしているだろうか」と考えるのは当然である。大阪のFM802に関しては、栗花落 光さんと少しでも会話を交わす機会があれば、そんな杞憂はすぐに消えてしまうだろう。いや、それすらも必要がない程、会員各社には802の姿勢は浸透しているはずだが、FMP NEW YEAR PARTYにご出席いただいた翌日、栗花落さんに改めてお話を伺った。

インタビュー/山中 聡(FMP広報担当常務理事)
撮影/鈴木香織

PROFILE
栗花落 光(つゆり ひかる)
 1948年、京都市生まれ。71年、ラジオ大阪に入社。報道部に5年間勤務した後に制作部へ。アーティストをパーソナリティーに起用した音楽番組『JAM JAMイレブン』を企画制作、番組から生まれたイベント“JAM JAMスーパーロックフェスティバル”も開催。88年、FM802の設立に参加。編成部長として、89年よりイベント“ミート・ザ・ワールドビート”(スタート時は“FUNKY ROCK”)を手掛ける。

FM802開局までの経緯

●栗花落さんは、もともとラジオ大阪の報道部にいらしたんですよね。

「僕はクリスチャンなので、学生時代から教会でボランティアやチャリティー活動をすることが多かったんです。グウタラな信者でしたけどね(笑)。仕事を選ぶ時にその延長線上で、うちの親父が教師だったから最初の頃はイヤだったんですが、教師かマスコミ、ジャーナリズムの仕事をしたいと考えました。教師の方は教員免許を取っていなかったのであきらめたんですが、マスコミは新聞社を中心にいくつか入社試験を受けて……それで最終的に受かったのがラジオ大阪(OBC)だったんです。自分の希望通り、配属は報道部にしてもらって、5年間、記者の仕事をやりました。やはりボランティアやチャリティーをやっていた関係で、福祉につながってくるようなニュースに力を入れていましたね。特に興味を持って取り組んだのが、公害裁判みたいなケースのものでしたから」

●報道部から音楽番組の制作に興味が移ってきたのは、どういうきっかけからですか。

「27歳の時、会社の人事異動で、報道から制作部に行けと言われまして……。ラジオ大阪の番組は演芸路線が中心だったんですが、その中で自分に何ができるかと考えた時に、音楽番組があったという感じですね。音楽であればスポーツの次ぐらいに好きだったので、なんとなくできるかなとは思ったんです。それでまず、大阪や京都のライヴハウスにかよい始めました」

●いきなり報道から音楽の世界へ入っていくのは、人間関係的にも大変だったんじゃないですか。当時の音楽業界には、面白くてクセの強い方がたくさんいらっしゃったでしょう(笑)。

「その頃たまたま関西では、ライヴハウスのムーブメントが起きていて、上田正樹とサウス・トゥ・サウスやスターキング・デリシャス、ソー・バッド・レヴューなどのバンドがいました。その中でも、渡辺プロダクションの関西支社でノンストップというセクションを作っていた中井 猛(現スペースシャワーネットワーク)さんとの出会いが一番大きかったと思います。中井さんには今もお世話になっていますけど、当時はスターキング・デリシャスのマネージメントをやり始めた頃で、そこから色々な方々を紹介していただいてネットワークが広がっていったんです。今にして思うとあの時は、後にFMPの主要メンバーになられた方々が、それこそ新しい音楽のシーンを情熱と夢を持って作り始めた頃だったので、そういう時に色々な方と接点を持てたことは、本当に僕にとってはラッキーでした。正直に言えば、演芸番組が中心になっているラジオ局の中で、自分が制作の仕事をやっていく自信はなかったんです。できへんのちゃうかなと思っていたんですよ。ところがニューミュージック以降の新しい音楽の流れを作っている人たちと話してみると、音楽の知識や人脈がなくても、自分が感じていることをそのままぶつければいいんだと思うことができたんです」

●OBCからFM802の設立に参加されるまでの経緯は、どんな感じだったんですか。

「“AMで音楽番組をやったって数字取れへんよ”と言われ続けながら、OBCで細々と音楽番組をやっていて、実際にベスト10的な番組以外は聴取率を取るのは難しかったんです。そんな時に深夜放送のイベントをやろうという話になって、1979年に、万博のおまつり広場でJAM JAMスーパーロックフェスティバルという夏の野外ロックイベントを始めたんです。このイベントを手掛けたことが、今の仕事につながったんでしょう。
 東京でニッポン放送がエイティーズ・ジャム というイベントを始めたのも79年です。柳ジョージさんと桑名正博さんの曲が、化粧品会社のキャンペーンソングに選ばれたのも79年、前の年にはサザンオールスターズがデビューして、山下達郎さんが関西のディスコシーンで話題になっていました。つまりロック系のアーティストがいきなりメジャーなシーンに登場した年だったんです。結果的にそういう人たちが皆さんJAM JAM〜に出てくれて、1年目はすごくいい形でできました。でも、それからJAM JAM〜が6年ぐらい続いて色々と人間関係が広がっていく中で、大阪のAM局で音楽番組やイベント制作をやっていくことに限界を感じるようになっていったんです。少し違うフィールド、具体的にはFM局だったんですが、そこでもう一度、自分のやりたいことをやってみたいという気持ちが生まれてきました。そんな時に大阪でも新しいFM局が誕生する話があって、うまくチャンスをつかめたんですね」

大阪の地域性と“FUNKY”

●802のステーションカラーというのは、設立当初どういうふうに考えて作られたんですか。

「一番シンプルに言うと、ミュージックステーションにするというのは最初から決まってたんです。その先の“じゃあ、どんなミュージックステーションにするのか”ということでは色々とブレストもしました。関東では85年にFM横浜が開局して、J-WAVEがスタートしたのが88年ですよね。久々にラジオというメディアが、若者のカルチャーの中で影響力を持った出来事でしょう。そういった意味では、1年前に開局してすごく話題になってるJ-WAVEをお手本にできる部分はあったと思います。ただ、東京と同じコンセプトでは大阪で成功しないことも確かなんです。
 東京というのは常に全国発信ですが、大阪はあくまでも関西というローカルマーケットに対してどう発信するかがテーマなんです。東京から来るものに必然的にならされてしまうことに対して反発と敗北感を味わいつつ、どこかで一種、憧れもあるんですね。関西人のエネルギーというのは、プライドと憧れ、その二つがぶつかり合って生まれてくるんです。そんなことをみんなでブレストしている中で、辿り着いたのがFUNKYという言葉でした。原色が好きとか、より人間臭いとか、ダイレクトだとか、大阪を形容する時に使う言葉を、音楽的なキーワードに置き換えてみたんです。大阪には、ニューヨークのダウンタウンが持っている雑食性に似たエネルギーがありますから。
 それと関西という商業圏は、ラジオというメディアやソフトビジネスにとって、非常に適度な大きさだと思うんです。よく音楽産業の中で関西が占めるシェアは18%から20%ぐらいと言いますけど、それぐらいのパーソン・トゥ・パーソンな関係が保てるスケールでヒットすると、全国に波及していきやすいんじゃないでしょうか。これが10%以下だと全国へ広がるまで時間がかかり過ぎてしまいますからね。そういうことを頭に入れて、リスナーとダイレクトに触れられるイベントを大切にしていこうと思いましたし、音楽以外のアート、映画、芝居などの分野の人たちとも常にコミュニケーションを取っていこうと考えたんです」

●そういった設立当初のコンセプトというのは、開局してから時とともに風化してしまいがちですが、802は一貫していますよね。

「制作会社の方とか、マネージメントや大阪のレコード会社、コンサートプロモーターの方との人間関係がディスコミュニケーションにならないことだけには、かなり気をつけてやってきたつもりなんです。それでもなかなか理想的にはいかなくて、トラブルがあったこともありますけどね。それともう一つは、ラジオ局としてのビジネスがうまくいったことも、前提として大きいと思うんです。開局したのがバブルがまだ残っていた89年で、その後も営業成績と聴取率が一定以上キープできた。これがもし両方ともすごく落ち込んでいてたら、理想的な形ではこれなかったでしょう。例えば音楽出版のビジネスが必要になったり、レコード会社にお世話になってタイム提供の番組を持たなくてはいけなくなったかも知れない。それを崩さずにディレクターやDJにとって自由な環境を提供し続けられたという点では、非常にラッキーだったと思います。 」

これからもラジオは“1対1”

●衛星放送やインターネットの普及ということで言うと、栗花落さんのおっしゃった地域性みたいなものが失われていく可能性もありますよね。

「ローカルな視点からの情報発信がどうなっていくのか、色々と不安は感じていたんですが、うちでもインターネットにかなりの力を入れていくうちに、ローカルなマーケットとのコミュニケーションをより深めるためにも、大きく作用するツールなんだという気がしてきたんです。一番の基本は、発信基地であるステーションとリスナーの1対1の関係。それが基盤になって、結果的に大きく広がっていくことしかありえないだろうと思います。こういう時代だからこそ、ラジオはしんどいと言われるんですけど、むしろ僕らの方がコミュニケーションの基盤という面ではアドバンテージがあるかもしれない。これからも作り手側の気持ちを伝えていく、ラジオ本来のコミュニケーションを改めて大切にしていくべきだと思います」

●例えば映像であればPV1本で200万円、300万円の予算は最低かかってしまう。そうすると明らかにメジャーの論理が入り込んできます。僕たちの根幹は“音”ですから、ラジオから発信する情報を意図的に使っていくことはこれからも大事だと思いますね。

「マスメディアとしてのラジオの役割は、かなり低くなっていると思いますから、クラスメディアとして、グルーピングされたリスナーに的確にメッセージを届けていくことが、今後はすごく重要になってくるでしょう。FMだから若い人だけを相手にするという考え方も、僕はもう違ってきていると思います。今、最も人口的に多いゾーンは、50代前半になってきてるわけで、そういう人たちに向けたFM局もあるべきですよね。今まではインフラやハードとしての放送局ばかりが取り沙汰されて、結果的には多局化はしてきたものの、皆が同じ方向を向いてやっているような気がするんです。同じところのパイを取り合いをするのではなく、色々な感性の人たちに、色々な音楽やコンテンツを提供していけるようなステーションが増えていけば、日本の音楽シーンも少し違った動きをしてくるんじゃないでしょうか」

●最後に栗花落さんの個人的な夢を伺います。

「今もお話しましたが、もしもう一度、僕が新しい放送局の開局に関われるとしたら、52歳で音楽が好き、スポーツも大好きみたいな、自分と同じ感性のリスナーが聞くようなラジオをやれたら面白いなと思いますね。『ラジオ深夜便』だけがシルバー世代のラジオじゃないですよ(笑)。夢というレベルでは、本当に自分が好きで、いいと思う音楽だけを紹介できれば一番楽しいでしょうね」



BACK TRACK 言葉の背景

 栗花落さんといえばライヴ、というイメージを持っている方も多いであろう。それはOBC時代のJAM JAMスーパーロックフェスティバル、そしてそのスタッフとスピリットが引き継がれたミート・ザ・ワールド・ビートを栗花落さんが手掛けてこられたからだけではなく、大阪、東京問わず、多くのコンサート会場で氏の姿をお見かけすることに起因するはずである。そこで栗花落さんには、昨今のライヴ事情の変化についてもお伺いしてみた。
「お客さんのコンサートの聴き方、参加の仕方はすごく変わってきてると思います。ライヴで一番大切なのは、演奏するアーティストと客席の関係だと思うんですが、最近はお客さんが音楽のジャンルや会場の環境を考えて、色々な対応をするノウハウを身に付けてきたんじゃないでしょうか。毎年夏にやっているミート・ザ・ワールド・ビートでも、JAM JAM〜を始めた頃とは、お客さんの楽しみ方は全然違ってきていますよね。野外コンサートの楽しみ方が浸透してきていますし、オムニバス形式でも、いいライヴをしたアーティストにはそれなりのリアクションを返せるお客さんがいます。出演してくれるアーティストの方々も、自分のお客さんだけを相手にするだけではなく、少しでもファンを広げるチャンスだと思って出てくれているでしょうしね。初めに強いメッセージがあるAAAのコンサートでは、ここ何年か出演アーティストの名前は発表せずにチケットを売り出しているんですが、その意味をお客さんも分かってきてくれていると思います」



今月のTRACK DOWN

 一昨年になるが大阪城ホールでマザーズ・ラブというイベントがあった。小さな子供を持つ事でコンサートから足が遠のかざるを得ないお母さんたちのためのイベント。保母さんがいる託児所をホール内に用意して、大好評のイベントだった。栗花落さんから企画をうかがってから当日まで、3、4年かけて丁寧に実行された。
 これからも栗花落さんとご一緒できる音楽に携わり続けていたいものです。(山中 聡)



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