夢のアイランドは向こう側

 ―宝塚歌劇を輝かせた人々―

          宮田 達夫

  

目 次

 

序 章 「夢のアイランドは向こう側」執筆にあたって

第一章 夢のアイランドは向こう側

第二章 宝塚音楽学校 伝統のきまりごと

第三章 宝塚歌劇 神秘のベールの中へ

第四章 テレビワイドニュースに宝塚歌劇登場

第五章 タカラヅカ男役の魅力

第六章 スターがサヨナラするとき

第七章 麻路さきの会をメディアが結成

第八章 ホープ三人組の時代、涼風・一路・麻路

第九章 生徒が気持ちを綴った白い本「上」

第十章 生徒が気持ちを綴った白い本「下」

第十一章 宝塚 ジャングル物語

第十二章 夢を見ながら現実へ

第十三章 タカラヅカ 夢と共に去りぬ

  あとがき

  

 

序章 「夢のアイランドは向こう側」執筆にあたって

 

「宝塚大劇場の強い照明に映える青黛を使った宝塚歌劇独特の化粧、端正な甘い顔の伝統的男役、宝塚独特の甘い愛をテーマにした物語、パープルピンクの照明が照らし出すフェアリーさを感じさすトップスター、そこに流れる甘い切ない宝塚メロディ」

こんな宝塚の舞台がいつしか消えかかっている。

 白井鐡造、高木史朗らが築いた宝塚の宝は、創立七十周年を過ぎるころから磨り減り始めていた。スタッフも定年で去ったり亡くなったりして、気づいた時は宝塚歌劇という大切なノウハウが継承されないまま、次の時代に突入していた。最近はメディアでも稽古場に入れないという。かつては演出家もプロデューサーも皆が稽古場を見て欲しいと言い、生徒、そして皆でいい舞台を創ろうという気運が漂っていた。

 私も長い間テレビのニュース番組で宝塚を取り上げてきた。稽古場の風景、本通し、舞台稽古、稽古場からの生中継、初舞台生のロケット、音楽学校合格発表、入学式、卒業式、予科生の掃除風景と、私はそのすべてを取材を通して目撃してきた。それが今は何か遠い彼方の出来事になってしまったようだ。もうほとんどの人が以前の稽古場の雰囲気すら知らない時代になっている。

 もちろん生徒の気質も変わり始めた。一番に変わったことは、タカラジェンヌ風が無くなったこと。普段の姿を見ていると、この人は男役なのか女役なのか判らない姿をしていることだ。たぶん宝塚音楽学校の生徒だけが極秘に決めた親にも話さない十ヶ条の決まりごとも、あまりご存知ある方はいないと思う。

 そこでその昔、そんな昔でもないが、私が稽古場等で見たり聞いたりした事実を率直に知ってもらい、宝塚とはこんな夢のようなところだったということを検証できればということだ。

 鳳蘭、安奈淳、榛名由梨、汀夏子のトップ時代、初風諄が引退直前から一路真輝、涼風真世、麻路さきのトップ時代までだ。

 私の手元に「白い本」と名づけた本がある。本といっても中味は真っ白で、そこに稽古場で気心知れた生徒に「貴女にとって宝塚は何?」という問いに、各々の思いを書いてもらった。その白い本がなければ「夢のアイランドは向こう側」は文字通り、生まれなかった。夢があったところに夢がなくなり、夢はどこか向こう側に去ってしまったという意味だ。これを読んで少しでも昔の良き時代を感じてもらえれば、過去にテレビを通して宝塚歌劇を世の中に伝えて来た者としては嬉しい限りだ。

 今は亡き内海重典さんには万博ニュースに出演を、高木史朗さんは取材を、寺田瀧雄さんにはポートピア81の番組で弾いたメロディが譜面になって出てくるピアノで演奏をお願いした。振付の喜多弘さんは初舞台生のロケットの稽古場で取材を、朱里みさをさんにはインタビューを、岡正躬さんは稽古場で細かく解説を、黒瀧月紀夫さんは稽古場でボヤキを聞き、天津乙女さんは芸歴六十年のパーティをテレビで生中継した。

市川安男理事長は人の話をよく聞く方だった。今日の宝塚を築いた貴重な方々だった。走馬灯のように想い出される。まだお元気な元理事長の坂治彦さん、荒木義男さん、植田紳爾さんには、毎日放送の新社屋披露の時、特別公演を提供していただいたり、麻路さき写真展の開催のご協力をいただいたりして、感謝の気持ちで一杯です。なお、文中の敬称は省かせていただく。


第一章 夢のアイランドは向こう側

 宝塚界隈は熱気に包まれていた。全国的に盛り上がり、宝塚歌劇を知らない人でも知るようになった「ベルサイユのばら」の総集編の公演がひかえていたからだ。前売り切符を求める人たちは熱気どころか殺気だっていた。切符の仕切りは公演をする組のファンクラブの幹部、何時に点呼するか判らない中の行列だけに皆異常な状態だ。その点呼の時に居なければ権利はなくなるので、皆必死だ。早くから出来た行列も、時間が経つに連れて騒然さは一段と激しさをました。

 北野はこれを最近出来た夕方のワイドニュースに取り上げるべく、次の点呼が何時に行われるか、しかるべき筋の人に探った。午前零時に点呼をするということが判ったが、取材に来るという情報もまた直ぐに逆にファンクラブに流れた。北野と取材クルーは密かにファミリーランドの正面入り口が見える木陰に車を止め、様子を時計で伺っていた。

針が零時を指したとたん、どこにいたのか何百人という人が集まって来た。そしてノートを持った女の人を囲んだ。今だ、カメラマンがカメラを持って行列に向かった。途端に行列の集団が騒ぎ出した。撮るなと言う男の声が響いてきた。並んでいる人の中にかなりの男の大人がいたのだった。遅い時間なので娘のために代わりに来て並んでいたのだ。カメラマンが余りにもあからさまに撮ろうとしたのもいけなかった。

車に帰ってきたカメラマンは、三百人位が一グループで、その代表が点呼を受けて終わりでした。点呼するほうはノートに名前が書き込んでありました、と説明してくれた。真夜中の行列はあっという間に姿を消した。その仕切りの見事さはたいしたものだった。

 宝塚歌劇団の稽古場は劇団事務所の三階にあった。二階にある事務所の横を通り細い階段を上ると、そこには大劇場の舞台と同じ寸法の広さがある一番教室という稽古場がある。北野は心をどきどきさせながらカメラマンと階段を上った。星組公演の「ベルサイユのばらパートⅢ」に出演する鳳蘭、榛名由梨、初風諄が稽古の合間インタビューを待っているからである。

 初風諄は「ベルサイユのばらⅢ」のこの公演で退団が決まっている。鳳、榛名はまだこれからの人だ。昭和五十一年三月二十五日の初日まじかである。舞台で見慣れた顔に北野は圧倒された。

初風にはマリーアントワネットを演じて退団する気持ちを聞いた。フェルゼンを演じる鳳蘭には「ベルサイユのばら」の舞台のことを、榛名由梨にはオスカルのことを聞いた。

北野はかなりインタビューしたつもりだったが、時間にすれば五分ぐらいだった。フィルムの時代で音声はマグネの時代だった。カメラマンはあまりこの手のものを得意とする人間ではなく、現場ではスターを目の前にかなりあがっていた。カメラのフィルムを取り替える手がふるえるのがその証拠だった。

 「ベルサイユのばら」の脚本演出の植田紳爾はプログラムにこう書いている。

「山をこえればまた山ありき霧深く閉ざしたり、これは恩師北条秀司先生が書いて下さった色紙の詩で、私の机の前にいつも置いてあります。まったく私たちの仕事というものは一つ一つ山を登っていくようなものです。この『ベルサイユのばら』もそうでした。一作、二作、三作と次々にけわしい山がそびえ、ひき返すこともならず苦しくつらい山道を只一人、道をさがして登り続けました。以下略」

 この作品が後に宝塚歌劇の油脈になるとは植田でも考えていなかっただろう。この公演で初舞台を踏み、後に星組のトップスターになった生徒がいた。日向薫だ。

このころの宝塚歌劇団事務所は年月を感じさせる古い建物の二階にあった。木製のドアを開けると部屋の中に机が点在して左手奥が理事長室だ。手前にプロデューサーの机があり、あとは総務や宣伝が混在していた。生徒も稽古の行き帰りなどには気軽に事務所の中に来て皆と雑談をして帰った。演出家の部屋は別に小部屋があったが、そこで何が出来るという雰囲気の部屋ではなかった。

「ベルサイユのばらⅢ」

二部三十場 原作池田理代子、演出長谷川一夫、脚本演出植田紳爾、制作野田浜之助。

このプロデューサーの野田が後にも先にも本当のプロデューサーと言える人だった。頑固そうな顔をしており、いかにもひと癖もふた癖もあるぞという感じがした。後年野田を知る人は、どんなことでも自分が出かけてことを済ませる人だと話している。

 宝塚歌劇のプロデューサーは、元来、阪急電鉄の社員が人事異動でやってくるのが常である。したがって宝塚が好きで来るのではない。判りやすく言えば、電車の運行をしていた人が今日からプロデューサーということである。中には自分は宝塚歌劇に来るために入社したのではないと言い切る人もいた。

 もう一つ、各組の面倒を見る生徒監、生徒に通称おとうちゃんと呼ばれる人がいる。これはだいたい駅長を経た人が来るケースが常である。簡単に言えば生徒の雑務係である。インタビューも広報宣伝の担当者に依頼して時間を生徒にあけさせる。

 今回は北野が勤めている放送局が、夕方に新しく設けたワイドニュースの中の目玉企画である。昭和五十一年三月のことだ。北野は宝塚のタの字も知らない。それまで大阪府警担当で事件取材に走りまわっていた。要は事件感覚で取材をしよう。生徒は大阪府警の刑事だと思えばいい。北野はそう考えた。

 時の宝塚歌劇の四大スターは汀夏子、榛名由梨、安奈淳、鳳蘭であった。娘役は遥くららをはじめたくさんいたが、男役から変身した大柄の遥くららの愛称はモックで、愛称ツレの鳳蘭とのコンビは息がぴったりだった。

 北野の知り合いの宝塚音楽学校で演劇を教えている人が、天津乙女の主役で「くるるんるん」という芝居をするというので、いい機会だと思い、天津乙女を稽古場で取材することにした。

天津乙女はすでに理事で専科専属、小柄で生まれが東京深川だけにハキハキしていた。フィルムのカメラでインタビューしていると、途中でフィルム切れになり、カメラマンがフィルムの入れ替えに手間取っていると、乙女さんが、貴方大丈夫なの本当にカメラマンなのと聞くので、カメラマンが思わずカメラマンに間違いありませんと答えたのが妙に受けた。

この組に後に花組のトップスターになる大浦みずきがいたが、このとはまだ顔が丸かったのが印象的に北野の脳裏に焼きついていた。「くるるんるん」は宝塚大歌劇場だけの宝塚友の会公演で東京には行かない演し物だった。

 天津乙女さんの愛称はエイコさんで、これは鳥居栄子の本名からだ。エイコさんは北野のインタビューに対し、

「昔はこうして直に聞くなんてこと無かったのよ。劇団の誰かが聞きに来て答えを持っていったものよ」

と話した。でもエイコさんは北野の取材に対して、嫌悪感は持たず好感を持ったようだった。

 昭和五十一年ごろの民放各社は、それまで漫画などでごまかしていた午後六時台の放送枠を、心機一転して主婦向きのニュースにしようという方向に変わっていた。北野はそのため、それまで誰も手をつけなかった宝塚に目をつけたのだ。宝塚歌劇が夢のアイランドに見えたからだ。

 そのころ、「ベルサイユのばら」で一気に人気沸騰した宝塚の舞台に立つには、宝塚音楽学校に入らなくてはならない。そのため入学希望者が殺到した。競争率五十一倍、取材には格好な対象だ。

北野はさっそくその受験風景を取材に行ったが、何しろ中学三年以上高校三年までという年齢制限の中で受験するだけに、学校に内緒で受験する人がほとんどのため、テレビに顔が出ることに問題があり取材は不可能であった。そこで音楽学校の合格発表を取材することにした。伝統ある音楽学校の校門を入って玄関の横の壁に合格番号を書いた紙が張り出されるのだ。

 東京と宝塚で第一次の試験があり、続いて宝塚で第二次試験、バレエ、声楽に課題曲がある。なにしろ十五歳か十六歳から十八歳までの女の子が、試験場にはむずかしい顔をした劇団の演出家などが居並ぶ中、緊張の中で各科目をこなしていくのだから大変だ。

バレエの試験の最中に、転んでも、すっくと起き上がり踊りを続ける子は採点がいい、つまり、めげずに堂々としていると、これまた舞台人の素質ありと見てくれるからだ。運が悪いと大きい子にはさまれ、さほど小さくないのに小さく見えてしまう運のない子もいる。女の子の子供に近い年ごろは顔がだんだん変わっていく、そこを試験官は見抜かないといけない。大人になった時の顔を想像するわけだ。

 宝塚歌劇団の演出家、内海重典から聞いた話。遥くららが受験した時、彼女は入る気も無かったというが、試験場で見た彼女の顔は華があり可愛いい。これぞ宝塚娘役という雰囲気があったという。最終試験が終わり、彼女は受かる気も無いので、制服の寸法もとらずにいたという。

そして発表の日、受かっているのも知らずに花の道を歩いているところを偶然、内海重典と出会い合格を聞かされた。入学式が数日後なので、制服は間に合わないので、上級生の古い制服を借り入学式に臨んだという。このとき内海重典が彼女を花の道で見過ごしていたら、その後の彼女の人生も変わっていたかもしれない。

 遥くららの音楽学校入学の経緯を書いたら、久々に遥くららさんから電話があり、私の記憶ではこんなことだったと詳しく話してくれたので、それをここに披露しよう。

 遥くらら愛称モックは、親類両親の反対を押し切り、受けるだけということで宝塚音楽学校を受験。そして父親と音楽学校の合格発表を見に行った。仮に合格しても入学しないと父とは約束していたという。ところが計算外に合格していたのだ。それでも約束だから帰ろうということで、合格した人はすぐに制服を注文するが、それもしないで花の道を歩いていたそうだ。

 それを花の道の横の建物の中のアベニューというコーヒー店から、当時の理事長の荒木さんが見ていたらしく、秘書が呼びに来て、モックは父親と荒木さんに会い、家族が反対しているので入らないと説明。当時の理事長荒木さんは入ったらと言うので、それでは母と相談するということで帰京した。モックは高校二年生なので、そのまま学校に通学していたそうだ。そうしたら劇団から電話が掛かり、両親が考えた挙句に、学校から帰ってきたモックは、もう学校に行かなくていいと言われ、宝塚に向ったそうだ。

 そして、すみれ寮で当時の寮長さんが、二年か三年上級生の持っていた音楽学校の制服の裾を上げてくれて、入学式に着ていくことが出来たという。推測ではコーヒー店で荒木さんの傍に内海重典さんが居て、花の道を歩いているモック親子を見て、

「あっ、あの子帰ってしまうぞ、あの子は入学させないと惜しい

と荒木さんに話したのだと考えられる。荒木さんも内海重典さんも、すでに亡くなられているが、その後のモックの活躍を見ると、運とはそんなものなのだろう。人生のすべては運だ。

 後の話であるが、遥くららから聞いた話。入団後TBSの朝のドラマに出ることになった。これがかなり好評で、後に宝塚の舞台で彼女を見た人が、あの人はテレビ女優ではなかったのというほど間違えられた。

そのドラマに出る条件が実に可愛いく彼女らしい。それはトップスのチョコレートケーキが毎日食べられることだった。後に毎日食べていたので彼女は太り、このため宣伝部からトップスのケーキまかりならぬというお達しが出てしまったというエピソードがある。

第二章 宝塚音楽学校 伝統のきまりごと

 

 

 宝塚音楽学校の合格発表は、四月のしかるべき日で時間は午前十一時と決まっている。

校門前には一時間ぐらい前から何となく人がたむろし始める。校門の中には入らないのが面白い。十一時の時間が近づくにつれ人数は増える。そこに生徒監の香川が合格番号を書いた紙を巻物状にして玄関から姿を見せると、それまで校門外にいた群集がどっと前に出る。香川が巻物状を掲示板に横にするすると滑らせると、そのとたん歓声ともうめきともつかない泣き声が一斉にあたりを包むのである。合格した人は泣き、不合格の人はそっと姿を消していくのが不思議だ。

 北野は合格した女の子に気持ちを聞いた。マイクに向かって嬉しい、夢みたい、スターを目指します、二回目なんです、いろいろあって放送するとものすごい反響があった。

やがて本科生が、合格した方は中に入ってくださいと言うと、そこで初めて合格者は我にかえるのだ。中には自分で見に来ることが出来ないので代理の人に見にきてもらい、合格と判るとホテルからあわてて駆けつける人もいる。本科生も試験の時にすでに顔なじみになっており、校舎の入り口で合格した人に、よかったねと声をかけたりしているのも面白い。

 ここから先は生徒監の出番である。親子で座らせ、保険証、印鑑、銀行は池田銀行にとか、これだけは決して忘れてはいけないとか、こんこんと説明をする。そして横の部屋で待ち受けている阪急デパートの店員が、帽子の採寸、制服の採寸、着物の採寸と順次行っていく。合格した女の子たちの顔は緊張で心は舞い上がっている。

生徒監は香川。生徒監の仕事は校長の命を受けて生徒の日常の操行および勤怠に関して一切の事務を監督すると学則で決められている。彼が指導する入学式の予行練習の特訓が数日後にある。合格者と親を前に香川は、

「これからは私が皆さんの親代わりです。びしびし躾けますから、そのつもりで覚悟してください」

 と告げて、予科入学式前の準備についてと書かれた一枚の紙を配った。それには入学式前に準備しておくもの、入学式当日持参するものが細かく記されている。特に自分の持ち物には、必ず学校地番と氏名を記入すること、印鑑は必要なので本人に必ず持参させることの三ヶ所に傍線が引いてあった。

入学式の予行練習は入学式の前日。そして入学式を迎える。女の子たちが夢にまで見た宝塚音楽学校生徒としての入学式では、あの合格発表時の、まとまりの無かった女の子たちは香川の指導で見事な予科生に変身していた。グレーの制服に身を包んで、長かったり、中途半端な髪は短く、あるいは長髪はピンでぴっちりと留められている。そのピンの数は百本といわれた。

 起立、着席、香川の一声で予科生は一人の乱れもない動作を見せた。座る時でも座ったら身動き一つしない。背もたれに背中をつけない。背筋は全員しゃんとしている。顔にぶつぶつがある子が目立つ。環境の変化であろう。それもそのはず、今までまったく違った生活をしてきた女の子四十人が、同じ生活をするのだから人生の文化革命である。

 入学式の最後に、本科生から一対一で念願の音楽学校の校章を胸に着けてもらい、その位置とかその他の注意を言われるのを聞きながら涙を流している予科生もいる。これが最大の入学式の行事だ。これで二年間無事過ごし卒業出来れば、夢のアイランドは向こう側にある宝塚歌劇団に入団出来るのだ。

 香川の娘も花咲かおりという芸名で宝塚歌劇団の生徒であった。北野は熊野宝塚音楽学校校長に、後に入学者に有名人の子供が居たら事前に教えて欲しいし、全体の内容説明もして欲しいと頼むと、熊野校長は軽く引き受け、それ以後、合格発表前にメディアに教室でレクチュアが行われた。

 

 このころの宝塚音楽学校校則は学科課程と授業時間をこう決めていた。

音楽は声、器楽、音楽史、音楽理論。舞踊は日本舞踊、西洋舞踊、現代舞踊。体操。演劇は朗読、演技、台詞、演劇理論。教養は文化史、芸術理論、時事、礼儀作法で授業時間は予科四十時間、本科四十時間となっていた。

入学志願者については、次のことを考査して選抜すると記されている。

容姿、即往の学業操行、芸能の素質、人物、身体。月曜日の朝一時限には学科課程にない朝礼が本科予科ともに合同で行われた。

 八十何年続いてきた宝塚音楽学校予科生のしきたりは、ボールペンの字の太さから色、文章をどこで区切るかをはじめ山ほどある。朝の掃除は、だれそれはどこと分担が決まる。玄関前掃除はなぜか有名人の子女がこの任にあたらされた。

午前六時半には学校へ行く、校長室の花の取り替えの花は前の晩に買わなくてはいけない、夏などはそのままでは枯れてしまうので、冷蔵庫に入れておく、生活の知恵である。ところが運悪くこの花が茎から折れてしまった。買い換える時間はない。機転の効く子は折れた茎に虫ピンを入れて折れたのを誤魔化すのだ。これも芸のうちである。ガムテープでゴミをとるのはここの伝統芸だ。

朝礼、鼓笛、日舞、琴と授業は続くが、睡魔が襲うし、お腹も運悪く前の晩食べそこない空腹だ。こうした場合は密かに懐にチョコレートを忍ばせ、授業中に巧みに間髪を入れずに食べるのである。これも芸のうちか。

昼になり昼食だが時間は三十分も無い。玄関前に店を開くパン屋さんに行き、パンを食べながら午後の授業のための浴衣に着替える。これも早替わりの稽古に通じるのだ。意地の悪い本科生は掃除などでミスのあった予科生がパンを買いに来るのを見つけ、パンを食べるヒマがあるのと遠まわしの言い方をする。いわれた予科生は昼食を食べるわけには行かない。結局昼食抜きである。

 生徒監の香川は鼓笛を担当していた。鼓笛は集団には欠かすことの出来ないチームワークをこれで養えるからだ。成績一番の生徒が指揮棒を振る。以下それに従い舞台の上でそれぞれの体勢を決めながら動いていくのだ。香川の授業は一段と厳しく大声がさらに大きくなる。しかしこの大声に鍛えられた生徒たちは、大劇場の舞台でめりはりのある動きができた。

後の話だが、この香川の鼓笛授業がなくなるのである。鼓笛が無くなるということは香川の生徒に対してのはりも無くなる。それとともに鼓笛をしなくなった生徒は、宝塚大劇場での舞台稽古の時の位値決めをするときにチームワークに欠け、なかなか出来ないという弊害が生まれたのだ。香川の厳しい鼓笛こそが宝塚歌劇生徒のすべてを作り出す基盤なのであった。

 予科生が上級生に話をするのにもしきたりがある。上級生のいる部屋の前でお目あての上級生が出てくるのをじっと待つのだ。出てきたら、失礼しますといって話す。何ごとも失礼します、失礼しましたで始まり、終わる。

 

 宝塚音楽学校生徒五箇条のご誓文ごときの十一か条の決まりごとがあった。これは親にも言わない見せないことになっていた。「昭和五十四年当時」

 

1、袋。阪急百貨店の紙袋等(紺、黒)地味であれば生地はなんでもよい。

靴。黒のかかとの低い革靴(校外)。上履き 鼓笛シューズも使用(校内)。

靴下。白い三つ折りソックス、冬はグレーの団結ハイソックス、ストッキングのみは禁止。

傘、レインシューズ。地味で学生らしいもの、フリルは禁止。

コート類。規定されもの。

制服。中腰で床につく程度の長さ。

ネクタイは幅7.5センチ。

ベルトは左から右に通し、先にホックをつけ固定させる。

見えないようにピンを三〜十本つけておく。

バッチ。第二ボタンと第三ボタンの間に校章をつけ、その約一センチ上に名札をつける。

2、髪型。長い髪 三つ編み、三つ編みできない人は後ろで二つに束ねる。

ショートカット 校内では前髪がたれないようピンで留める。耳もきちんと出す。

袴。紋付(一尺五寸)、色物(一尺八寸)。足袋は五枚こはぜ、巾着、ぞうりは地味で低いもの。お正月三が日以外に着たいときは先生と本科生の委員の許可がいる。

校章をつけること。絞り(重ね襟、だて襟、かけ襟)禁止。

私服。スカートで普通の学生らしいもの。長さは制服位の丈まで、ミニはなるべくさける。

薄化粧はいい(口紅、ピンク、オレンジ、アイシャドウはブルー、グリーン)。

かつら、サングラス、ツケマツゲ、アイライン禁止。

パンタロン、ジーパンは禁止。

3、日舞。夏は浴衣、冬はウール。帯は文庫結びのみ、足袋は四か五枚こはぜ、舞扇、楽屋襦袢、ステテコ(本駅の馬六、サンビオラすいえん)、帯の左わきに名札をつける。

バレエ。レオタード(黒か紺でフリル、ノースリーブ禁止)、胸に4×8センチの名札をつける。タイツ、バレエシューズ、トウシューズ(白かピンク)。

体操。レオタード、レガータイツ(白かピンク)、シューズ、体操着。

タップ。レオタード、タイツ、タップシューズ。

声楽。コールユーブンゲン(大阪開成館版)コンコーネ。

ピアノ。自分の使っているもの。

4、校内での行動。

校門では黙礼して入る。

廊下、階段を歩く時は壁側を一列に歩く。笑ったり、喋ってはいけない、走らない。

ジュースは一人一個、ルームで飲むこと、昼休み放課後のみ。

電話は休み時間にいつでも使用してよい。

土足厳禁―講堂、各教室、三階への階段から上。

足袋やタップシューズ、バレエシューズ等で廊下は歩かない、上履きを必ず使用。

一階トイレではノックをして前で待つ、階トイレではノックをせずドアの前ではなく、下で待つ、トイレットペーパーの先は三角に折る。

自主レッスンは掃除をはじめるまで(一番早い掃除が始まるまで)と授業終了後八時二十分まで(別科が終わる二十分前まで)廊下のピアノは六時以降使用禁止、後は別科のじゃまにならない教室で。

5、ルームでは静かに、ドアも開け放し禁止、開閉静かに(白分のロッカーも静かに開閉する)。

本科ルームは電話のあった時や先生が呼んでいらっしゃっているような緊急の場合だけ軽くノックしてよい。のぞいてはいけない。

手は手のひらを聞いて五本の指をきちんとつけてスカートの横の線に中指を添わせる。手を上げる時も同様。

シャワーはAのみ使用、下の棚を使う。

当番の仕事。

ルームのかぎを開ける。電源を入れる。香川先生の机から日誌をとり放課後提出(なるべく早く提出する)。朝ルームのゴミを捨てに行く。ルーム、掃除機の掃除。紅梅、白梅に水をやる。

6、あいさつについて。

始業前(九時まで)「おはようございます」

一度挨拶したら後は黙礼、団体の時は先頭の者だけが挨拶(または代表)。

九時以降黙礼(生徒間だけ)

本科生の授業が終了した後「お疲れさまでした」

休日「おはようございます」「お疲れさまでした」時と場合によって判断(終演後や寮でくつろいでいらっしゃる時などは「お疲れさまでした」)。

部屋に入る時「失礼します」出るとき「失礼しました」

ノックのいらない部屋。楽器庫、倉庫、ルーム、トイレ。

7、予科ルームにノックがあったらノックのあったドアから出る。

静かに両手で閉め終わってから時間に応じた挨拶をしておはようございます、黙礼。お疲れさまでした。失礼します(用件を聞いてから)少々お待ちください。失礼しました。黙礼。お疲れさまでした。

呼び出された人がいない時は失礼します。今いませんが探してまいりますので少々お待ちください。失礼しました。

本科生に用事のある時、予科ルームの前の壁に立って通るのを待って時間に応じた挨拶をして、失礼します。

誰々さんはいらっしゃいますでしょうか。お願いします(礼)。失礼しました(礼)。時間に応じた挨拶。

8、廊下に並んでよい時間。

朝八時三十分から五十分、昼十二時〇分から一時

廊下には個人的な反省では並ばない。

本科生に個人的に注意を受けたら「すみませんでした、有難うございました、失礼しました」とその場であやまる。

先生、本科生より先に帰るとき(時間に応じた挨拶をして)「お先に失礼します」

9、掃除について。

始める時、おはようございます、失礼します。

お掃除を始めさせていただいてよろしいでしょうか。失礼しました。

終わる時、失礼します。お掃除終わらせていただきます。失礼しました。

ピアノ使用中の時。失礼します。ピアノを拭かせていただいてよろしいでしょうか、失礼しました。

拭き終わり。失礼します(ピアノを)拭き終わりましたのでどうぞお使いください。失礼しました。

タオルやシューズが置いてあった時。失礼します、床を拭くためタオルを移動させていただいてよろしいでしょうか。失礼しました。

10、     ルームに鍵を取りに行く時(脱帽ルームの壁がわに荷物を置き)。

職員室にいらっしゃる先生に、失礼します、予科ルームのかぎを取らせていただきます。失礼しました。

観劇日の注意。帽子は取る(客席に入る前)。背中をつけないで姿勢よく。飲食禁止。オペラグラスの貸し借り禁止。公演中プログラムを見てはいけない。お客様が出られるまで帰らない。観劇日以外は私服着用。

11、     校外の行動

電車、レストランでは座ったまま礼。

追い越す時(先生、上級生)(挨拶)お先に失礼します。

先生や上級生の方が重い荷物を持たれている時(挨拶)。失礼します、お持ちします。(荷物を返した後)失礼しました。

入ってはいけないお店

飲食店。ちどり、一の瀬、保名、チェック、むつみ。

美容院。ファンファン、キタノ、ユリ。

通ってはいけない道。花の道、コーポラス前の道。

今津線、宝塚線では最後部車両に乗車、座席にはお客様優先。

改札口では挨拶をし、自動改札機を使用。

外での行動は二列以内できちんとした態度で。

モダンダンスの個人レッスン禁止。

2014年現在、これほどの決まりは、なくなっている。その為、肝心な同期愛が薄れているのは事実だろう。必要な所には必要な決まりが大切なのだ。

 しもた屋風の「ちどり」は劇団のすぐ横にあり専科、上級生の溜まり場であり休憩場であり自主稽古場でもあった。稽古中でも時間の空いたときなどは皆ここにきて休んだり、食事をしたりして、まあ言って見れば生徒たちの自宅代わりであったかも知れない。「一の瀬」も同様であった。

したがってファンの決まりでもあり、フアンはここには立ち入らなかった。

 入学式を取材し始めたら当然卒業式も取材の対象になった。このころになると、音楽学校の合格発表の三十分前に校長の熊野から、今回はこんな師弟が合格者の中にいますと事前の説明が行われた。取材する方もその方が間違いもなくスムースに取材が出来た。

一九七七年四月二十一日双子姉妹が入学するというので、北野はこの二人をニュースでフォローアップしようと考えた。佐藤由恵と陽子十六歳。卒業の朝、宝塚大橋の上でインタビューすると二人揃って、「頑張ろうと思います」と同じ答えが返って来た。佐藤由恵の芸名が春野亞衣梨、佐藤陽子の芸名が春野亞里紗、母親が春日野八千代ファンだったので春日野から春と野をもらったのである。

 宝塚歌劇の双子姉妹は、初代鮎川三鶴・美千代(昭和二十九年〜)、二代目香路まさみ、ひでみ(昭和三十一年〜)、春野姉妹は三代目で昭和五十四年から六十年まで在団した。

 北野は何も書いてない一冊の本に、これという生徒に、宝塚について素直な気持ちで書いてもらうことにした。それを白い本と名づけた。

「今の私の中で宝塚の存在、大きい……でも、少し前までもっともっと大きかった。宝塚に振り回された生活、これから先だんだん小さい存在になっていくのかな。  春野亞衣梨(白い本より)」

 

「気がついたら、そこに愛とロマンの宝塚がありました。大好きな宝塚、時々大嫌いな宝塚、宝塚に入れたことに心から感謝します。 春野亞里沙(白い本より)」

 

 北野はこの双子の卒業式、初舞台、双子の出る各公演を宝塚の双子ということでその都度ニュースに取り上げたので、後にトップスターより世間に知られるようになったのは面白かった。

宝塚音楽学校に入学して、今までまったく違う家庭環境で生活してきた女の子四十人がいきなり集団生活を始めるのだから、すべてがカルチャーショックの連続で始まるのである。

なかには一週間で家に帰ってしまう生徒もおり、「このような生徒は二度と戻ってきませんね」と香川が北野に話した。なかには毎日家から弁当を持って学校に行くのであるが、学校は欠席で、どうしていたのかと聞くと、生瀬の川原で弁当を食べて何食わぬ顔をして帰宅していたのであった。

この双子の六十五期にはトップスターになった杜けあき、娘役トップになった南風まい、春風ひとみ、などがいた。

 片岡孝夫、後に仁左衛門を襲名するが、彼の長女の幸子が(汐風幸)宝塚音楽学校に合格し入学した。北野は幸子にインタビューしたが、タオルを顔にあてたまま泣き止まず、テレビではタオルで顔が隠れたまま放送となった。北野は孝夫とは取材を通じて親しくしていた。

ご承知の通り宝塚音楽学校にはいろいろとしきたりがあるので、北野は幸子のために、月組の麻路さきに宝塚ホテルの幸子の母親の部屋で密かに待機してもらい、そこで事細かく音楽学校の実情を説明してもらった。字を書くボールペンの太さからレポート用紙、それにどう書くか、行数はなどなどである。今思うと、二人とも卒業してそれぞれの人生を歩んでいるから面白い。

 入学したての生徒たちは皆必死だ。生徒たちは宅急便の送り状を山ほど手元に持ち、毎日宅急便で洗濯物を自宅に送り、洗ってもらって送り返してもらうということをしていた。洗濯する時間も無いからである。俗に音楽学校に入学する四十人の生徒の中からスターになれるのは一割といわれた。卒業式でみどりの袴をはいた本科生の心はうきうきしている。

 午前中に卒業式を終えると、午後には宝塚歌劇団の入団式が控えている。それで夢のアイランドに入れるからだ。はれて宝塚歌劇団団員、技芸員、生徒、タカラジェンヌと呼ばれる資格が得られる。宝塚には先生は小林一三ただ一人で、したがって団員は「生徒」と幾つになっても呼ばれるのだ。


第三章 宝塚歌劇 神秘のベールの中へ 

 

 

北野の友人で写真家の竹内広光が、宝塚の演出家の写真を撮りたいと言い出した。彼は写真界の大御所岩宮武二の弟子であった。日ごろは猫の写真やエフワンの車の写真を撮ったりしていたらしい。

北野はそのあたりをよく知らない。早速、劇団の宣伝を担当していた大西八州男にその旨を伝え了解を取った。撮影はあくまで演出家が中心であるということで、そのころの宝塚は内部の写真を撮らせるということはなかった。竹内が写真家なので許可したのかもしれない。さっそく稽古に入っている演出家から撮りはじめた。

演出家が何人いるかも判らずに始めた。というのは、そんなことを言っていたら演出家の稽古場が取れない人も出て来る、つまり年に一回しか出番のない人もいるからだ。

劇団事務所に演出部と書いた黒板があり、演出家はそこに名前が書かれていた。

 

白井鐵造

高木史朗

渡辺武雄

内海重典

植田紳爾

小原弘稔

菅沼 潤

横沢秀雄

阿古 健

草野 旦

川井秀幸

岡田敬二

大関弘政

酒井澄夫

柴田侑宏

(当時の木札の順)

 

助手には三木章雄、中村暁、村上信夫、太田哲則、小池修一朗、正塚晴彦、谷正純、石田昌也、中村一徳、木村信司等がいた。この助手たちも後年演出家になる。

 

白井鐵造は稽古が無いが、ちょうど音楽学校の入学式に出席するので、とりあえず撮影した。背筋をしゃんと伸ばして時代を感じさせた。

北野は白井鐵造に関しては奇異な印象がある。

それは北野が白井鐵造演出の芝居があることを知り取材することにした時のことだ。宣伝担当の大西と話し、稽古のある日、早めに白井鐵造に事務所へ来てもらった。理事長室で北野は、

「白井さん稽古についてお話を聞きますが、稽古しているところでマイクを持っていきますので、そこでお願いします」

と取材内容を細かく説明した。白井は、縁なしの眼鏡の中から老人らしい目で、判りましたとうなずいた。

北野は白井と直接話をするのは初めてだった。この人があれだけの名作を生んできた人、宝塚の神様といわれる人かと思うと緊張した。稽古は一番教室、早めに稽古場にカメラマンとともにあがり用意して待った。やがて稽古は始まり、北野が白井と打ち合わせた頃合になったので、カメラマンにスタンバイをかけマイクを持って白井に近づいた。

白井は差し出すマイクにいきなり「僕出来ない、出来ない」を連発。目には涙がたまっている。

北野はどうなったかわからないまま、カメラマンに、やめようと声をかけた。あれほど事前に打ち合わせしていたのに、出来ないという白井の理由が北野には理解出来なかった。もちろん宣伝の大西にもわからない。ガラス箱の中みたいなところにしかいない人が、いきなり現実世界に遭遇したためか。なぜ出来無かったのか、謎のままである。

 

高木史朗(本名高木四郎)は、ちょうど「わが青春マリアンヌ」という作品の稽古に入っていた。花の道を歩く高木史朗を撮影しようということで、北野は竹内広光に頼まれ高木史朗の撮影の合間に話し相手をした。

「僕はね、後継者として育てた鴨川清作に死なれて、もう何の望みも無いんですよ。昔ね、僕、宝塚を止めようと思い、小林米三さんの部屋を訪ねたんです。そして辞めようと思うんですがと言うと、米三さん、君が辞めたら僕はどうするんですと言われ、思わずその一言で辞めるのを辞めたんです。あの人にそういわれたんで辞めそこなったんです。あの人は心の温かい人でした」

北野は会ったこともない米三の人柄を、この言葉からにじみ出るように感じた。高木史朗と北野は会話できて良かったと後に思った。宝塚の宝みたいな白井にしても高木にしても、会話できたことは後の宝であった。もちろん竹内は、花の道を独特の歩き方で歩く高木史朗を、サクラを背景に撮った。

高木は、その後バウホールで「刀を抜いて」という芝居の演出をしたが、昭和六十年二月十二日、心不全で宝塚の児玉病院で亡くなった。レビュー作家高木史朗の作品といえば、七十万人を動員した『華麗なる千拍子』につきる。

 

夕方のワイドニュースでの北野が企画した宝塚の「ベルサイユのばらⅢ」は話題となった。見る人にいろいろな趣向が受けて視聴率もいい。そのころ宝塚歌劇の取材はタブーと思っていた人が、メディアの中になぜいたのかと北野は思うほどだった。

そして、いまだ前例のない稽古場からの生中継を考えた。野球中継以外したことがない中継班はマイクロの確保からしなければならない。稽古場の屋上からマイクロ発信の機械を持ち込み、電波を飛ばした。それを千里丘のスタジオで受け、パラボラアンテナの向きを無線を通して宝塚の方に向け調整するのである。これで中継は可能となった。

中継は一番教室で稽古中の柴田侑宏作演出の「星影の人」。雪組のトップスターは汀夏子である。もちろん沖田総司は汀夏子、土方は麻実れい、玉勇は娘役の高宮沙千だ。演出の柴田はプログラムにこう書いている。

「女性ばかりで演ずる特殊性から、武骨さを避け、激越な動きを抑えて、娯楽的な色彩でまとめようと試みたが果たして如何」

この考えが宝塚歌劇には大切なことであり、この考えが継承されてきたから、夢のアイランドと宝塚歌劇は言われてきたのだ。

生カメ(中継用カメラ)二台を稽古場の裏の階段から持ち込み、生放送に備えた。稽古をしている最中に中継のカメラリハーサルは何回も行われた。北野は中継車のディレクターと現場を行ったり来たりして、本番前には息切れしていた。何しろ稽古場は三階、中継車は一階なのだから。本番は稽古風景があり、そこにアナウンサーが入り込み話を聞く。さらに演出家の柴田と汀に聞く。そしてまた稽古に入るという手はずだ。放送が終わると、なにしろ今まで生中継で宝塚の稽古場も生徒の稽古風景も門外不出だっただけに反応は凄かった。このころになると、北野の担当している夕方のワイドニュースは、宝塚と報道部の佐土の相撲と奇形猿をフォローしている村上の企画が話題の中心となった。

 

初舞台生の振付は、喜多弘と決まっていた。熱血漢、一直線の男である。若い時、事故で片目を失って義眼であるが、生徒にはそれがどちらの目か判らない。

喜多の振付はきびしいのでも知られている。当時は、喜多の稽古場は関係者でも入るのをはばかったぐらいである。表現は悪いが、ある限りの暴言が生徒に飛び交うからだと劇団関係者が北野に話した。

およそ五十秒のロケットだが、緊張の塊の初舞台生にとっては大変である。喜多の方も踊れない生徒を踊れるようにするのだから大変だ。テンポをとるのに小太鼓を使って稽古をするが、振りを間違えた生徒のところには、容赦なくこの小太鼓のスティックが飛んでいくが、喜多が義眼なのでどっちに飛んでくるかが問題で、自分かと思うと全然違う方に、また、これをよけるのも生徒の技術でもあった。

初舞台生のロケットは、一通り出来たところで、お披露目と称する内部の関係者に見せる行事がある。このときはメディアにも公開する。喜多の生きがいもここにある。喜多はいつも微笑みを忘れるなと生徒に言いつづけた。笑い顔を作る時はお母さんと言うのだ。そうしたら顔がほころぶ。その成果を見せるのがこのお披露目なのである。ロケットの指導には上級生の研5の生徒が五人助手としてつく。

広い一番教室には予定の時刻になると、理事長以下の劇団幹部が、そしてメディアが演出家の席といわれる鏡を背にした長椅子にずらっと居並ぶ。その目と鼻の先ぐらいのところで踊るのだから、初舞台生の緊張は並みのものではない。

喜多の稽古にはスペシャルと称する特別なものがある。出来の悪い生徒は一人で全員の前で踊らされる。心臓の弱い子などはたまったものでないし、できないと先に進まない。お披露目にあたってはそんな厳しかったことも忘れ、やりこなすことだけに神経は集中している。

「全員整列」

喜多の声で初舞台生四十人は黒のタイツ姿で並ぶ。胸には芸名を書いた白い布地が縫いつけてある。顔の表情はまだ幼い。どこに未来のスターがいるのかと思わせる。

助手がテープを回すと、初舞台のロケットの音楽が流れる。喜多はそれに合わせて小太鼓を打つ。生徒の顔は笑みを無理やり作りながら無我夢中で踊る。

いよいよ最後の銀橋のところを通り、裾に入るラストに差し掛かる。稽古場の右側の奥に生徒の塊が出きる。その瞬間に初舞台生は一斉に泣き出した。喜多も泣いている。指導助手の上級生も泣いている。見ている人たちの中でも泣いている人がいる。感激の一瞬である。喜多弘にはこの感激が何にも代えがたい苦労の賜物であった。

同期の絆はここでさらに強くなり、喜多への信愛度が深まる。そして踊りに対しての厳しさが生徒の体の中に染みついていく。伝統はここから継承されていった。

「宝塚の踊りは女が男を演じるのですから、男役の子の踊りも、どこかで女と切り替えないといけない。そこがここのテクニックです」

喜多はぽつりとそう語った。

ロケットの稽古最後の日に、喜多は生徒全員を集め、何期と書いた黒板をはさんで恒例の記念写真を撮った。取材に来ている北野にも自分の席に座れといい、喜多がカメラのシャッターを押した。

北野の白い本に喜多はこう書き記した。

「宝塚のモットーは清く正しく美しく、自分のモットーは誠意と根性とそして努力を、これは何年か前の初舞台生のために考え出したものだが、最も適していると思う。自己満足し、毎年初舞台生にも筆で書き伝えています。伝統ある宝塚の歴史を汚さぬよう、そしてレビューを守り続けるために、若いヒナ鳥と燃えて汗を流すこの繰り返しだが、やっぱり宝塚にいてよかった。死ぬまで宝塚を愛し、結局は好きなんだなとつくづく思う。宝塚は永遠なりです。 一九八六年三月 初舞台生のおやじ 喜多弘」

厳しい中にも宝塚ファミリー的ムードをスタッフも劇団事務所の人たちも持っていた。生徒の心にもゆとりができて和んだ。

喜多弘自身の記録によると、宝塚歌劇団での最初の振付は昭和三十七年「僕は君」で、トップは藤里、内重だった。喜多が命をかけていた初舞台生のラインダンスは、昭和三十九年五十期、白井鐵造で「花のふるさと物語」が初めてだ。初舞台生は汀、鳳、大原。

 

昭和四四年 五五期 高木史朗「シルクロード」有明、洋、有花

昭和四六年 五七期 小原「ジョイ」横澤「オービューティフル」

昭和四七年 五八期 鴨川「ザ・フラワー」峰、高汐、真汐

昭和四九年 六十期 白井「虞美人」大浦、剣、遥

昭和五十年 六一期 内海「ラ・ムール ア パリ」朝香、桐、若葉

昭和五一年 六二期 植田「ベルサイユのばら」日向、瀬川、奈々央

昭和五二年 六三期 植田「風と共に去りぬ」あずみ、真笛、旺

昭和五五年 六六期 内海「フェスタ・フェスタ」安寿、梢、こだま

昭和五六年 六七期 岡田「ファーストラブ」真矢、涼風、毬藻

昭和五八年 六九期 横澤「ムーンライトロマンス」麻路、神奈、友麻

昭和五九年 七〇期 植田「風と共に去りぬ」大輝、詩乃

昭和六〇年 七一期 植田「愛あれば生命は永遠に」轟、華、大潮

昭和六一年 七二期 植田「レビュー交響曲」

昭和六二年 七三期 大関「サマルカンドの赤いばら」

昭和六三年 七四期 岡田「キスミーケイト」

 

以上の記録は、ある時、喜多が北野に何気なくくれた振付のメモ書きであった。もちろんこの後にも何回かしている。北野は喜多と何となく意気投合していた。たぶんいつも初舞台を取材することで、宝塚歌劇の良き理解者と感じたのかもしれない。あるいは同じ仲間と思ったのかもしれない。北野にしてみれば嬉しかった。麻路をいつも取材しているのを知った喜多は「ねえマリコが辞めるときは涙しましょう」と北野に話した。

喜多が最後にロケットの振付をしたのは八十五期。この時の初舞台の日の朝の稽古では久々に舞台稽古を見にきた北野を驚かせた。初舞台生がラインダンスの列のそこここに入り込んでくる。初めはそのような振付かと思っていたらそうではない、出遅れだ。見ると裸足の生徒がいたり、ストッキングの線が曲がっていたり、もう滅茶苦茶。

後で聞くところによると初舞台生が上級生の舞台に見惚れていて、気がついたら出番だ。衣装づけに四十人が一斉に押しかけては間に合うはずがない。大パニック状態になったらしい。その結果が衣装づけるのも間に合わない生徒がそのまま舞台に向かったのだ。

北野は喜多に声をかけた。「どうしたの喜多さん?」喜多は無言のままだった。

竹内広光の撮影も、北野に叱咤激励されながら撮影が続いた。写真展は大阪梅田の富士フォトサロンですることが決まっていた。北野はあたりまえの写真展ではつまらないから、美術評論家の増田洋に飾りつけを依頼した。

増田は、「作者が生きているとやりにくいんです、いろいろ口を出して来るから」と言った。北野は竹内に、「じゃ竹内さん死んで」と言うと、彼は悲しそうに「僕死ねばいいの」とつぶやいた。

北野は増田に油絵の展覧会風にして欲しいと言い、増田は竹内の芸術意欲を表現するため、赤い壁、青い壁を設け、演出家の席、上級生の席、下級生の席、稽古場、演出家の顔などと個性的なコーナーを設けた。

そのころの宝塚は、内部なんて見せたことがない。展覧会を見にきた人たちは、「本当に稽古してるんだ、演出家もいるんだ」という今では信じられない発言の連続だった。

写真展は連日押すな押すなの賑わいで成功した。宝塚を竹内は情報公開したのだった。竹内広光が毎日グラフに掲載したいと話していたとき、北野の陰ながらの理解者で、そのころ劇団の編集にいた橋本雅夫が、「これは本にしましょう。表紙の固い丸まらない写真集に」といい表現をしてくれた。

当時は内部の写真集を出すなんて稀有なことで、広報担当だった田中拓助が使う写真を会議室のテーブルに並べ、検閲(?)方々選定した。おおむね竹内の意見が受け入れられた。

竹内が開いた写真展のパーティーでは、彼の師匠格である写真家の岩宮武二が来て、日ごろ竹内がレースの写真しか撮っていないことを知っているので、「これは竹内の写真ではなく、北野の写真だよ」と言って冗談っぽく笑った。

このパーティーに高木史朗演出「わが愛しのマリアンヌ」に出ていた世れんかが来たが、その後彼女は悪性腫瘍で亡くなり、高木史朗も岩宮武二も竹内広光も死んだ。



第四章 テレビワイドニュースに宝塚歌劇登場 

 

大相撲の土俵のように、このころの宝塚は汀、鳳、榛名、安奈の四本柱があった。冬といい夏といい、楽屋口にはファンが詰め掛け、熱風がその辺り一帯に漂っているかのように感じさせた。正に夢のアイランドだ。

北野は、汀がトップで麻実れいが二番手の公演で、終演後の楽屋からの生中継を企画した。

公演は午後六時に終る。放送は午後六時から始まる。ちょうどタイミングがいい。楽屋口はファンで一杯だ。熱気でむんむんしている。北野がマイクを持って楽屋からの生中継である。

楽屋で舞台の幕が下りるのを待ち、舞台から楽屋に戻ってきた汀、麻実にマイクを向け、そのまま外に連れ出した。そして外にいるファンの一人を楽屋に通じる夢の通路を通って汀と麻実に会わせた。ファンは卒倒しそうな、死んでもいいという顔をした。汀も麻実も化粧が汗で流れていたが、それが宝塚の本当の姿だとファンは受け取った。

北野は、徐々にベールの向こう側にある夢のアイランド宝塚の幕を揚げ始めた。ヒューマンが溢れていた。

テレビ中継、ニュースの取材と、宝塚歌劇団も世間に真実を知らせるいい機会と感じたようであった。同じような番組を夕方に放送している他局も追従しはじめた。民放もまだ古い感覚の時代にあり、生中継で喋るのはアナウンサーと決めていただけに、アナウンサーでない北野が現場から喋るというのも、かなり画期的であった。

生徒には本名、芸名と愛称があるのを北野が知ったのは、それから暫くたってからだ。生徒の一人で愛称がアトムという人を知ったのが初めてであった。体が大きい生徒で、鉄腕アトムからが愛称の由来であった。北野が直接本人から聞いた話である。

えいこ(栄子)さん、つまり天津乙女さんの芝居「くるるんるん」を取材してから、北野は親近感を持つようになった。気さくな栄子さんは、失礼ながら隣のおばさんという感じがした。「天津乙女芸暦六十年を祝う会」が宝塚ホテルで開かれ、北野はこれを夕方のワイドニュースで生中継することになった。

会場には各界の著名人含め四百人位がお祝いに集まり、司会が鳳蘭で、天津乙女さんは舞台で祝いの舞を踊った。そこに北野がマイクを持って割り込む。マイクを向け、六十年経った今の気持ちはと聞くと、栄子さんは息の乱れも見せずにこう答えた。

「経っちゃいましたね。六十年なんて思わないけど経っちゃいましたね。胸が一杯なのよ。うれしくて、でもこうしてできるのも歌劇団のお陰で、踊らせないって言われれば出来ないし」

北野の、あとどのくらい踊りますかの問いに

「足や首が動かなくなるまで踊るわよ。皆さん本当に有難うございます」

と答えた。その顔は美しく輝いていた。

その後、栄子さんの自宅を訪ね、インタビューしている時の写真にサインをお願いした。朝早かったせいかネルのパジャマで気軽に出てきて、マジックペンでサインをしてくれた。後日、再度お宅に伺った時、自宅の稽古場の見事さと裏庭の松林が美しく、さらに玄関が和風で、つい「ここで和風喫茶とビヤガーデンしたら」と言うと、えへへへと笑っていた。それでも「夜は貴方のとこのニュース見てるわよ」と言った。のちの話だが、天津乙女の家は地震で半壊してしまい、家もとりこわされた。

そんな話を鳳蘭に話をすると、彼女は栄子さんに、北野とそんなに親しいのと聞いた。すると「うんうん、なんかあっちが親しくしてくるのよ」と言っていたと笑い話になった。

鳳蘭の話。

舞台が終わって、その舞台には栄子さんも出てらしたのですが、私はそのあと仕事があったので、早くお風呂にはいりたかったの。でも上級生順だけどいいかと思い、お風呂場に行くと、ちょうど一箇所場所が開いていたの。本当は、そこは栄子さんのところだったんだけど、急いでいたのでいいやと思い、そこで頭を洗っていると、突然「だれや私んとこにいるのは」と言う声が聞こえたの。で、足からずうっとパンアップすると、すぐ膝で短い足、ああ栄子さんだとわかり、「先生すみません、仕事があるので」と言うと、「ああツレチャンか」と言い、これはいけないと急いで自分の身体を洗い、「先生洗います」「有難う」で背中を洗い、短い両腕を洗い、いよいよ前しかない、どうしようと思っていたら「ツレチャンもういいよ」と言われ、ああ前を洗わないで助かったという。

栄子さんにまつわるエピソードがある。

天津乙女さん、ある時北野に「私、舞台に一緒に出ている人で退団しようと考えている人は判るの」と言ったのが印象的だった。

天津乙女が亡くなったという連絡を受けた北野は、武庫山の栄子さんの自宅にタクシーで駆けつけた。座敷の布団の中で小さな体の栄子さんは静かに横たわっていた。枕元にローソクが一本灯っていた。

「経っちゃいましたね」

芸暦六十年の会の時の栄子さんの言葉を思い出した。栄子さん死んじゃったの、淋しいね、北野は心の中で別れを告げた。

昭和五十五年五月三十日だった。北野は、天津乙女舞台六十年舞踊詩「宝花集」の清姫の天津乙女を思い出した。相手の安珍は但馬久美だった。芸暦六十年のすべてをこの舞台で見せてくれた。楽屋の鏡の前で出番を待つ間、栄子さんは煙草を吸っていた。

「煙草吸っているとこ撮っちゃダメよ」

と言って北野の顔を鏡の中から見た。

葬式の日、曇りで今にも雨が落ちてきそうな天気だった。自宅前にテントが張られ葬式の参列者はここに座り待った。ふと前のほうがざわついた。見るとテントの上に白い蛇が居た。皆はいっせいに栄子さんだわと口にした。清姫を演じたからだ。気がつくと蛇は居なくなっていた。北野は神式の霊前にお別れを済ませ出口を出ようとしたとき、先ほどの白蛇が、出口でまるで会葬者にお礼をするが如くにいたのだ。ふと栄子さんが変身したのかと北野は思った。

劇団葬は六月十八日にバウホールで行われた。劇団葬といえば、白井鉄造の時も昭和五十九年一月十八日にバウホールで白井鉄造自身作詞の、すみれの花咲くころのメロディが流れる中で行われた。その後理事長の市川安男、演出家の内海重典が亡くなった時の葬儀にバウホールは使用されてない。

すみれ寮は宝塚歌劇団の生徒のための寮で、第一、第二、第三とあり、ここに宝塚音楽学校の生徒も入寮している。音楽学校の生徒は原則、寮に入ることになっており、自宅が近い生徒は自宅通勤を、中には自宅が近郊にあっても寮に入る生徒もいる。

二人一部屋で相部屋、だれと相部屋になるかは判らない。時には上級生だったり、猛煙家だったりしたら苦労が絶えない。しかも同じ組子同士であれば、年がら年中、部屋では一人になれない。組が違うと相手が東京公演だったり、地方公演だと一人で過ごせるので、かなり快適のはずだ。寮費も安いから結構居心地がよくなってしまう。

この寮にもお化けが出る部屋があるという。いつの時代になってもこのことに関しては話題が絶えない。理由も不明である。

部屋の壁にポスターが張ってあり、知らない生徒がそれを剥がしたら、毎晩幽霊が出て大変だったという話は毎度のことだ。稽古から帰ってきたら食べようと、バナナを机の上に置いて出かけ、帰ってきて、いざ食べようと見たらバナナの皮だけ残っていたとか、廊下のドアの前にスリッパが揃えて置いてあったとか、電気のコードがグシャグシャになっていたとか、この手の話は常に継続している。

不便なのは電話が一つしかなく、外部の人から電話がかかると寮長が取り、マイクで生徒を呼び出すので、だれに電話がかかってきたかが判ってしまうのだ。男性からの電話は悲惨で、寮長にばれないよう父親とか従兄弟とか偽る。嘘も方便かもしれない。

すみれ寮の規則に、寮生は次の各号の事項を守らなければならないという決まりがある。

1、人に迷惑をかけないこと。

2、他の寮生の睡眠を妨げないこと。

このころ、爆弾と呼ばれる出来事が寮の予科生にあった。突然深夜に予科生がたたき起されることである。ある生徒が、このことを北野の白い本に当時こう書き綴った。

「私は十五歳の時に、一回目は一次にもひっかからず落ちました。その時、私は十七歳の時にまた受けることを決めて、普通の人だったらすぐ頑張るでしょうが、私はそれから二年間、学校のクラブに燃えて、高二の時、年が明けてから三ヶ月間は、その時だけは命がけ。それから神だのみなど、とにかくその三ヶ月頑張ったのです。そして今考えると本当にずうずうしいというか、思い込みが人よりとても深くて、絶対に入れると思い込んでいました。もっとすごいことを言うと、私を落とす先生は宝塚の先生をしているはずがないと、ずいぶん凄いことを思ってました。入る前から、学校の夢は、毎日のように夜ふとんの中で例の思い込みをするわけ、やっと十七歳の春、めでたく宝塚の生徒になったのです。

私の予科時代は、まず初日、あの寮でのバクダンノック。いつごろだったんでしょか。何も知らずにすやすや、そんなとき、あのけたたましい数のノック、外に出ると、鬼のような顔をした本科生が全員ずらっといらして、何やらおしかりばかりで、そんなパニックの最中、今思うとやはり変な子だったんですね。私は窓の外を見つめて、心の中で山の点々とした光を見つめて、小さな湯の町宝塚に生まれたその昔は知る人もなき少女歌劇とまあ口ずさんでいました。

私は四番教室の責任者、分担は新藤万智子さん。この方との出会いは、受験の時に見た目は一番こわい感じがしたけれど、私のインスピレーションはピピッと来たのです。いざ学校に入ると、やはりこの方が私の分担になったのです。初めてこの方が言ったことは、

『私は怒ったりするの好きでないし、あまりしたくないので、そうならないよう頑張って』

ひどく感動したんです。私はこの言葉に、それから一年はただひたすら新藤さんを悲しませないよう、言葉で言わなくても、一生懸命にお掃除とか「いろいろ」していれば、いつかは判ってくれる、誰かが見ているだろう、そう心に思って頑張った結果、本科生には本当に可愛がってもらいました。同期とかを見ていて、つく上級生によっては天国と地獄の差だナアなんて思ったりしました。顔の数だけ色々な人格の人がいるんですから。あっそうそう掃除が大好きで、床を磨きすぎて滑って困るから当分磨かなくていいわ、なんて言われたこともありました。本科になってからは、とにかく、よく予科時代に言われた『本科になれば本科の気持ちがわかる』それが身にしみました。一人の何も知らない予科生を、私が責任を持って指導しなければいけないのですから。私はとにかく、うそのない心、一生懸命やる心を大切にしたいと思いました。とても難しいことでした。自分がちゃんとしてなければ言えないことばかりですから、怒るばかりでなく誉めることもそれ以上に大切だと思っていました。怒られてマイナスになった予科生は、何らかの形でプラスになるよう誉めたり励ましたり、でもやはり下級生はどんな子でも可愛いです。私はとにかく本科の時に嫌な思いをしましたから、その時の予科生全員が『あけみさん頑張って下さい。私たちみんな味方です』という手紙をもらって本当に心強かったし、そんな予科生の前では悲しいつらい気持ちも、自然になんとか頑張らなければという心の支えでした。今でも感謝しています。だから、そうした心の支えになってくれた下級生は余計に可愛いのです。

それから一つ、予科のとき一番気をつけていたのは、夏休みが過ぎるとミスが増えるのです。ハイ。とにかくいろいろな学校時代を過ぎて春に初舞台です。

〝浪路はるか〟香川先生がつけてくださいました。本当は彩乃昭深で〝ひかりのてるみ〟で出したら駄目だったのです(芸名をつけるとき学校に提出して不都合な名前は通らない)。今年研3、とにかく私は娘役。宝塚に入った以上は、人の後ろにうずもれているのは嫌です。一歩も二歩も前に出て、とにかく私という何かを残したいのです。

それから大きな夢一つ二つ。私は男役では杜けあきさん、麻路さきさんには、前から何か、とてもひきつけられるパワーを感じるのです。だいそれたことですが組んでみたい。ハハハハハハ。前進あるのみ。宝塚が大好きで、舞台が大好きで、回りに居る人が大好きで頑張り光りかがやきます。いつか〝浪路はるか〟ここにありとなるよう、初心を忘れずに。それからもっともっと人間的に成長したいです。ジェンヌだけでは生きて行けませんから、この世の中は。明日もこれからも、ずうっと素直な心持ち続けて。〝浪路はるか〟をよろしくお願いします」

この生徒は芸名を生徒監の香川につけてもらっている。香川に切羽つまって芸名をつけてもらった生徒はかなりいた。このバクダンにそなえて寮に入る時は、必ず底の厚いスリッパと厚地のガウンが必需品といわれた。すみれ寮の規則の「迷惑をかけない」「睡眠を妨げない」を冒してまでこのようなことをするのは何の目的があったのか、バクダンは当時の虐めだったかもしれないが、何のために行われたかは不明である。

宝塚音楽学校の生徒監・香川とは取材を通じて親しくしていた。あるとき香川が北野に電話をかけてきた。

「お願いがあるんですが」

「なんですか」

「実は野坂昭如の娘がテレビに出るらしいんですが、私の方は何も聞いていなくて、出てはいけないというのではなく、やはり合格した以上は音楽学校の人間なので、一言テレビに出ることをこちらに言ってほしいんで、電話するよう連絡してくれませんか?」

「いいですよ」

簡単に了承したが、北野もそれほど野坂と親しい間柄でもない。それでもデスクの電話で野坂の家に電話をかけた。電話口に出てきたのは野坂本人だ。北野は、ことの顛末を細かく説明して、生徒監の香川のいる学校の電話番号を教えた。

北野の放送局では、そのころイベントの一つとして「ミスおおさか」を選ぶ行事を大阪観光協会と共催していた。書類審査を経て面接で選ばれた普通の女の子は、着物を着たり、水着姿で舞台を歩くことは難しい。

北野は、そのころ報道と事業の二足のわらじを履いていたので香川のことを思い出した。宝塚音楽学校で鼓笛担当、整列させ歩かせてという香川の手腕がここで生かせると。見事にこれは的中。素人の女の子も香川の号令で、あっという間に舞台をきれいに歩けるようになった。それはそのはずだ。何も判らない女の子が宝塚音楽学校に合格、一夜にしてあの入学式で香川の号令で一糸乱れぬ動作ができるようになるのだから。その香川の指導だから間違いない。北野は香川の女の子の指導の仕方を見ていて、さすが見事と唸った。

「ミスおおさか」の何回目かで、審査員に星組の日向薫と麻路さきを招いた。当時、審査員にタカラジェンヌが来ることなんかない時代だ。

「ミスおおさか」に関しては、御堂筋パレードのフロートの上でOSKの生徒に出演してもらったとき、北野は振付の尚すみれに振付を依頼した。尚すみれが現役時代には北野が取材して、香川の音楽学校も北野が取材して、そんな関係が互いを助け合っていたのだ。

宝塚の男役について、北野は上方芸能の一九八一年四月号にこう書いている。

「タカラヅカ」の魅力は、なんといっても宝塚大劇場のあの大階段が前方にせり出し、やがて階段にライトがつき、美しい衣装で着飾ったタカラジェンヌが大階段を宝塚メロディに乗って降りてきて、銀橋に並ぶフィナーレの瞬間であろう。その美しさは手のこんだデコレーションケーキを感じさせ、豪華絢爛の一言につきる。そこからは「歌舞伎」にも「新派」にも「新劇」にも見られない不思議な魅力がエキサイティングに伝わってくるのである。



第五章 タカラヅカ男役の魅力 

 昭和五十一年三月「ベルサイユのばらⅢ」をテレビの「ワイドニュース」でとりあげ、インタビュー取材のため、初めて素顔の鳳蘭、榛名由梨、初風諄の男役娘役トップスターに稽古場で会った。

 稽古場での彼女たちは、ごくあたりまえの女性であった。そして公演が始まり、舞台で見る彼女たちの立ち姿の美しさにあらためて驚かされた。立ち姿の美しいことは、歌舞伎の世界では当然のことで、最近では片岡孝夫(現・十五代仁左衛門)の計算されつくした演技の中から生まれる美しい舞台の立ち姿にほれぼれさせられる。タカラヅカの世界でも、男役それぞれが個性的な立ち姿の美しい形というものを持っているのである。

 ご存じのように、タカラヅカでは男役が本命とされているが、この男役の魅力がタカラヅカのすべてを決めるといっても過言ではないだろう。では、この男役の魅力とは一体何だろう。

 かつて「バレンシアの熱い花」の月組公演の際、このテーマで榛名由梨をとりあげた。その時、テレビカメラでは、舞台の上でギターを抱える榛名由梨の足からパンアップして、顔のアップへというカットを撮影した。つまり男役はかっこ良くて足が長く、街を歩いている本当の男性には見られない中性的男性でなくてはならない。しかも、そこには生活の疲れを感じさせない夢の世界の男性でなくてはいけないのである。

 この時、榛名由梨に男役の演技とはどういうものかを質問したところ、こう答えた。

「舞台で一から十まで男役ばかりというか、男を演じていればいいというものではなく、適当に女を観客に感じさせないといけないんです。ですから踊りの振りにしても、必ず男役の振りからバリエーションがついて女に変わることもあります。今は男役で男を演じていても、次の瞬間には女のムードを漂わせていなくてはいけない。それが男役の魅力を作り出すとともに、男役の演技でもあると思います」

 

「私の青春 私の生きがい これぞ宝塚  榛名由梨(白い本より)」

 

 春日野八千代といえばタカラヅカ男役の代表的スターである。彼女の男役演技は、必ず舞台の上で立ち止まってからセリフを言うところにある。これがかつての正統派男役演技であると言われている。そこにはいかに立ち姿というものを大切にしているかという心の内が理解できる。

 

「私の半生以上過ごした宝塚 メルヘンなタカラヅカ本当に好きです。

春日野八千代(白い本より)」

 

 今の男役スターは、舞台の上で立ち止まってセリフを言うという春日野スタイルとは正反対であるが、いわゆる男役ポーズ、形というものは、それぞれに持っている。いわば歌舞伎では言えば、松嶋屋の型であり成駒屋の型である。そして面白いことには自然に男役ポーズは誰かが継いでいる。

汀夏子は右手を顔の前でポーズする独特のキザリ型であり、安奈淳はフェアリーを感じさせるポーズ、鳳蘭は舞台に立つだけでサマになり、榛名由梨は端正な演技で男役イメージをファンに与えていた。寿ひずるは最も鳳蘭的舞台ムードを持ち、舞台に立てば観客を自分にひきつける術を心得て、その立ち姿、目線の流し方は歌舞伎でいえば、見得をきるがごとくに演じ、手先のかたちにも気を配る男役ポーズをつくりあげている。大地真央は青い果実的少年っぽさを自然に身から感じさせ、峰さを理は甘いフェイスの中にイキな男役ポーズを出すところに魅力を感じさせるというキャラクターで魅力を見せきる演技、形を持っている。

「ワイドニュースMBSナウ」で宝塚歌劇を社会部的ニュースの話題としてとりあげて、テレビの面から見ても宝塚のイメージを大きく前進させたのは鳳蘭であった。鳳蘭の出る舞台は話題になり、話題になることはニュースになりそれが宝塚の魅力ともなった。

時には舞台を撮影中のカメラに向かって、あの大きな目でウインクをし、舞台では見られない魅力、舞台の魅力がテレビで放映された。テレビで五分位の時間の中で宝塚の舞台を見せるには、やはりロングショットのカットより、画面でよりスターの顔が近くに見えるアップがいいのはあたりまえである。

したがって北野は、いつの舞台もテレビカメラを通した比較的アップの画面と肉眼で見る舞台のロングショットの二通りでタカラヅカの舞台を見ていた。

 

 タカラヅカの魅力は舞台だけにしかないというものではない。稽古場も魅力ある場所だ。

かつて写真家の竹内広光さんと組んで『宝塚・女の園の中で』というタイトルで宝塚歌劇の演出家を中心にした写真展を開いたが、このときファンが涙を流して喜んだのは、演出家の席、上級生の席、下級生の席と厳しく決まっている稽古場で、汗を流して稽古する素顔のタカラジェンヌを撮った写真だった。そこから感じるタカラジェンヌは、ファンが楽屋口で見る素顔がそこにあったからだった。

 退団者を送る千秋楽のサヨナラ公演も、宝塚ならではの魅力ある一回限りの熱気あふれる涙の舞台だ。クールにいこうとして涙にくれた安奈淳、決して泣くまいと心に決めて緑の袴をはかずに舞台を去った汀夏子、涙に暮れた鳳蘭、いずれも二十分足らずのサヨナラ公演ではあるが、宝塚ならではのエキサイティング・ショウといえる。

 退団するスターにインタビューすると、必ず「夢をファンに与えることが出来た」という答えが返ってくる。夢を観客に与えるタカラジェンヌ。その夢とはなんだろう、それはフェアリー的なものかもしれない。

 汀夏子が「こんなキンキラした衣装が着られるところはここしかない」と話していたが、あのキンキラ衣装に、羽をふんだんに使った宝塚歌劇独特のコスチュームに身を包まれたタカラジェンヌは、その瞬間にフェアリーになってしまい、その一人一人の体から夢が立ちのぼるのかもしれない。

 タカラヅカの一つの魅力はマスにあるといえる。毎年四月に初舞台生の舞台を見るたびにそれを強く感じさせられる。舞台の最後のフィナーレを見るたびに、宝塚は全員が揃って、初めて宝塚という舞台が出来上がるところだということが判る気がする。それとともに大階段のないフィナーレなんて、タカラヅカの舞台ではないとも言いたくなるほど、あの大階段は大スターなのである。

 

 男役を支える娘役の存在も忘れられない。鳳蘭は「私が遥くららを育てたというけど、考えると、くららに私が引っ張られてきたんじゃないかと思う」というように、大型娘役に成長した遥くららは、男役トップスターをしのぐタカラヅカの魅力の一つでもある。そして素晴らしい娘役がいてこそ、初めて男役がひきたつのである。

たくさんの芝居を稽古場で見たが、どれも忘れられないものばかりである。その中でも忘れられない一つが、柴田侑宏脚本演出の原作アーネスト・ヘミングウエイの「誰がために鐘は鳴る」だ。遥くららが両親を殺された上、辱めをうけ髪を切られたという話で、公演が始まる前に長髪を坊主頭にするというので、ヘヤーをカットするところをテレビで取材した。形は断髪というところだろう。

さて鳳蘭扮するロバート・ジョーダンと遥くらら扮するマリアのラブシーンがかなりあり、ラブシーンだけを特集しようと撮影を始めた。このころテレビの世界もフィルムからビデオになったばかりの時代である。そのビデオを撮影中モニターで見ていると、鳳蘭と演技している遥くららの頬が紅潮していくのが判った。

そのラブシーンのある、第十一場の「かわいい兎」、第十四場「ヒースの高原」、第十六場「七十時間が七十年」、第二部の二十場「この愛だけは」、第二十六場「今今今」のシーンは、ラブシーンとともに忘れられない。しかし、いささか宝塚コードに触れたか、本番になったらラブシーンは半分になっていた。

 「誰がために鐘はなる」の劇化にあたり、柴田はプログラムにこう書いている。

「今の鳳蘭と遥くららには、この主役像がぴったりだと思うし、芸達者な専科陣が脇を固め、星組の中堅が、あるいは精悍にあるいは哀しくゲリラの男女を演じるのを楽しんでいただきたい」

 正にその通りで出演者は高宮沙千、但馬久美、天城月江、沖ゆき子、美吉左久子、大路三千緒、淡路通子、美吉野一也、上条あきら、峰さを理、千雅てる子、夢まどか、他という、そうそうたる顔ぶれである。重厚であり、華があり、これぞ男役がおり、これが宝塚であるぞというものを見せつけていた。

 初風淳にベルサイユのばらの人気の理由を聞いた時、こんな答えが返って来た。

「全女性の憧れというか、一度は着てみたい綺麗な衣装を着て優雅な気持ちになり、ステージに立っていても気持ちが良い。皆、自分もああいう扮装をしたいという夢もあるし、またオスカルという男装の麗人もカッコいいし、しかも男装したいという心理を上手くつかみ、そういうものがでてくるところが人気の的ではないかしら……」

 ああいう姿になりたい、そんな人物に成りたいという夢や望みを心に抱いている女性の心をずばり見通して満足させる、それが宝塚の舞台なのだ。

演出家の植田紳爾は、タカラジェンヌの魅力を生かしながら、その中に自分のドラマを作りあげていく。一方、柴田侑宏は、きっちりと作りあげたドラマの中にタカラジェンヌをはめ込み、華麗な舞台を仕立てあげていく。しかし、宝塚には新劇のようなリアリズムの演技は必要ないのだ。

それよりも、それなりの芝居とフィーリングを持ったタカラジェンヌがいて、宝塚歌劇という独特の舞台装置と衣装、照明、音楽の中で、遠い海の向こうから外国の王子さまがガラスの馬に乗ってやってくるという夢と幻想がミックスした物語が、舞台で展開されれば充分であると考えているし、また宝塚でしか出来ないものであるといえる。

 つまり、こんな芝居は宝塚以外では演じたくても出来ないものであり、それがタカラヅカであり、タカラヅカの魅力とも言える。

 タカラジェンヌが夢を作り出し、夢を売っている。その夢は淡く空中に消えていくかもしれないが、その反面、タカラヅカを見た人たちの心の中に、なぜか永遠の残像として残り続くのである。まさに宝塚の舞台は、ファンへの夢のかけ橋となる虹を作り出していると言えよう。そして虹のかけ橋の向こう側には、夢のアイランドがあった。



第六章 スターがサヨナラするとき

  

 北野が宝塚歌劇を取材し始めたころの宝塚歌劇団理事は小林公平、市川安男、坂治彦、荒木義男、植田紳爾で、この中で理事長の市川は最後の陸士出身で気骨のある人であった。阪急電鉄の経営企画室長から宝塚の理事長になった。

 北野は、市川理事長と親しく話をする間柄になっていた。市川も何かあると北野に相談してきた。つまり、どんなことでも自分ひとりの考えでものを決めるということはしなかった。することはかなり大胆であったが、後で考えると正当であったかもしれない。

 

 花組に松あきら、順みつきという二人同時トップスターを作ったのも、月組トップの榛名由梨に「あなたが辞めないと次のトップになる予定の大地真央が年をとります」と言って代えたり、ある宗教が劇団内で目立ってきた時も関係者にストレートに話したり、余りに生徒の中で髪の毛を染める人が多くなった時は、髪を染めてはいけませんという通達を出したりした。

中には問題のある生徒を理事長室に呼び、辞めてくださいと短刀直入に言い渡したり、芝居で忍者になる生徒が覆面で顔が見えないとなると、歌劇は生徒の顔を見に来るところですと言って東京公演を作り変え、数億円の経費が掛かり関係者から文句が出たりした。

 このころ、赤字続きの歌劇団理事長としては株主総会が頭痛の種で、北野に株主になんと言ったらいいかと聞いてきた。北野が、それはもちろん関西の宝である芸能を育てている、そのために経費が掛かるのは致し方ないと言ったらどうですかと言うと、正直にそのとおりに言いましたという答えが返ってきた。人の意見を大切にするところが、この人の偉いところであった。

 あるとき、生徒が水曜日の休みの日に東京に行ったが、台風が来そうなので何人かはその日のうちに帰阪したが、一人は翌朝帰ればいいと考えていた。しかし、運悪く台風で飛行機が飛ばず、帰れないまま舞台に穴をあけてしまった。市川は、北野にこのような時はどうすべきか相談してきた。北野は普通の劇団ならクビですよ。そうでなくても今後のために減給しないと信賞必罰がなくなり繰り返しになりますよと言うと、市川はこの生徒をすぐに減給処分にした。二人トップ制度を作ったりして非難を浴びたりもしたが、それでも生徒に対しては気を使い、平等を求めていたし公私の混同は嫌いだった。

 

 宝塚の四本柱の時代、つまり、汀、榛名、鳳、安奈の四人が揃っての時代は、そう長くはなかった。安奈淳が昭和五十三年に、鳳蘭が昭和五十四年、汀夏子が昭和五十五年に卒業した。宝塚では退団を卒業と言うところが面白い。生徒だからだ。

 安奈淳の退団の時は、こんな内容が宝塚歌劇団からメディアに配られた。

 

各 位          宝塚歌劇団

    安奈淳の退団について

 

 宝塚歌劇団花組のトップスター安奈淳(本名富岡美樹 昭和二十二年七月二十九日生まれ)は、本年七月東京宝塚花組公演「風と共に去りぬ」を最後に退団する。現在稽古中の二、三月宝塚大劇場花組公演「風と共に去りぬ」に出演するほか、待望の新劇場バウホールのこけら落とし公演「ホフマン物語」の主役をつとめ、さらに北九州方面の地方公演にも参加するなど、本年七月まで予定されていた公演すべて出演する。

 非常に突然の申し出であったが、将来も舞台人として活躍したいという本人の意向を尊重、急遽東宝演劇部にその旨申し入れたところ東宝側の内諾を得た。現在東宝側は出演作品を検討中である。

 

 このような内容文での退団者の発表は、これが最後であった。このころまでは、菊田一夫が宝塚の生徒を東宝に引き取っていたという話であった。それを裏づけるかのように、東宝演劇担当の横山清二常務取締役より、次のようなコメントが寄せられた。

「安奈淳さん及び宝塚歌劇団の小林理事長より退団のことを伺い、宝塚歌劇の大きな星を失うことは真に残念です。同時に東宝演劇部所属のご依頼を受けました。東宝にお迎えすることは歓迎いたしますが、何しろ急なお話で在りますので、契約の期日および東宝第一回主演の舞台は今から案をねります。ただ今のところ、具体的には何もかたまっておりません。現在の宝塚歌劇全盛に一翼を担っているスターであり、男役ながら近代的なセンスに溢れた魅力的な女性だと思います。今後、多様な舞台での活躍を期待します」

 安奈淳、鳳蘭、汀夏子の三人のサヨナラ公演、そしてそれを囲むファンの数と熱気の多いことは後にも先にもこれっきりだった。それほどファンもメディアも熱中させるタカラジェンヌだったのだ。北野はそれぞれの人のサヨナラ公演を取材したが、鳳蘭の時は早朝から密着取材した。

 鳳蘭の退団公演は、サヨナラ作家といわれた植田紳爾脚本演出の原作五木寛之「朱鷺の墓」よりの「白夜わが愛」で、植田は鳳蘭のことをプログラムにこう書いている。

「ツレチャンがこの舞台で宝塚を辞めていきます。淋しさや悲しさ以上に、僕には、ベルサイユのばらや、風と共に去りぬを一緒に作り上げたよき仲間がいなくなるという、なにか片腕をもぎとられたような心境です。以下略」

 退団公演を担当した時、植田は未来がある人は旅立ち、無い人は殺してしまっていた。

 鳳蘭は旅立ちであった。退団公演の「白夜わが愛」のその科白は、

『僕たちは過ぎ去った過去を忘れるんだ。昔のことは今日限り……そして新しい世界に旅立つのだ。以下略』

そして最後の科白は、

『さようなら、過ぎ去りしもろもろの思い出よ、私たちは今、新しい人生に旅立って行きます。あの白夜の彼方に、二人の愛を確かめ合って…さようなら…お別れです…さようなら……』

 そして、主題歌「白夜わが愛」の作曲は寺田滝雄、宝塚トーンのメロディが舞台から客席を覆い包んだ。

サヨナラステージの最後の舞台での挨拶が終わり、北野はマイクを持って舞台の緞帳が下りたばかりの鳳蘭のところに行き、マイクをさし出した

「鳳さん今の気持ちは?」

 突然鳳蘭が叫んだ。

「緞帳が、緞帳が」

 北野はそれでも、

「鳳さん今の気持ちは?」

 緞帳はお構いなしに上っていく、北野もそれで鳳の言葉の意味が判った。お陰でその後、鳳に今の気持ちはと聞いても、感激は緞帳とともに去っていた。

 

 このころの宝塚歌劇団の事務所も生徒もスタッフも和気あいあいだった。メデイアも宝塚を良くしていこうというものばかり、互いにいい物ができることを願っている、その心が自然に結び合っていたのだろう。作品にも反映した。

稽古場でよくこんな会話を耳にした。

「今日お鍋しようか?」

「しよう、しよう」

「じゃ稽古終わったら、かつきでやろう」

 稽古場に取材に来ていた北野にも声が掛かった。このころはそんな雰囲気だった。

かつきは小料理屋で生徒がよく利用する店だ。店の女主人をおかあちゃんと呼んでいた、気さくな店である。何事も上級生順、成績順という仕来りが守られている宝塚は、こうした和気あいあいの中でも生徒同士で宝塚本来の精神が継承されていたのだ。

稽古場から生徒が帰る時は必ず事務所をのぞいて、お疲れ様と声をかけたり、おとうちゃん(生徒監)にお疲れと声をかけていく姿がいつも見受けられた。互いに気遣いするし、親近間があり、それだけ互いに気持ちの距離も近くだったのだ。それに生徒を含め皆が大人だった。

 鳳蘭を稽古場で取材していた時、稽古場の片隅が上級生の控え室になっていた。その中で大声で喋り高笑いする声が聞こえてきた。立会いのプロデューサーもいない。突然、鳳蘭が「一寸静かにしてくれない、取材してるんだから」と大声で控え室の中に居る生徒に注意を促した。雑音は一瞬に静かになった。

 

「宝塚 夢 レモン ミルク 青空 すべての夢は宝塚の中にあり。鳳蘭(白い本より)」

 

 これと似た話は但馬久美にもある。歌劇団で一時、ある宗教が流行ったことがある。そのころ、ちょうど但馬は組の組長になっていた。彼女は組長と呼ばれるのが暴力団の組長みたいで嫌だと言い、組子にキャプテンと呼ばせていた。彼女がある日組子を集めてこう言った。

「宗教は自由だけど、宗教で人を苦しめたり苛めてはいけない」

これでかなり気分が助かった組子がいた。自分の意見が言える、それなりの生徒がいたのだ。

 

「宝塚 時を感じなくて時を感じさせる園、私にとって情熱の一こまです。今ここに悔いのないよう大いに羽ばたきます。 但馬久美(白い本より)」

 

 後の話だが上級生が下級生を食事に誘っても、約束があるからと言って簡単に断られてしまうので、下級生を誘うのが怖いという話を聞いた。昔は上級生の誘いは絶対だったのにと北野は思った。時代が知らない間に宝塚を変えている。

 

 大地真央がトップになった時、北野の取材にこう答えた。

「組全体のおちこぼれのないようしていくのが、トップの責任だと思います。一番最後に大階段を降りてくるので、ああ月組の看板になったのだから、大変なことだなあと感じています。看板になったことに対しては、各組いろいろなカラーがあるわけで、それを代表する私が月組のカラーを作っていくわけで、今までしてきたことを、これからも自分らしくしていきます」

 この新しいトップスターをどう作り上げていくかということに対して、作者で演出の柴田侑宏はこう語った。

「作者としては、やはり男役のトップスターを美しく、いかに魅力的な主役像を作るか、見た目にも役の上でも、喋るセリフ、歌がいかに客にアピールさせるものにするかに一番にポイントをおいている」

また、大地はさらに、

「幼い組と言われるのは嫌ですね。若さとフレッシュの組とアピールしたいです」

この大地は、北野の白い本に「宝塚は最高の夢の職場です」と書き綴っている。

大地の相手役をしていた黒木瞳も「心ときめき胸ふるわせ、素敵な綺麗なところ私の宝塚」と書いている。

まさに夢のアイランドを彼女たちが作っていた。ご存じのように、宝塚歌劇団はすべて座付き作者、つまり生徒に合うように作品を書き作るというわけで、常に演出家は作・演出なのである。

 

植田紳爾もこう話している。

「良い生徒がいて一寸役をつける。ところが次の公演で違う演出家が、この上げた生徒に役をつけない場合がある。こんな時は、次にする時せっかく上げたのが下がっているわけで、これをまた上げることは大変なエネルギーがいるんです」

この話の裏には、かつてはそういう場合、次の演出家がその生徒を使い、自然に育てていったことをうかがわせた。

 

「宝塚は夢を生むところです。愛を生むところです。

そんなところで仕事をするぼくは、今迄に色んな夢を愛を苦しみながら生み出して来ました。

そしてまた、これからもこの幸せな仕事を続けてゆきます。

いつまで続けて行けるのかわかりませんが、夢と愛この二つの大切なものを決して忘れないで、苦しみながら仕事を続けてゆくでしょう。

夢と愛 愛と夢 宝塚は永遠に素晴らしいところです。 植田紳爾(白い本より)」

 

柴田にしても植田にしても、このころの演出家は座付き作者として、いかに宝塚調を作るかのために、永遠のテーマである愛と夢を大切にしながら作品を作る努力を続けてきたのだ。

それがあるから、宝塚にはスターが去ってもまた次のスターが生まれてきたのだろう。実は、それは小林一三の精神がそこにあったからだろう。

 

「宝塚に育ち

宝塚に老ける

宝塚こそ吾が人生

小林一三先生の

偉大な存在に

我が目的正しかりし  内海重典(白い本より)」

 

「日本のミュージカルを作り勉強するために宝塚に入団して

もう二十数年がたちました。

まだまだ思うような作品が出来ませんが

これからも宝塚にいつづけそうです。

タカラヅカ フォーエヴァー  岡田敬二(白い本より)」

 

宝塚歌劇のプログラムは、昭和五十一年ごろは百五十円で、表紙はその組のトップスターと決まっていた。もちろん公演の台本も掲載されている。五十五年に二百円に、五十七年には二百五十円に、六十一年には二百八十円に、平成元年には三百四十円に、平成四年には四百円に、平成五年には五百円に、平成九年には五百七十円プラス税金、平成九年には六百円に、そして一気に千円になり台本の掲載をやめた。もちろん表紙のトップスターの写真も無くなった。

宝塚歌劇のプログラムの良さは、安価で生徒の写真が明確に載り、物語が難解であったときは、ファンが台本で勝手に理解してくれる。そこがいいところであった。



第七章 麻路さきの会をメディアが結成

  

 阪急宝塚南口から宝塚歌劇団の事務所のある建物に来るには、宝塚大橋を渡らなくてはいけない。ここは地獄の大橋と言われるくらい、北陸からの冷たい風が吹き抜けていく。一時、生徒の間で毛皮のコートが流行った。理由は、この地獄の大橋を渡るのに必要だと言われるほど、北風が本当に寒かった。北野にこの大橋で出会うと、必ず挨拶をする生徒がいた。

北野は、歌劇団の総務部長の松原徳一に、

「挨拶は只、見返りは大きい。つまり誰にでも挨拶できる人は心のある人であり、挨拶されれば、されたほうも悪い気持ちはしない、そして何かの時に助けてくれる。つまり挨拶は只、見返りは大きいというわけ。で、いつも大橋で出会うと挨拶する生徒がいる」

と話した。

その後、北野は月組のバウホールの公演で「愛…ただ愛 エディット・ピアフの物語」で、新聞記者の役をしている肩幅の大きい生徒の演技が目についた。別に役といっても何も無い。ただやたらと、うしろ姿が印象的だった。早速松原に聞くと、

「いつもあんたに宝塚大橋で挨拶する生徒だよ。麻路さきだよ」

と教えてくれた。

そのころ、新聞記者の間でも、何となく彼女は目につき始めていた。スポーツニッポン新聞社の藪下が、ある日、北野に麻路とご飯食べる機会をつくって欲しいと言って来た。顔ぶれはサンケイ新聞社の山田麗子、後に山田は亡くなり、平松澄子が加わる。日刊スポーツ新聞社の辻則彦、報知新聞社、それに藪下哲司と北野だ。北野は、あらかじめ松原にこの話をした。松原もうなずいた。会場は旅館若水にした。

いざ前日になると、なんと当日、新人公演の稽古がある。北野は松原に、新聞記者がこんなに集まるのに来られるのかと聞くと、松原はさりげなく大丈夫と、いつもの人懐っこい顔で答えた。予定の時間になると、麻路さきは鳩が豆鉄砲をくったような顔で現れた。誰かが今日は稽古じゃなかったのと聞くと、

「そうなんですけど、石田先生が『おい麻路、今日は仕事があるんだろう。稽古は抜けていいから行け』と言われ、えっと思ったんです。仕事ってなんだろうなあと思って来たんです」

月組の「二都物語」の新人公演の稽古は、この日も、麻路無しで本公演終了後に行われていた。北野は、松原が大丈夫と言った意味が判った。松原は阪急電鉄から早い時期に宝塚歌劇団にきていたこともあり、また彼の人望から、生徒には理解もあり人気もあった。その証拠に、松原のデスクの引き出しの中には、生徒が彼と撮った写真がたくさん入っていた。生徒行政がうまかったのだ。

研3の生徒で、しかもこれからスターになるかどうかも判らない生徒を、口うるさいメディアの記者が集まり、ご飯をご馳走するなんて、過去の宝塚にはそんな生徒は一人もいなかった。どちらかというと、メディアの人間はご馳走される側だ。この集まりで会の名前は誰が言うともなく、「さきざき会」とこの日命名された。麻路さきの「さき」を取ったのだ。そしてこれかも頻繁に集まろうということになった。麻路は、まだこのメディアの会がいずれ自分を星組のトップに押し上げる原動力になるのだということには全く気がついていなかった。

 

「私の人生の最高の時期に、自分で選んで入った最も厳しい世界、嬉しいこと、つらいこと、悲しいこと、たくさんありすぎて、とても不思議なところですが、私にとってここに入れたことは一生の幸せです。

一九八五年七月二四日 月組 麻路さき(白い本より)」

 

宝塚では時々組替えをする。組替えになる生徒は、いいから替えるんですと劇団関係者は北野に言った。この組替えは会社で言えば人事異動だが、宝塚の場合は、組が替わることは全く知らない場所に行くのと同じだ。そのくらい疎遠なところで二十四時間過ごすのだから大変なことなのだ。しかし、この世界では運がいる。初舞台の時、麻路は北野のインタビューにこう答えている。

「同期とは、親よりも一番大切なもので、宝塚に入り、死ぬまでたぶん友達、いや姉妹だと思います」

研3で、麻路は星組に組替えになるが、これと同時に、プロデューサーも変わった。後任は、日ごろから北野に麻路はいいと誉めていた橋本雅夫が編集部から来た。橋本は宝塚の辞典と言われるほどの物知り男だ。宝塚七十周年、八十周年の本は、全て橋本の手を煩わした。

宝塚には、本公演を一日だけ研7以下でする新人公演というのがある。新人公演の主役をやる生徒は、いずれスターになるという候補生である。星組公演の「華麗なるファンタジア」で、麻路は新人公演の主役を演じることになった。

初めての新人公演の日、日ごろから麻路、愛称まりこのヘヤーの面倒をみている美容院マヤの山中勝子が、楽屋でかつらの具合を見ていたとき、まりこが舞台に出るのが怖いといって奈落に逃げてしまう出来事があった。同期が探し出して無事舞台は幕があがった。

麻路さきが星組に変わった時、北野に、

「何でよりによってこの組に来たのかしら」

と言った。北野がなぜかと聞くと、

「皆、音楽学校時代高卒組でしかられていたひとたちばかりなの」

たしかに同期は皆高卒であった。顔ぶれは出雲綾、千秋慎、海峡ひろき、天地ひかり、麻丘奈里、英りお、卯月桂、瑞木淳、滝はるか、そして麻路さき。

麻路の嘆きは、やがて同期にとっては励みになった。というのも、今まで香盤(配役表)で後にいた同期の人たちが、麻路が来たお陰で前に出てくるようになったからだ。麻路が来たことで組の中の同期にパワーが生まれたのであろう。同期の団結心かもしれない。

 

「『宝塚』……人によって

それぞれのイメージがあると思う。

実際、ステージに立っている者でも

『宝塚』というものに対する気持ちはちがうでしょう。

私にとって、観る人に夢をふりまく華やかなところでもあり、

また、きびしく、つらい仕事でもある。

……とは言っても、苦しさ、つらさは、それほど大きくはない。

なぜって、ライトの中で拍手を聞いていると

とても実感があるからだ。

これから宝塚は、宝塚なりの作品(もちろん玄人にも通用する)を

作っていくべきだと思う。

夢もあり内容も深い芸術性のある作品……

ダッテ、そのために生徒はレッスンをしているのだから。

海峡ひろき(白い本より)

 

「『宝塚』が世の中で、どのようにうけとめられているのか、凄く知りたい。

みゆ(白い本より)

 

北野は、テレビの取材で、新人公演の「華麗なるファンタジア」で、初めて主役をやる麻路さきに主役の気持ちを聞いた。聞かれた麻路は、

「やれば何とかなるという気持ちがありましたが、演ってみると、主役はすごい責任感があることを痛感しました。でも、自分の目標にしていたことだし、一度はしてみたかったことなので嬉しいです」

と答えた。

本公演で主役を演じている峰さを理は、

「新人公演は一回しかないだけに溌剌として明るく元気で楽しいということがいります」

と話していた。その峰も北野の『白い本』にこう書いている。 

「今の私から切れないもの、いつも頭の中にある、切り離しては考えられないとても大切なところ、とても暖かいところ、とても辛いところ、そしてとても大好き」

宝塚歌劇の舞台には、銀橋(ぎんきょう)という幅四十センチの客席に張り出しているステージがある。かつて白井鉄三が、パリで観た舞台が銀色に見えたことから、このような名前で呼ぶようになったという。

振付の朱里みさをが、銀橋についてこんな話をした。

「お客のいる一番目の前で芝居をするのだから、芝居の出来る人でなければここには出られないのです。誰でも通れるというものではなし、この人はスターになるという人しか通れないし、ここを通るということはスターになるということなのです」

 

「私と宝塚、1、2、3、4、リノリュームの床を風と裸足の足が通り過ぎる。

何人もの生徒が私の目の前を通り過ぎる。長い年月、私は教えてきた道にも、私は宝塚を離れることは出来ない。それは一人一人を好きだから。

これからも命ある限り、また、足音を託して去りたい。終わりなき旅だから……朱里みさを(白い本より)」

 

「宝塚――夢の星くず

   日は移り時は過ぎても

     胸の底にのこる

       かずかずの舞台

    一九九三年五月三〇日 田辺聖子(白い本より)」

 

毎日新聞社社会部で一番の文才があると自称している須佐美誠一は、いつも大きなアタッシュケースを持ち歩いている。この大きさだと原稿用紙がそのまま入るので、どこでも原稿が書けると話していた。その須佐美が夕刊で「ルック」という全国版で一面を飾る囲い記事が今度出来る。その担当が自分なので、北野がいつも話している麻路さきを取り上げたいと言ってきた。写真はカラーだという。

早速、宝塚歌劇団宣伝担当の春馬誉貴子に取材を依頼し、取材に劇団を訪れた須佐美は、一対一でじっくり取材がしたいと言い、理事長室で麻路を取材した。芸能欄で取材されることがあるが、こうした新聞の一面に宝塚の生徒が載るというのは珍しいことだった。

一九八七年八月十八日、毎日新聞夕刊の一面の「ルック」に、カラー写真と「虚飾に徹し頂点に」という見出しで、麻路さきは掲載された。その日の駅の新聞売りのスタンドには、夕刊が細長く筒状にされ、麻路の写真がこれでもかというぐらいに、そこらじゅうに氾濫した。

須佐美誠一の記事は次の通りだ。

「身長百七十センチは、今時の男役ではそう珍しくもない。容姿、踊り、歌、芝居がずば抜けているだけでは、宝塚の大スターにはなれない。時代が要求するパーソナリティを併せ持たないと頂点には立てませんと、入団七年目。二十二歳でこの科白だ。ポスト鳳蘭の片鱗がちらりと見えた。

時代の要求というのは、観客ファンのイメージのことだろう。

男役は作られたイメージの世界だが、日常の中でも、山本麻里子(本名)は男を演じている。大股で歩く男ぶり、女の子が好むあんみつ、お好み焼き、ましてや親子丼など食べない。一人住まいのマンションでネギは刻むが、男の目でテレビのドラマを見ている。男を愛することなどもってのほかで、虚飾と虚栄に徹しなければ、男役の頂点に立てませんときた。

相模原市立鶴間中学を卒業後、進学が決まっていたのに内緒で宝塚を受験した。大映女優だった母が、芸能界のいやらしさを骨身で知っていて、最後まで反対した。我を通したのはスポットライト、拍手、宝石のようなスパンコールのついた衣装―つまり虚栄にあこがれた。が、現実の宝塚は先輩をたてる。掃除に分刻みの練習、容赦のない叱責。軍隊みたいな生活だった。三年間に三分の一近くが退団した。

八月二十八日から宝塚バウホールの『グリーンスリーブス』で初の主役。恋人ができたらすぱっとやめるそうだが、外がほうっておくまい」

須佐美は、俺は芸能記者ではないからと、宝塚のタブーを破った。それは年齢と本名を書いたことだ。

北野の『白い本』に二度目の麻路の文がある。

「大好きなこの世界で、自分がどれだけ成長できるか……今日、目標ばかり大きすぎて、夢ばかりふくらみすぎて、まだまだおいつかないけど、この夢の世界で、私は自分の夢を現実に。そしていつの日か、皆に夢を与えられるような人間になれたら……私の一生の目標です。  新星組生 麻路さき」

麻路さきは、バウホール公演の「太陽に背を向けて」の主役で稽古に入っていた。演出はこれが四作目の石田昌也だ。男っぽい芝居で麻路も張り切っていた。北野はこれをテレビで取材することにしている。

宣伝の春馬誉貴子が北野に、一路(真輝)ちゃんとかなめと、マリコの三人を揃えて取材したらと言った。北野はすぐにピンと来た。一路は大劇場で公演中、かなめ(涼風真世の愛称)は休み中だ、で麻路はバウホールだ。早速、かなめに公演が終わったところの一路の楽屋を訪ねてもらった。そして、化粧を落とした一路とかなめの二人が、稽古中のバウホールの麻路を訪ねた。

一路が、麻路の化粧した顔を見て、「マリコ、化粧ちょっと濃いよ」と言うと、麻路は照れながら、そうかなあと言いつつ、二人の突然の出現に満更でもない顔をした。学年が違う生徒たちが親密というのは滅多にない。この三人の気持ちが合い通じていたからである。

一路が個人的な問題でごちゃごちゃした時、劇団の総務部長の松原が、北野に「一路慰めてやってくれない」と言ってきた。このころの劇団の人たちは皆親密で、宝塚一家みたいな風潮があった。互いに助け合う精神をみんなが持ち合わせていたのだ。三羽烏と言われ始めた一路、涼風、麻路の三人が一堂に会するなんて、偶然としか普通は考えられない出来事である。

振付のアキコカンダが北野にこんなことを言った。

「北野さん、マリコの手が長く見えるように振付してきたからね」

と。アキコカンダの、この一言を聞いて、北野の心の中はじーんと熱くなるのを感じた。皆宝塚を愛しているのだ。



第八章 ホープ三人組の時代、涼風・一路・麻路

 

 平成二年のスポーツ新聞にこんな記事が出た。

「タカラヅカの若き人、平成二年の宝塚歌劇を背負って立つスター、月組・涼風真世、雪組・一路真輝、星組・麻路さき」

 入団学年は一年ずつ違う。共通性は何もないが、強いて言えば、三人とも初舞台が四月の『春の踊り』というだけだ。

 面白いのは、三人とも『ベルサイユのばら』に出ている。涼風はオスカル、一路はオスカル、麻路はフェルゼンとアンドレ、しかも麻路はフェルゼンで一路と、アンドレで涼風と芝居をしているのだ。

 この時の涼風は、スター候補生と言われることに対して、

「絶対的な憧れですね。男役で、しかもここまで来ましたら、やっぱりトップは夢であり、憧れであり、なりたいものです。正直な気持ちです」

 と答えている。

 

「宝塚 仕事場そして夢……私にとって宝塚は宝物。ここに生きて、ここですべてを焼きつくすところ……そう、宝塚は私……なのです。 涼風真世(白い本より)」

 

 一路は、トップになる雰囲気は感じるのかということに対して、

「そうですね、まあ、ないと言えば嘘になりますけど、そういうふうに言われる雰囲気を自分で作っていくほうが先ですね」

という。

 

「私の宝塚……まだ新人と思っていたら、学校も入れて九年間も宝塚にいる自分に気がついたのは、ほんの数日前なんです。

約十年間……私にとって宝塚はすべて……なんて書いたら、すごくかっこうが良いのですが……

でも休演してみて、自分がどれだけ宝塚を……そしてお芝居、歌、踊りを必要としているかが……分かり……今、演劇以外に興味のない自分をよく見つめてみると、やはり宝塚が私の生活の全てだと思うのです。

でも、そんな自分を見つめるもう一人の私は宝塚。それは、私の仕事として冷静に見ているのです。それがうまくバランスがとれた時……素敵な舞台が出来るのでは……と思う今日このごろです。なーんて……やっぱり大好き宝塚。私の人生の宝物です。 雪組 一路真輝(白い本より)」

 

 麻路は、自分がホープと言われることに対して、

「私は、そういうふうに呼んでもらえるのは、光栄だし、その中には、これからという意味が含まれていると思うので、ホープと呼ばれている間に次に向かって走り続けようと思っています」

 と答えた。

 

「宝塚はよいところです。よいところで竜宮城です。でもいつかは下界に帰らなければならないので、そこがつらいところです。行けない人が多いので、一度は行けた私は上得意です。一生、みんなに自慢します。 まりやともこ(白い本より)」

 

 演出家の植田紳爾が、あるパーティー会場で、こんな話をしたことがあった。

「麻路さきについては、いろんな人から耳元であの子はいい、あの子はいいと、ご飯食べに行っても、呑みに行っても、あの子は良い、良いと言われ、そんなに良いのなら、一度嫌らしい役でもやらせてみようかと思い、そこで『戦争と平和』のアナトリーの役をつけたんです」

 会場でこの話を聞いた人たちは、植田紳爾の生徒の育て方を知ったのだ。裏話である。

 植田が演出した「戦争と平和」は、榛名由梨の退団公演でもあった。退団するかつてのトップスター榛名と、嫌らしい役と植田が後に言ったアナトリーを、これからのホープ麻路が演じるところが面白い。しかも榛名が扮するピエールと麻路ふんするアナトリーの二人が絡む場面もある。

 麻路は、アナトリーを演じるにあたってこう話している。

「戦争と平和という大作のアナトリーと思わずに、戦争と平和は嬉しいが、それより、やりたい役が回ってきたなと思い取り組んでいます」

 アナトリーを演じた麻路は、こんなことを言った。

「私がマイマイさん(南風まい)の横に座り、手を伸ばしていくと、客席が一斉に双眼鏡を出して観るんです。恐ろしいですよ。客席中が双眼鏡になって舞台を観るんですから、レンズが光って」

 植田の嫌らしい役は的中したわけだ。

 麻路は、いつも夢を見るという。でも、その夢は誰にも喋らない。喋れば夢が実現しなくなると思っているからだ。でも、その夢は確実に実現していった。

 植田紳爾の稽古場は、穏やかな中に厳しいものがあった。出来上がった台本は、そう手直しはない代わりに、台本に書かれた役をもたもた演じていると、突然そこがカットされる場合がある。生徒もうかうかしていられない。台本を読み、自分で考えて芝居をして、それでも判らなければ植田に聞くことが大切で、判ったふりで芝居は出来ない。任せた生徒が予想通りに演じればいいということで、それが演じられないとカットとなるのだろう。つまり初めから役に合うように生徒が配置されているのだ。

 かつて月組で「ベルサイユのばら」を公演するとき、たまたま月組公演が大劇場であった。その公演を植田が観ていた。どうして観に来たのかと聞くと、月組の公演をするので生徒を観に来た。観ないと誰に何をさせたらよいか判らないからという返事が返ってきた。

 植田の場合は、稽古場には明るいレオタードを着て来ないといけないとよく言っていた。 なぜなら明るいものを着ていれば、ぱっと目につくじゃないかということだ。

 運もあれば努力もいる世界である。出来のいい生徒もいれば出来の悪い生徒もいる。しかし、稽古場では生徒をそれなりに生かそうとする。座付き作者のむずかしいところである。ホープ三人を集めての「ベルサイユのばら」は二十世紀最後の配役とも言えた。

 

 新聞社の記者で宝塚歌劇の取材担当者は芸能記者クラブに加入している。一方、放送局の放送記者あるいはディレクターには、そうした記者クラブがないので、それぞれが取材にあたる。取材するにあたっては、さほど不便はないが、年一回、宝塚の生徒出席でホテルで開く芸能記者クラブ総会というような会合は、放送にはない。

 芸能記者の方には、劇団幹部はじめ阪急電鉄の幹部も顔を出した。まあ簡単に言えば、歌劇団との懇親会である。

 昔から新聞と放送は何となく対立しており、新聞は放送に対してあまりいい感情は持ち合わせていなかった。

 北野は、在阪の放送局にも呼びかけ、放送も歌劇団と懇親会を開こうと呼びかけた。放送といっても範囲はかなり広い。なぜかというと、テレビやラジオの番組にも歌劇団生徒は出演したりしているから、そのキャスターもいうことになる。

 放送局は朝日放送、毎日放送、関西テレビ放送、読売テレビ、ラジオ関西、ラジオ大阪、それにNHKということになった。

 第一回は宝塚ホテルで開かれ、各社から宝塚を取材したことのある放送記者や番組のディレクター、放送タレントの浜村淳、小山乃里子、鈴木美智子、それに各社の人気アナウンサーも多数出席した。参加した歌劇団の生徒も、放送タレントやアナウンサーに会えるので、逆に人気が高まった。

 放送の方はそれなりの芸達者がいるだけに、司会は小山乃里子で、北野は裏で進行にあたった。浜村淳の話術、アナウンサーの平松邦夫の競馬実況と各局出席者の紹介、各組ごとに生徒の紹介。出席の生徒は研8以上で、それに主要な生徒であった。役者には事欠かなかった。それが生徒にも人気を呼んだ。さらに双方日ごろゆっくり話せない舞台に関することなどが話せて、生徒にしても、いろいろ情報を知るいい機会でもあった。

 月組トップになる直前に涼風真世が北野に、「彼女が私のお嫁さんです」と言って麻乃佳世を紹介したのもこの席であった。

 どちらもこの会で互いにコミュニケーションが生まれ、意思の疎通が出来た。顔見知りになれば、メディアも、よし取材しようという気持ちが生まれるものだ。

 しかし残念なのは新聞社と違い、どちらかというと放送の人間は、宝塚が好きで好意で取材している場合が多い。何年も継続して取材を続けて来ているのは、北野と関西テレビの通称「巌」さんくらいだった。この懇親会も五回くらい開いたところで消滅していった。

 宝塚歌劇団も、新年会とともに記者発表したりしてきたが、いつしか宝塚でのメディア向け発表もなくなり、すべて東京でということになった。

 本来、宝塚だから一つの価値が存在していたが、すべて東京ということになると、宝塚という希少価値が遠ざかっていくように感じられる。夢のアイランドはだんだん遠くになりはじめた。

 宝塚歌劇団に取材記者が来てもお茶が出ないという話が、企業の広報の間で話題となったことがあった。企業の広報は、ほっておいても記者が来てくれるなんてと、うらやましがった。

 

「二十一世紀新しい未来に向けて

一つ一つ歩いて進んでいこう

明日はどんな自分が待っているのか

時には立ち止まり時には走って進んでいこう翔こう!

二〇〇〇年八月二九日 愛音羽麗(白い本より)」



第九章 生徒が気持ちを綴った白い本「上」

 

北野の白い本には、たくさんのタカラジェンヌが、宝塚について自分の気持ちを素直に書き綴った。

 

「現実と夢のさかい目。

美しいひとがあまりいない。

企業だけじゃない人間のロマンがもっと欲しい。

私は宝塚が大好きです。好きなうちは燃えつづけます。もっと素晴らしい世界にしたい。これだけ夢を表現する世界は少ないと思います。それが七〇年の伝統。だから絶対無くしたくない。それを守るのは私たち。いつも生きてるように、輝く道……それは宝塚悪女だけど、いつも真っ直ぐ前を向いて力を抜いて歩きましょう……これは目標。

But宝塚はいいな……やっぱり好きだ。これだけは忘れない。絶対に。

一九八四年一二月二二日 杜けあき」

 

「宝塚

すてきな世界

夢の世界

そしてそこで生きる自分

もう一人の自分が舞台に立ち

夢に酔う

そしてもう一人の自分は

自分をみつめる

宝塚

私にとってそしてみんなにとって

しあわせを与えてくれるところ……だと思う。 涼風真世」

 

「心ときめき 胸ふるわせ奇麗なところ 私の宝塚。 黒木瞳」

 

「宝塚 私の最も愛する宝塚

私が去っていく宝塚

私のすべて宝塚

これからもっともっとよくなってほしい。

ほんとうになってほしい。

宝塚

私は去っていくけれど

これからも いつまでも

愛させてほしい宝塚。 わかばひろみ」

 

「百%の情熱

二百%の愛情

でも私の中では八十%まででいて欲しい…… 一九八五年六月大雨。秋篠美帆」

 

「宝塚とは私の故郷のようなもの。

宝塚歌劇団とは私の両親のようなもの

そして今私の中で

自分に最も合った生き方を捜している……一九八五年八月一一日 水原 環」

 

「宝塚は、私にとって自分を写す大きな鏡なのです。

もっともっと美しく華やかな自分を写していきたいなあ……

夢の世界でいろんな私と出会いたい。 こだま愛」

 

「私の宝塚 夢の世界 いろいろな役はすべて私の宝物そして……宝塚。剣 幸」

 

「宝塚という世界に自分で飛び込んできました。自分で選んで入った道です。

もちろん私は未熟者ですから、まわりの方の温かいお言葉をいただかなければ、前に進まないことは判っているつもりです。

でも私はやっぱり自分の道は自分で選びたいと思います。後悔しても、つらくても、苦しくても、自分で選んだ宝塚に入ってから私はこれを信念にしてきました。宝塚で学ぶことは本当にいっぱいあります。でも一生勉強なのだとも学びました。

宝塚とは問われても、余りに今の私にとっては大きすぎて、数ページにはおさまりそうにありません。難しくかっこ良く書くつもりもありません。

だけど私の人生の中で最も大きなものを教えてくれたトコロだと思います。

一九八六年三月一五日  梢 真奈美」

 

「今の私にとって、宝塚は夢と現実が交差しているところです。舞台に立ってお客様に心を伝える。お客様にとっては夢のような世界かも知れないけれど、私たちだって人間だから、いろんなことがあるし、感じたり、考えたりします。だからこそ、そんないろんな思いを込めて舞台を務めたいと思うんです。私情を出すんじゃなくて……とても難しいことだとは思いますが……でも宝塚に入れて、舞台に立てて、ここで関われた全ての人が好きだから、ここで流した汗や涙はかけがいのないものだと思うから、大切に宝物みたいに抱きしめていたいと思うから、舞台から客席に心のメッセージを伝えるための努力なら、どんなことだって頑張ろうって思います。

くじけそうになる時も何度もあるけど、中途半端なことはしたくない。振り返ったり、つまずいたりを繰り返しながらでも、行けるところまで自分の足で歩いていきたい。やっぱり宝塚は素晴らしいところだと思うから……いいことばかりじゃなくても、それでも私はここが好きだから……心を……夢を伝えたい。ここで…… 洲 悠花」

 

「つきなみな言葉だけど、宝塚わが心のふるさとという実感。もし結婚することが決まっていなくて退団しなくてはならなかったら、私は淋しくて淋しくて、退団までの日々を泣いて過ごしたと思います。もっと皆、宝塚を愛してより美しく、より素晴らしい花園になることを祈っています。

入団できてよかった。とても幸せです。何事においても心を大切にして、ハートある道を歩きたいです。いくつになっても、背筋を伸ばして歩いていたいです。

生徒の皆も歌劇団の皆様も、宝塚にいるかぎり、宝塚を愛し胸をはって歩いていただきたいと思っています。選んだ道のために…… 彩 辰美」

 

「宝塚……生活のすべてといっても過言ではないくらいパーセントを占めている。夢も理想も現実もすべてステージ上では、あづみれいかとして生きている。舞台が好き。男役が好き。欲望をみたしてくれる、それがステージ。それが宝塚です。 あづみれいか」

 

「宝塚は世界の中で一番素晴らしい町……そしてその夢の舞台は私の生きがいです。宝 純子」

 

「宝塚。今の私にとっては生活の大部分。精神的にも行動するにも何より優先。歌が好き、踊りが好き、芝居が好き、舞台が好き、それを仕事に出来ている今は本当に幸せ。たくさんの人に巡り会えて、いろんなことを感じて、普通ではのぞくことの出来ないような世界も見れたり、とても感謝しています。一般常識に欠けていたり、小さな社会でクヨクヨしたり、つまらない人間だと思いますが、ここにいる間は今を大切に、そしてもっと大切な時が見つかれば、胸をはって卒業していきます。 花愛望都」

 

「宝塚は私の青春の全てです……ときっとみんな言うだろう……そうなんです。その通りです。私は自称、宝塚ファンの誰よりも宝塚バカだと思います……だってホントーに好きなんですからね。アホ程……。

宝塚は夢、愛、宝塚バンザーイ。 アホのシメこと 紫苑ゆう」

 

「宝塚。今生きてる場所です。 一九八九年三月四日 日向 薫」

 

「宝塚……TAKARAZUKA……なんて夢のある美しい世界なのでしょう……この夢の舞台の中に生きている……華やかな舞台で数々の女性に巡り会うことが出来る……夢が現実となる素晴らしい世界……ここで青春の一ページをつづることの出来る私は最高の幸せ……今からもう思い残すことなくただひたすらに……私に思いやりを……温かく優しい心を……そして素晴らしい友との出逢い……感謝の気持ちでいっぱい。大好きな宝塚…… 一九八九年三月四日 毬藻えり」

 

「宝塚……それは私にとっていつまでも少女のままの純粋な気持ちを持たせてくれる夢の園。そして砂漠のオアシス……一言でいえない素晴らしいところです。 南風まい」

 

「私の宝塚。今離れてみて、その素晴らしさをつくづく感じました。これだけあたたかくてエネルギーを持った集団は他にないと思いました。宝塚には姉妹のような同期、いろいろ助けてくれる下級生と、温かく厳しい目でご指導して下さる上級生がいます。

いつもあたりまえになってしまっていたんで、一人になってみて大切さが判りました.また、雪組のお稽古場を見学した時、踊っている皆の目がキラキラ輝いているのを見て、鳥肌が立ちました。

私は宝塚が大好きです。

今、私が外の世界でやらせていただいていることは、素晴らしい経験です。毎日いろいろなことを勉強させていただいています。ですから、このことが宝塚に帰った時に生かせたらなあと思います……たくさんの人に、なぜ宝塚に帰るのって聞かれました。だから、私の舞台を観に来て下さい。そうしたら判りますヨ、と言いました。

やっぱり私は舞台が好きなんです。この四カ月間、いろんなことを経験して、最後に思ったことは、私は宝塚の生徒なんだということです。

今、帰ってきて、何をしても楽しいです。きっとこれからもいろいろなことがあると思いますが、私はいつも精一杯頑張ります。

まずは、風と共に去りぬに向かって、初舞台の気分です。どうか見守ってくださいネ。  一九八七年一二月二五日 鮎 ゆうき」

 

「母が宝塚に在団していたこともあって、幼いころより観ていた舞台、とても好きでした。いつも夢があって優しくて……私も宝塚に入りたいと思ったのは、ベルサイユのばらを観て、あのワッカのドレスを着てみたいという気持をもったから。そして母の退団した後の同期生たちとのかかわりあいをずーっとみて、その強いきずなをうらやましいと思ったから。そして入団して、上下関係の厳しさや社会に生きるルールを教えていただいたと思っていますが、むずかしいのは、世間にうとくなってしまうことです。

舞台人なのに他の舞台をあまり観なくてもいいと演出家がおっしゃったり、組ごとに動くので人間関係もせばまってしまったり、もっと自由に、もっと大らかにしたら良いのにナとも思います。でも、七十四年間の伝統は素晴らしいと本当に思います。

もっといろんな方々に観て知っていただきたいです。PRをもっと上手にして、世界にはばたいてほしいと思います。もし娘が生まれたら(本人の意思にもよりますが)三代目タカラジェンヌにします。 小乙女 幸」

 

「今は不安とキンチョウ感を毎日食べているようです。でも、プレッシャーに負けないゾー。花組をよろしくデス。 一九八八年三月二七日 大浦みずき」

 

「いよいよ初日が目の前に……とにかく今はやるっきゃない。

一日一日、一回一回を大切にして、明るい華やかな花組になるよう、私も力一杯頑張ります。 キャル ひびき美都」

 

「昭和十七年から四十五年たちました

宝塚は私の生涯で大きな部分を

しめるページです

格調高いレベルアップを切望します。 花柳寿楽」

 

「宝塚を知り 皆様の愛にふれたこと 感謝しています。我が青春に悔いない……たくさんの思い出と共に  麻実れい」

 

「宝塚それはひとつのおとぎの国

温かくフワフワしている 夢の国

地球儀 ぐるっと回してここが一番すてきな国  遥くらら」



第十章  生徒が気持ちを綴った白い本「下」

 

「宝塚……ほんのひとときの夢のような世界

現実を離れて、人に愛と希望をわけてあげる……

そして、そのために私たちは、泣き、笑い、悩む……

でも、いつの日か心の奥深くから微笑んで、

この世界を見つめられるようになれたら……今、思う。 美輪さえこ」

 

「私と宝塚

私の仕事場

私の美の発想

私の汗

私の魂 そして美の究極  作曲家 寺田瀧雄」

 

「私の心のふるさと

いつもいつも私の心の中に

楽しいこと悲しいこと

みんな宝塚の中で

舞台は私の人生でした  美吉佐久子」

 

「TAKARAZUKA!フェアリー夢の国

ライト……ステキなステージ

いろんな振付めぐり会い

もう何年 踊っているんだろう

いろんな人にめぐり会い

いろんな公演、ショウにめぐり会い

私もいつかステキな舞台を

つくることになるだろうか?

DANCE………今思う  一九八六年一二月一二日 藍えりな」

 

「私の青春の全て……

大好きな花園

宝塚の生徒であったことに

誇りを持ち、これからの人生を

歩んでいきます

永遠と続く……

宝塚

心から感謝を込めて…… 一九八四年十月二八日 山城はるか」

 

「私の宝塚

キラキラ輝く宝石

永遠に続く道

いつまでも いつまでも

………忘れない  新城まゆみ」

 

「私と宝塚

幼いころ、単純にあこがれた世界

その夢がかなえられ、私、宝塚と共に生きている

私の青春のすべてが、この世界にある

人との出会いから始まり、苦しみ、涙…色々

よろこび……今改めて思う

単純にあこがれた、この世界だけど

この道を選んでよかったと

これからも単純にあこがれたことを

ステキにやりとげてみたいと思っている

大好きな宝塚で……

私の宝塚で…… 三城 礼」

 

「宝塚は夢の国、でもおけいこ中は現実の世界に

もどってしまう時の違いが私は好きなんです

自分自身を美しく出来るところのような気がします

でもあまり裏は知りたくないですね

いつまでも若さがたもっていられるなら

最高のところでは?

温室育ちになりたくないから、

もっとたくさんの世界を知りたいのは、本当カナ?

上級生の裏話は最高に笑わせて下さいます  夏河ゆら」

 

「これぞ夢の世界!

宇宙のどこにもない場

私の人生の半分以上 イイエ

ほとんどを共にしてきました

ぜったい後悔しない時

宝塚に感謝をこめて ありがとうございます

万歳 万歳 万歳  瀬川佳英」

 

「私は宝塚で

宝塚の踊りを

舞いつづけたい  松本悠里」

 

「私と宝塚

もの心ついた幼いころから

中学、高校時代、そして現在も

宝塚こそ我が人生と

思い込んでいるのです。

宝塚の人間なのに宝塚ファンなのです。

何という甘さ!  演出家 小原弘稔」

 

「大正三年四月一日、宝塚は初公演を行いました

そしてその年の十二月、早くも大毎(大阪毎日新聞)慈善公演として

大阪北浜帝国座で公演を行いました

それを娘時代の私の母は見に行ったと申します

そうした母の血を受けて

私は子供のころから宝塚大好きでした

それが後になって自ら指揮をとるとは夢にも思わぬことでした

そうした宝塚は私の生命でもあります

これからも、ひたすら愛しつづけます

そして宝塚の舞台から限りない美しい

大きな夢を広い世界にお届けしたいと願っています。

七十五年を迎えた今年の宝塚には大きな課題が、たくさんあります

NY公演、新劇場建設……

そうしたプロジェクトを一同の熱意によってみごとになしとげ

百年、二百年と輝かしい歴史を綴っていく

大きな飛躍台にしたい!

私一人の力などしれてますが、愛する宝塚のため全力を

出し切って邁進していきます  元宝塚歌劇団理事長 小林公平」

 

「え! 宝塚?

私にとっては生活です。

でも、本当は夢でありたいです。  演出家 酒井澄夫」

 

「宝塚の舞台。

それは不思議な国。

普段はおとなしくて何も出来ない私が

衣装を着てお化粧をして

別の世界の色んな人と、めぐり会うところ。

これからも、この不思議な国を旅していきたい。

ゆっくりとマイペースで……小さなアリス  檀 ひとみ」

 

「宮田さんへ

宝塚に入団できたこと

素敵な方たちとめぐり逢えたこと

私の最高の宝物です

入試発表の時の宮田さん

なぜか印象に残っています  春風ひとみ」

 

「今 私が思うこと

宝塚はすばらしい!

歌が好き 踊が好き 芝居が好き

だから 宝塚が大好き  一九八五年六月一六日 尚 すみれ」

 

 北野にとって、この「白い本」は宝物に等しい。なぜかというと、これだけのタカラジェンヌたちが、心の中を素直に北野のために稽古場で書き綴ってくれたからだ。

 北野の頭の中には、この「白い本」を読むと、ふーっとそのころが蘇ってくるのだ。愛と夢と情熱、そして心温かきタカラジェンヌたちの面影が………。

 面白いのは遥くららと鮎ゆうきだ。

 二人ともTBSのテレビドラマに出演し、そろって里帰りし、トップ娘役になったことだ。心を外に置き忘れてこなかった証拠であろう。中には置き忘れてきた人もいた。

 舞台は鏡、鏡はあなたの心を写し出すと、北野はよく親しい生徒に話した。

 この鏡ほど恐ろしいものはない。観客に生徒の心の中を見られてしまうからだ。



第十一章 宝塚ジャングル物語

  

宝塚歌劇団の稽古場には掟がある。掟というと恐ろしいものを感じるかも知れないが、伝統と言い換えた方が適当なのかも知れない。宝塚ほど上級生、下級生と上下関係がはっきりしているところはないだろう。たとえ姉妹でも、姉が後から入学したら下級生となる。

宝塚大劇場と同じ大きさの長方形の稽古場も、上級生順で座るところが決まっている。鏡のある正面が演出家スタッフの席、その左側が専科やトップスター、上級生の席、右側が研2からの下級生の席で、研1生は右隅あたりとなっている。トップ娘役も、トップスターが呼んでくれると座れるが、そうでないと娘役が下級生ならやはり下級生の席となる。

かつて鳳蘭が遥くららと組んでいた時は、下級生の遥を自分の席に呼んだという。トップスターの気遣いというものかも知れない。各組の組子は、稽古はもちろん、公演中もトップが舞台に出ている時は、舞台の裾から必ず見て勉強していたという。それだけに、舞台の裾が組子で一杯になるほどだった。

「宝塚にジャングルがあるといっても誰も信用しない。実はあるんです。でも、そのジャングルは、樹木がうっそうと生い茂っているあの密林のジャングルではありません。タカラジェンヌと呼ばれるようになるには、宝塚音楽学校に入らなくてなりません。あの『ベルサイユのばら』の時代は、競争率は五十九倍と言われ、東大か宝塚と言われるほど狭い門でした。

ここで二年間、予科、本科を修了し、卒業できればめでたく宝塚歌劇団に入団出来るのです。でも入団出来たと思ったら、そこはジャングルの入り口なのです。とにかく初舞台のロケットが目の前にあり、自分たちがすでにジャングルの中に入り込んだことさえも気づかないのです。

獲物を狙う野獣は、そこらじゅうにいるのです。たとえば何気なく通りで写真を撮られ、出来上がった写真をどうぞと持って来る。そこで、この写真を善意と思い、黙ってもらってしまうと大変なことになります。なにしろジャングルの中は野獣ばかりなのですから。これを上手にすり抜けたとしても、落とし穴もあれば、蛇も出てきます。どこからか毒矢が飛んでくるかも知れません。ツタに巻かれるかも知れません。

トップスターという砦は、ジャングルを抜けたところにあるのは確かです。折角ここまで来たのに、毒矢に当たり死んでいる人、落とし穴に落ちて白骨化している人、つるに巻かれて息絶えた人がいます。こんな人が死んでいるという時もありますから、驚いてはいけません。ここはジャングルの中なのですから。ここもどうにかすり抜けていきました。落とし穴に落ちそうになっても、その時に同期が助けてくれなければ一巻の終わりです。

今度はライオンです。噛まれて少し怪我をしたようです。でも手当が出来る怪我のようです。手当が出来なければ、ここで終わりです。段々と状況が判って来て、ボディガードをつけている人もいます。ガイドを連れてくる人もいます。

トップという名前が入った宝箱のある砦までは、もう少しです。やっと砦にたどり着いても、階段のところで力尽きて倒れる人もいます。仮にボディガードやガイドを連れていても、物事を判断するのは自分です。大切なのは自分の判断力です。判断が間違えば、ジャングルの中で迷子となってしまいます。砦の階段を上りはじめました。突然、たくさんの番兵が出てきて守ってくれます。こうなったらもう安心です。毒矢も落とし穴もライオンも出てきません。やっと手にしたトップという箱の蓋を開けることが出来ます。そうです、ジャングルは樹木ではなく、人間だったのです」

この言葉を生み出したのは北野だ。長年の取材から、宝塚の世界をジャングル物語にたとえた。

 

「宝塚に入ったことによって思いがけない出会い、様々なことがありました。私は一人でも多くの人に夢を見せられる役者になりたい。 久世星佳(白い本より)」

 

「私にとっての宝塚……正直な話、今の私には何だったのかわからない。自分を燃やすところ、魂を生かす場所、そうであったはずなのに、今の私にはぼやけてしまっている。なぜ……ここに入ろうと思って決意したときには、たしかに何かやろう、それが一体どういうものか説明できなかったけれど、この大きな素晴らしい、そして美しい舞台。この空間の中で何かを伝え、自分らしく生きぬいてみたい。自分の生きるところだ……うん、やっぱりそう思う。今の私にとって、ここの舞台が全て。やはり正直にそう思う。愛も憎悪も涙も全て。まるで必死で気をひこうとしているのだ。ふりむいてくれない恋人のよう。でも、いつか必ず振り向かせてみせる、必ず!  一九八六年六月三〇日 千珠晄(白い本より)」

 

植田紳爾脚本・演出「戦争と平和」の宝塚歌劇での舞台化で、初めて冠スポンサーがついた。この時植田は、

「これはやっぱり嬉しいですね。外部でこの作品に冠をつけようということは、作品を認めてもらったということで、作者としても演出家としても名誉で、喜びはひとしおですね。これをやる星組も名誉で勲章ですね。感謝しています」

前にも書いたが、植田はこの作品で麻路にいやらしい役をやらせようと考えた。そのいやらしい役とはアナトリーで、それを演じることになった麻路はこう話した。

「大作のアナトリーとは思わずに戦争と平和をやっているのは嬉しいが、それよりもやりたい役が回ってきたなと思い取り組んでいます」

この話を聞くと、麻路の心の中を読んだ植田のキャスティングが図星だったことを窺わせた。これに似た話は、麻路が「ディガディガドウ」の公演の時、二番手の紫苑ゆうが宝塚のアメリカ公演の宣伝のため、公演途中で休演することになり、その役が麻路に回ってきた。その時、麻路はこう話している。

「不安反面、こんなチャンスはめったにないという喜びを、同時にこれだけ大きいものをさせてもらうのだから、もっと自分自身、自覚を持ち、そういう立場になってきたんだなあと実感しました」

この時の演出の小原稔弘は、麻路についてこう話した。

「なかなかあの子は研究熱心で、あれだけ忙しい新人公演で、主役をやった翌日には、もう二番手のセリフ覚えてましたからね。まあ将来宝塚を背負っていく人でしょうが、これが良い経験になったでしょうね」

ディガディガドウでは、新人公演で麻路さきがトップの役をやり、結局、一番手、二番手、三番手と全部の役を演じてしまったのだ。

植田紳爾が、宝塚で「風と共に去りぬ」を舞台化することが出来たらと夢見たのは、「ベルサイユのばらⅢ」の稽古中、スタッフや出演者と雑談していて、「ベルばら」の次は何がいいだろうということになって、やはり「風」ではないかという結論が出たときだと、当時のプログラムに書いている。舞台化が難しい本を、植田は宝塚ということを逆手にとって舞台してしまったのだ。その最大の功績は主題歌にあるといえる。

「君はマグノリアの花の如く」「さよならは夕映えの中で」「愛のフェニックス」

「水色の愛」「故里は緑なり」「幸せはどこ」

特に寺田滝雄作曲のさよならとフェニックスが、この作品を支えたと言っても過言ではない。もちろん、都倉俊一と入江薫の曲も忘れてはいけない。

さらにこの「風と共に去りぬ」を盛り上げたのがヒゲ騒動であった。天下の宝塚のトップスターがヒゲをつける。良い悪いの論争は果てしなく続いた。で、トプスター榛名由梨がヒゲをつけた。似合う。続いての星組の公演で、鳳蘭は躊躇なくヒゲをつけた。こちらは、いやにクラーク・ゲーブルに似ていた。

そして植田はスカーレットを二人にしてしまった。本当のスカーレットと、陰の心の中のスカーレットである。宝塚に「ベルサイユのばら」に続いて、もう一つ油脈が出来たのである。

レット・バトラーには麻月鞠緒、榛名由梨、鳳蘭、後に麻実れい、麻路さき。スカーレットには安奈淳、順みつき、北原千琴、遥くらら、玉梓真紀と黄金時代を誇っていた。そればかりでない。振付の岡と喜多も大切な人であった。

雪組と星組の「ベルサイユのばら」を連続公演した時、植田紳爾は、僕たちの中ではフェルゼンを演じるのはこの人でいきたいと、宝塚の中で絞られた三人は、紫苑、朝香、麻路しかないと言い切っていた。アンドレが杜けあき、オスカルが一路真輝、そしてフェルゼンが紫苑ゆう、朝香じゅん、麻路さきの顔ぶれ。

杜がアンドレを演じるにあたって、

「幸せとか夢みたいという言葉では言えないような、ちょっと現実離れしている自分が、かえって不思議という感じ」

一路のオスカルは、

「宝塚に入った時、どんな役がやりたいかと聞かれた時に、オスカルがしたいなあといつも思っていたので、そのものがやれるということは夢のようで、このように扮装をしていても信じられないという気持ちです」

フェルゼン役の朝香は、

「とにかく美しく出るということです」

紫苑は、

「この作品に出られることが夢みたいで、素敵な役をやれて夢がかなうということは、こういうことなんですね」

麻路は、

「一言でなんていうか判らないけど、信じられない。この衣装を着ている今でも」

 と、それぞれ感想を述べている。

このころの稽古場は、熱く燃えている感じがした。演出家もスタッフも生徒も稽古場に取材に来るメディアも、皆、気持ちは一つだった。それは良いものが出来るようにということだった。ファミリー的雰囲気があり、気持ちが一つになっているようであった。皆の気持ちのレベルが一致していたのだろう。

花の道に、お好み焼きの「舞」という店があった。上方漫才の「AスケBスケ」のBスケの店で、切り盛りしているのは、彼の恋女房の通称おかあさんだ。この店にはマイグラスならぬマイ升があり、これが置けるようになることは、それだけ回数を重ねていることと、あなたはこの店のお客よと、おかあさんに認知されたことになる。

通りから引き戸を開けたらすぐカウンターなので、店には入りやすい。戸棚には、生徒が自分でサインした升がぎっしりと並んでいる。回を重ねるうちに、北野もおかあさんと気心が知れるようになった。おかあさんは、いつも熱い鉄板を前にして小太りの体を器用に動かしていた。北野は、作家の陳舜臣さんを案内して宝塚歌劇を観劇した後、よく「舞」に寄った。いつしか陳舜臣さん、北野の名前の入った升が戸棚に並んでいた。

「結婚してくれないと死ぬなんて言っていたのに、こないだなんて、ちょっと酸素吸ってくるなんて言って出て行って、いくら待っても帰ってこないと思ったら、韓国から電話かかってきたんよ」

旦那は、店にいたからといってどうってことないが、いないと駄目という人間看板みたいなものだ。

いつしか、この店で一路、涼風、麻路の人の誕生日を、各々の日に集まって祝う習慣になった。春馬、草野、大橋などが参加し、北野はボージョレヌーボーやシャトウペイシブルのワインをそのために運んだ。皆、遠慮なくできるのが雰囲気を盛り上げた。皆、家族という感覚だ。

北野は、おかあさんから生徒の話をいろいろ聞かされた。でも、つい寄りたくなる店だ。「舞」も地震で倒壊して仮店舗で営業を続けたが、昔の雰囲気はなく、おかあさんも体調が悪いと言っているうちに亡くなった。おかあさんにはどれほどの生徒が世話になったか計り知れない。宝塚歌劇の陰のスターと言える。

地震後、「舞」は近くのビルの二階で娘さんが継いでいる。大劇場の裏方が通った美味の焼き鳥屋「錦」もない。生徒が家代わりに集まり、豚しゃぶを食べた「かつき」もない。家代わりの店は皆無になった。




第十二章 夢を見ながら現実へ

  

宝塚新劇場建設は七十五周年に始まり、平成二年に着工、平成四年九月二十八日に完成した。六十八年と五ヶ月使用した旧稽古場とは、それまでにお別れして、宝塚ヘルスセンターの建物を臨時の稽古場に使用した。旧稽古場さよなら式は盛大に一番教室で行われ、北野も夕方のローカルニュースやネットニュースで生中継した。

生徒たちは、汗と涙が染み込んだ床のリノリュームを剥がして、記念に持ち帰った。喜多弘が稽古場の壁に、ここは戦場だったと書き記す姿が、何ともいえない淋しさを感じさせた。北野も、剥がした床に大浦みずきや剣幸、涼風真世などにサインをしてもらった。喜多が言うように、ここの稽古場にいた者は、そうだ皆戦友なのだ。

宝塚歌劇団には、関係者用の業務券という制度があった。内部の人たちが、外部の知り合いに公演の切符を頼まれた時、とってあげるためのものである。長年の制度で、かなりの枚数がこれで捌けていた。席はたまには悪い時もあるが、それはそれなりに取って貰った人たちには喜ばれていた。

面白いのは、この業務券の引換証に書かれた文句である。販促の一つで「業務券お願い」と書かれており、表は「宝塚大劇場座席券お引き換証」とあり、裏には次のようなことが書かれている。

「常日ごろ宝塚歌劇をご観劇下さいまして有難う御座います。甚だ勝手なお願いでは御座いますが、この座席券お引き換証をご利用のお客様には、ぜひとも宝塚友の会にご入会いただきますようお願いいたします」

この業務券は販促の重要な役割をはたしていた。

旧大劇場の最後の公演は、平成四年十月九日からの雪組杜けあきの退団公演で、忠臣蔵だった。作演出は柴田侑宏。柴田も植田とともにサヨナラ作家といわれていた。忠臣蔵は前々から柴田が狙っていた出し物で、杜にはぴったりであった。振付は柴田が毎回組んでいた花若春秋。彼も後に亡くなった。

内蔵助を演じる杜けあきは、大楽日最後の場面で下手に入る時、一言『もう思い残すことは御座らん』と言って引っ込んだ。ファンへの別れ、劇場への別れ、自分自身への別れ、そのすべてを、杜けあき愛称「かりんちょ」は、最後に上手く仕切ったと北野は舞台を見ていて思った。

討ち入りの日に近い平成四年十一月二十四日、大劇場は幕を閉じた。幕が下りた途端に、関係者が一番に狙っていたものは、座席の後についている座席番号札であった。ドライバー持参で、あっという間に持っていったのが、やけに愉快に思えた。

北野は消え行く大劇場に、なんともいえないノスタルジーがあった。それは初舞台生のロケットお披露目で舞台の上から生中継したこと、これが北野の宝塚大劇場のいわば初舞台であった。そして月組のボーイミーツガールの舞台稽古も北野が舞台から生中継した。この時は榛名由梨がトップで、大地真央もいたが下級生だった。

新劇場は平成四年十二月十二日「祝典花絵巻」「宝壽」で舞台開き。小林公平が、真剣を用いて舞台の上でしめ縄を切った。平成五年一月一日、星組の「宝壽頌」と「パルファンド・パリ」が、こけら落とし公演だった。星組のトップは紫苑ゆう、次いで麻路さき。

トップスターが退団する時、最終公演の最後に必ずサヨナラショウがある。本公演終了後、緞帳前で組長が挨拶、休憩のあとトップスターの思い出の曲集となる。続いて組長がセンターマイクで退団者の紹介、すみれの花咲くころの曲が流れる中、退団者が次々と大階段を降りる。退団者に花束贈呈、退団者挨拶で緞帳となる。大階段から緑の袴をはいて降りることができるのは研8以上で、それ以下は舞台の裾から出てくる。たまに大階段から降りられない退団者もいた。

退団する生徒がいると、稽古最後の日に稽古場で全員が円陣をつくり、退団する生徒に一人一人から、ばらかカーネーションの花を渡し、言葉を交わしながら別れを惜しんだ。この時は上級生からということはない。演出家もスタッフも事務所の人も加わった。

近年、稽古が終わり退団者を送るので組長が花を用意、ところが生徒が円陣にならない。いくら声をかけても聞かない、そのうち各々の期ごとに、ばらばらに始まっている。自分勝手に自己虫であった。北野は組長に言った。皆、輪になってやるということを知らないんだよ、見たこともないし、鼓笛がなくなり、舞台の位置決めがなかなか出来ない。稽古場の別れの場でも、チームワークがなくなっている。伝統の継承がなされないまま時が進み、宝塚の伝統が消滅しはじめていた。

夢のアイランドは向こう側にあるのではなく、遥かかなたに行ってしまった。つまり遥かかなたの向こう側だということである。

何事にも運がいる。北野は、よく麻路さきにお辞儀は只、見返りは大きいと話していたが、もう一つ運八十努力二十だということもよく話した。

新劇場になってから、やたらに足を怪我する事故が多くなった。宝塚で古くからお店をしている人が北野をある日呼び止めた。

「最近、怪我が多いけど、塩をラップに包んで肌につけておいて、稽古や舞台が終わったら足元にまくといいんですよ。言ってあげて」

北野はそれを誰に言えというのかはすぐに理解できた。星組のトップ紫苑ゆうが、稽古中にアキレス腱を切ってしまうアクシデントが起きた。稽古はかなり進んでの事故であった。劇団としてはどうするか迷ったが、麻路に「紫苑の代わりがやれるか」と聞いた。

いつも夢を見て次を求めてきた麻路、その夢は人には決して話さない。なぜなら話したら夢が消えてしまうと考えているからだ。夢にみていたトップの代役だがトップの役だ。「うたかたの恋」のルドルフの役が目の前にある。自信は……ある。いや無い。でも、

「やってみます」

麻路は、震える心の中の動揺を抑えて、プロデューサーに劇団に伝えた。演出は柴田侑宏。申し分ない。運があっても努力しなければどうしようもないが、努力しても運が無ければ、これまたどうしようもない。運八十努力二十とは、このことかも知れないと麻路は思った。かつて麻実れいと遥くららが演じた出し物である。姿、風貌ともルドルフは麻路にはぴったりであった。



第十三章 タカラヅカ 夢と共に去りぬ

  

北野は、しばらくご無沙汰していた宝塚の舞台稽古を見に行ってびっくりした。舞台の上で動き回っている演出助手を見て、どこかの裏方会社の人かと思ったからだ。それほど異質に感じた。

今は一本立ちしている正塚も中村も小池も谷も石田も皆、演出助手時代は、稽古場であるいは舞台稽古で、次の世代に宝塚的なものを教え教えられてきたのだ。生徒も宝塚は何ぞやというものを彼らから学んだ。それがいつしか伝えられなくなっていたのだ。それで舞台稽古の雰囲気も以前と変わっていたのだ。裏を返せば昔は白井組とか誰誰組とかという徒弟制度みたいな形でもの作りを学んでいた。そこから身にしみて風潮が身についた。

それが今はない。日本物をしても、刀の差し方も知らない。昔は上級生が歌舞伎を観るツアーをつくり、下級生もそれに連なって観に行って覚えたのだが、今はない。そんなツアーを組んでも参加する生徒もいない。いろいろな形の宝塚の良き風習がどこかに去ってしまった。伝統は消え、歴史だけが進行している。

去ってしまった今、求められるものは、宝塚らしさである。らしさとは何なのか。華やかなコスチュームとともに、歌と踊りのなかに芝居がある。ストーリーは甘く悲しく切なくロマンが限りなく存在する。つまりは宝塚大劇場の機能を生かした作劇法があるのだ。場面転換が速い。三十秒とか四十秒の早替わり、素早い背景の転換、全てが休みなく進行するところが魅力なのである。

宝塚の演出家は、座付き作者ということを忘れてはいけない。生徒のキャラクターを生かすことだ。かつて高木史朗が、「白井さんが演出していると、使ってもらえない生徒が文句を言いに白井さんのところに行くと、一言、君が下手なんだから使えないよ、で終わった。いいですね」と言ったそうだ。

理事長の市川安男にも、これとよく似た話があった。ある演出家が、ロケットと大階段を降りるフィナーレを作らなかった。それを観た市川は、その演出家を呼び、「今後ロケットとフィナーレをしないなら辞めていただきます」と言った。その後、最後にストレスを消してくれるロケットとフィナーレは、必ず観ることが出来た。

宝塚の男役は本来中性であり、疲れもなく現実の男でもない。食べているものはカスミだ。おいそれとスーパーマーケットに葱や豆腐など買いに行けない。そんな姿をファンが見たら、すぐに抗議がその生徒のところにくる。カスミを食べて生きている人が葱を食べるなんて。

男役のズボンの裾は、斜めにカットしてさらにゴムで靴の下と結び、たるみを見せない。科白も現代風は夢の世界を作りにくい。演出の柴田が、トップに喋らせる科白を作るのは難しいと言ったが、そこが座付き作者の腕であろう。娘役も女ではいけない。あどけない娘でもいけない。宝塚の娘役が必要なのだ。声のトーンも遥くららが、一オクターブ高い声にしていたので大変だったと言っていたが、そこが娘役をする人の気持ちなのだろう。

宝塚という永遠のテーマは決まっているが、宝塚らしさは消え去りはじめた。

 

「地震の年にやっとトップになりました。

十二年間アッという間で、これから残りの宝塚生活を大切にガンバリマス。

まだ地震の傷跡が残る今だけど、復興するころは私ももっと大きくなりたい。

一九九五年三月三一日  麻路さき(白い本より)」

 

らしさを維持した最後の生徒が涼風であり、一路であり、麻路であったのではないだろうか。この三人の中で、裏方に一番のエピソードを残したのは麻路だろう。

星組公演の「二人だけが悪」という芝居で、装置を常に移動させないといけない物語であった。このため公演中、裏方二人が装置の裏に入りっぱなしになった。それを知った麻路は、初日から千秋楽まで毎公演が始まる前に、二人の裏方に自分でジュースを、しかも蝶の形をしたナフキンをストローにつけて運んだ。千秋楽の日、裏方が麻路に花束をお礼に贈った。この話は理事長の荒木義男から聞いた。蝶の紙ナフキンの話は裏方から聞いた。

もうひとつある。麻路の退団公演の時、かなりのハードスケジュールで体もぼろぼろになっていた。ショーで痛めた足は、回りで見ていても痛々しかった。心配していた北野に、ある日、舞台事務所の林が、

「もう大丈夫です。特製の早替わり部屋を舞台の裾に作りましたから。こんなこと、今まで誰にもしたことがありません」

と言ってきた。さらに林は、つけ加えた。

「あの子は、私たちのところに、気を使って、自分でお菓子や飲み物を運んでくるんですよ。普通は下級生に運ばせるのに、自分で持ってくるんです。そりゃ何かしなくてはと思いますよ」

その結果が、過去にどんな生徒もしてもらったことのない舞台横の特製早替わり部屋だった。

いよいよ最後の日、大階段を麻路が降りてくる日になった。舞台事務所の林も豊田も、

「北野さん、安心して客席で観ていてください。ちゃんと階段降ろしますから」

過去にたくさんのサヨナラ公演を観たが、裏方がここまで燃えて全員が集中したサヨナラ公演は観たことがなかった。宝塚大橋で北野にお辞儀をした麻路、そしてお辞儀は只だが、見返りは大きいから誰にでもお辞儀をと教えられ、それを守った結果がこれであった。

麻路さきの退団記者会見は、大阪の阪急インターナヨナルホテルで行われた。はじめに理事長の植田紳爾が、

「宝塚の男役の美学を具現化できる数少ないスターの麻路さきに、次の世代の指導や教えをして欲しいと思ったが、残念ながら駄目でした」

と挨拶した。続いて、麻路さきが次のように話した。

「いろいろと考えてこういうことになりました。トップになって三年目ごろから今後のことを考えるようになり、全く白紙状態なので、これから先、生きていくのに何ができるか考えるにも、退団を決めてからでないと、男役にも集中できないと考えたからです。東宝劇場がなくなること、四組で育った自分なので五組になることも辞める時かなとも考えました」

北野は、以前に植田からこんな話を聞かされたことがあった。

「マリコを専科にして、毎年一本、まりこの主役の出し物をやるとともに、後輩を指導してもらいたいと考えている。北野さんからもマリコに話してみてくれない」

その話を北野はマリコに話した。

「でも、専科といっても今のままではなんの変わりもないことになり、専科の最下級生ということになってしまうだけでしょう」

北野には、マリコの言う意味が理解できた。要するに環境整備されたのなら別だということであった。

麻路さきのサヨナラ公演は、もちろん植田紳爾が担当した。暴君ネロの話の「皇帝」である。ショウは草野旦で「ヘミングウエイ・レビュー」だ。稽古が始まり、しばらくして北野は宝塚歌劇団の事務所をのぞいた。ちょうど植田紳爾が稽古場から事務所に戻ってきた時だった。北野の顔を見ると、すうっと近づいてきて、

「マリコの稽古見た? いいから見てよ」

と言った。北野は、植田がこんなこと言うのは珍しいなと思った。かつて鳳蘭が去るとき見せた同じ淋しさを感じたからである。

皇帝でネロの役をする麻路さきの最後の科白は、

「皇帝にして神。芸術家にして道化師。悪逆非道の暴君ネロ……永遠に帰らぬ……旅に……発つ……」

植田は、この時すでに麻路が結婚の道を選んだことを知っていたのだろう。未来がある人には旅立ちを与えていた植田の物語が、ここでは帰らぬ旅と表現しており、鳳蘭のように芸能界に行くのではないことで、このような言い回しにしたと北野は思った。

面白いことに、麻路さきは旧大劇場、稽古場、楽屋、仮の稽古場、楽屋、新しい大劇場、楽屋、稽古場のすべてを経験したスターであった。

北野の心の中に、走馬灯のように想い出されてくるのは、平成三人組と言われた涼風真世、一路真輝、麻路さきの三人の誕生日の時は、必ずお好み焼きの『舞』に三人が集まり、誕生日のお祝いをしたことだ。それを『舞』のお母さんが、いつも嬉しそうに見ている姿を北野は忘れることが出来ない。

集まるたびに、三人はなんの気遣いもなく楽しんでいた。そんなトップスターは後にも先にもいない。同席した顔ぶれは、その時々変わったが、娘役は鮎ゆうきが、麻路さきの妹・麻園みきもいた。舞のお母さんも地震で心労が重なったのか、病に倒れ亡くなった。

月刊誌「フィガロジャポン」に「デジャヴ」というタイトルで麻路さきのエッセイを連載、その後、同名のタイトルで、北野が麻路さきの入団時から撮り続けた写真と彼女のエッセイを一つの本にして出版。その出版記念会を外国人プレスセンターで開き、公演中の星組の組子が来てくれた。

昔にさかのぼれば、北野が宝塚歌劇を初めて取材に行ったころは、宣伝は甲斐さん、沼田さんという人がいて、真帆しぶきの退団公演をラジオで取材すると言うと、舞台上手の裾に案内され、気がつくと横で生徒が早変わりしていた。

忘れられないのが、旧事務所、旧一番教室の取り壊しの時だ。ここで開かれたフェアウェルパーティーはテレビで生中継したが、生徒が自分たちの汗と涙が染み込んだ稽古場の床をはがして持ち帰った。北野も、緑色が六十年の年月で傷だらけになった床の一片に生徒にサインしてもらった。これは今、ハワイのホノルルに北野が作ったタカラヅカ・レヴュー・ライブラリーに飾ってある。

生徒がさよならする時の稽古場で、楕円形になって一人一人が花を渡して言葉を掛けた。稽古場で、鳳蘭が去ったあと、植田紳爾さんが稽古している瀬戸内美八に、思わず「ツレちゃん、そこ違う」と無意識に発言したり、コマ劇場での毎日放送三十周年公演に花組が、第一回一万人の第九コンサートに、これも花組が出演、当時の市川、坂両理事長が、これは北野さん貴方に提供するのですと発言、胸が熱くなった。

作家の陳舜臣さんは、北野に進められて、気分転換に星組の麻路さきの公演を研3のころから観劇した。花組も月組も雪組も宙組も見た。そのころ一緒に連れてきた四歳のお孫さんも今は社会人だ。

北野が知っている宝塚歌劇は、夢のアイランドだった。

 

作家の陳舜臣さんは白い本にこう書いた。

「宝塚は毎日が黄道吉日

 太陽が運行する円

 春分をゼロとして今二七四度

 毎日同じしあわせ TAKARAZUKA

   一九八四年一二月二六日 陳 舜臣」



あとがき

  

「夢のアイランドは向こう側」は、一九七六年から一九九六年ごろまで、取材をしていた宝塚歌劇団の様子をまとめたものです。

そのころの宝塚歌劇団は、ベールにつつまれているものの、劇団事務所もスタッフも生徒も一つのファミリー的でした。

宝塚花火大会があれば、宝塚ヘルスセンターの屋上に皆が集まり、生徒も差し入れの食べ物を持参して、花火が始まると稽古も休んで皆で楽しんだのです。

稽古場にも、メディアはいつも顔を出して稽古を見て、演出家、スタッフ、生徒と話し合い、皆でいい作品を作りあげようという空気が充満していました。

こうした雰囲気を記録として残したいと思っていたら、神戸っ子出版の「燦KOBECCO」に連載する機会があり、二〇〇五年から連載を始めましたが、二〇〇七年二十号で突然休刊ということになりました。

連載の残りは回でした。そこで、今まで読んでいただいた方々に、最後まで読んでいただきたく考えて、連載した十回分と残り三回分を纏めた本を自費で作ることにしました。

 

二〇〇八年二月            宮田 達夫


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