朗読ミュージカル 山崎陽子の世界7


作 演出 山崎陽子 照明 今井直次 音響 山田正弘 舞台監督 小嶋次郎 
司会 中條秀子

第一部「動物たちのおしゃべり」出演 日向 薫 ピアノ 清水玲子 編曲大野恵美 
オリジナル曲 作曲 中邑由美 ピアノ沢里尊子 出演 森田克子
「老婦人とうさぎ」 朗読 大路三千緒 作曲 塩入俊哉 
歌声 姫 由美子 ピアノ清水玲子 

第二部「杜子春」出演 日向 薫 作曲 塩入俊哉 ピアノ 清水玲子 
「青い星の願い3」出演森田克子 作曲 小川寛興 ピアノ 沢里尊子
出演者一人一人に当てはまる作品を書き演出して、舞台を作り上げるから
独特の舞台「山崎陽子の世界」が生まれる。
そして演者の技量で観客に舞台芸術には最大に必要なイマジネーションを与えて
観客は山崎マジックに酔いしれる。
いつも4つの作品をするので、起承転結が舞台を作るにあたり基盤となっており、
適切に効果をあげてますと山崎陽子さんにお話した事があった。
そして屋号は山崎屋、業種は魚屋だったが、久々に紀尾井小ホールで見た
7回目の公演の屋号は変わりないが、業種が八百屋になっていた。
新鮮な鯛、鮪、蟹、平目を捌くはずが、大根、玉葱、山芋、牛蒡を店頭に並べて
それを料理しようとした所に献立と仕入れの食材を少々間違えたようである。
出刃包丁と刺身包丁でついつい野菜も料理してしまったようだ。

第一部の「動物たちのおしゃべり」チェコのミルコ ハナアクと言う人の絵に
山崎陽子さんが詩をつけた作品だ。
その動物を写真で舞台で見せながら歌い朗読する。
山崎陽子の世界の大切な事は、観客にイマジネーションを与えて観客に
山崎マジックをかける事にある。
猫でもいろいろの猫が居るが、舞台に一匹の猫を出されてしまうと、
それで世界は終りだ。
どうして写真で動物を出す必要があるのだろう?
これで観客は固定観念に
捕らわれてしまうのに。
演者は日向 薫さん、ネッシー!愛称で呼ばせて、宝塚の稽古場時代からの知り合いだから。
どうも衣装が悪かったよ。生地も色も季節が秋に近いんだから、
そしてネッシーは背が高いんだから、ウール系のものを着て欲しかった。
舞台はどうかって?無事舞台が終わるか心配した。ネッシーはもともと不器用なんだよね。
文章書いても短い、インタビューしても一言、もっと自分の感情を出して表現して
言葉にして欲しいんだよ。
本当はもっと遊び心が欲しい、いつも遊んでいる?演者にはそれがいるんだよね。

「戦争と平和」を宝塚で演じた時は、あの衣装がネッシーのフィーリングを助けていたんだ。
そして長身が場面に合う、つまり皆がネッシーを作り上げてくれたんだ。
でも今は自分で作り上げなくてはいけない。
舞台の空気が動かないまま場面は進みそこに森田克子さんが出てくるから
水と油みたいな舞台を感じてしまった。勿論水はネッシーだよ。

ちんげん菜を茹でるときは水の中に少量の油を入れると、柔らかになるそうで、
早くそのような水になる事期待してるよ。

森田さんも、ちんげん菜を一緒にと思っていたのに、水だけなくなるから、
油の森田さんはちんげん菜と格闘した感じでした。


「老婦人とうさぎ」は大路三千緒さん。
歌声が姫 由美子さんだがこれが舞台では一体化しないのだ。
物語はかつては花形歌手だった老婦人今は誰も知らない。
毎晩老婦人はウサギに歌って聞かせてると言う話。

大路さんに歌えといっても無理、そこで姫さんがその歌声担当だが、
どうも此れが裏目と感じた。

舞台は生歌でないといけないところに、大路さんの芝居と姫さんの歌声が合致しないのだ。
更に大路さんの朗読の感情の起伏が普通の老人の起伏で、
それを舞台演技にしようと、苦労している感じが受け取れた。

猫と言えば、観客にいろいろな猫を思い浮かばす。
歌もそれと同じで、歌声でと言う考えは良くわかるが、
それを合体さすところが欠けていたのだ。これも手法的には計算違いだ。

強いてするなら、大路さん横とか後ろに照明で姫さんを浮かび上がらせ
二人の人物をオーバーラップさせるようにして、合体させるかだ。


第二部は芥川竜之介原作の「杜子春」を日向 薫が演じる。
男が仙人に出会い金持ちになるが使い果たし、仙人になりたいという話だ。
衣装も今度は
ダークスーツで落ち着いている。
男と女と千人の人を演じ分けるのだが、過去の日向 薫を想像すると何か違う。

ネッシー、今回は何か考えがあってこういう芝居をしようとしたの?
決して上手いとはいえないけど、過去に比べたら格段の進歩を感じた。
何が良かったかと言うと、メリハリがついていることなんだよね。

今までは言い方が悪いが蓮っ葉、軽かったんだよ。
勿論心の感じ方もないから、棒読みみたいだったね。

メリハリがあるという事は男、女、仙人の人物像が明快だったと言う事だ。
更に言えばそれは、それぞれを宝塚歌劇の男役、女役、老け役のフィーリングで演じたからだ。

過去の感性が此処で生きるとはね。男を男として演じなくて,男を男役気分で,
娘はネッシーが娘役気分でしたから,メリハリついたんだね。

怪我の功名かも知れないが,芝居ってこんなものなんだよ。それがその人の個性なんだ。
それが一つの遊び心かもしれない、少々甘い言い方かもしれないがね。
盗んで罪にならないのは芸だけ、芸は物まねから始まるんだよ。
更に此れは深みのある演技で見せるよう頑張ろう、ネッシー。


最後はオオトリの森田克子さん。定番元娘の所によれよれ白馬の騎士が来る話。
今回は初め4カ国が6カ国にそして今度は8カ国に、なんとハワイにもこの騎士はいったのです。

起承転結にかけた今回ですがお客様は森田克子之この演目があれば、
宝塚歌劇の大階段のフィナーレ、ロケットがあるのと同じで、満足して帰れるのです。

でも森田さん少々お顔がまん丸におなりのようで?

山崎陽子の世界がこれからも続けていくなら、作品の選定の仕方、
出演者は朗読、芝居、歌うの条件は満たすこと、
現代の社会に通じる現代社会の風俗をつくような作品が一つはある事、
客層が客席を見るとかなりの高齢化しているので、高齢だから悪いと言うのではなく、
観客の次代の予備軍もスタンバイさせる必要性もある事。
出演者も現在プラス次発をこれまたスタンバイする必要がある。

遥くらら、春風ひとみ、毬谷友子、此れは元宝塚勢、日下武史の特別出演なんていい。
個人的に見たいのは遥くららだ。
それぞれに持ちネタを持たせておくという、レパートリーシステムもいいかもしれない。
いつもの事ながら、伴奏のピアノ、照明とチームワークが良いから、良質の舞台が生まれる。

東京 紀尾井小ホール 2005年10月14日18時30分公演 自由席5000円ちゅー太


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