朗読ミュージカル「山崎陽子の世界」 6

作 演出 山崎陽子 司会中条秀子 照明今井直次 音楽小川寛興 矢野義明
ピアノ 清水玲子 沢里尊子

山崎陽子の世界というタイトルは魚屋の屋号みたいなものだから、
これで今後も押し通しますと、魚屋の主人山崎陽子さんは以前話していた。

とにかく店頭に並べた魚が鮮度良く、生き生きしているように見せるのが主の役ですと。
その山崎屋が鮮度のいい、いつもの鯛や平目や赤魚やギンダラを引き連れ
神戸オリエンタル劇場で一年ぶりに堺の名物大魚夜市ならず「大魚午後市」を開いた。

集まった客は以前の評判の良さも手伝い口コミで初めて見にきた客も
かなりのようである。

朗読ミュージカルと言うタイトルだけに、見なくては判らない、
客席で何がでるのだろうと言う不安感がかなり漂っている気配を感じた。

何しろ舞台は下手にピアノ、上手に大きい生け花だけで何も無いからだ。
その不安心をかき消す術を持ち合わせているのは、年の功とも亀の甲とも言える、
魚屋の主、山崎陽子だ。


憎いね、一番先に森田克子の「善女のパン」を持ち出した。オー ヘンリーだ。
朗読ミュージカルの構成は起承転結が明確に決まっていることだ。
その森田克子は「起」部分の担当。つまりオーバーチュアーだ。
静かな所からゆっくりと舞台の空気が動き出していく。観客はまだ戸惑いの中にいる。

演者森田克子の出始めは若干舞台の空気の動きが悪いのを感じていたかも知れないが、
それも次第にスムースになっていく。

そして作者が原作のままでは救いがないと再度男が古パンを
買いに来るシーンを付け加えた。


暗転で次の久留公子の「幻の肖像画」だ。

この人の演じ方はいつもこの人上手いのかな?どうなのかな?と思わせながら
舞台が進んでいくところが、みそだ。

今回も和ものだけにどうなるのかなと思わせながら、進行していく。
メリハリは、きっちりある、勿論歌もいい、台詞もいい、
妙に弱弱しい風情が舞台で生きてくるから面白い。

彼女の演技から何故かイマジネーションが明確に沸いてくるから更に面白い、
なんとなく昭和の初期を勝手に思い起こしている。

着物でしてくれたらいいなあと、思いながら、幕が閉まる。
「承」の部分だ。
最近のまがい物のミュージカルなどの舞台に惑わされてる観客は、
経験もした事も無い舞台の新鮮で不思議な、つまり演者から与えられるものにより、
自分の中にイマジネーションが生まれることに驚いているようだ。

芸も無ければ技も無い役者が、堂々とこけおどしの芝居をして、
見るほうもただただ感心している、
冬のソナタに魅せられていてはいけないんだよ、おばさんたち。
本当の演劇を知らないから、どれが良いか、悪いか目利きができないのだ。


再び幕が開くと舞台の風景は同じ、変わっているのは、大野恵美演じる「樫の木の下で」
この方は淡々と少女のように演じるから素晴らしい。「転」の部分だ。
時たまフラシュバックの部分にメリハリを失いかけるが、
そこは長年引っさげてきた技量が物を言わせるから、見事。

起の部分で盛り上げかけて、承で気持ちが淡々として、転で心は満足度を増してくる。
が気持ちは少々下降気味だ。

そこに現れたのが結の森田克子演じるオーヘンリーの赤い酋長の身代金よりの、
「きっと明日は」だ。

正にのっけから大フィナーレ。
大ベテラン森田克子はもう関西の観客なんて怖くない、
皆身ぐるみ剥ぐぞと言う勢いで舞台は進む。

この頃には観客はもうお腹は満腹と言う顔だ。
それでも森田克子は容赦なく観客の満足度を増幅していく。
密かに何時?何処で?関西のこれでもかと言う芸風を仕込んだのかな?見事だ。

そして緞帳が下りてカーテンコール。
忘れてはいけないのが曲つくりと音楽とピアノ演奏者だ。
この方がたの阿吽の呼吸が無ければこのような素晴らしい舞台は生まれて来ない。

不思議なのは演者はいつも同じ方ばかりだが、こうして飽きさせずに舞台が作れることだ。
それは座付き作者が個々のキャラクターを見抜いて書いているからだろう。
それが本当の座付き作者というもので、最近の宝塚歌劇を見て御覧、
座付き作者兼演出家と言われながら、何一つ生徒の性格を見抜いて宛てはめた芝居を
書いていないのだからね。

山崎陽子さん、芝居を書くと言う事は才能ですよね。

メディアは何をいつも見ているんだろう?
大劇団の一見脅しにも似た宣伝のやり口に惑わされ
その筋書き通りに踊らされているのが今のメディアだ。

山崎陽子の世界のような舞台こそメデイアが取り上げ世間に教える義務がある。
それをしないメデイアは本来の精神を失っている。

デスクが判りやすく、取り上げやすい物だけを記事にして差し出す。
デスクが理解出来にくいものは、取材しない。
それ面白いか?その一言がメデイアが選ぶ基準なのだから、はなはだ可笑しいのだ。

おもろい、時季物、今話題物が選ばれる基準だ。
日本のメディアにはフォローアップとか
見出して報道すると言う精神が欠けている。
良い物はいい、悪いものは悪いと書ける人間がいないのだ。

関西の文化を興隆するとか偉そうな事をあだかも自分がしているごとくに言う
演劇人もいるが、関西がそんなに簡単に左右されるものではないのだ。

格好だけ取りつくる政治家風情の演劇人、それを後押しするごますりメディアが
一番文化を駄目にするのだ。

ふと客席で考えたのは山崎陽子の世界を永遠に続かせるなら、
これを継承できる演者を育成しておかないといけないと。

今は皆さんの知的水準レベルは共通しているが、
共通のところが凹んだりすると、バランスが悪くなる、そこが怖い。
でも聡明な山崎陽子さんはちゃんと考えているだろう。

既に13年になると言う事のようだが、
それなら益々ダブルトラッキングで創作活動をする必要がある。

此処まで築いた山崎陽子の世界いや城なのだから、
もう少し築城してもいいんではないであろうか?

望むのは仲間だけの時の舞台と一人画期的なゲストを迎えて演じる舞台の二種類が欲しい。
それにより作り手は大変だが未来は広がるだろう。

でも誰かがやっぱり、古パン下さいというかもしれないが?
これを読んだ皆さん、どこかで山崎陽子の世界 朗読ミュージカルという文字が目に入ったら
問答無用で見てください。「超」 面白いから。

 
 「山崎陽子の世界 6」 2004年11月23日 観劇 神戸オリエンタル劇場 

  席I−22番 ちゅー太


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