劇団四季公演 新演出版 ミュージカル「ウェストサイド物語」
                         ちゅー太の劇評


新演出版の「ウェストサイド物語」と言って良いのだろう。

新演出版のジョーイ・マクニーリーさんは
「何よりもこの劇団を育ててきた「ウェストサイド物語」を刷新する使命を、
僕に託してくれた事に感謝している。前演出の・浅利慶太さんからバトンタッチを
引き継いだつもりでこの稀有なミュージカルを次の時代に伝えていきたいね」
と話している。

確かに、装置から舞台の雰囲気から総てが日生劇場初演から始まり1986年に近鉄劇場で
公演した「ウェストサイド物語」とは違っていた。

近鉄劇場での公演の時のベルナルドを演じた吉元和彦・加藤敬二は、
余りにも個性あふれる二人だった。
二人とも表現は悪いが飢えていた時代だ。だからこそ、あれだけの個性が出たのだろう。

今回のはマクニーリ―が「セットや衣装、照明も新しく、特にセットはシンプルで
緊密感溢れるデザインにする事でパワフルなドラマとダンスを際立たせたと思っている。」
と言うようにすべてが、シンプル化となった。

見方によると、今までの舞台つくりの中から、いいとこ取りをした感じで、
ロミオとジュリエットから生まれた作品という雰囲気から脱しているとも言える。

ただ全体的から見ると、いいとこ取りした為に、舞台から感じる重厚さと言うか
人間臭さが消えてしまった感じもした。
冒頭の出だしから、三角形の3人のダンスに行くプロセスの間が何となく歯切れが良くない。
何故だろう?

もう一つはマリアに対するトニーの芝居が歌が引き締まらないのだ。
つまりトニーがマリアと出会う体育館での出会い方の間?
体育館で二人が出会う時間的間と、その間後ろで踊っている空気とが合致しないのだ。
そのままのバルコニーへ来てしまうので二人の愛という雰囲気が作られたものに過ぎない舞台となる。

この原因の一つはトニー役の神永東吾にある。
理由はマリアに対して自分一人の芝居をしているからで、マリアに対しての愛の心を
観客に感じさせてない、大切な歌は語り台詞は歌えという演技を忘れているからだろう。
悪く言えばバルコニーから上に上がるのも、歌うのも総てが段取り芝居に感じた。

マリア自体の雰囲気もある部分は可憐さと精一杯の歌唱力で補っている感じを受けたが、
あるいは演出のマクニーリーの趣向かとも勝手に思った。
どうしてもトニーの空気の様な芝居が、舞台から生まれ感じる甘い雰囲気、情熱的なもの、
緊迫感、悲しみ、友情という沢山の出来事を踏まえたものが一つの線として感じられなかった。

劇団四季はミュージカル劇団と最近は世間で言われてる様子だが、本来は劇団四季としての、
個性ある演技集団で有ったはずだし、それが劇団四季の舞台の魅力でもあるはずだ。

今回、それを感じさせてくれたのはアニタを演じた岡村美南さんだ。
アメリカを踊る場面を見て、ニュー劇団四季となっては初めて四季の役者が演じている舞台と
懐かしくその雰囲気を感じた。
今回はアニタが舞台の空気を回しているので、マリアもその雰囲気が保てたのではないだろうか?

「ウェストサイド物語」の見どころは、冒頭の三角刑のダンス、体育館でのジェットとシャークのダンス、
バルコニーの場面、ドックの店での緊迫感とセットがはけてのダンス、決闘、アニタが乱暴され、
その後の行き違いからトニーの死と流れるはずだ。

行き違いからトニーは撃たれ、そこからジェットとシャークが互いをいたわる最後の感動の場面へと。
でも今回の舞台は整理しすぎたせいか、あっさりしすぎて、緊迫感がないままに
最終章となる所が物足りないのだ。

舞台を物語をあまり整理しすぎると味覚で言うと五味の何かが欠けているという感じだ。
なるべく先入観を持たずに見たつもりだが、アクション役の岩崎晋也さんがジェット団の中で
個性を出していた事、ベルナルドの萩原隆匡さんが雰囲気作りをしていたが、
ライオンキングのスカーの雰囲気が残っているのか肩の力をもう少し抜いてくれたらと。
でも劇団四季の個性を維持した役者として期待したい。

それにしても1幕最後の決闘場面はフェンスを乗り越え逃げる、金網の小さな穴から入り込む、
そしてパトカーの照明が懐かしい。
お終いに、プルトリコを非難する所でふと大統領選挙でトランプ氏が言う移民非難の言葉が
オーバーラップしたのが印象的。

   観劇 2016年6月30日 京都劇場 13時30分公演 1階 H列 17番  ちゅー太


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