ときめきの青春

                                                 2006年10月
                             作 宮田達夫


本当に久しぶりのお目もじで思わず胸がキュンと締め付けられました。
早々に会場でご一緒に撮った写真を送って下さり有難うございます。
相変わらず行動の早い貴方だなあ…と懐かしく昔のお姿を思い出しました。

私も貴方の夢を早々に見ました。
私の仕事の関係上旅ばかりですがその出張先に何故か?貴方がカメラマンやスタッフを
沢山従えて現われ、あっちこっちと昔のように忙しく動き回って…気が付いたら
二人でこたつに入ってお喋りしている…という訳。
こたつの中でそっと手を握りあっていなかったところをみると
昔もお互いに甘い雰囲気がなかったのでしょうか。

貴方にもいろいろな事があったのでしょうが、とにかく此処までお互いに
充実した人生であったようで嬉しく思います。



私の世代の男の人達に再会すると、ほとんどの方がもはや人生の残りを
遠慮っぽく密やかに生きている感じがするのですが、貴方はまだまだこれからという
エネルギーを発散している感じでこちらまで元気になりました。
私もこれからもう一丁何かやろうという気持ちが湧いてきました。宜しくご協力を…。

それはそれとして、先日会場に座っていた貴方はとてもドラマティックでした。
どうしてかってか?昔を思い出せない位に、風貌が整った貴方の回りに次々に
いろいろな人が現われて、過去の思い出を持って来たり未来の夢を持って来たり、
其の中にはまだ答えの出てない虜の心も混ざったり…さぞかし楽しい時間だった事でしょう。

見ていて無性にうらやましくなりました。嫉妬を覚えるぐらいに。
とにかく写真展のご成功御目出度うございます。


貴方のお家の皆様とお付き合いさせて頂いて本当に若い頃の私は沢山のものを頂いた気がします。
何十年振りに心からお礼申し上げます。

父上様 母上様にも沢山お世話になって恩返しも出来ないうちにお目にかかる機会も
無かった事をお詫びします。

父上様はまだお元気でお暮らしとかお兄様から伺いました。
我が家もお陰様で両親がまだ元気で今日二人を連れて墓参りに行った折りに、
貴方と一緒に会場で撮った写真を見せたら、とても懐かしがっていました。

そして母の言葉は「マア あのオッチョコチョイの坊やがこんなに立派になったの…」
ですって<怒らないでね、母の言葉を其のまま書いたので>



今反省してみると最初、私は貴方の一番上のお兄様にジャズピアノなど教えて頂いていて、
それが知らない間に何時の間にか真ん中のお兄様とダンスパーティなどに誘われ
連れていって頂く様になり、なんだかんだしていると貴方がダンスパーティに行く相手が
居ないからと誘われ、プリンスホテルでの大学のダンスパーティに出かけて、
ゴチャゴチャ遊んだり、ずっと私だけが成長が止まっていたのかも知れません。

あの頃の私は貴方がた兄弟の間をうろうろしていたんですね。今思うと可笑しいですね。
余りの懐かしさに長い手紙になりました。ご免なさい。お付き合い有難う。
此の次ぎは直木賞のお祝に駆けつける私を夢見ています。長生きしてね。

                             高木夕子





夢がそのまま続いていたらコタツの中で二人は手を握りあっていたでしょう。
物語は途中切れだったのです。
なんとなく二人の私の兄の間を行ったり来たりしていた貴方を、やがて私はダンスパーティの
パートナーとして誘いました。あの頃は本当に私が貴方を独占してしまっていいのか、
否これは仮の姿なのだとかと考えていると結局遠慮が先にたち、若かった45年前のことでは
率先して自分の気持ちを貴方に表現する程の力量度胸はありませんでした。



「私 判る?直チャン」
写真展の会場で45年ぶりに突然横に立たれた時、そのヘヤースタイル、メガネ、
黒のビニールコート姿そして45年という歳月が邪魔してとても直ぐには正直判りませんでした。

「判らない」と正直に言うと、貴方は不満そうに言いましたね。
「夕子よ」と名前を告げられましたね。


貴方が会場に姿を見せる寸前に私が小学校の頃長野県に疎開していた時、
小学校で一緒でその後手紙でやり取りしていた友人が訪ねてきました。
疎開以来だからこれも何十年ぶりです。
其のときその友人に女の人と何十年振りで会うのは良くないね。
誰だか判らない事が有るからと話していたところです。

それは文学座の女優さんで東京大手町のサンケイホールで公演した加藤道夫作演出の
『なよたけ』でその女優さんの初舞台だったんです。
それは素晴しい舞台で心に深く残るほどでした。
それから、まったく忘れて40数年が
経ったある日、神戸で公演があり、その打ち上げパーティが神戸のキャンティという店であり
その席に同席し、その『なよたけ』に出た文学座の女優さんを紹介され
判らなくて驚いたことがあるのです。
でも初めて見たときの彼女の舞台が印象的で今でもプログラムは大切に持っていますけど。



そんな話をした後に貴方が突然現われたのです。どうして来たのかも判らずに後で聞くと
兄が写真展のあることを貴方に教えたということでした。

あなたと気付いたとき本当に嬉しくて抱きしめたい気持ちでいっぱいだし、
涙が出そうでしたが回りには知人が沢山いるし、でも私が記念写真撮ろうとして、
そばの人にカメラを渡したとき、貴方はこう言いましたね。

「此の人、昔の恋人なの私の…」
その一言は愛らしい音色となって私の耳の中を通過して心の中まで響き、とても嬉しくて
その瞬間気持ちが45年前に戻ってしまいました。



テレビ局の放送記者として事件の取材で走り回り、政財界、文化人などの人達にインタビューしたり、
プロデューサーとしてイベントをしたり、ブロードウェイのミュージカルを日本に招いたり、
国内のビッグイベントを手がけ、また自分自身のエキシビションを開催したり歌舞伎の世界、
演劇の世界、華やかな宝塚歌劇の世界の華の時代に携わりました。
でもこうした華やかそうに見える中<表は華やかでも裏は大変>心の中は孤独なものです。



こたつの中の手の行方ですけど私には甘い心は淡くも抱いていたのです。
でも何か遠慮が邪魔して、また手を握ってもいけない禁断の手みたいに思い、
其のまま心の中を打ち明ける勇気もないまま大阪の放送局に就職の為、東京駅発の夜行列車の
特別二等車に乗り関西に来てしまいました。



話は変わりますが昨年の暮れはオーストリアのウィーンに行ってきました。
ウィーンのクリスマス風景、年末風景を見たかったです。
シュテファン寺院があるケルントナー通りにはホットワインを飲ませる店が立ち並び、
大きな容器に入った湯気の出るワインを寒空の下で飲むのが、冬の風物詩であります。
ワインはホットワイン用で赤です。
これが何ともいえない、味を口のなかに感じさせてくれるのです。

ウィーンでは応用美術館、美術史博物館、美術史美術館、グスタフ・クリムトの『接吻』がある
ベルベデーレ宮オーストリアギャラリーを見て回りました。

そして東欧のクリスマス風景、通りで賛美歌を歌うグループ演奏する人達と
それはまったく日本とは違う光景でした。

1231日にマリオットホテルで開かれる大晦日のガラディナーは男はタキシード、
女は肩の出たイブニングドレスが当り前でごく自然なのが日頃の生活感を感じさせました。
ホテルの玄関の前には馬車が待っており、馬の背中に寒さ避けにかけた毛布から湯気がたつほど
外は寒いのです。

ガラディナーで夜明けまでウィンナーワルツのメロディーに酔いしれ、踊り明かすウィーンの人達は
正にトラディション、しきたりの継承以外何物もありません。
それに比べて最近の日本の文化は紙に書いた文化に過ぎません。張り子の文化です。

そういえばウィーンの人達は年が変わる午前零時には市役所広場に集まり、カウントダウンして
持参のシャンパングラスにシャンパンを注いで乾杯します。
シャンパングラスを持参するのも、シャンパンを持参するのもさすがです。
そして女性が男性に口元を近づけ、来年もよろしくとアイコンタクトを送り、熱き口づけとなるのです。
そこら中でこの風景が繰り広げられます。一人でいるとあほみたいです。

今度ウィーンに来るときはイブニングドレスが似合う女性を連れてこようと考えています。
オーストリアの美味なる赤ワイン、ウィンナーワルツ、そしてしきたりとこれだけのものが
充満した空気の中で生活したいですね。



言い忘れましたが、阪神淡路大震災では私の住んでいる兵庫県西宮の夙川も大きな被害となりました。
幸い私の住んでいるマンションは、つぶれませんでしたが半壊でイエローマークでも
住んでいる人達が団結して補修工事をしようという意見でまとまり、一年余り仮住まいという
不便な生活を強いられました。立て替えなんてことですと3年はかかり、出来上がるまでに
死んでしまいます。事実二階に住んでいた方は地震後まもなく亡くなりました。
60本あるマンションの柱の59本が折れ、運が悪ければ私の家は一階なので
間違い無く死んでいたでしょう。

避難所は小学校の教室でそこに5000人からが避難しているのだから、空気も悪い。
外は冬で寒い、皆被災民なのに泥棒がいたり、それはもう大変でした。
便所はつまる、悪臭はする、自治体も指揮系統が滅茶滅茶で、東京都の給水車が走って来る姿を
見た時は西部劇映画で助けに来た騎兵隊の様に見えて感激しました。

私の住んでいる一帯は桜の名所で小説の『細雪』に出てくるような古い日本家屋が
多かったのですけど、地震でみんな壊れてしまい、地震の時東京からすぐに不動産屋が来て
老齢で立てえ不可能な家の人の土地を買い占めていきました。

所であなたの手紙の文章、とても美しい表現なので嬉しくなります。
最近言葉の乱れで女性の口から奇麗な日本語がきけない今日、心が別の意味でときめきます。


                                       谷川 直 




春が来た…
ちょっぴり、ウキウキしています。
お元気ですか?
昔は別に関心のなかった桜の花にも、美味しいオイモの煮ころがしにも、
しみじみ幸を感じる此の頃、長生きをすればもっと素敵なものが見えてくるのでしょうね。

先日頂いたお手紙ですごくエーッということがあったので、筆無精の私がペンをとりました。


一つ 貴方のお便りが銀座東武ホテルの便箋だったことです。
3月22日は私はホテルの向かい側のビルにいました。ちっちゃなちっちゃなバーで
ピアノを弾いていました。

モシモ 恋人同士だったらまたもやドラマチックなすれちがいシーンですね。
ホテルの横側の出口の前に寿司屋があります。その二階の『v』というバーです。
オヒゲの似合う小さいダンディな70歳のお父さんと皆を飲み込んでくれるような
大きなお母さんの二人だけで銀座の隅っこに何十年も存在しているジャズバーです。

3月初めにお父さんが亡くなってしまったので、貴方のお兄さんの弟子の私が
時々遊びがてらピアノを弾きに行く店なのです。
もしも、
銀座東武ホテルによくお泊まりになるなら、遊びに来てください。
お客様は皆音楽好きのいい人ばかりです。ジャズ、シャンソン、ミュージカル、クラシック、
歌謡曲と総てに強い<総てに浅いけど>私にとってはとても楽しい遊び場なのです。



もう一つあなたの夢と私の夢がまったく同じだった事、
死ぬまで一度でいいからウィーンに行きたい。ウィンナーワルツを朝まで踊り明かしたい。
先日ウィーン在住の親戚の女の子に会ったので、いろいろと様子を聞いたり
世話を頼んだりしたばかりです。

でも沢山問題があって。
我が旦那はウィンナーワルツが踊れない。他の男性と一緒では日本の道徳が認めてくれない。
そして私自身が肩をむきだしのイブニングドレスを着るにはオバアサンになりすぎている。
どうしたらいいでしょう。


でもいろいろの出会いが無数の夢を育ててくれる。それが渦巻きのように人生の果てまで
繋がって行くと思えば、これからも面白い人生が続くと信じてます。

貴方の「孤独」のひと文字が心にしみました。
どんなに華やかに活躍していても、心の底に孤独を抱えている。
そんな男性がいとおしくて、たまりません。「孤独」に気が付かないで一生を終る人も
沢山おりますけど、女共にはない痛みです。
男と女は本当に違う動物、だからこそ求めあうのでしょう。

御身体本当に御大切に。                         
                                          夕子




40数年前の高木夕子は背がすっと高く胸もピラミッドの様にとんがっていて、
素晴しいスタイルをしていた。ダンスが上手く、踊っていてもその胸のとんがりを
嫌でも感じずにはいられなかった。


もともと私の母の友人の娘で当時母の所によく母の友人たちが集まり、
そんなとき一緒に来た夕子と自然の内に交際の輪が広がっていった。

此のころの大学生は趣味も豊かで各自思い思いの事をしていたが、そうしたことをする、
クラブや同好会の資金稼ぎにダンスパーティが盛んに催された。


ホテルの数が少ない時代だけに主たる会場は東京大手町のサンケイホールか品川のプリンスホテルで、
土曜日の夜ともなれば毎週何処かの大学の××クラブか同好会主催のダンスパーティが開かれた。
バンドはバッキー白片とアロハハワイアンズ、大橋節夫とハニーアイランダース、ダークダックス、
ダイヤモンド シスターズ、鈴木章治とリズムエース、有馬徹とノーチエクバーナといった
一流バンドによる演奏だ。

私も紺の背広にチョウタイと、めかしこんで高木夕子を連れて踊りに行った。
その頃は男より女の方が多くて文字どおり会場の壁の前には女同士で来て
パートナーがいない女性達で壁の花が出来ていた。

夕子はハリウッドの映画女優のパトリシア・ニールに似た顔をしており少々気が強く
薄い唇が直には妙に魅力的だった。そんな彼女に直は心をときめかして青春を感じていた。
一番忘れられなのが夕子の姿勢のいいスタイルとピラミッドの様な胸である。
高木夕子は大学を卒業した後教育関係の仕事についた。




前略
エーっと貴方が驚くならもっと驚くのはこちらのほうでしょう。
銀座東武ホテルは劇場に近いし銀座、築地市場に行くにも便利なので十数年来仕事で
東京に来るときは泊まっています。そのホテルの出口を出て直ぐの道路一つ隔てた
向かいのビルの二階のバーでピアノを弾いていたとは。
数十年間貴方と私は道路を隔てたあっち側とこっち側にいたなんて。

ホテルで時間をもてあます時も沢山ありました。あなたがそこにいることを知っていたらと、
思うともしもこれが互いに恋人同士であったなら、君の名はの真知子と春樹より
もっと擦れ違いの連続の物語りです。菊田一夫でも思いつかなかったストーリーかもしれません。

63歳と62歳の男と女、もしも恋人同士だったら10年早くこれが判っていたら…
もっと何かが生まれていたかも、人生は一回限りです。
女はピアノを弾き男は女の弾くピアノの音色の届かないすぐ近くのホテルの一室で
寂しく一人ビールを飲んでいた。

もう本当に手紙なんてまだるこしくていけない、貴方の都合のいい日をお知らせ下さい。
私が上京します。いつでもいいです。私の方は。


                                             直               



便箋はウィーンのマリオットホテルのものを使った。
直は外国に旅行に行くと必ずホテルの部屋に備え付けられているホテルのロゴ入りの
便箋と封筒を持ち帰る事にしている。昨今パーソナルコンピューターによるEメールが
手紙の代わりになりつつあるが、その人の筆跡による手紙は直接心が伝わって来るようで、
またポストから手紙を取り出して封を切る瞬間の気持ちの期待感が手紙の魅力なのだろうと
直は考えている。其のため直は相手を選んでホテルの便箋を使用している。



高木夕子は習ったピアノが役に立ち、銀座7丁目の寿司屋の二階にあるバーに
時間があれば顔を出してピアノの弾き語りをしていた。此の店は8人も入れば一杯になるという
小さな店で老夫妻で経営、店に来る客はいずれも40年前は青春間違いなしという
サラリーマンが主な客だ。

マスターは70歳を少し過ぎており、このマスターのつたないピアノ演奏が常連客の人気だったし
この店のキャッチフレーズだ。それでも年のせいかピアノを引き続ける体力は最近なくなり、
高木夕子がその合間をつないでいた。



夕子の主人は2歳年上で酒も飲まない外出も余り好きでないという学者風の男だ。
妻が仕事で長期に出張して自宅を留守にしても、バーにピアノを弾きに出かけ
帰宅が深夜になっても、何の不満も言わない。若いころから男にもてた夕子は
其のころ自分に注目していた男達がバーでピアノを弾くようになった今、自分を目指して
店に来てくれる事に対して少なからず気持ちが良かった。
自分の老後も出来ればこんな店を持って生活出来ればいいと本気で思ったりした。

週2回夕子が来る日には中年をこえてやがて定年を間近にしているような男達で賑わった。
この男達の中の何人かとはかつて彼女と体を許しあった者もいた。
でもそれはビールの泡みたいなもので遠い昔の出来事で、その感触も感覚も
彼女には残っていなかった。それでもこの年になっても男達に囲まれ男臭い息の中にいると
自分がまだ女だと思えるのが妙に嬉しかった。

家では酒も飲まない総てを信じている主人がいる。
一方、外では酒を飲み歌を求めて昼間の世界から逃避したがる男達が待ち受けている。
60歳を過ぎた夕子は時々体の中が熱くうずくと感じている。失いたくないこのうずきを…。
それでいて神経質なほど自分の顔のわずかな皺が気になるのだ。
たまに好みの男が店にくると夕子はバッグからサングラスを取りだし皺を隠すのだった。



老マスターが元気なうちは良かったが、春も間近という頃、脳溢血で死んでしまった。
ピアノが売りの店だけに老マスターの妻も困り、夕子に来て欲しいと頼み夕子もピアノの練習に
丁度良いし、レパートリーも増やしたい、男の相手をするのも嫌いでないし、
ひょっとしたら店も自分で切り盛りできるかもしれない。
否、銀座の片隅で曲がりなりにもママになれるかもしれない。
そんなことをいろいろ考えていると、15段ばかりの店の階段を登り切った時の
自分の世界が急に楽しくなってくるのであった。
私の体だってまだまだ男達が魅力を感じてくれる。もっと女として生きなくちゃ。
体操で鍛えた肉体にテンションが走るのを感じた。皆私に会いに来るのだ。
夕子は店を潰したくないというのは口実で残りの人生をここで蘇えらせたいと
心密かに考えていた。其のため店に来てピアノを弾く回数も時間が許す限り4回にした。




直ちゃん
ウィーンからの?お便り有難う。
筆無精の私に直ぐペンを取らせるとは、貴方のオーラも相当なもの…。
夙川の桜はさぞかし奇麗でしょう。一度見たいものです。桜も其の周辺の景色と一緒に
楽しみたいものです。これから両親を連れて花見と温泉に伊豆高原に行きます。
目下の親孝行は看病ではなく遊びの相手で間に合っているので助かります。

昨夜また直ちゃんの事を思い出しました。銀座東武ホテルでパーティがあったからです。
浜木綿子さんの後援会の集まりでした。旦那がファンで会員なのです。
まさか土曜日でここにお泊まりではないなと思いつつ、帰宅したら貴方のお便りが、
又チョッピリ、ドラマティックでした。

4月は9、13212223がフリーの日です。
もし御来京のスケジュールとあったらお電話下さい。留守だったら留守録いれておいてね。
ご連絡します。男女関係?に関しては我が夫へのご配慮無用です。
信じているのか、安心しているのか?
沢山のボーイフレンドを持つ妻と長年暮らしを共にしているから、なれたものなのかも。

御身お大切に                        
                              夕子



貴方の美しい字で宛名を書かれた手紙をポストの中から見付け出すと、
不思議と少年の様な心のときめきを感じます。若い時好きな女の子から手紙が届いたときように。

今年の夙川の桜はエルニーニョで不順の為か、雨に降られても桜吹雪にもならず、
しっかり花びらが枝にかじりついています。

親孝行が旅とはいいですね。私も母が亡くなる3年前に周囲の猛反対を振り切って
ハワイのホノルルに連れていきました。

なにしろ東京から一人で大阪まで来て貰わないといけない、誰も連れてくる人がいない。
そこで、羽田空港まで連れてきて貰い飛行機に乗せてもらいました。
あとは伊丹空港に着いた母を迎えることです。
どうにかそれもできて、其の夜は伊丹空港の中にある大阪エアポートホテルに宿泊、
翌日ホテルに迎えに行きハワイ行日本航空の機上の人となりました。
その日のフライトは余りにも静かで、窓から星空を見ていた母は
此の飛行機止まっているの?というので大笑いしました。

ホノルル空港には母がよく知っている昔日本に来たとき面倒をみたという
コーリン・ミヤモトさんという女性が迎えにきてくれました。
レイの花を首にかけてもらい嬉しそうでした。
ホテルはカピオラニでダイヤモンドヘッドが窓から目の前に見えました。
早速カラカウア通りを歩いたんですが、途中で歩けないと言い出して
それもホテルの直ぐ近くなのでタクシーに乗る訳にもいかない、
とにかく抱えるようにホテルに帰り、これはえらいことだぞ、帰りは貨物かと思いました。
部屋に戻りベッドに寝かせるとしばらくしてイビキが聞こえてきました。
ああ良かった生きている。



翌日から元気になりカラカウア通りを歩き中華料理が食べたいといい、
私がビールを飲んでいると自分にもくれといいだすんです。
ハワイ名物のココナッツ入りのアイスクリームを食べてご機嫌で、
夜はロイヤルハワイアンホテルのディナーショウ、ドンホーを見にいきました。
喜んでいましたね。トイレにいきたいと言い出してトイレの前まで連れていきました。
白人のおばさんばかりで中にいれて暫く待つうちに無事に出てきました。
私の顔を見たとたん「隣の便所で大きなオナラをしてるのよ」

父の親友の息子さんがハワイに住んでいるので、そのご夫婦が車でホノルルを案内してくれたり、
コーリン・ミヤモトさんが車で風で有名なヌアヌパリに案内してくれたり、ドライブを楽しんだり、
ハワイ風の食事がしたいと言い出してタロイモや豚を蒸し焼にした料理が食べられる店に
案内してもらったりしました。丁度クリスマス前でホテルはクリスマスの飾り付けが
奇麗にできており、夕方の海辺ではコーラスグループが賛美歌を歌ったりして、
南国でちょっとしたクリスマス気分に浸れたのもいい経験でした。

母は念願のパパイヤを買うと言い出して3箱買いました。
不思議なもので初日に歩けないと言い出した母も、それ以後は元気になり、
写真を撮っても顔のしわが無くなっているのです。
きっとハワイのマグマが体を元気にさせたのでしょう。
帰国して伊丹空港で一泊して、翌日飛行機で羽田へと送り出しましたが
飛行機に乗るまでが又大変、心配でした。とにかく沢山親不幸をしたかもしれませんが、
兄弟が誰もしなかったハワイの旅をかなえた事は私の心の中の何か引っかかっていたものが無くなり
長年の親不幸も許して貰えるかなと思いました。
事実その後もハワイの旅を母はかなり喜んでいたと聞きました。

母はその後体調が悪くなり暫くして亡くなりました。
今は母も天国でハワイ話に花を咲かせているんでしょう。



さて私は4月23日上京します。
物語の発端が銀座東武ホテルなのでその日はそこに泊まります。
昼にホテルのロビーでお会いしましょう。昼食は築地市場の寿司屋で寿司をつまんで、
夜はホテルの地下にちょっと美味しい物を食べさせる店があるのでそこで食事をしながら
空白の40年間を語りませんか?

そうそう先日NHKの衛星放送でロバート・デ・ニーロの「恋に落ちて」という映画を見ました。
共に結婚している男女がふとすれちがった瞬間に恋に落ち、何か満たされない心の中を
互いの持つフィーリングがそれを満たしていく、といっても何をするでなく唯会っているだけで
互いが充実していく、そして最後は二人の世界に戻っていく、何か胸の中を甘酸っぱいものが
キューンと走るのを感じました。此の映画知ってますか?

                                         



手紙を出して暫くして私の携帯電話の着信音のミッキーマウスマーチの曲が響いた。
他人と区別しよう、若者に対抗してこのメロディーを選んだのだ。


「もしもし 私 夕子」
電波の状態が悪いのか途切れ途切れに夕子の声が聞こえた。

23日は夜家に帰らなくてはいけないの。だから夕方4時位までなら大丈夫よ。
それまで旅の仕事をしているの、主婦だからそうそう家を空けてもいれないでしょう。
それにそんなに長い時間会っていたら疲れちゃうよ。わざわざ此のために来るの?先も長いし…」

所処会話の内容に現実を感じるところがあった。
何故か心の中の甘酸っぱいものがすーっと消えていくのを感じたりした。
頭の中では40年前のイメージを描いているのが、電話の声で現実に戻されそうになったりする。

「とにかくお昼の12時に銀座東武ホテルのロビーにいくわ」
ときめきの青春、頭の中に勝手に描いていたプランを見抜かれた感じがした。
直は電話では言えなかった事を手紙で伝えた。



追伸

夕子さま
電話では言いそびれましたが、上京は貴方に会うためだけのものです。
正直言って、ひょっとしたらと思いホテルを予約してあったのです。仕事ではありません。

21日は今、大阪松竹座で十五代片岡仁左衛門さんが襲名公演をしており、
そこに出演している役者さんと食事をすることに決めてしまっているんです。
ということで貴方は疲れるかもしれないけど、お昼を食べながら長話をして日帰りします。
本当は貴方がピアノを弾いているちっちゃなバーも覗いて見たかったのです。

                                         



直ちゃん
3日間の旅から帰京したところです。
これから旦那にメシを食わせて、11時半頃外出、金曜日は出来る限りピアノを
弾きにいくことにしています。明日は法事、明後日から又2日間の旅です。
私も結構忙しいです。
でも私に会うためにわざわざ大阪から来る人がいるなんて
人生初めての経験です。感激しつつ貴方の好意に甘えることにします。
楽しみにしています。

                                         夕子



ゆっくりお話がしたかったので、ホテルの中にある和食のお店の個室を予約しておいて
良かったでした。
貴方が正座が出来ないと聞いていたので、腰掛け式のほりごたつで助かりましたね。
そうそう、やはりこたつの中で貴方の手を握るのを忘れてしまいました。
何しろ40年ぶりだか45年振りに二人で会うのですから、会話のテーマを何にしようか迷いました。
一気にビールを飲んでからからと思っていましたが、「私は余り飲めないから、チビチビするから」と
先手をうたれて、一瞬とまどいました。なんとなく貴方も意識してリードしようとしている。
或いは貴方は昔の私の面影をさぐっていたのかもしれませんね。



結局、会話は私の旅の話ばかり、そうそう45年前にダンスパーティで撮った写真を見せたら
貴方は「此の二人とも会ってるけど正子は幸せよ、でも徳子はご主人が亡くなられ
彼女もお酒の好きな人だったでしょう。一人で寂しいのか大阪の男に身も心も入れあげて、
お金も貢いで今の家もその男のためにこの一両日に出ていかないといけないはめになっているのよ。
家の権利書危ないから私が預かるというのを大丈夫といい、結局とられたの」といいましたね。
人生って判らないものですね。互いに62歳を越え、貴方のご主人はおいくつと聞くと
「同じ年」といいましたね。もっと年上かと思っていたのでちょっと残念でした。
でもビールを4本飲んで二時間半位お話してもう客が誰もいなくなった店内を見て
「コーヒー飲もうよ」という貴方の言葉で外に出ましたね。



銀座東急ホテルのコーヒーラウンジで席に着くと、私がタバコを吸わないので、
じっと我慢していた貴方は「たばこ吸っていい」といいましたね。
そして「貴方には生活の匂いがしないけど、家庭はあるんでしょう」と聞きましたね。

「私は体が弱くこんなに長生きするとは思わなかったの、私には子供は居ないの」と
ぽつりと言いましたね。

私は昔の心に戻れないのかな?それは甘えかなと帰りの新幹線の中で考えました。
まるでお見合いをして帰る気持ちみたい。そして貴方には一言強烈な質問を受けましたね。

「死ぬほどの恋をしたことある?」
そうだすっかり忘れていた。恋なんて。
学生時代にそんな心は置きざりにしたまま、今の年齢になったのかな。

そうそう和食の店でウィーンの話をしましたね。その肩にお肉をつけてください。
そしてイブニングドレスを着ようよ、肩の出たイブニングを…。

そしてふと貴方のご主人が10歳ぐらい上ならいいのにと思いました。理由は判りません。
女と男の45年の空白の歳月はやはり、貴方がよくいう「昔の恋人」では駄目なのかも知れない。
今さら私が貴方を奪うには貴方が年をとりすぎているかも知れない。

男のエゴかもしれないけど。
                                          



45年振りに出会った男と女。
握手も抱擁もできずにいて、今さら此の二人は何を求めるのか?
体を求めるの?精神論を語りあうの?いずれにしても二人のあいだには年月が
経ちすぎてしまっているのだ。

お互い男は髪の毛が薄くなり、お腹も出て女は口元にシワをみせ首筋には当り前の年齢を感じさせ
喉の皮膚もはりを失っている。

彼女は一体何を私に感じたのだろう。
過ぎ去った大人の恋の復活ならもっと親しくお互いの手を握ってもおかしくないはずだ。
キスしてあげると、いたずらっぽく言ってくれてもいい。
唯話をして昔の面影を探りあい求めあうだけで初老を迎えた男と女が会話だけで終った。
青春のときめきも何もなかった。それは彼女に求めたのは昔の残像に過ぎないのかもしれない。

40年振りに会ったということで、思わずその残像を感激と錯覚したのかもしれない。
そう考えると40数年前に撮った写真の彼女の顔と今の顔がどうしてもオーバーラップできなかった。
違う人なんだ。

時が人を変えているのであろう。それが時と言うものかもしれない。



フランスの港にヨットクラブがある。
そこにあるバーにフランスの映画女優フランソワズ・ロゼによく似たマダムがいる。
店内にはシーメン風の男たちがたむろしており壁には沢山のフラッグが飾られている。

「シルブプレ」
フランソワ・ロゼに似たマダムにビールを注文した。
マダムはグラスになみなみとビールを入れ黙って私の前に置いた。
10
フランを渡すと黙ってまた横に座っているシーメンと話し出した。
マダムの周辺には不思議な空気が動いていた。やがてマダムは私のほうをちらっと見ると、
にこりともせずに、カウンターの前に座り新聞をとりあげた。

その姿を見てふと感じた。
マダムは港の向こうに見える水平線から昔の男がきっと船に乗って戻って来る。
でも其の男は死んでしまっているかもしれないけど、いつかひょっと港に姿を現わすかもしれない。

「私は只ひたすら待っているの」
そんな感じをマダムから受けた。


そして私はふと思った。
そうだ、貴方が40年振りに水平線から姿を現わすからいけないのだ。
もう一度水平線の向こう側に貴方を戻そう。
青春のときめきは、陽炎だったのかもしれないと。



同人誌「四季の会」平成二十一年冬季号<第21号>掲載


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ときめきの青春