法廷劇「テロ」を朗読
ちゅー太の劇評
原作 フェルディナント・フォン・シーラッハ 翻訳 酒寄進一 演出 深作健太
出演 橋爪 功 ピアノ演奏 小曽根 真
朗読劇とは何かという疑問から、このシーラッハ作の法廷劇を朗読劇とした舞台を見ることにした。
戯曲を、朗読劇に衣替えすることは自体に無理が生じる。
徳川夢声の朗読、宮本武蔵と言うのを、幼少の頃ラジオで聞いた。今でも忘れられない語り口だった。
今回はテロの犯人がハイジャクしたA300の機と乗客がどうなるか、そしてその旅客機を撃墜するなと
言われたのに対して撃墜してしまった空軍の男の裁判の話だ。
そして、結末は観客に此の男が有罪か無罪か判定を下させて、観客が決めた
方に物語進むという事だ。
この手法は、1970年の日本万国博で万博に参加したチェコスロバキヤ国が
エキスポランドの劇場で公演したラテルナ・マジカ劇場が映像と音響効果と実演を
一体化した演目で観客にドラマの先を観客に決めさせるというものだった。
裁判劇のテロを一人の役者で裁判長<官>被告、弁護士他を演じ、観客に
評決を求めるには、無理がありすぎた。
しかも、そのぎっしりとセリフが詰まった法廷劇にピアノの音付けをするのだから
更に無理が生じて来た。
法廷劇なら観客に裁判の内容を明確に知らさないと最後の評決が出来ない。
作者の国ドイツでは朗読ではなく何人かの役者が演じたらしい。
法廷劇テロでは撃墜した事が黒か白かという事だ。
因みに、911でハイジャックにあったUA93便は、時の米国副大統領が
国会議事堂かホワイトハウスへ突っ込む恐れありで撃墜命令を出したと
米国のFOXニュースも伝えている。
give the order to shoot down UA FLNO 93と。
テロの芝居では飛行妨害ないしは警告射撃が命令の内容で
撃墜のリクエストにはノーの命令が出ていた。
しかも、ハイジャッツク機が7万人いるサッカー場へ突っ込むまで
52分の余裕があり、しかもサッカー場の観客を避難させる時間は
15分以内で可能だった。
更に、被告が命令を無視して撃墜した時、コックピト<操縦室>に
ハイジャック犯人がいたかどうかは確認できていないのだ。
こうした経過を法廷劇は綿密に書かれているが
伝えるのだが、役者一人の朗読劇では
法廷の雰囲気を観客が、朗読劇から響いてくるセリフからでは
イマジネーションが湧かないのだ。
もう一つ、裁判で重要な事は裁判長<官>の心証だ。
被告の態度を見て心証を得る?得さす?は重要事項だ。
つまり裁判長<官>と被告とが向かい合って居ないので、心証を観客は
得られないのだ。
劇が終わり、演出、プロデユーサー、出演者が劇に対して話す場で
作者の国、ドイツでは被告が無罪が多かったと更に被告を演じた役者が
ハンサムだった事も影響?と言う事が話題に。
8月20日の兵庫県立芸術文化センターでの公演では観客の評決は
有罪が225無罪が150棄権33だった。
先に述べた様に、朗読劇は朗読劇として書かれて、それに合わせて
音楽も作るというものでないと無理が生じ、結果は単なる朗読いすぎない事になる。
それと朗読劇を演じる場合は勿論一人だから30分以内の長さでないと
無理が生じてくる。
山崎陽子の世界 音楽朗読劇は明快な朗読劇と言える。
それは、演者一人30分以内の物語を演者にあう物語を
書く所にあるのだ。
テロも配役を配した舞台劇として観劇が出来たら又違った舞台劇として
見ることができたと感じた。
法廷劇テロでは、肝心の被告としても大切な心証を訴える又心証を得るという
裁判での左右を決する、つまり有罪でも執行猶予が付くかつかないかという
大切な物が朗読では得られないという一つの例であろう。
沢山の役者さんが最近は朗読劇と称して、やられているが、いずれも朗読に近く
意表をつくのでは無く、純粋な本当の朗読劇を創りだしてほしい。
因みに、私はシーラッハのテロの翻訳本を読み、911のケースとも照らしあわせて
観劇、有罪の評決を。
命令違反と犯人が機長いる操縦室ないに進入していたかどうか
不明のまま撃墜したからだ。
或いは、此の旅客機の乗客は助かったかもしれないからだ。
もう一つ付け加えると、日本人はロンドンやブロードウエイの観客と違い
観劇したものを互いに、喋りあうという事はあまり見受けない、例えば英国の観客は
地方からでもロンドンに観劇に来て、また地元に戻り社交場で見て来たものを
話し合うと習慣はあるが、日本の場合は、そうした場もない事が
理由の一つかも知れない。
文化に対しての習慣の違いは外国の水準と同じにと言うのも国情の違いが
あるという事も事実だ。
観劇 2016年8月20日 兵庫県立芸術文化センター阪急中ホール 1階 I列12番 5000円 {ちゅー太
劇評コーナートップへ
トップページへ戻る