宝塚歌劇100周年特別記念公演
宝塚歌劇100周年夢の祭典、時を奏でるスミレの花たち、記念公演が2014年4月4日と6日に宝塚大劇場で行われた。
さすが、つめかけた観客の大半が年配の御婦人方、男性もどちらかというと年配の方が多く見受けらえた。
私が宝塚歌劇とかかわりを持ったのは昭和51年に毎日放送が漫画番組でお茶を濁していた夕方6時の時間に関西では
初めてのワイドニュース「MBSナウ」という、ニュース番組を立ち上げた時だった。
事件ばかりがニュースでない生活に関係するようなものから芸能までもニュースとして重点を置いてのスタートだった。
そこで、それまで御法度だった宝塚歌劇に目を付けた。
初めての取材でインタビューしたのが天津乙女さん。それからMBSナウでは稽古場からの生中継、
振付の喜多弘さんの厳しい稽古場にもテレビカメラが入った。
天津乙女さんにインタビューしたとき「昔は直接なんて答えなかったのよ、係の人が聞きに来てそれにこたえていたの、
そして、その人が記者さんへ伝えたのよ」と。
宝塚歌劇で最も印象に残る人と聞かれたら天津乙女さん、そしてもう一人遙くららさんだ。
夢の祭典の司会は真矢みきさん、真矢みきさんが下級生の頃、当時の片岡孝夫さん時代に南座公演を見に行き
孝夫さんの楽屋に案内、その後、MBSナウに出るのが念願と言っていたのが今でも思い出す。それと愉快なのは
彼女の父上が当時,東亜国内航空の役員を、また私が航空記者クラブ担当で、当時東亜国内航空に乗る人が少なく
広報担当の人が、宝塚の生徒さんに半額割引券をあげたいのでという話で当時の花組の但馬久美キャプテン<組長
という言葉が嫌で>さんに皆さんへとあげたことがある。そしたら翌日か東亜国内航空のカウンターに華やかな
若い女性がつめかけ、それを見た日本航空の知り合いが、なんででしょうかと聞きに来たことがあった。
今だから言えるお話し。
その真矢みきさん、ドレスに、羽織っていたのをとると、胸にスパンコールで100と書いた文字が出て来た。
最初はOG全員で「おお宝塚」の大合唱」司会の真矢みきさん台本と時計片手に、水 夏希の歌、ホリゾントに
名前が出るのだが、残念ながらローマ字だ。どうして漢字で出さないの?漢字で出さないと芸名が判らない?
彩輝なお、懐かしいねこの辺りから皆初舞台時代から稽古場で見てきた人達ばかり、特に彩輝さんは
麻路さきさんの最後の舞台で二人で踊った場面を思い出す。
湖月わたるトップ星組の麻路の後を継いだ.和央ようかの出番で司会者が結婚相手を和央に喋らせるきっかけを
相手は宝塚ファンなんらご存じのフランク ワイルドホーン。
姿月あさとさんは植田紳爾さんがベルばらで御婦人グループの一人に使ったのが印象で司会者も話をそこへ。
紫吹 淳さん、愛華みれさん、稔幸さん皆初舞台から稽古場で、時にはレオタード姿を見続けてきた人たちばかりだけに
時の過ぎる早さを感じさせる。
皆男役が美しい御婦人の姿を見せてくれた。
純名理沙さんには、司会者も相手役だっただけに、背の低い純名に舞台の上でスモークに隠れてしまい、
何処にいるか判らない、突然煙の中から顔が出て来たと。
麻路さきさんは、「風になりたい」を歌う。結婚男の子が一人いる。
彼女は新人公演主役を7回演じている。後にも先にもこれだけの回数をした人は皆無。
宝塚大橋の上で挨拶してくれた人でそのため、メデイアでは異例の、応援団を結成、普段おごられる
メデイア人間が「さきざき会」というのを作り機会あれば集まりご馳走して声援を。彼女に挨拶はただ、見返りは
大きいと言う言葉を進呈。
また彼女一人の写真展も宝塚、東京で開催、フィガロジャパン誌にエッセイ掲載
作家の陳舜臣さんも応援団の一人だった。
一路真輝さんは、最後のダンスを歌う、やはり歌いなれているだけに、銀橋で歌う姿は生き返ったように見えた。
退団の直前に一番教室でインタビュー一生懸命に答えてくれた。
杜けあきさん、忠臣蔵の「花に散り雪に散り」を歌い、銀橋を渡り上手裾で、忠臣蔵の最後のセリフを。
旧大劇場最後の出演者、で平成元年にトップスターになった人で仙台の地元新聞社の大阪支社へのあいさつ回りを
取材した。
紫苑ゆうさん、この期が受験合格した時が、その風景を取材MBSナウで放送した最初、その後、各局が宝塚音楽
学校の合格発表風景をニュースで取材するようになった。時の音楽学校の校長は熊野さん、生徒監は香川さん。
此処でフェルゼン演じた紫苑、と麻路、バトラ―役の杜、一路、麻路と話は風と共に去りぬ。
記念公演「ドンブラコ」は桃太郎の話、実はと司会者、桃は桃でも此処の桃は,漢字の百だと裏話を。
物語は簡単明瞭なだけに、共に観劇した知人が大感激。
桃太郎は轟悠さんと専科の方々。
久々、平みちさん、高汐巴さん、花組で柴田演出家の顔が何故か浮かんでくる。懐かしい秋篠美帆さんのお顔も舞台に
秋篠さんの舞台での話を司会者は色々と、私だけが知っている話は、舞台稽古中に衣装のひもが切れてしまって・・・
暫く本人気が付かなかった事。
高汐 巴さんは、大阪城ホールで毎日放送が主催の第一回目の一万人の第九コンサートに花組を引き連れて出演した事だ。
稽古は、十時さんの指導で、花組参加の生徒全員が歓喜の部分を暗記して大合唱を盛り上げてくれた。
そして、宝塚を支え、ベルばら演じた、榛名さん、鳳さん 汀さん、安奈さん 麻実れいさん、遙くららさん
麻実さんの「君はマグノリアの花の如く」寺田瀧夫さんの顔を思い出す。寺田さんには神戸で開かれたポートピア博で
コンピューターで作曲をお願いして、その様子を取材した。
遙くららさんは、久々公の場での対面何十年ぶりであろう?
思い出すのは、神社庁の永職会からミュージカル「スサノオ」の公演を依頼されて、主役を遙くららさんにお願い
永職会の皆さんも大喜びでいたところ、ある日、好きな人が出来たのでと「御免なさい」と言われて出演がおじゃんに。
でも、柴田さんの稽古の日に、MBSナウの取材で稽古中に一時お借りして宝塚大橋の上で撮影した思い出は
とても今では考えられない事だ。
麻実レットと遙スカーレット、二度と生まれない素晴らしいコンビだった。
後は作家の杉山義法さんと公演後に日比谷でご飯を食べて芝居の話を三人で語り合った事だ。その杉山さんも
鬼籍へ。
榛名さんはMBSナウで足の長い榛名さんで取材を、鳳さんはサヨナラ公演を楽屋入りから撮影、公演最後緞帳が
降りたところで舞台上でインタビューと思ったら、緞帳がまた上がり、大慌てした事。安奈さんはサヨナラ公演で
涙を見せなかった事、舞台裾でインタビューした事、汀さんは柴田演出で「面影の人」のけいこ風景を取材した事.
意外と皆さん忘れているのは、汀さんがスカーレットしたとき、トニー谷さんがきて、カーテンをはずしてドレスに
するという、見せ方をしたこと、MBSナウで取材しました。
皆さんとは本当に長い間、稽古場で共に過ごした方々ばかりだけに、光陰矢のごとし。
初風 諄さんは、MBSナウで初めて一番教室で退団直前の彼女にインタビューして、胸の鼓動が早くなった事。
加茂さくらさんは、山崎陽子の世界でよくご一緒するのと、神戸のオリエンタル劇場こけら落としで取材した事。
真帆志ぶきさんは、何故かMBSラジオで彼女のサヨナラ舞台を生中継した事。アキコカンダの偲ぶ会で久々に
再会して写真を撮った事。歌った「アマール アマール」はアキコカンダの偲ぶ会でも聞いた歌だ。懐かしい。
真矢みきさんの機転の利いた、しかも気の利いたばたばた喜劇を見るようなそつない司会に記念公演は無事に
最終日を終えた。
出てくるOGみなさんと縁の深い方々ばかり、初舞台から知っている、初舞台でMBSナウでインタビューした人
マイクを向けた方々ばかりで、あの良き時代を思い出したひと時だった。
正に「夢のアイランドは向こう側」。此の題で宝塚歌劇の良き時代の話を書いてサイトの掲載してあります。
観劇 4月6日<日>18時公演 席 12列50番
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