何故?今?園井恵子を?

朗読劇「私は芝居がしたいの!」〜原爆に散った元タカラジェンヌ 園井恵子〜
を改めて書いた訳とは?

米国のオバマ大統領が世界から核をなくそうというプラハ宣言があり、
世界が核に対して改めて中止しようと言う中、未完の大女優と言われた
宝塚歌劇出身の袴田トミ、芸名、笠縫清乃、その後改名して園井恵子が
知られているようで知らない、改めてその人生を検証しようとしたとき、
最後は何を語り亡くなっていったのか、その真実を知りたいと思ったのです。

勿論、書き物ではありますが、死に至るまでの彼女が誰と何を語っていたか、
その言葉を知りたかったのです。

最後まで誰が看取ったのか?
偶然にもそれは内海明子さんと中井美智子さんと判り、しかもお二人とも健在と知り、
2009年11月に数回にわたりお話をうかがいました。
お二人は園井恵子さんの最後までの姿を目撃し看取った方で
死に直面した園井恵子さんの姿を残しておきたいと共に、真実を此処にと。
そして、原爆に被災して死んでいく悲惨さと人間の運命を通して
核というもの恐ろしさを今再認識してもらえればという思いで朗読劇にしたのです。

「核はてる迄、語り部とならむ原爆に全滅したる移動演劇さくら隊」という
歌の通り園井恵子さんを通して核がなくなるまでという訴え、
芝居をしたい中で無念にも原爆で死ななきゃならなかった、
彼女の心の代弁かもしれない。

これとは別に宝塚歌劇の記録の中では
50年史、60年史、70年史、80年史、90年史には
園井恵子は原爆で死んだという記録はない。
また芸名が初舞台は笠縫清乃で数ヵ月後、園井恵子と改名されたことが書かれていない。
初舞台が「春の踊り」だけで、正式には「春の踊り 琉球の頼朝」と書かれていないのは残念だ。

此の朗読劇は無断使用、コピー、上演は作者の許可を得てください。もしも過去に、この朗読劇を使用または
引用して使用した方は、ご連絡ください。
ご連絡無く、無断使用が判明した時は、しかるべき処置を取らせていただきます。

平成21年12月24日




                     朗読劇

           「私は芝居がしたいの!」
     〜原爆に散った元タカラジェンヌ 園井恵子〜

  

朗読劇{宝塚文化創造館公演八月十日}

 

作 構成 演出・宮田達夫

 

   「私は芝居がしたいの!」

   〜原爆に散った元タカラジェンヌ 園井恵子〜

 

 

 

開幕を知らせるアナウンス場内暗くなる幕が開く

「舞台正面中央に園井恵子の宝塚歌劇公演のピノチオの写真、

上手には園井恵子、天津乙女の鏡獅子下手には園井恵子、

小夜福子の宝塚時代の舞台写真がある。背景黒幕」

舞台正面の園井恵子の写真に照明

 

草笛雅子は舞台板付き、園井恵子の写真に一礼して、舞台中央に立つ照明はいる

 

 

ふるさと! 甘く懐かしい言葉です。

私、園井恵子が生まれたのは、岩手県の片田舎、松尾村というところ。

私の本当の名前は袴田{はかまだ}トミ。

幼い頃、育ったのは盛岡、小学校は盛岡から東北本線で

五つほど北の川口村。

女学校は北海道庁立小樽高女、そして、いつしか夢に見

憧れの宝塚に住んでさえ、

何処がふるさと?と聞かれると、すぐに返事が出来ないほど、

それぞれが懐かしい、ふるさとなのです。

 

私を一番可愛がってくださったのがお祖母様。

 

悲しいこと、嫌なこと、苦しいことは忘れてしまう主義だったのに、

何故こんなこと思い出すのかしら?[間あり]

 

 

歌(1)アカペラ「すみれの花咲く頃」

 

春すみれ咲き春を告げる

 春 何ゆえ人は汝{なれ}を待つ

 たのしく悩ましき

 春の夢 甘き恋

 人の心酔わす

 そは汝{なれ} すみれ咲く春

 

 すみれの花咲くころ

 はじめて君を知りぬ

 君を想い日ごと夜ごと

 悩みしあの日のころ

 すみれの花咲くころ

 今も心ふるう

 忘れな君 われらの恋

 すみれの花咲くころ

 

 

宝塚!

 

宝塚我が心のふるさと

何故人は斯く{カク}は呼べる

 

白井先生のお言葉がひしひしと胸にせまります。

宝塚に住んでいるのにって、お笑いになるかもしれませんね。

 

東京に生まれ育った人、大阪で生まれて大阪で生活している人達は

ふるさとが欲しいといいます。

私はいろいろな、ふるさとを持っています。

それだけでも、ずいぶん幸せだと思います。

 

歌(2)アカペラ「パリゼット主題歌」

小さな湯の街宝塚

 生まれたその昔は

 知る人のなき少女歌劇

 それが今では

 青い袴とともに

 誰でも知っている

 おお、宝塚 タカラヅカ

 

歌いながら椅子の上の台本取る

 

 

宝塚歌劇団出身の園井恵子は、俳優の丸山定夫が率いる

新劇の苦楽座「移動劇団さくら隊」の一員として広島に来ていた。

昭和20年8月6日は快晴でした。

はかまちゃんは〈園井恵子の愛称です〉広島市堀川町の宿舎で、

この日は、はかまちゃんの誕生日で食事当番の日。

家族同然の付き合いをして神戸のお母さんと呼んでいる、

中井志づさんから貰ってきた貴重な食料品でご馳走をつくり、

芝居の先輩である丸山定夫の部屋に

料理をお盆に載せ運ぼうと廊下を歩いているときでした。

突然、「ピカッ」と異様な光が走ったのです。

途端にごう音とともに庭に飛ばされ、気がついて見ると、

空は夕方のような暗さで、あちらこちらから煙が立ちこめ、

うそのような無残な街の姿に変わっていました。

はかまちゃんは廊下の壁伝いに歩いていたのが幸いしたのでしょう。

 

家がつぶれて柱の下敷きになっている丸山定夫が、

「助けて」「助けて」と、しかし女の力ではどうしようもありません。

逃げるしかないのです。

あたり一帯は力尽きて倒れる人、皮膚がボロをまとった様に

垂れ下がっている人、正に地獄絵です。

 

はかまちゃんは道路に散らばっているガラスを避けながら、

夢中で拾った地下足袋と男物の短靴を履き、

助かった仲間の高山象三と赤鬼のような体で泣き叫びながら

逃げて行く人に混じり、日頃、避難場所に指定されていた

比冶山公園へ逃げたのです。

 

「のどが渇く!」

そこにあった水をがぶがぶと飲んだのです。

後で考えると、この水には多量の放射能が含まれていたかもしれません。

この水を飲まなかったら、はかまちゃんは助かったかもしれません。

でも、この時は無我夢中で、のどが焼けるように熱く渇いていたのです。

 

此処で一夜を明かした二人は知り合いの農家で五円借りて、

とにかく線路伝いに歩いていけば

何処かに汽車が停まっているだろうと、

ひたすら二人は線路の枕木の上を歩いたのです。

高山象三は履くものが無く、わらじのような藁を

足に巻きつけての歩行です。

 

美しき女優、園井恵子は左足には地下足袋を、

右足には男物の短靴姿で着ているものはぼろぼろ、

そこには、あの美しい園井恵子の姿を見ることは出来ませんでした。

 

枕木の上を象三と歩きながら、はかまちゃんは

何を考えていたのでしょうか?

あの楽しかった宝塚歌劇の舞台が頭の中に走馬灯のように?

或は坂東妻三郎と共演した無法松の一生の場面を

思い出していたのではないでしょうか?

[思い出の目線で]

「ああ、広島に来なければよかった?」

「戦争は嫌だ!」

「また、芝居が出来るのかな?」

 

「私は芝居がしたい!」「私は芝居がしたいの!」

 

[天津乙女の鏡獅子の写真の所へ]

園井恵子、本名袴田トミは大正2年8月6日に岩手県岩手郡松尾村

今の八幡平市{はちまんたいし}で初代松尾村村長の袴田政緒の孫として生まれたのです。

父は養子でした。

 

 

 

袴田トミが初めて歌劇らしきものを見たのは、小樽に

宝塚少女歌劇の姉妹座という劇団が訪れた時でした。

直接、雑誌『歌劇』を取り寄せるほどの知恵も無かったので、

古本屋で『歌劇』を見つけては、むさぼる様に読んだ

本人は、雑誌歌劇に書いてます。

 

小樽高女の2年生のとき、休暇で両親の元へ帰省していました。

そのとき、ふと、ある少女雑誌の口絵を見ると[写真見ながら]

「あっ、これだわ」と叫びました。

休暇が終わると袴田トミは盛岡から汽車に乗りました。

でもその汽車は北海道を目指して走ってはいません。

彼女はそのまま宝塚音楽歌劇学校へ入る決心で、

大阪に向かっていたのです。

{舞台中央に戻り座る}

宝塚歌劇を一度も見たことが無い袴田トミが、

どうして宝塚へ入る固い決心をしたかというと、

少女雑誌のくち絵は天津乙女が演じる鏡獅子の写真だったのです。

「あっ、これだわ」

心に描いて憧れていた夢をこの口絵で見つけたのです。

 

宝塚に着いたものの、既に入試は終わっていました。

それでも袴田トミは、入りたい一心で門の前に座り込んだのです。

しかし、宝塚歌劇音楽学校の生徒監。南部先生に懇々とされ

両親の元へ送り返されることになりました。

「宝塚は貴方が空想しているようなそんな甘く、

楽しいところではありません。

血の滲むような修行を積み、泣くに泣けない苦労を

なめねばなりません。例えばですね…」

と生徒監の南部先生は素晴らしい例えを思いつきました。

「そうだ、そうだ。例えば飴だね、

美しい色彩を施されて店に並んでいる。

だが、飴を作るところを見たら食べられない。

宝塚は飴と同じだ。

外から見れば華やかだが中に入れば苦労の連続。

飴は美しいが飴屋の小父さんは両手につばをペッペッと吐いて

その手で飴をこねるのだ」

「いいえ、違います」[甲高く]

袴田トミは生徒監の言葉を遮ったが生徒監は

「違います? そりゃ君は知らないだろうが飴屋は唾を両手に

ぺっぺと吐いて」

「いいえ、そんなことしませんわ、私はよく知っています」

「よく知っているって?」

「ええ、私の家は飴を製造しているお菓子屋なんですもの」

「お菓子屋の娘さんだったのか」

「ハイ、飴はとても衛生的に美しく清らかに作られますわ。

宝塚も飴と同じだろうと思いますわ」

生徒監はものの見事にへこまされ、盛岡の父親に連絡、

承諾の返事が来るまで宿舎に泊まることになりました。

[小夜福子の写真の所へ]

異郷の地でたった一人、乙女心にさすが心細くなり

一代決心も足元から崩れていく気がして、

こんな気持ちなら帰ってしまおうかと。

そのときガラリと戸を開けて微笑みながら、

「淋しくない?」

その頃、寄宿舎にいた、小夜福子さんでした。

小夜福子さんは、すでに、天津乙女さんと共に宝塚歌劇の

舞台でスターとして活躍している人でした

 

「淋しがったりしたら駄目よ、お父様の返事をお待ちなさい。

きっと大丈夫よ。貴方は出世する方よ。

貴方がさびしがっていると思い、折ってきたの。

綺麗でしょう、山吹の花」

小夜福子は、彼女にとって生涯忘れられない、

崇拝する人になるのです。

その後、父親から、どうか受験させてくださいと許しが来たのです。

すでに受験は終わっており特別受験で入学が認められました。

美しき容姿と強引さが幸いしたのかもしれません。

 

当時の宝塚歌劇音楽学校に入学希望する少女の、ほとんどは、東京から西の上流階級の子女で

音楽学校は花嫁修業をかねて学ぶ所とされておりました。

そこに唯一東北の片田舎から門をたたいて入った彼女を思うと

その勇気は驚くばかりです。

[座る]

昭和5年予科から本科に進み、花組に編入、普通科演劇科に属す。

 

この年の暮れ、盛岡の父親が保証人となっていた材木店が倒産、

父親は破産、店を閉じた一家が宝塚のはかまちゃんの所に

転がり込んで来たのです。

そして妹は劇場で働き、二人で家計を支えるという

悲壮な運命になるのです。

 

ある日、園井が初めてファンから来た手紙に返事を書きそれを

いつまでもかばんに入れているのを見た後輩の加古まち子は

切手代が1銭足りない為手紙が出せない事に気が付いたのです

1銭が足りないため手紙が出せない。

それほど生活に困窮していたのです。

 

此処で加古まち子がどうして園井恵子の最後の脈を取る事になるほど

親しくなったかをお話ししましょう。

 

加古まち子は後に宝塚の演出家・内海重典と結婚する内海明子さんです。

初舞台は昭和
15年、この頃の園井恵子は大スターです。

加古まち子が初舞台でコーラスボックスで歌っている頃、

劇場の案内アナウンスをする人に

「貴方はだれのファンなの」と聞かれたそうです。

加古まち子は「園井恵子さんです、でもこれは秘密よ」

 

でもその人は、園井恵子にその話を伝えてしまったのです。

東京公演の稽古中に、ど近眼のはかまちゃんが、

目を細めて誰かを探していました。それは

加古まち子を探していたのです。

 

それから互いに気持ちが通じたのか妹のように可愛がったそうです。

東京公演では園井が自分の部屋に呼んでくれて

夕食は園井大ファンの料理研究家の人が作った

美味しい差し入れのお弁当を一緒に食べ、何度もお相伴に

あずかっていたそうです。

未来を予感しての二人の「絆」だったかもしれません。

そして、園井はこのお料理の先生からかなりの手ほどきを

受けていました。料理のできる人は何で出来るといいますよね。

 

 

 

舞台中央、園井惠子の写真の所へ

 

 

袴田トミの待望の宝塚少女歌劇団へは昭和5年4月

花組公演「春の踊り 琉球の為朝」で初舞台。

第二場の「鶴やーイ」と揚幕から叫びながら花道へ踊り出てきたのが、

園井恵子が宝塚の舞台へひびかせた第一声。

最初の芸名は「笠縫清乃」{かさぬい きよの}。

この後すぐに

芸名を笠縫清乃(かさぬい きよの)から園井恵子と改名したのです。

袴田トミは姓名判断に凝っていて改名が好きだったそうで、

本名の「袴田トミ」が「とみ子」へ更に「英子」そして「真代」と

変えていました。

 

園井は持って生まれた才能が存分に発揮されて、

あっという間に頭角を現していくのです。

 

中央奥でそのまま

 

 

その頃の園井の周辺には、舞踊専科の組長、天津乙女

月組の組長、小夜福子、園井の一期上の春日野八千代は雪組の演劇科

園井は月組の演劇科で同期には神代錦が、その月組の声楽科にはなんと私の叔母、草笛美子が

葦原邦子と同期で在籍していたのです。

今、このお名前を聞かれても、ご存じの方ばかりですね。

昭和6年3月30日宝塚歌劇音楽学校を卒業、校長は小林一三。

その年の8月宝塚大劇場が出来る前の小劇場で

「ジャックと豆の木」の母親役の代役を務め好評を博しました。

彼女の名演技が決定的に認められたのは、白井鉄造作の

「ライラックタイム」の門番のばあさん役。

「今年最大の収穫だ」と小林一三校長先生から絶賛されたのです。

所で園井の生活状況をしった小林一三は彼女を音楽学校の校長室に

呼び、「家に帰ってあけなさい」と封筒を手渡したのです。

その封筒の中には百円札入っており「困ったと時は何時でも言いなさい

どうでもしてあげます」という小林一三の手紙が添えられていたのです。

 

舞台では才能が活かされて幸せの風、その裏では

家族を養うという大変な事情が潜んでいたのです。

 

 

[間あり]

神戸には園井恵子が神戸のお母さんと呼んでいた小樽高女の先輩

中井志づがいました。

昭和10年に同窓会の関西支部が発足、初代支部長に中井志づがなり、

園井に声援を送るようになったのが縁といえるでしょう。

 

後に、園井恵子の最後を看取ることになる、

10年後輩の内海明子は園井に連れられて中井家へ。

その後、明子は宝塚歌劇団の演出家・内海重典と結婚。

新居を探すのも中井志づが面倒を見ました。

園井恵子が中井家に来るときは、いつも明子を誘ってました。

 

園井恵子は宝塚在団中もそうだったんでしょうが、

辞めて外部へ行ってからも、両親に数百円の送金をしていました。

辞めてすぐに大映映画で、阪東妻三郎の「無法松の一生」の

吉岡陸軍大尉の妻・良子を演じて一躍名声を高めたのです。

このまま映画の世界にいれば

彼女の人生は悲劇にはならなかったでしょう。

映画監督の山本嘉次郎は、「カツドウヤ紳士録」の中で、

こんな事を書いています。

「運というものの恐ろしさをつくづく感じたことがある。

僕は無法松の一生を見て園井恵子という人の芸に

大変感心してしまった。

芸達者で知られていたので、僕の作品に出て欲しいと探したが

居所がわからない。

東宝撮影所の俳優事務室に入ると事務所の人が、

「園井さんが見えてますが、何か御用は?」

「御用は?大ありだ、2ヶ月も探していたんだ」

「今此処を出たばかりです」「では探せ」と、

総出で電車の駅まで探したが見つからない。

結局、双方会えぬままに園井恵子は既に汽車に乗り

広島へ向かっていたのでした。

 

このとき、ほんのわずかなすれ違いが無ければ、

山本監督と会えてさえいれば、

はかまちゃんの人生は一八〇度変わっていたのです。

[立ち上がる]

 

[歌うように語る] エコーつける

 

想い出懐かしいの

故郷を夢見る 

 春は再び巡り来て

 幼きあの日の想いでは

 みどりの色も濃き

 野に山に咲く花よ

 過ぎしあの日の

 想いでぞ懐かしや

これは、園井恵子演じたピノチオが歌った

「懐かしの丘」という主題歌の歌詞です。

昭和十七年、内海重典、高崎邦祐{たかさき くにすけ}作

「ピノチオ」役を最後に園井恵子は退団。

その時、春日野八千代は自分が演じるピノチオの役を園井恵子に

譲ったそうです。そして春日野が演じたのは、コホロギでした。

 

宝塚歌劇団理事長の引田一郎に、宝塚を辞めますと言うと、

彼は園井を退団させたくなかったので

「辞めるなら退職金は渡さない」と言ったそうです。

 

「別建ての読み方、ニュース的に淡々と」

昭和16年、1941年6月9日大政翼賛会大会議室で、

日本移動演劇連盟が結成されました。

これは戦時体制に伴い、全国各地を巡業する劇団も

すべて国家の統制下に置こうとする国策組織で、

表向き民間の要請により結成という形をとっていたのです。

同時にプロレタリア演劇の新築地劇団、新協劇団などは

強制的に解散させられたのです。

この弾圧で多くの俳優が行き場を失いました。

そして昭和17年、1942年に、

丸山定夫、薄田研二{すすきだ けんじ}藤原釜足、徳川無声の4人が

創立同人となって「苦楽座」を旗揚げすることになるのです。

そこに新協劇団の仲みどり、そして園井恵子が参加することになります。

 

園井恵子がどうして苦楽座に?

実は映画に出たとき、監督の稲垣 浩に

もっと母親の気持ちをわかれといわれたそうです。

そこで園井恵子は自分の子供の役を演じるまだ小さい長門裕之を

本当の自分子供のように共に生活し、お風呂にも一緒に入ったそうです。

そして、もっと芝居が上手くなりたいと薄田研二に相談したところ、

苦楽座の丸山定夫を紹介されたのです。

 

サイパン島が陥落して、アメリカ軍の本土空襲が頻繁となり、

丸山たちの、国策とは無関係の演劇活動を続けようとする俳優たちの

活動にも影響を与えるようになりました。

映画館、劇場の相次ぐ閉鎖で、

苦楽座は昭和19年、1944年1224日に解散。

丸山は内閣情報局が奨励する移動慰問劇団を思いつき、

昭和20年、1945年に移動演劇さくら隊を結成。

園井、仲のほか高山象三、多々良純、森下彰子などの俳優、

八田元夫などの演出スタッフ総勢17人で

全国各地を巡回することになるのです。

 

昭和20年の7月終わり頃から、はかまちゃんこと園井恵子は

神戸のお母さんと呼ぶ中井志づの家に滞在していました。

8月6日は、はかまちゃんの誕生日。

すでに、宝塚の演出家の内海重典と結婚した、明子はすぐ近くに住んでいました。

中井志づの娘・美智子をはじめ仲良しが集まり、

広島はまだ空襲にあってないし、仕事の予定が立ってないなら、

お赤飯を炊いて誕生日を祝ってから広島へ帰ったらと話していました。

 

しかし一方、広島では丸山定夫が肋膜を病んでいました。

運よく8月2日は、芝居の集合の日で次の移動の相談があるということで、

はかまちゃんは8月1日に広島に帰ることにしたのです。

 

誕生日の、お祝いが出来ないのならとなけなしの食料品を

皆が、はかまちゃんに持たせたのです。

広島に帰るとき、広島出身の明子に

広島で何処か疎開先は無いだろうかと相談したのです。

 

人間の運命は定められていたのか?

明子が紹介したお寺は一足違いで大学生が借りており、

では宮島の方はと、そこへ行くと

そこも一足遅れで借りる事が出来なかったのです。

 

8月7日、新聞に広島に特殊爆弾が投下されたという記事が出ました。

神戸市灘区の中井志づの家はその年の3月の空襲で、

目の前の崖の下の家まで焼けましたが、運よく助かっていました。

もし、この3月の空襲で中井志づの家が焼けていたら、

広島からやっとたどり着いた、はかまちゃんはどうしたでのでしょう

 

8月8日の朝、中井家の前に服を着ているとは言えない風体の男女が

立っているのに、中井志づは、きずいたのでした。

女が足にはいているのは片方が地下足袋、もう片方が男物の短靴、

男はわらのようなものを足に巻きつけていたが足は血だらけでした。

中井志づは一瞬、誰?次の瞬間目を疑ったのです。

 

「はかまちゃん?じゃないの!」

 

紛れも無く、園井恵子と、薄田研二の息子の高山象三だったのです。

すぐに二人を、お風呂に入れた顔は綺麗でした。

象三〈しょうぞう〉はかなり弱っており、すぐに寝床につかせたのです。

食べ物は流動食しか受け付けません。

 

近くに住む明子も新聞で広島が空襲にあった事を知り、

気になり中井家に来て見ると玄関の戸を開けたのが、はかまちゃんだったので、驚いたそうです。

はかまちゃんは元気で普通に食事をしていました。

終戦間際の時ですから、満足な食料があるわけではありません。

宝塚時代ファンの料理研究家に料理を教わっていた、はかまちゃん

すいとんを、つくるにしても、中井志づに、

こうしたら美味しくなると元気に教えていたそうです

 

 

当時は神戸製鋼の病院は軍に接収されており、

診察してもらいたくても病院がありません。

象三は、食べ物がまったく食べられない。

そこで酒を飲まない志づの夫は工場が支給する酒の代わりに、

桃を2個貰って帰ってきました。

その桃を、絞って象三に飲ませて、

「これは誰も食べてはいけない象三のもだ」と厳命したのです。

 

8月15日、終戦を知り、はかまちゃんは、

「これで芝居が出来るわ」と大喜びをしました。

翌日、象三の具合が更に悪くなり、

大八車に乗せて病院を捜し歩きました。

はかまちゃんも、一緒についてきて、

盛岡の母親に自分は無事だということを、その時

初めて手紙に書いてポストへいれたのでした。

 

象三はビタミン剤を注射したら腫れた腕から膿が出て

花火のような紫色に変色、腕を押しただけでも

すぐに血が出てくる状態になっていました。

症状を詳しく説明したら残酷なので、此処では詳しく言えません。

 

そういえば、広島からついてまもなく

内海明子は、はかまちゃんから

「ねえ、明子、私、着るものないから何か頂戴?」と言われたそうです。

自分のも無いけれど、一着渡したらそれをずっと,はかまちゃんは

着ていたのです。

 

8月18日。急にはかまちゃんの具合が悪くなり始めました。

学徒動員されていた中井志づの娘美智子が帰ってくると、

はかまちゃんが部屋で寝ていたそうです。

砂糖水を貰ってきて、はかまちゃんに飲ませました。

熱は40度以上に、ビタミン注射をしたら腕が紫色にはれ上がりました。

 

別の部屋で寝ていた象三は放射能の症状が

全身を冒して亡くなりました。21歳。

お通夜なんて出来ない時代で、志づの夫が勤めている工場で

体が大きいので座棺をつくってもらいシーツを敷いて

その上に象三を入れて焼き場まで大八車に乗せて運んだのです。

 

隣の部屋では象ちゃんが死んだことが、はかまちゃんに判らないように、明子がそばについていました。

気配で感じたのか、明子に

「象ちゃん亡くなったんじゃない?」と

ぽつんとつぶやいたそうです。

明子は、あわてて、「違うよ、寝てらっしゃるよ」と慰めたが、

心やさしい園井恵子には判っていたのでしょう。

 

はかまちゃんの体も容赦なく放射能が侵していきます。

実は、ぼろぼろの姿で中井家に着いた日、

風呂で頭を洗い耳の横の毛を引っ張ったら、

一つまみぐらい抜けたのでした。

それを聞いた志づは、はかまちゃんに

頭は洗うなと言い聞かせていたのです。

 

全身が放射能の症状が出てくると、象三にだけ食べさせた、

あの桃が食べたいと言い出しました。

今更、桃は簡単に手に入らない。

工場の敷地で作っていたトマトを搾って飲ませたのです。

それと誕生日にお赤飯を食べ損なっているせいか?

お赤飯が食べたいと、苦しい中で欲しがりました。

よほど象三以外食べてはいけないと厳命された時

食べたかったのでしょう。

額に手を当てると燃えるように熱い、井戸水では冷えない、

明子は、はかまちゃんの為に氷屋を探しました。

当時は氷は配給制で何処も氷なんか売ってくれません。

ある氷屋に事情を話して、50銭で氷の塊を分けてもらい、

新聞紙に包んで持ち帰り、その氷をガーゼに包んで、

はかまちゃんの鼻と口の所を冷やしたのです。

「ああ、気持ちがいいわ」

明子にしてみれば、そんなこと以外してあげることが無かったのです。

 

「ねえ、阪大病院へ連れて行って」

盛んに明子にはかまちゃんは言いました。

「熱が下がったら一緒に行こうね」それしか明子は言えません。

その日も、明子は、はかまちゃんの傍で夕方まで看病していました。

夕刻近くなり、夫が帰ってくるので、

夕食の支度に家に帰ってもいいかと聞くと、うなずいたそうです。

その日は内海重典が歌劇団に、はかまちゃんが重体だから、

退職金を払ってやって欲しいと頼んでいて、それを持ち帰る日でした。

夕食を食べていると、志づの夫が、はかまちゃんが危篤だと呼びにきたのです。

[立ち上がる]

明子は夫とともに退職金を持って中井家に走りました。

 

八田元夫、象三の両親、つまり薄田研二{すすきだけんじ}夫妻、

中井美智子と両親が枕元に

明子は手にした退職金を、はかまちゃんに、

「退職金が出たのよ、退職金よ」と

はかまちゃんに言い、手渡したのです。

はかまちゃんは、退職金の十円札の束をつかんで、

目の前高くかざし、じっとお札を見つめていました。

すると、目が斜視になり、途端にお札がぱらぱらと、

はかまちゃんの手から離れて下に落ちてきたのです。

薄田研二の夫人が、苦し紛れに、ばたつかせる足を

じっと押さえていました。

明子は、「はかまちゃん、しっかりして」

彼女の脈を取ったのですが、

園井恵子の脈は次第に消えていきました。

{中央の園井の写真見ながらふり返る}

退職金をかざして見たとき、園井恵子に何が見えたのでしょう?

多分あの、天津乙女の連獅子の口絵を思い出していたかもしれません。

自分の人生の扉を開けた宝塚を、すみれの花咲く頃を、

いえ映画 無法松の一生?苦楽座?

{中央園井恵子の写真背景に中央に立つ}

8月21日袴田トミ、とみ子、真代、笠縫清乃、元タカラジェンヌ、

未完の大女優、園井恵子は三十二歳の生涯を

世界で日本だけという、核兵器、原子爆弾の放射能を浴びて

亡くなったのでした。

 

はかまちゃんが亡くなるとき、傍にいた薄田研二は、

死顔{シニガオ}をスケッチしたそうです。

残念ながらその絵は、どこに行ったか判りません。

焼き場へは、象三と同じ大八車に、はかまちゃんを入れた寝棺を乗せ、

皆で引っ張って行きました。

広島に落とされた爆弾が原子爆弾だということは、後日判ったのです。

 

はかまちゃんは、亡くなった時も髪の毛はちゃんとあり、

明子さんが最後のお化粧をしてあげました。

美しい顔だったそうです。うなずくのが音楽での合図

[舞台中央に来て]

明子さんは心の中で、「はかまちゃん、会えるそのときまでね」と

つぶやいたのです。

 

歌(3)「会えるそのときまで」[4分15秒] 

作曲 Mフィトリッケ 日本語作詞 梶原千沙都

 

 ひと筋の道 導かれてゆく

  あなたの背を押すの“風”

野はやわらかな 雨に濡れながら

なぜ 横顔に陽はそそぐ

めぐり会った 日ははるかに

  ふたたび会う日まで

  大空の手に 包まれて

  会えるそのときまで

 

 あなたが歩む 道はひと筋に

  登るよ 目指すあの山へ

  風は冷たく 私の思いは

  満ちて夜空に懸かる

 

  

  

 

メロデイ残したまま {四十五秒間} 

 

舞台中央で説明

 

このお話は「岩手県松尾村編の園井恵子資料集

原爆が奪った未完の大女優」という本と、

園井恵子さんの最後の脈を取った内海明子さんと、

園井恵子さんが神戸のお母さんと言っていた

中井志づさんの娘さん・中井美智子さんから、

お二人の記憶の中にある、あまり知られていない園井恵子さんを

フリージャーナリストの宮田達夫さんが聞き取り

朗読劇に書いたものです。

残念ながら、内海明子さんもすでに亡くなられ

天国で、明子さんを妹の様に可愛がった、はかまちゃんこと

園井恵子さんと舞台を見つめておられると思います。

 

再び歌へ

 

3 あなたのもとへ 行くその時まで

空よ その手を離さないで

愛しい人を やさしくあなたの

手の中に 守って

 

めぐり会った日よ!はるかに

ふたたび会う日まで

大空の手に 包まれて

会えるそのときまで

 

めぐり会った日よ!はるかに

ふたたび会う日まで

大空の手に 包まれて

会えるそのときまで

 

歌終わりで暗転

 

再度舞台に明かりはいる

草笛雅子観客に一礼

              幕

 

 

 

 

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平成二十三年十月一日

 
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                                                   宮田達夫

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