「芝居の道遠からん」

             
                                                宮田 達夫

 

私が演劇に興味を、いつごろから持ったかの記憶は定かではない。

それでも記憶の中では、小学校に入る前に母親に連れられて東京宝塚劇場〈もちろん戦前の〉で宝塚歌劇公演、
園井恵子出演の「ピノチオ」を観た記億がある。その後は、昭和27年1月に帝劇で宝塚歌劇月組公演、
白井鉄造作の「ハワイの叔母さん」と高木史郎作の「花の風土記」で天津乙女さん、新珠三千代さん、
深緑夏代さん、天城月江さん、沖ゆき子さん、美吉佐久子さんらの舞台を観ているし、プログラムも手元に
あるから間違いない。

しかも、数十年後に天津乙女さん、美吉さん、天城さん、新珠さんを取材でインタビューするようになるとは
予想もしていなかった。

 

昭和19年、小学校1年後半からの戦争中は長野県の松本温泉に父親の仕事の関係で疎開しており、
演劇に関するものに接する機会も皆無だった。練兵場で陸軍の兵隊が突撃の訓練をしたり、
タンク〈戦車〉を走らすのを見ては何か気持ちが高揚していた。この時代は南洋一郎著の冒険物語に熱中していた。

 

疎開から東京に戻り、神奈川県の小田原に住むことになった。家の近くに映画館があり何度か見に行った記憶がある。
「追憶」とか「オーケストラの少女」という映画はその頃観た映画。

 

ふたたび東京に住むようになり家から電車で二駅ぐらいの所に尾山台という所があり、そこの映画館に年中通った。
その頃は3本立て興業で、つまり3種類違う映画が1回入場すると見られるのだ。しかも途中から入り見たところ迄で
映画館を出るわけではなく、そのまま同じ映画を最後まで見られるという時代だった。

当時は映画雑誌と言えばキネマ旬報とスクリーンだけだった。そのキネマ旬報も1号からいまだに

大切に本棚に並んでいる。

 

最近、ミュージカル作家の山崎陽子さんが、映画「東京物語」がリメイクされ、小津安二郎監督、野田高梧、
小津安二郎の映画のシナリオがあると話すと、読みたいという事で1953年夏季特別号

NO67に掲載されているのでお貸しした。

たまたま、その時、朗読ミュージカルで有馬稲子さんと稽古をされていたらしく、ページを開けたら表のグラビアの
新人紹介でテリイ・ムーアの次に有馬稲子さんの写真があり、裏表紙になんと〈宝塚の紳士南風洋子新東宝へ入社〉
とあるので思わず笑い、懐かしい時代へタイムスリップした一時だったと言う話を聞かされた。

1953年というと私が17歳の時だ。

 

芝居を何時から観だしたのも定かでないが、東京六本木に俳優座が出来て「桜の園」を東山千栄子が
演じるというので観劇した。

チェーホフ50年祭の第一回新劇合同公演で、俳優座で「カモメ」を観劇した。

東山千栄子さん、宇野重吉さん、小夜福子さん、杉村春子さん、滝沢修さん、芥川比呂志さんほかだった。
そのあと誰の紹介も無く楽屋に行き、出演者全員のサインをサイン帳にもらった。

芥川比呂志さんが東横ホールでハムレットを演じるというので、その舞台稽古も見に行った。

福田恆存演出の稽古、途中で芥川さんが福田さんの所へダメ出しを聞きに来たときは、すぐ横の席だった。

 

記憶では知り合いの女性が当時文学座にいた小瀬 格さんという役者と親しくしていて、そんな関係から
出入りが出来たのかもしれない。優雅な時代だったのだ。

この小瀬 格さんとも、後に大阪で蜷川幸雄演出の「王女メディア」を上演する事になり、何十年ぶりかで
再会した。大阪東急ホテルのバーでバーボンウイスキーを飲みながら、格さんは「さん付けでなく
呼び捨てに出来るのは俺だけだな」と言ったのが別れの言葉だった。

 

一ツ橋講堂で公演した「どん底」の通し稽古を見に行ったときロビーが騒々しいので、なにかと見に行くと
ロビーのソファーに岸田國士さんが横たわり、横で岸田今日子さんが泣き崩れていた。

岸田國士さんが亡くなる瞬間だったのだ。初日は翌1954年3月5日だった。

でも不思議と岸田國士さんのサインが手元のサイン帳にある。記憶をたどると前日の舞台稽古の時、客席で
求めた気がする。

神西 清さんはサインした時「どん底乃 唄より春乃 芽生哉」と一句記されていた。

 

1954年岸田國士追悼公演の岸田國士作の「紙風船」と「牛山ホテル」を観た。

この時のプログラムには全員のサインがしてあり宝物だ。芥川比呂志さん、稲垣昭三さん、岸田今日子さん、
杉村春子さん、田村秋子さん、中村伸郎さん、中谷昇さん、三津田健さん、続いて「欲望という名の電車」だ。
これは楽日に観劇、理由は北見冶一さんのサインが千秋楽と書いてのサインだからだ。此処には、南美江さん、
宮口清二さん、矢吹寿子さん、とこれも宝物で、「どん底」の一ツ橋講堂での舞台稽古で倒れる前に、
岸田國士さんにサイン帳にサインを、又神崎 清さんにもサインを頂いたサイン帳は、何度見ても懐かしいし
当時の様子を思い出す。

 

そう言えば、「セールスマンの死」の公演を帝劇で観劇、滝沢修さんは似顔絵付、宇野重吉さんも似顔絵付だった。

「セールスマンの死」でリンダ役を演じた小夜福子さんのサインもあるのが不思議だ。

1954年4月15日と書かれている。今回の朗読劇に60年ぶりに小夜福子さんが出てくるのも不思議な縁だ。

 

話は横道にそれるが、その頃のサインはタカラジェンヌのサインと違い、ちゃんと読めるから、その人の個性が
いつまでもサインの字から感じられるので思い出深いものになる。特に徳川夢声さんの字は格別だ。

 

懐かしいのは1955年10月の文学座63回公演の「なよたけ」だ。大手町サンケイホールで観劇。

「なよたけ」は松下砂雅子さん、新人時代で美しかった。演出は芥川比呂志。

この松下さんとは私が手掛けた近鉄劇場での公演の蜷川幸雄演出の「にごり江」で再会した。39年ぶり、
根岸明美さん、神保共子さんらと食事をする機会があり、その時、その昔の「なよたけ」のプログラム見せると
「えっ!こんな綺麗な時あったの!」と皆さん大笑いに、その松下さん、根岸さんも既に鬼籍へ。

 

その昔に戻ると、学生劇団は、くるま座、劇団山王、三田舞台、とらいあんぐる、
そして私たちの「劇団21世紀」があった。我らは何時しか芝居の道を歩んでいた。

学生劇団の中に後に劇団四季でオンディーヌを演じた影万里江さんもいた。美しかった。

 

劇団21世紀の初演は、東京赤坂公会堂で、テネシー・ウイリアムズの「ベビードール」。

演劇仲間で後に東映のシナリオ作家になった掛札昌裕さんは、その時のプログラムにこう書いていた。

 

「思えば、こうして私達が真の演劇の友を見出してから、早や一年以上になります。組織も綱領もありません
でした。相互に集合して演劇の批評を交し合う仲でした。やがてささやかな小さな結晶、つまり演劇の小冊子を
生み出しました。この冊子が更に広範囲の友を呼び集め、一層強い結束を作ってくれたのです。

今では単なる談話でしかなかったものが、体系をもった立派な演劇論になったり、逸話でしかなかったものが
美しい魂の告白の戯曲となって紙面を埋めました。私達が演劇を試みる気持ちに至ったのは、
これらの小冊子以前から存在したかもしれません。演劇を、単に上から眺めているのではなく、
その内部構造に踏み入って本当の興味と刺激を探り出そうとしたのです」

 

事実「あすなろ」というのが1号の小冊子の名前、明日になればさらに成長する、という意味から名付けた。
巻頭には当時の有名な慶大教授の二宮孝顕教授、佐分純一教授、鬼頭哲人教授、高橋令二教授という
仏独文学者の顔ぶれで、二宮教授は会長で佐分、鬼頭、高橋教授らは顧問になっていただいていた。

 

当時私は「美土路達二」というペンネームを使用。

2号から「三田演劇」と改名、映画評論家の荻昌弘を囲んで「日本映画を語る」の座談会「新劇あれこれと」
という題で親子対談は、なんと女優の細川ちか子さんと二男の藤山一比古さんという重厚な編集内容だった。

1957年の事、藤山一比古さんは、一つ下のクラスだった。素晴らしい色男だったが役者にはなりたくないと
話していた。映画批評家の筈見恒夫さんの息子で松本有弘さん〈後に阿里 弘、名前で映画批評家に〉が仲間で、
私は彼との手紙形式でのやり取りも掲載した。

阿里 弘さんからは「M君への手紙〜学生演劇の根本問題について〜」。それに対して「A君への返事」だった。
後にシナリオ作家になる掛札昌裕さんが書いたのは「日本映画の欠陥」。

編集後記で掛札さんは「雑誌の色は3号で決まると言うが本紙も次号が山だ」と書いているが3号は出なかった。

 

東京渋谷の駅前に「リルケ」という喫茶店があった。此処のママは忘れることが出来ないほどいい人だった。
この店はなぜか新劇役者がよく来た。文野節子さん、神山繁さん、日下武史さん、浅利慶太

さんも来た。友が友を呼ぶのかいつしか互いに顔馴染になった。

その頃の我ら仲間は皆、高校から大学の中間にいた。

 

劇団四季も初演は1954年1月、中労委会館「デアルデール又は聖女」でスタートの時代で、
メンバーの日下武史さんは「当時は新宿でめざしを肴に酒を呑んでいた時代」と話していた。
3回目の公演「間奏曲」に首切り役人役で菅原文太さんが出ているのが面白い。

 

不思議な話がある。

ユージン・オニール作の「夜への長い旅路」という戯曲がある。翻訳は清野暢一郎さん。

偶然、演劇好きを知った私の叔父が、こんな学友がいるがと言って紹介してくれた。清野さんは横浜の海に近い
山の上に住んでいた。数回お邪魔した記憶があるが、行くたびに必ず紅茶が出た。オニールの話を沢山聞いたが
あまり記憶がない。手紙も何通か頂いたが物凄い達筆だった。

1999年頃、私はハワイで友人とゴルフをしたとき、一緒に回った人の名前が清野太郎さんだった。
もしかしてと本人に聞くと「清野暢一郎は父です」という答えが返ってきた。その頃は「父は母と別れていたので、
父の生活状況は知らない」と言う。その知らない期間を私は知っていたわけだ。
ただ、「いつも紅茶が出たでしょう」と笑いながら言った。白水社から出版された「夜への長い旅路」の本は
絶版で奥付けに朱肉で清野と印が押してある。「これ僕が押したんです」と、その後、家が火事で
何も残っていないと言うので、絶版本と手紙を手渡した。

 

美土路は劇団21世紀に情熱を集中、学業も放棄して頑張っていた。後の話だが、我らは時代が早すぎたのかなと、
今の時代だったらメディアが離さなかっただろうと掛札と同窓会で話した。

もう一つ、余り大学、三田の山に行かないので英文学の教授に呼び出された。川口教授だったと思うが
「君は単位が足りないが、他の連中みたいに麻雀をしているのとは違い、演劇活動をしてるから単位はあげます」
と言われた時は、驚いて安堵した。どうして知ったのだろうと今でも不思議だ。

 

喫茶店「リルケ」で更に親しくなった浅利慶太さんに2回目の公演のプログラムに寄稿してもらった。

タイトルは「劇団21世紀の人たちに」

 

〈正直に云って、僕は此のグループの人たちをよく知らない。芝居を見せてもらった事もないし、芝居の事で
話し込んで事もない。僕と此のグループの人たちとの交際は喫茶店の相客としてなのである。

彼らはよく隣席で演劇論をたたかわせている。僕は時折、それにじっと耳を傾けている。彼らの話している事には、
時に正論もあり、時に奇論もある。そしておおむね──大変失礼な話で恐縮だが──聞いていて
僕を愉快にしてくれる。

先日、此のグループの美土路君が原稿の依頼に来た時、劇団の理想とするところや、劇団の特徴について
いろいろ話してくれた。だが僕は何を聞いたのか今思い出せない。それは僕が不親切だからではない。
又勿論その理想とするところを認めなかったからでもない。劇団の理想や、演劇の理想というのものは、
舞台を通してしか人の心に伝えることが出来ないと云う判り切った真理が僕をそうさせたのだと思う。
僕は彼らの理想の舞台を見たい。僕は無心に彼らの舞台を観よう。そして面白ければ拍手は惜しむまい。
つまらなければ二度と観にいくまい。客席にあれば僕は観客である。これは僕が彼らの年頃から今迄、
ずっと続けてきた演劇生活の中で、骨身にしみて学んだ演劇のただ一つの真理である。

まだ交際も浅く、彼らについてよく知らないので的はずれな提言をしてしまったかも知れない。
だったら許し給え。必ず観に行きますから、面白い芝居を観せて下さい〉

 

1958年2回目の劇団21世紀の演目はテネシー・ウイリアムズの「やけたトタン屋根の上の猫」。

映画ではエリザベス・テーラーが演じたが、主役のブリックを池田忠雄さん、マーガレットを野口佐都子さんが、
おじいちゃん役には、後に日本テレビから日企を創設した赤尾健一さん、おばあちゃん役は河原多恵子さん、
この方がまた後に出会う不思議な人。ブーパー役は後にスプーン曲げで一躍名前を売った関口甫さん、
という矢張り今の時代でしたら間違いなく皆話題の人になったでしょう。

池田忠雄さんは池田成彬さんの孫で慶大教授の池田潔さんの息子、シナリオ作家が希望だが
今の石田純一さんそっくりのいい男、野口佐都子さんはつんと尖ったバストが自慢のこれまた演劇志望の
東洋英和の女学生。美土路は演出、装置で赤坂警察署まで行き赤坂公会堂使用許可を取り、
稽古場は知り合いの洗濯屋の二階の畳の部屋を借りてした。階下では洗濯の蒸気を使うので、
その熱気が2階まで上がってきて蒸しぶろ状態の稽古場だったが使用料は無料。

 

池田潔さんが我らのプログラムに書いてくれた。

「この道をゆく人たちに」

 

〈1920年代にイギリス劇壇にHannan Swafferという変わった名前の評濾家がいた。この男は

Best hated criticと形容されていたが、劇壇の不正とか、ゴマカシとか、無能の総て辛辣きわまりない筆で
やっつけて容赦しなかった。

もの凄い毒舌に閉口する場合もあったが、批評の内容には常に一本ピーンと筋が通っていて、
これが彼をWarted hated……の形容詞から救っていたと思う。

大学当時、僕は此の男に傾倒し、自分一生の仕事を劇評と決めていた時代がある。劇を観、劇をきき、
劇を読み、劇を語り、笑い、泣き、結構、一人前の文学少年だったのだ。その事実を今僕は隠そうとはしないし、
むしろこの志と違って劇評家になれなかったことを、残念に思っている。

だから僕は、若い人達がこの道に励むのをみると、堪らなく懐かしい気持ちがあるのだ。思
う存分楽しみ給え──いろんな苦労の伴う事はわかっているが、それは苦労して、仕甲斐のある苦労であり、
時終っていつかは、やはりこころ懐かしく思い出されるだろうから……。〉

 

劇団21世紀の皆は本当に舞台つくりに打ち込んだ。あの熱意は異常とも言える程だった。皆素人が音楽を作り、
照明を考え、衣装を、効果を皆で考えたのだ。

 

3回目の公演は池田忠雄作の「欲望」とプログラムには書いてある。

池田忠雄ペンネームを池田淳と決めた。でも3回目の作品はテネシー・ウイリアムズの「夏と煙」だった。

 

当時劇場は、第一生命ホールか一ツ橋講堂、飛行館ホール、しかない時代だ。文学座でも「どん底」を一ツ橋講堂で
岸田國士演出で公演していた。それだけにここでやるのが我らの夢だったのだ。

装置は当時売れっ子の増山吉彦さん、美土路の注文はシンメトリーの装置。

主役のジョニー・ブキャナンを演じる人がいない、学内で下級生の市川団子さん、今の市川猿翁、武藤兵吉さんが
候補に挙がったが団子さんは背が低いという、うちわの意見で武藤兵吉さんに決まった。後の石坂浩二さんだ。

1958年12月13日〜15日まで、無謀ともいえる公演期間だ。プログラムに皆一生懸命広告を集めた。
日本交通、三共、ヒドリ自転車製作所、荒地出版社、バヤリースが広告をくれた。猛烈に嬉しかった記憶がある。
日本交通は美土路の友人の父親が社長だった、今は友人の息子が社長だ。

鼎談は文学座の文野朋子さんと池田淳、美土路達二で「夏と煙」を語る。

 

美土路はプログラムの中でこんなことを書いている。

 

〈日本の新劇界には決定的な演出者と作者のいない事も大いにマイナスの面を作り出している。
アメリカでは、エリア・カザン=テネシー・ウイリアムズのラインが強く結ばれて居り、
それが大いなるせいかをあげている。日本の場合は、演出者と役者が強く結ばれて指導者であるべき、
演出者が役者にひきずられる傾向が強い。こんな所に日本の新劇の欠点が潜んでいるようである。〉

 

美土路達二の芝居の世界の道遠からんは、此処で終わった。勿論ペンネームも終わりだ。

 

私は卒業して関西の放送局へ務める事になった。テレビドラマを作る制作へという気持ちは強かったが
報道勤務の生活が長く続き、後にそれが幸いしたかもしれない。

池田淳さんは学生時代に恋い焦がれた女性と結婚して、結婚した相手の女性は本当に池田淳に尽くしていた。
売れっ子のシナリオ作家にはまだ程遠かった。

一度だけ大阪に私を訪ねてきた。折角来たんだから大阪でしか見られない劇場へ行こうと、大阪西区の
九条OS劇場へ行った。此処は全て見せますというストリップの小屋だ。観終わった後、池田は、

「達ちゃん、困る。目の前から、さっきの舞台のすっぽんぽんの姿が目から離れない」。
これが別れの言葉だった。

後に、手紙が来て、顔面に癌が発症して、半分顔を切り取ったと言う、昔の色男の顔は今はないと書いてあった。
でも頑張ってると、その後、奥さんからはがきが来たのを最後に音信は途絶えた。

 

MBSナウという番組が出来たお蔭で、事件事故でなく、当たり前の出来事からニュースを作ろうという事になった。

そこで事件記者から宝塚歌劇、歌舞伎の片岡孝夫後の15代仁左衛門さん、団十郎さん、坂東玉三郎さん時代へ、
また市川猿之助さんの早変わり、杉良太郎さんのナニワのおばさんフィーバーに目を付けた。
その後、報道と事業の二足のわらじをはく事になり、劇団四季の「キャッツ」の大阪公演実現。
取材で知り合った当時、平岡企画の牟礼也寸志さんの協力を得て蜷川幸雄公演を近鉄劇場で実現など、
プロデューサー的役目もこなし、当時社長からコンビニエンス・プロデューサ―とも言われた。

 

偶然とは面白いもので、報道時代に記者クラブで付き合っていた読売テレビの嶋内義明さんとリタイヤー後
何十年ぶりかで再会。当時、彼が理事をしていた日本ヘルマンハープ振興会の「会えるそのときまで」という歌を
広められないかと相談を受けた。その時、梅田芸術劇場でミュージカル公演をしていて、それに出演している人に
歌ってもらおうという事になった。

ヘルマンハープを普及しようと演奏活動をしているのは梶原千沙都さんという方で、イベントでその方が
ヘルマンハープとの出会いをいちいち話されてるのを聞いていて、いっそ朗読劇にしたらと進言。
ではという事で、今をときめく、アナと雪の女王の「ありのまま」の作詞家、高橋知伽江さんに書いてもらう事に。
そして、それを演じるのは、私がよく知っている音楽座の女優の秋本みな子さんにという事になった。
偶然にも芝居の道へ入り込んだ。舞台つくりの稽古は山ほど見て来てる。

朗読劇のタイトルは「弦の音に導かれて」で、梶原千沙都さんがドイツでいかにこの楽器に引き付けられたか、高橋知伽江さんは冒頭にヘルマンハープの音を聞かせながら「私の名はヘルマンハープ」と一人称で物語が始まり、主よ 人の望みの喜びを、アベマリアと讃美歌を、さらにドイツ唱歌の、かっこう、ちょうちょ、クリスマスソングを散りばめて最後にヘルマンさんからもらった「会えるそのときまで」をヘルマンハープで演奏して歌うという構成で、2009年10月10日に兵庫県立芸術文化センターでヘルマンハープ演奏会と共に上演した。

 

何十年ぶりかで芸文大ホールで朗読劇の演出が出来る? 私の過去を大半の方は知らないので、
いささか怪訝気味の方もいた様子だった。

数回の稽古の後、本番前日に芸文大ホールの稽古場で最後の稽古を、翌日は音合わせ、明かり合わせと
場面割して事前に裏方さんと打ち合わせした通り、通称がなりマイクを片手に舞台稽古を済ませて

本番となった。

舞台上の装置に関しては、後ろに音響板があるのでどうしようか迷って、友人の石阪春生画伯に相談して、
一寸した細工を舞台上に黒幕を使いあしらったのが効果抜群となった

過去に番組つくり、御堂筋パレードのフロート作成、天神祭他皆手作りで自身で考案してきた。
それがまた役に立つ。

 

そして、このヘルマンハープの「会えるそのときまで」の歌が、次に生まれる朗読劇「私は芝居がしたいの!
〜原爆に散った元タカラジェンヌ園井恵子〜」につながるのです。芸文でヘルマンハープの話を取り上げなければ
生まれない朗読劇でした。

 

岩手県出身の宝塚音楽学校の生徒が、岩手出身で、原爆で亡くなった元タカラジェンヌ園井恵子さんの慰霊祭に
制服姿で出席したという事で裁判沙汰になっている出来事を知った。その時、何故か、もめごとより
園井恵子さんの最後の脈は誰が取ったんだろうという不思議な疑問が心の中に湧いてきた。
知りたい!事件記者の気持だ。

 

ところが意外にも最後の脈を取った方は身近かに居る方でした。よく知っている宝塚歌劇団演出家の
内海重典さんの夫人の明子さんだったのです。

早々に事情を説明して明子さんの自宅へ伺い、当時の様子を思い出して頂きながらメモしたのです。

当時ご一緒にいた中井美智子さんにも同席を、ところがお二人とも難聴で聞こえない。3日間大声と筆談、
遠い記憶を思い出して頂きノートに記録、一気に朗読劇に書き上げたのです。

それは、明子さんが最後に「はかまちゃんに、また会えるそのときまでね」と、手をにぎって話したと言う
言葉を聞いたとき、そうだ、最後は、あの歌で決まりだと、瞬時に物語は出来上がっていた。

私が長年、宝塚歌劇を取材してきたので、園井恵子さんが忘れかけてる自分の事を世の中にもう一度出してと
呼びかけているみたいな気持ちを感じたからだ。

 

書き上げた朗読劇は、すぐに明子さんに読んでいただいた。年末だったので明子さんからの年賀状に
書かれていた文章は「人生は不思議なものですね。私が24歳の時、悲しい出来事の事を思い出して

ハカマちゃんとのお別れを走馬灯の中で涙涙でした。この度、ハカマちゃんを生き返らせて下さるとの事、
有難さに泣けました。妹のように可愛がって下さいましたので、御礼迄に」

 

早くからこの朗読劇の事を知っていた女優の春風ひとみさんは、自分がやりたいと熱望しており、
その後数か所に台本を送ってという連絡が来たが、どれもなしのつぶてだった。

2013年初めに広島で出来そうだから台本の郵送を、次に会いに行って欲しいという事で広島まで出かけた。
公演予定場所はサロン風のスペースで会場設営にはかなり難しい。

先方がしたいというので8月6日原爆の日に向けて朗読劇の稽古を、稽古場は生田神社の会議室と
知人の空きマンションの一室。東京の稽古場だけで本番へ。

会場設営は本番前日の夜中から。会場には照明の設備もないので、以前に裏方経験が少しある人がいて
百円店で購入した材料で応急のスポットライトを作り、光るドアのノブにはすべて布を巻いた。

舞台は平土間で後ろは黒幕でかくして、舞台面を囲むように譜面台に園井恵子さんたちのパネルの写真を乗せて
公演に臨んだ。広島の人でも園井恵子を知らないだけに、物語に涙する人もいた。

 

それでも原爆の日の公演という事でメディアはかなりつめかけた。

 

2014年は宝塚歌劇百周年、宝塚で公演が出来ればと思っていたら、宝塚文化創造館の名誉館長で

宝塚歌劇団演出家の岡田敬二さんから、此処でしないかという御声がかかった。

 

2013年秋ごろ、あるディナショーで偶然、元宝塚歌劇雪組の娘役の草笛雅子さんが横の席に座っていた。
毎日放送が夕方のワイドニュースMBSナウをスタートしたのが昭和51年、草笛雅子さんが宝塚音楽学校へ
入学したのが同じ年だ。実は再会以前に彼女とは出会っていた。それは旧毎日ホールを改装して
MBS劇場という名で劇団四季の「美女と野獣」を公演する時で、退団以来初めてだっだ。
オーディションに来ていたので、浅利慶太さんに、草笛さんは宝塚歌劇で歌が一番の成績の人だったと紹介した。
その効ありかどうか不明だが「美女と野獣」でミセス・ポット、マダム・ブーシュを演じた。

 

草笛さんに自分がやる小さな歌の会があるが来ないかと誘われ、のぞきに行った。
そこで彼女の歌声を聞いてこの人はアカペラで歌える人と確信、朗読劇をやりませんかと声を掛けた。
朗読劇とはなにかもわからない彼女は不審そうな顔をしながら、ハイと答えた。
まだ実現するかどうか不明な時期だった。

これが実現したら喜寿を通り越して78歳で再び劇団21世紀の時代の気分に戻れる。
念願の芝居の道は遠からんだ。園井恵子ではないが、芝居の演出が出来る。

 

宝塚市文化財団主催、宝塚舞台の植田孝社長の協力で、協賛を得て宝塚文化創造館で8月10日に公演と決まったと
名誉館長の岡田敬二さんが連絡してきた。稽古場は館が元宝塚音楽学校なので日舞教室が使えると言う。
台本を書き直して、ヘルマンハープの音楽は梶原千沙都さんが新しく音を入れ替えたCDを送って下さったのです。

稽古第一日は5月23日朝10時から始まった。

草笛雅子さんに朗読劇とは?クエッションマークがついたままでは具合が悪い。

運よく大阪心斎橋劇場で「山崎陽子の世界」朗読ミュージカルの公演があるので観劇することにした。

朗読ミュージカルの出演者は、平みちさん、小山明子さん、光枝明彦さんは草笛さんの劇団四季時代の先輩だ、
最後は森田克子さんだった。草笛さんの呑み込みは早かった。

そこから草笛雅子さんの素質と根性が徐々に発揮され始めた。台本の持ちかた、言葉のなまり、文章を何処で切るか、
人名の並んでいるのはどう読むか、部分的にはニュースアナ的にと、注文は機関銃の様にとんだ。
彼女はそのたびに色鉛筆で台本に書き込んでいった。

「会えるそのときまで」の歌の歌詞は彼女は何故か瞬時におぼえてしまっていた。
歌に関しては文句のつけようがないと私は秘かに思っていた。

朗読劇の中にいろいろの男性が出てくる、この声色の仕方、分け方に私は宝塚でよく年配の男役をする専科の方の
男役の名前を何人か出して、この声色でどうだろうと助言した。呑み込みの早い彼女はすぐに実行した。

 

稽古で印象に残った彼女の一言は「『会えるそのときまで』は綺麗に歌いませんよ」。

一人で50分近くを休憩なしで演じるのだから、稽古もこ返し以外は二回が限度だ。
日増しに彼女の秘めたる実力が浮き上がってくる。二人だけの稽古場でも時々新聞記者が取材に来る、有難い。

ある日、記者が物語を聞くので草笛雅子さんと顔を見合わせると、彼女の口から「じゃ、通して見せましょうか」と。
終わった時、女性記者の目はうるんでいたように見えた。草笛さんはそれをとうに感じていたようだった。

稽古の期間は7回、何十年ぶりかの本当の演出に携わった割には芝居の道は遠からん。

50分舞台出ずっぱりで水も飲めない。稽古の途中で「水飲む?」と聞くと、きっぱりと「いりません」。
最後に肝心の歌がある、草笛雅子さんの心中は本番終るまで恐怖の塊だっただろう。

 

本番の日は台風11号が兵庫県に上陸、すぐ近くの武庫川は濁流が音をたてて流れていた。

幕が上がる前の舞台では園井恵子の写真に彼女は手を合わせていた。幕が開いてすぐにアカペラで歌、
その歌声で草笛雅子さんは見事に観客の心をつかんだ。

終演後に届いた感想は「草笛さんの歌唱力の見事さに驚きました。宝塚の人の歌い方にはくせがあり、

とっつきにくいという先入観があるが彼女の冒頭のアカペラの歌から舞台に引き込まれました」

また別の人は「風雨をついて行った甲斐がありました。感動の舞台でした。草笛さんの表現力のある歌声は
それだけで圧倒的な存在感があり、歌の力を感じました」

 

アカペラで歌える彼女を選んだ事が正解だったのだ。芝居の道は遠からん。

ある観客は「私は芝居がしたいの!という園井恵子さんが訴える台詞が切実に胸に迫った。華やかな宝塚百年の
歴史の中でこのような惨めな悲劇が存在していた事実を戦争を知らない沢山の宝塚の生徒たちに見てほしい」と言う。

 

演技は解読力から始まると言うが、草笛雅子さんは台本の台詞を完璧に解読してくれたのだ。
演出した人間としては嬉しい限りだ。そして素早く観客に、演じる人物のイマジネーションを抱かせることだと。

私は内心草笛雅子さんがこの朗読劇には最適任者と感じて選び、彼女も又何の不安も感じないで
よくぞ受けてくれたことが成功に結び付いたのかなと。其れより不思議なのは出会いが
総てを結び付けてくれたことだった。唯一の小道具の椅子は草笛さんが母の想い出だと言う椅子を使った。

 

ヘルマンハープと「会えるそのときまで」を歌う梶原千沙都さん、そこに結び付けてくれた嶋内義明さん、
梶原千沙都さんの朗読劇を書いた高橋知伽江さん、偶然の出来事から園井恵子さんの臨終の姿を求めたら、
それは内海明子さんと中井美智子さんだった。そして臨終の園井恵子さんへ内海明子さんの口から出た言葉が
「会えるそのときまで、ね」と。
それを聞いて「私は芝居がしたいの!〜原爆に散った元タカラジェンヌ園井恵子〜」の朗読劇の
最後の場面が書けたのでした。

 

耳の不自由は方には事前に台本を読んでいただいた。目の不自由な方もおいでになり感激したと。

今、草笛雅子さんと「私は芝居がしたいの!〜原爆に散った元タカラジェンヌ園井恵子〜」の芝居の舞台が
作れたことは最高の出来事だった。

芝居の道は遠からん。

 

改めて朗読劇「私は芝居がしたいの!原爆に散った元タカラジェンヌ園井恵子」を

袴田トミこと園井恵子さんに捧げます。


同人誌「四季」平成26年冬季号(31号)掲載



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