「ルーマーズに 元劇団四季の光枝明彦初出演」


作 ニール サイモン 訳 黒田絵美子 演出 高橋昌也 美術 園 良昭
照明 澤田祐二
出演 黒柳徹子 益岡 徹 かとうかずこ 大森博史 芽島成美 光枝明彦


黒柳徹子海外コメデイシリーズと銘打つ舞台は1989年から続いているが
今回20回目で初めて観劇した。
観劇の理由は劇団四季に35年近く在団してキャッツの大阪公演の時には
グロールタイガーを演じてその油の乗り切った芝居を見せてくれて、その後アスペクトラヴ、
夢から醒めた夢などで独特の役柄を演じてきた光枝明彦が劇団四季を今年の1月に
退団してしまい、その外部舞台出演第一回なので、どうしても見たいと思ってである。


かなり以前から日本人の演じる外国物は見る事を辞めてきた。
理由は所詮東洋人の顔で
白人を演じる不都合さ、また生活習慣が違うのにその日常生活を、
例えば恋人、夫婦で
交わすキスの動作にしてもわざとらしく、そうした演技で無い部分を
演技で見るつらさが
嫌だからだ。
岸田国士のどん底時代の役者は別だが。

今回はあくまで光枝明彦が劇団四季をやめて外部の舞台でいかに芝居をするか?
言い換えればガラスの動物園の中にいた役者が又一人ガラスの動物園から出て
どう演じるかという
所に焦点を合わせたかった。
今回の芝居ニール サイモン作のルーマーズ 口から耳へ、耳から口へは英語の台詞が
そのまま日本語になり聞けたら、面白みは倍増しただろうと思う芝居だ。

外国人の持つ身振り動作がかなり重要な芝居だけに、其れを日本人が其れ風に演じる事は
これまたかなり無理が生じる。
友人の誕生日に来たら友人が耳たぶをピストルで撃って倒れている其れを
それぞれが
いかに隠すかのどたばた喜劇だけに、それぞれに要求されるのは
元来外国人が持つ自然な
習慣動作表現なのだ。

勿論主役は黒柳徹子、光枝明彦は精神科医で夫婦で招かれてくる。
招かれた客は夫婦でそれぞれがどたばたする、そのどたばたに本来外人が持つ言葉で
言いようの無い体臭が、空気が必要なのだが日本人が幾ら演じようと其れは無理な部分だ。

そこにこうした芝居の難しい面がある。
最近はこうした舞台を見に来る観客も出演者がテレビで出ている人という事で見に来る、
芝居を見に来るのとはもう一つ違う感じなのが今の世相と言えるかもしれない。


芝居を見に来るよりテレビに出ている人を見に来る、テレビに出ている人だ、
で満足度が増すのも、其れが判るだけに、がっかりする要因だ。

それに今回の公演の客筋を見ると、コマ劇場時代風の客、平岡企画公演時風の客
そして
大阪キョードーの客風が混在した感じと見受けた。
年齢層はかなり高くそのほとんどがご婦人だ。

残念なのは外国と違い観劇して幕間に芝居のついて語ることがないということだ。
ただ黒柳徹子を見たと。


元来、劇団四季の芝居は拘束された感じの中で演じられてきた様に見受けてきた。
シンメトリーの中で創られ、台詞は四季節といわれるもので、外部の舞台に立ったとき
即四季出身と判る独特な匂いがある。宝塚調と言われるのとよく似ている。


光枝もやはり四季を退団した人が初めて外部の舞台に出る戸惑いというものは
舞台から感じられた。

いみじくも大阪公演の劇場で場当たりの舞台稽古で、皆私服で稽古なので驚いたと、
四季だとそんな事は考えられないことだろう。

舞台での演技にしても彼にとっては従来考えられない舞台つくりに遭遇した事だと思う。
しかし本来の光枝の風貌味は存在していたし、逆に四季の舞台で表現し得なかった
別の部分が今回の舞台で感じられたのは、やはりいかに舞台は自由にその役者が
表現しないといけないかと言う事を如実に感じた。


座長の黒柳徹子は今回の舞台を見た限りでは、影の主役でその存在価値をちらりちらりと
見せるところに芝居の魅力が存在する付加価値が出るような感じを受けた。

自身が総てをこなすのではなく、一種のチラリズムだ。

ルーマーズの舞台はどたばたの繋ぎが所々でほころび最終的に如何なる締めになるかと
心配したが、そこが舞台の面白さで最後に出てきた警官役の松井範雄が総ての雰囲気を
締めくくり舞台の流れを一つにして盛り上げてたのは驚いた。

更に驚いたのはその松井警官役の横で婦人警官で出ていた梶原美樹だ。
警察無線を聞いての一言台詞と其れ風の演技に、わずかの役だがきりりと締り
その場を緊張させたのは仰天した。

芝居とはこんなものでいかに個性をだして自分を見せ
その場を其れ風に感じさせるかという事だ。


光枝も四季から新天地を求め今まで隠されていた味が今までのものの上に
更に積み重ねられていくだろうし、其れが楽しみだ。
今回の舞台でも最後辺りの場面の一言の台詞で本来の光枝の持ち味が
生かされたところがあったのも舞台芝居の妙味といえる。

芝居に関しては装置を逆発想で舞台いっぱいでなく、上下小さめにした方が
電話の場面や
台所に行く場面など、裾の芝居の進行が客には親切だったと思う。
そうでないとテニスの試合みたいに左右に首をふらないといけない。

各人の芝居が一つの芯、軸を中心に肉つけされていくといいのだが、
そこが各人各様に芝居をするので、統一性にかけた嫌いがある。
互いの連携プレイが不足なのだ。

それが何か舞台を見ていて消化不良的気持ちを抱く原因かもしれない。
所謂捨て台詞がそれぞれの台詞の間に存在すると良かったのではないだろうか?

キャッツのグロールタイガーの台詞ではないが、世間の今の役者は芸も無ければ技も無い
本当の芸を見たいか見せてやろうかという台詞が、光枝の舞台姿に重なってきた。

 観劇 2006114日午後2時公演 シアタードラマシテイ席 628番 ちゅー太

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