[リトルプリンス]



演出 ワームホールプロジェクト 
エクゼクテイブプロデユーサー・クリエーテイブデイレクター相川レイ子
音楽 高田浩 金子浩介 山口誘也 振り付上島雪夫 美術 朝倉 摂
衣装 朝倉 摂 原まさみ 照明 山口暁


アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの原作「リトル プリンス」星の王子さまという食材を
音楽座というシェフがいかに美味なフルコースに作り上げるか興味があった。

舞台は紗の幕が緞帳代わりに、明かりが入るとその向こう側には砂漠が広がっている、
四角のますで階段風に作られた装置の上に布をかぶせて砂漠風に見せている。
時にはその布を取り去り違う場面にしたり、紗幕を利用して舞台一面星空にしたり、
舞台に幻想的ムードを其れ風に作り出しているのは朝倉摂の装置でさすがのつくりと納得した。

砂漠に不時着した飛行士が金髪の王子に出会うのだが、
この大切な場面での王子の出が余りにも普通すぎてがっかりした。

これぞ此処に必要なのはフェアリー妖精的雰囲気なのだ。
よく言う宝塚歌劇の夢を売る妖精でなければ、物語はリトルプリンスにならないのだ。
野田久美子の王子は一人よがりすぎた、自分が王子だという思い込みが強すぎたのだ。
芝居の創り方に勘違いしたのかな?王子には気品、妖精的なもの
観客を不思議な感じにさせるキャラクターが必要なのだ。其れを演じてこそ役者だ。

何か元劇団四季の芝居の処方箋がそのまま効いていると言う感じだ。
裸の王様に出てくる子供の感じとかそんな子役のつくりだ。
飛行士との出会いは劇的でなければその先に話は流れていかない。
自分の個性<個人的>を引き出し表現過ぎたのか?
それが『僕」と言う台詞を言うのに適合すると思ったのかもしれないが
それであれば勘違いだ。

このような芝居は全体の流れが大切で、王子がその総てのハンドリングを握っているのだ。
つまりよく言う舞台の空気を操る重要なカナメなのだ。
今回はそこが途絶えて流れが断続的になるのが残念、
これはある部分演出にも責任はあるだろう。

王子の張り切りすぎ?髪型ももう一つだ。おでこが出すぎていた感がある。
金髪でなく白髪の感じだ。何回も言うが芝居には其れ風が大切なのだ。

今回の一つの見所は秋本みな子がバラの花という役をどう演じるかだった。
秋本はキャッツの大阪公演のときオーデイションで劇団四季に入り
その時から彼女の舞台を見ている。
本来秋本は表に出れる実力がありすぎて?どうしても脇で占める重要部分で
演じる事が多く見受けた。
其れだけに充分な場数は経験している役者だ。

その数々の役を演じてきた秋本が今音楽座の舞台に立つ、
そこで見せてくれる芝居に興味津々だ。
秋本が出てきて歌い始めた時、血の通っている人間を感じたので安心した。
過去には自分を出しての舞台というものが無かったからだ。
今回は作られた役者でなく自分で演じている役者だったからだ。

そして一回り大きく成長した感があり風貌が身に着いている、それは過去に演じた舞台で
身についたものが今自然の中で開花、遅咲き?したのだろう。
進化できる役者とはこのようなものかと、思わず頷いてしまった。そして安堵した。
歌い方、芝居の仕方、台詞の言い方、過去を払拭して生まれ変わった?
一枚皮がはがれたと言う方がいいかもしれない
劇団四季の呪縛はとうの昔に解けていたのだろう。
これも自然を重視する音楽座ならではの物かなとも考えた。

リトルプリンスの見所はこの装置にありで、何気ないシンプルな装置が
観客に変な重圧感を与えないからいい。
少なくとも装置が星の王子さまの雰囲気を観客に与えてくれた。

衣装もシンプルながら色違いでコントラストをつけたのも良かったのではないか。

振り付けはもう少し幻想的雰囲気が踊の中で欲しい、舞台を全面遣い入り乱れる感じの中から
妖精的なもの、現実的なものを表現してほしいと感じた。
宝塚で振り付けしている人だけに、宝塚で見られる振りもあるが、所謂宝塚の生徒も
装置という考えの後ろで揺れているだけの雰囲気作りもあっても良かったのではないだろうか?
いろいろ冒険できるのは音楽座だけしかないのだから。

へびを演じた森川治朗は見せる踊で不思議?妖精的なものを出していた。
逆さでバーにつかまり出てくる場面で思わずラスベガスで公演している、カーを思いだした。
バーから更に上に行きそこからロープで下に落ちる演技でもと勝手に想像した。
ダンスのリズムも体の保ち方も充分で表現する感じも自分の表現が出来ていた。
心で踊ってくれると更に素晴らしいダンサーになるのではないだろうか。

金髪の王子はこうした出会いの相手を上手く受けて処理していく、
そこでそれぞれの魅力を引き出して観客に見せていく、それが芝居なのだろう。
舞台の上ではフィクションを其れ風に演じ見せてこそ初めて舞台芸術が生まれる。
だから舞台は総合芸術なのだ。

個々に出てくる実業家、狸,うぬぼれ、点灯屋、地質学者などはもう少しメリハリが利き
独立して見せてくれると更なる印象が違ったのではないだろうか?扱い方に惜しい気がした。

この際、保坂知寿を音楽座の舞台に引き出して今や昔になった昭和のミュージカルを
作り上げてくれると本当の日本のミュージカルが生まれるのではないだろうか?
常々思うのは日本経済新聞の私の履歴書の阿久 悠の話をミュージカルに仕立て上げると、
昭和の時代の総てがもらされた音楽劇になると思っている。

今の日本の中でなんだかんだといいつつ、音楽座が頑張らないと
この世界も成長が無いのではないだろうか?

観劇 2006年12月17日13時公演 兵庫県立芸術文化センター K-13 ちゅー太



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