劇団四季公演 ミュージカル「ノートルダムの鐘」東京公演 四季劇場 秋


ディズニーのミュージカルと聞けばファンタジックで「美女と野獣」や「アラジン」を思いうかべるが、
この「ノートルダムの鐘」は全く違う。

プレスリリースによれば、演出のスコット・シュワルツが3つの視点を提案したという。
一つは、作品から受ける印象を、ユーゴーの小説が持つシリアスな方向性へと寄せていくこと。
二つ目は登場人物の心理や関係性を単純化せず、原作が持つ複雑で多層的な心理ドラマの流れを尊重する事。
三つ目は楽曲を作品の柱に据え、その要素を前面に押し出すこと。

舞台を見ると、緞帳は上がったままで、舞台装置を見た瞬間、
劇団四季の創立当時の舞台装置家の金森 馨さんの装置かと思わすシンメトリーの装置だ。

舞台上には、聖歌隊を備えて、舞台での重要な役割をはたしていく。
物語はノートルダムに住む鐘つき男カジモドを演じる海宝直人、ノートルダムの大助祭フロロー役の芝 清道、
大聖堂の警備隊長清水大星の三人がジプシー女エスメラルダを演じる岡村美南をめぐる愛憎劇
四人による心理ドラマという方が正解かもしれない。

冒頭の場面から、かつてアヌイ、ジロドウの作品を演じてきた劇団四季の世界へ舞い戻ったのではないかと
錯覚させる雰囲気で、これがディズニーの舞台かと思わせるほどシリアス。

一幕では冒頭のフロローの台詞から始まり、カジモドの存在までを演じ切らないといけないだけに、
かなりの重圧を客席では感じられた。

そして、生まれ育ったのがカジモド、せむし男に舞台上で変身する辺りは一人芝居の舞台を思わせ見事。
そこから激しい心と心のぶつけ合いが始まるだけに、その心理ドラマについて行くのが、
かなりの抵抗を感じさせる。

片や、演者はこうした心理ドラマを演じながらアラン・メンケンの曲を歌いあげていくのだが
その台詞から歌への流れの作り方が提案の楽曲を作品の柱に据え前面に押し出すこととあるだけに
心理劇と歌との板挟みたいなものを、つまり心理劇の余韻を味わう間もなく歌へという
この辺りは、何かゆとりというか空間が欲しい気がした。

芝の演じるフロローは冷酷無比の中に、いくばくかのジプシー女のエスメラルダへの思いが漂い、
ノートルダムの鐘だけを鳴らしてどじ込められていたカジモドは、初めて塔をを抜け出して
醜い仮装を決める祭りで踊るエスメラルダに情を感じるが、
民衆はカジモドの容姿が仮装でない事を知り罵声を、
それに対してエスメラルダは責任を感じながらカジモドに接するところから愛を感じていく。

このあたりも、台詞、歌そして聖歌隊が入り混じって來るだけに、いささか考えさせら
そこにエスメラルダに警備隊長のフィーバスも好意を持つという複雑な舞台展開になっていく。

一幕では二幕で演じられる部分の説明をしていかないといけないだけに、男性、女性の聖歌隊が
物語の部分部分の説明をしていくという重要な役割を担っている。

特にカジモドは、心理劇を演じながらダイナミックな歌も歌わないといけないだけに、
日経新聞の文化往来に、「稽古のたびに精も魂もつきはてた」と書かれている通り
一気に演じ切るという舞台だけに、正にそのとおりだろう。

しかし、海宝はこの難役を見事に、こなしているのには驚いた。
どれだけの稽古でこの役を理解し、演じる流れを身に着けたのか、
その演じ方、表現の仕方、歌、彼の演じるリズムと流れが無かったら、
この愛をめぐる心理劇は成立しなかったのではないだろうか?

芝のフロローは、無音的、無表情的な表現で演じていたが、
これは芝の持つ個性が上手く生きたのではないだろうか。

エスメラルダの岡村はウエストサイド物語で初めて見たが、かつての劇団四季の役者が
持ち合わせていた独特の個性で演じるところが魅力だが、
エスメラルダでは魅せられるだけの彼女の味が出しきれてない様に感じた。

フィーバスの清水は、色合いの出し方が難しい役だけにいささか遠慮気味に演じていたのか、
しかし、それが四人の中でのバランスに通じていたのかもしれない。

日本語台本と訳詩を担当した高橋知伽江さんは曲の長さと英文の歌詞を日本語に移し変える
言葉の表現語数では知り尽くしている方だけに、苦労したと感じる。

ファンタジックから一転して重厚なミュージカルと言えども心理劇だ。
この演目を選んだことは劇団四季としては、いつもながらの楽しい演目ばかりしていては、
未来に繋がらないと感じたのだろうか?

プログラムには吉田社長が「深い人間ドラマが描かれている。完成度の高い楽曲、シアトリカルで
シンボリックな演出の観点から劇団四季のレパートリーになると感じた」と書いている。

かつて劇団四季が公演した「ひばり」とか「トロイ戦争は起こらない」のような舞台劇に目を転じた事は
一つのターニングポイントかなと思ったりした。

しかし、そこには「オペラ座の怪人」のような日本人が好む演歌調涙を呼ぶ雰囲気はないのだ。

ただ、見ていて一幕が二幕への説明分部が多いだけに、いささか重過ぎる気がした。
もう少し、整理できる所は整理する必要があるのではないだろうか?

それと同時に、この「ノートルダムの鐘」で、どれほどの純粋演劇ファンが開拓あるいは存在しているか?
あるいは、このような舞台つくりが日本人に合うのだろうか?
いろいろな部分を考えさせられる作j品だ。

ただ、昔の劇団四季が公演した舞台を見ているものには、エスメラルダが火あぶりなる所は、
アヌイの「ひばり」を想いだしたりした。

部分的には歌舞伎の幕のj引き落としとか、工夫をこらしているが、
やはりもう少しシリアスな舞台を作りたい気持ちはわかるが、芸術が先走り過ぎた感が無きにしも非ずだ。

一番の問題はカジモドを演じる役者が変われば、カジモドのキャラクターも変わるだろうという恐れだ。
いろいろのカジモドが出て来ると困る舞台になるのではないだろうか?

正に大人向け、演劇愛好者向けの舞台だけに客層の開発にも一考を要する作品だ。
変革を求める劇団四季の力の見せどころの舞台だ。


観劇 2016年12月11日 四季劇場 秋 13時開演 7列5番 ちゅー太



           劇団四季公演  ミュージカル 「ノートルダムの鐘」 京都劇場公演


2016年12月11日劇団四季 秋劇場で、ミュージカル「ノートルダムの鐘」初日を観劇した時の劇評は、
上記を読んで頂ければお判り頂けると思う。

そして2017年7月23日京都劇場で劇団四季公演のミュージカル「ノートルダムの鐘」を観劇した。
この日の配役は東京公演でカジモトを海宝直人が演じたが京都公演では飯田達郎が演じた以外は
主要配役は変わっていない。

京都公演で言えることは、東京公演では初日という事もあるだろうが演者の全てに句読句点がなく
台詞の流れに「」閉じの、メリハリがなかったが京都公演では、それが総て明確に表現され、
見違える素晴らしい舞台に変身していたのだ。

物語の進行役ともいうコロス全員が、自身の立ち位置を明確に理解して、演じているため
その役どころが観客に鮮明に理解させたことが物語の進行に大きく寄与している事が
大きい成果だ。

次に鮮明さを舞台で表してきたのは、フロロー<芝 清道>とカジモド<飯田達郎>の関係、
フロローとカジモドとフィーバス<清水大星>とエスメラルダ<岡村美南>との四角関係が
各演者が明確に理解しきって演じているので、そのメリハリが見ている方に素直に理解できる事だ。

ここで、初めて、このビクトル・ユゴーの描く、15世紀末のパリのノートルダム大聖堂の
鐘楼に住むカジモド、大聖堂大助祭フロロ―、警備隊長フィーバス、
そして3人が愛してしまうジプシー娘のエスメラルダとの愛の物語が
抒情詩的なイマジネーションを舞台から感じる事が出来た。

フロロー役の芝 清道は善の仮面をかぶりながら悪をちらつかせるのだが、
部分部分で、正面切ってその悪さを善人そうに見せる中から表情的に表現してくれると、
もっとアクのある人物を演じられたのではないだろうか?
出来る事なら片岡仁左衛門の悪の演技を想像しえ欲しい。
そうしたら更なる四角関係の一角として舞台に強力なものが生まれたと思う。

カジモド役の飯田達朗は東京公演で見た海宝と比較するわけではないが、
冒頭の出で一瞬にして醜い男に変身するのだが、その瞬間に観客に与えるメリハリが弱く
折角の見せ場のインパクトが弱くなってしまった事、
それが最後に普通の男い変わる所に繋がるからだ。
飯田カジモドを演じているのだが、その個性の出し方がもうひと踏ん張りして欲しい感じだ。

フィーバス役の清水大星は本来的には恋するエスメラルダに対しても
カジモドを追い抜くような色男的な個性をもっと見せてくれたら、
最後の台詞で出てくるカジモドとエスメラルダの二人の死の台詞が
更に強力に観客に伝えれたのではないだろうか?

エスメラルダ役の岡村美南は3人の男に対しての心の中で投げかける愛の強弱を
もう少し明確に表現してくれると、後のカジモドへの美と醜の中に感じさせられる
美しさというものが増幅されたのでは?
それでも京都公演では3人の男を前面に出しながら自分の魅力を抑えながら演じていた舞台は、
はじめに書いた通りメリハリがしっかりしており、バランスのいい舞台と感じた。

此れほど初演から年月?を経て、演者の努力で音楽といい台詞といい、
総てが目が醒めるような素晴らしい、劇団四季らしい<ストレート プレイを見ているような>
舞台に成長するかと思うと、如何に演者の個性や努力が大切かを、
そしてやはり舞台は生き物だという事を再認識させてくれた公演だった。
起承転結見事な公演、
ミュージカル「ノートルダムの鐘」だ。

 
   観劇 2017年7月23日 京都劇場 13時開演 1階 Q列 7番  ちゅー太



             「 再び ノートルダムの鐘 京都公演 観劇 」  


            ★ フロロー役・野中万寿夫 ★カジモド役・飯田達郎
               
                ★ エスメラルダ役・宮田 愛
           
             ★フィーバス役・佐久間 仁  ★クロパン役・吉賀陶馬ワイズ


 一つの同じ芝居の同じ役を、演じる人で、此れだけ舞台の雰囲気が変わるのかというのを
 フロロー演じる、野中万寿夫さんが感じさせてくれた。

 それは冒頭の出からだ。自然体で舞台にフロローを演じているのだ。何のつくりも鼓脹も
 ない、まったくの自然体で役に入り込んでいるのだ。

 片や、以前にフロローを演じた芝さんはフロローを見せようとして舞台に現れる、そこから
 同じ芝居でも全く雰囲気の違うノートルダムの鐘の物語がはじまる。
 舞台は生き物というが、まさにその通りだ。

 カジモドはじめ、総ての相手役に対する野中さんの芝居の全てが何の鼓脹もなく、
 得意淡然 失意泰然そんな気持ちで演じているのかと思わされた。

 此処で思い起こすのが、亡くなった日下武史さんの事を、此れも亡き藤野節子さんが
 良く話した言葉「日下さんと芝居をすると、そこんところ、そうされると演りにくいんだなあ、
 こうしてくれな?と言えるところが良いんです」

 舞台芝居に限らず演じるむずかしさは、また、いい芝居が生まれるのは、
 この言葉ではないだろうか?

 今回のフロロー演じる野中万寿夫さんは、こんな気持ちを持ちながらカジモドと
 対したのではないかと感じた。
 物語はフロロー、カジモド、フィーバスがエスメラルダを巡る美と醜、愛と欲、善と悪の
 キャラクターを演じるのだが、それぞれの演者が静で演じるか,動で演じるかで
 かなり変わってくるのだ。

 フロロー演じる野中さんは静で演じているため、静かなる芝居の中からフロローの
 人物像が浮かび上がってきた。
 その為、カジモド演じる飯田達郎さんは、自分のペースで舞台を勤めることが出来た
 のではないだろうか?カジモドが自分のものになってきているからだ。

 エスメラルダを演じている宮田 愛さんは3人の男に対してのこころの表現が
 不足している。
 カジモドが初めてお祭りで世間に出た時、いたわる場面があるが、此処で
 カジモドに片手で水を飲ませる場面がるが、これは両手で飲ませるか、片手で
 飲ませても左手でカジモドの体を優しくなでるというような芝居をしてくれると
 後半のカジモドに対する心の愛の伏線になるのではないか。

 その様な、細かい芝居に気配りを持つと更なる良い舞台になると共に
 最後のカジモドの台詞がさらに生きてエスメラルダの姿が浮かび上がる。


 そこで亡き藤野節子さんの言葉を思い出してほしい。どうしても自分の範囲内での
 芝居をしようとする、自分一人の演技では芝居は生まれてこないのだ。
 エスメラルダはそれなりの癖が欲しいのだが、クレージーフォーユーの
 ポリーと同じように一人でまとめ上げてしまう。
 
 折角の未来の個性を持ちながら、相手の芝居を受け、与える双方向で舞台を
 務める事を願いたい。

 フィーバスを演じる佐久間 仁さんは、自分の芝居を客席に見せようと言う雰囲気が
 見えていた。
 見せたい気持ちは良く判るがいずれ見たいと言う客が来るまでじっと我慢の
 芝居が大切 だろう。

 いずれにしても野中さんのフロローが静の演技で舞台は進行するだけに、
 すべての場面でのフロローの悪の姿が、あぶり出しの様に観客に伝わって
 来るのが不思議だ。

 一つだけ野中さんに注文をというと亡き日下武史さんがうるさく言っていた
 「ガ行」の発音をもう少し明確にしてくれると、台詞の流れが素晴らしいものに
 なるのではないだろうか?

 60余年続いてきた劇団四季は、過去からの財産である芸の力を誰かが
 引き継いでいかないといけない使命もあるのではないだろうか。
 
 もう一つ、クロパン演じたワイスさん、静の舞台の中で一人、間のいい動の芝居を
 演じた事は舞台の流れを切らさずに良かった。

 よく言われる「盗んで罪ならないのは芸だけ」が死語になら何様にしたい。

   観劇 2017年9月8日 京都劇場 13時30分公演  <ちゅー太>





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