「懐かしき時代の追憶にふける」    

〜サイン帳から〜

       宮田 達夫    2017年9月

 

 懐かしき時代とは何時の事を言うのだろうか? 
生まれて記憶が持てるようになった時からだろうか? 
昭和11年の初めごろには海水浴と言うと
静岡の沼津の海岸が思い浮かぶ。
幼児の頃だ。夏に家族で過ごした所だ。
沼津海浜ホテルという洒落たホテルがあった。

 やがて大東亜戦争や太平洋戦争がはじまり、
昭和19年国民学校1年生で個人疎開を、
東京市民疎開第一号に。そして幸せにも東京他の大空襲も
知らないままに終戦を迎えた。

 米国の進駐軍に家を接収されるかもという事で、東京の田園調布の家を引き払い、
神奈川県の小田原に引っ越した。
ここで小学5年生の私は当時日本の鉄道は進駐軍のRTO管轄の中、
小田原駅午前6時5分発の普通列車で品川駅まで、
ここで乗り換えて市電で天現寺まで通学。
帰途も品川駅から当時は客車の最後尾に有蓋貨車一両が連結されていた。
客車の車両が不足していたのだろう。

 この頃は湘南地方に東京都心から移り住んでいた学友が多々住んでおり、
帰途は賑やかな車中に。
中には客席の肘掛けに背負っているランドセルを紐で秘かにしばりつけて、
いざ下車しようとしたら降りられないという悪戯も今思えば愉快な話だ。
客車に有蓋貨車連結の時代から、えんじ色とグリーンのツートンカラーの
湘南電車が誕生、話題を呼んだ。


 小学校を卒業という時、先生方にサインをもらったのが
サイン収集の始まりだったかもしれない。

 

そして、箱根の芦ノ湖畔にある箱根ホテルで高校生の時
初めにアルバイトをすることに、
詰襟の白のボーイ服を着てホール、玄関、バー、レストランを担当した。

ここでお客からチップを貰う経験を初めて体験。
当時は進駐軍の客も多く彼らは10円玉5個の円玉のチップを、
日本人の一寸した人は100円札を小さく折りたたんで慣れた手つきで、
こちらの手のひらにチップの紙幣が滑り込んでいた。

歌謡曲の歌手の小畑 実夫妻が新婚旅行で、
華道の勅使河原宏と小林トシ子が新婚旅行で、
池部 良は一人でよく泊まりに来ていた。
フロントのチーフが池部 良から電話が掛かると「いけばわかるでしょう」と、
洒落のつもりで話していた。

ホテルの庭で池部良と写真を撮りサインをサイン帳へ。
映画の『居酒屋兆治』で池部 良をスクリーンで見た時は
懐かしい記憶が蘇った。

西本願寺の門主が家族で、花柳小菊、当時噂では誰か偉い人の
お妾さんと聞いていたが、あまり興味はなかったが小さい娘さんが一緒だった。
皆さん、静かな湖畔のホテルで楽しんでいたのが印象的だった。

そういえば、「あじゃぱー」でお馴染みだった伴 順三郎〈ばんじゅん〉、
田畑義夫〈オース〉、作曲・指揮者の山田耕作も、サイン帳がないときで
ホテルのメニューの裏にサインをもらった。



 
山田耕作(作曲家)           伴 淳三郎(俳優)  田端義夫(歌手)


ホテルのボーイなら食事も良いかと思いきや、朝食はパンと玉ねぎのみそ汁とトマト、
夜は調理で残ったものという粗末なもので、考えてみると食糧難の時代、
美味なものが食べられるはずがない。ホテルのバーテンがカクテルの作り方を
教えてくれたことと、洋酒の種類を覚えたことが最大の収穫だった。

 ここでの経験で、ホテルのロビーは自由に使えるという事を知り、
日比谷に日活ホテルが出来た時、友人との待ち合わせにホテルの8階にある
ロビーを使った。今のペニンシュラホテルだ。

ここで出会ったのが映画俳優のグレン・フォードだった。
早々にブロマイドにサインをもらった。
Will you please sign for me」と。
ジェームス・スチュワートが夫妻で来日した時は帝国ホテルで
夫妻からサインをもらった。

今と違い、すぐにサインはもらえた。
ヴァイオリニストのダビ・オイストラフ、バレエのノラ・ケイ、
アントニー・チューダ、パントマイムのマルセル・マルソー、
ボクシングの白井義男、カーン博士、フラッシュ・エロルデ、エスピノサ兄弟、
オペラ歌手の四谷文子、大谷礼子、指揮者のマンフレド・グルリット
今にしてみれば貴重品と言える方々のサインばかりだ。



 
アントニー・チューダ(バレリーナ)     ノラ・ケイ(バレリーナ)


  
マンフレッド・グルリト(指揮者)   マルセル・マルソウ(パントマイム)  岩谷時子(作詞家)


   
ダビー・オイストラフ(バイオリニスト)    タリアビーニ(テノール歌手) 大谷例子(オペラ歌手)


 
ジェームス・スチュアート(俳優)        四谷文子(オペラ歌手)


 
白井義男(ボクシング)     カーン博士(トレーナー)


 
ボニー・エスピノサ(ボクシング)        レオ・エスピノサ(ボクシング)


サイン帳には時が進むと共にサイン帳を埋める人たちも変わってきた。
自分の趣味に関係する人へと。

 

1954年(昭和29年)5月3日東京の第一生命ホールで
牛原虚彦監督の無声映画を上映する機会があり、弁士を徳川夢声が演じた。

この時ロビーで二人に出会いサインを。
徳川夢声のサインは見事な達筆、朗々と喋る口調が文字に似ている気がした。
その頃、徳川夢声はラジオで宮本武蔵を朗読していた。
独特の喋口調で聞いているだけで映画を見ているようなイマジネーションが
湧いてくる朗読だった。

サイン帳に書く年号が興味深い。映画監督の牛原虚彦のサインは
正に大監督という風格を感じさせるとともに、年号に二人の相違を感じた。
牛原監督57歳の時のサインだ。

今考えると映画の初期の大監督に会えたということは、
何にも代えがたい貴重な瞬間だった。

劇場が少ないころに六本木に俳優座劇場が出来た。公演を見た後は楽屋へ
勝手にお邪魔した。
今考えると不思議だが、楽屋へ行く客はそう見当たらなかった。
新劇を見るという人種が少なかったのだろう。

 

チェーホフ『イワーノフ』のジナイダーを演じた東山千栄子〈1954・8・15〉、
イワーノフは永井智雄。シャベリスキーは東野栄次郎、
サインを求めると皆気さくなおじさんとおばさんだった。

サインが終わると、隣は誰々だよと教えてくれた。


  
徳川夢声(弁士)        牛原虚彦(映画監督)      丹阿弥谷津子(文学座)


  
東山千栄子(俳優座)     岸 輝子(俳優座)       千田是也(演出家)

 

文学座でテネシー・ウイリアムスの『欲望という名の電車』を見た時は、
アメリカの芝居というので興奮した記憶がある。
ブランシェは杉村春子、スタンレイは北村和夫、ステラは文野朋子、
ハロルドは仲谷 昇、三津田 健、日塔智子、宮口清二という
そうそうたる顔ぶれで神山 繁が声だけの出演。

当時は、出演者全員が外国の役者の様に見えたのが不思議だった。
文野朋子とはその後、私が仲間と創った劇団21世紀の公演プログラムに
書いてもらったり手紙のやり取りもした。

大阪の毎日ホールで杉村春子の『女の一生』を見た時、
座っていて立ち上がり歩いて行く後ろ姿に色気を感じさすのには驚いた。
芝居は表だけでなく裏の芝居も大切だと。



 
杉村春子(文学座)        北村和夫(文学座)


 
文野朋子(文学座)       中谷 昇(文学座)

1956年8月にはジャン・アヌイ作、久保田万太郎演出で
三回目の文学座、民芸、俳優座合同公演で『城への招待』五幕を
上演しているから面白い。

出演者は仲谷 昇、細川ちか子、岸田今日子。永井智雄、齋藤美和、他と
そうそうたる顔ぶれだった。公演は東横ホールだった。

プログラムに載っている座談会で久保田万太郎は
「今度の公演にあたらしい意義を見出すとしたら、
まあ、こんな風に考えているんですよ。
只、有名な人を集めて芝居をするのではなく適役を集めて、
その技術交流によって、そこに新風をうまれさす・・・」と。

細川ちか子と言えば藤山愛一郎との間に生まれた息子が同級生で、
なかなかのハンサムだったので、劇団21世紀の創設当時、
役者をしないかと手紙を出した。

1957年(昭和32年)3月2日の消印の
藤山一比古からの手紙の返事の一部を紹介しよう。

「略、それから芝居の事ですけど、やはり僕としてはお断りした方が
いいと思います。
僕としては君達の期待に応えられるだけの自信というものが
全くありません。
演技というもの、のみならずあらゆる面に於いて。
それにもっともいけない事は、この芝居の上演に僕には君たちほどの
熱意がないという事です。

僕には君達ほどの芝居に対する野心と情熱というものがあれば
文句なく君達の申し出を受けるでしょうし演技の未熟な点も
この情熱で補っていけるでしょう。
しかし残念なことには僕には芝居に対するそれらがあまりありません。

勿論、芝居は好きですが鑑賞の面だけであって実際の場合になると別です。
芝居に一心に打ちこんでいる人々の中に僕みたいな中途半端なものが
入って来ては、うまくいかないという事は分かりきっている事です。
僕がいなくても劇の進行に支障をきたすという事は
決してそんな事はありますまい。

他に適当な人が必ず君たちの仲間にいるはずです。
よろしく僕の気持をおくみ取り下さい。略」

藤山は役者になっていたらと思うと惜しかったという気持ちが強い。
代わりに見出したのが武藤兵吉〈石阪浩二〉だった。

「夏と煙」という、テネシー・ウイリアムスの作品を一ツ橋講堂で上演した時
主役をしてもらった。まだ彼は大学生だった。

細川ちか子が瀧沢修とゴッホの芝居の炎の人というのを演じた時の
細川ちか子の舞台は強烈だった。
藤山一比古を家に訪ねた時、これから撮影に行くと言う
母親の細川ちか子に会ったが
サインをとは言えなかった。今考えると残念至極の気持だ。



 
瀧沢 修(民芸)           宇野重吉(民芸)


 
小夜福子(民芸)          日野道夫(民芸)


信濃町の文学座のアトリエ公演にもよく足を運んだ。
矢代静一の戯曲の舞台を観に、後に彼の娘の毬谷友子が宝塚歌劇団に入団。
後に新人公演で『風と共に去りぬ』のスカーレットを演じたのも面白い。

杉村春子は後に毎日放送主催の近鉄劇場で『流れる』の公演の時、
出演していた山田五十鈴と杉村春子の二人と写真を撮らないと
生涯その機会はないと思い、楽屋で三人で撮った。
この時、何故か二人のサインはもらわなかった。

 

岸田國士の『牛山ホテル』の時は中村伸郎、三津田健〈1954年7月〉、
1955年5月東横ホールで文学座公演の『ハムレット』を見た時は、
ハムレット役の芥川比呂志、彼に関しては最近、若い人が
芥川の芝居は今見たら外国の役者が芝居をしていると見間違うのではと
話していたが、まさにその通りで、当時でもその風貌を舞台から感じた。

ガートルード杉村春子、オフィーリア文野朋子、ボローニアス中村伸郎で、
その時バーナード役の小瀬格〈愛称・格さん〉が、
その後、蜷川幸雄のシアタードラマシティで『王女メディア』を公演した時
クレオン役で出演、何十年ぶりかで再会を果たした。

東横ホールでのハムレット公演の時には、小瀬 格とは友人だったお蔭で
舞台稽古が見られた記憶がある。

『王女メディア』の公演の後、格さんは「俺だけだな、宮田と呼べるのは」と言い
懐かしく東急ホテルのバーでバーボンウイスキーを飲んだ。
彼とはそれが最後で間もなく亡くなったという、
知らせのはがきを夫人から送られてきた。


        







 

 

『王女メディア』に出演した嵐 徳三郎は
学士歌舞伎役者として歌舞伎の世界に入った人だ。
手紙のやり取りを何回かしたがその後亡くなった。

 

関西の放送局に就職、当時、消滅寸前の時代の上方落語の桂米朝さんと知り合い
手紙のやり取りをしていた時もあり。
1970年には大阪万博があり、堀田庄三副会長とも
親しく取材のお付き合いをお願いした。

その後、花博があり花博の会場で初めておハイビジョン撮影の為
池坊次期家元に花を活けるのをお願いした。

裏千家は作家の陳舜臣さんと親しく、そんなことで陳さんが療養で
ハワイに行く時ご一緒して、ブレーカースホテルでお会いした。

 

蜷川幸雄を初めてインタビューしたのは、大阪の道頓堀にあった
朝日座で『王女メディア』を平幹二郎、太地喜和子出演でしたときだ。
後に嵐徳三郎も平の役を演じた。

後年、毎日放送主催で蜷川幸雄演出の『王女メディア』『にごり江』
『近松心中物語』を近鉄劇場で公演した。
『にごり江』の公演には名取裕子が出演した。
近松心中物語の公演直前に、阪神淡路大震災が発生、切符も売れず困惑していた時
思いつきで、出演者の中心的な役者さんに色紙にサインを、それを
劇場のロビーで役者さんに売ってもらった。

関西のおばちゃんの観客に受けた。

近松心中物語を、蜷川演出で近鉄劇場で公演には
亡くなった坂東八十助、
舞台は、ではじめの寺島しのぶが、
後に大輪を開いた。

当時、徳三郎と同期の大卒で歌舞伎役者になった人で市川箱登羅。
二代目中村鴈治郎の弟子になり苦労して最後は借金して自分で歌舞伎公演を中座でしたが、
又、借金を背負い警備員をしていたが、その後は・・・。

 

名取裕子は阪神淡路大震災の時、私を心配してくれて
数か月後東京で再会、下着を沢山持ってきてくれた。
暖かい人だとつくづく感じた。

余談だが震災22年目にあの時のお礼と思い名取裕子に
お礼の品物を送ると葉書が来た。

「かたつむりパックどっさり有難うございます。
あれから22年もたったんですね。
宮田さんがお手紙に書いて下さった事、ありがたく思います。
これからも皆で支えあって大人としてやるべきことをしないといけませんね。
ずっと師でいてくださいませ!感謝」

〈1951年7月〉日劇ではトニー谷、市村俊之〈ブーちゃん〉、
柳沢真一、忘れられない芸人。
〈1954年7月〉、帝劇で民芸の『セールスマンの死』を見ると、
ビフ・ローマンを演じた宇野重吉、ウイリー・ローマンを演じた瀧沢修、
ボーイを演じた日野道夫、リンダ役の小夜福子〈1954年4月〉。
瀧沢、宇野共に似顔絵付のサインだ。

新劇の花盛りの時、こんな芝居があるのかと感激、終演後、滝沢修と
宇野重吉の楽屋に飛んで行った記憶がある。
役者の舞台の姿と楽屋での素の姿を初めてこの時見た。



 

文学座の『どん底』を神田の一ツ橋講堂での公演では、
舞台稽古中に岸田国士にサイン帳にサインを求めた。

その直後、岸田國士が倒れ、ロビーのソファーに横たわる岸田國士の
横で岸田今日子が泣き崩れていたのが、今でも目の前に浮かんでくる。

後に知ったのだが体調が不調なのに神西 清に頼まれ無理して
演出することに。
当時は神田一ツ橋講堂が新劇のメッカだった。それほど劇場が無かった。
そのとき神西 清がサイン帳に「どん底乃唄より春乃芽生哉」とサインを。

そうだ、久保田万太郎のサインは体に似て小さな字体だが
文学座を岸田国士・岩田豊雄と作り上げた一人だ。

1954年3月のドン底の公演のプログラムに岸田国士は
「文学座三月公演はゴーロキイの。どん底ときまり、
私が演出を引き受けた。
神西 清氏の翻訳が出来上がるのを待って、稽古に入る。
毎日小田原から出てくるのは、
病後の私には大儀dから、稽古場の隣に宿をとってもらう。
配役には思い切って新人を起用したので、どんな結果になるか、
半分楽しみで、半分心配なのは致し方ない。略」

文学座は2017年に創立80年を迎えている




 
菅原 卓が1953年2月に「月蒼くして」を演出、公演した新宿劇場の
プログラムに新築豪華、山手唯一の演劇の殿堂、新宿劇場と言えいるのが面白い
翻訳ものだったが、当時は,舞台が西洋っぽく見えたのは
何故だろうか?。

マキシム・ゴーリキイ作の『どん底』の出演者は芥川比呂志、
加藤武、中村伸郎、北村和夫、小池朝雄、三津田 健、杉村春子、
賀原夏子、荒木道子、文野朋子、日塔智子という
豪華な顔ぶれだった。

翻訳は神西 清、後の演出家の戌井一郎が演出助手だった。
この時の美術助手・増山吉彦が、後に私が仲間と劇団21世紀を創り、

一ツ橋講堂で公演したテネシー・ウイリアムスの『夏と煙』の
舞台装置をお願いした方だ。もう一人、美術助手で小林絢子とあるが、
記憶ではこの女性が文学座俳優の小瀬 格を紹介してくれた。

ふり返ると中学から高校にかけては映画の方に重きをなしていたようで、
高校では文化活動として映画研究会を立ち上げて文蓮(文化活動連盟)から
わずかの援助金と部室を貰っていた。

そこで共に活動をしていたのが後に東映のシナリオライターになった
掛札昌裕だった。
彼とは、劇団21世紀も創設。
日本青年館で今井正監督の『ここに泉あり』という映画の
ロケーションがあり、私は見物かたがた観客の一人として撮影に協力した。

〈1954年10月31日〉今井正、加東大介、岡田英次、岸恵子。
岸恵子は新人時代で18歳ぐらいと記憶している。可愛かった。

 映画は群馬交響楽団の話で、その撮影の時、
何かで岡田英次が岸恵子に話しかけたら、ぷいっと横を向いてしまい、
岡田英次が「ふーん、お高いなあ」と、そのつぶやきがいまだに
脳裏に残っているのも不思議だ。
岸恵子と言えばフランスの映画監督のイブ・シャンピと結婚。
その後、別れたが、近年、フランス在住の友人から
《外人の日本人女性おたく》というのがあり、
フランス女性に見向きもされない男が日本人女性を口説きに来ると。
で結婚となるが、日常殆どお喋りが無く結局、離婚となるという話を聞いて、
なんとなくそうだったのか岸恵子も、と勝手に想像してしまった。







三国連太郎のサインは1955年2月だ。
東京撮影所で知人に連れられて撮影風景を見学に行った時だ。
後年、近鉄劇場で見た『ドレッサ―』という芝居で
ドレッサー役を演じた三国連太郎が忘れられない。

サイン帳を見ていると、その時の想い出が、
追憶が蘇ってくるから楽しい。
タイムスリップしてくれる。

芥川比呂志のサインを見ているだけで、東横ホールで演じた
彼のハムレットの姿が目の前に浮かんでくるからだ。
1955年4月、訳・演出は福田恒存だった。
演出の福田が芥川にダメ出しを、それを熱心に聞いている芥川の姿、
舞台は正に総合芸術と感じた時だ。

1955年5月のハムレットの公演プログラムに福田恒存はこう書いている。

「芝居のパンフレットに、作者の言葉や演出者のことばを
書かせられることほど辛い事はない。
舞台を観てくださいというよりほかに、なんのことばがあろうはずもない。
それに私は演出にかけては全くの素人である。
オールド・ヴィック座から盗んだハムレットの
演出ノートがなかったら、モーリス・エヴァンスの
ハムレット演出ノートが無かったら、
友人たちから提供された数々の資料がなかったら、
このシェークスピアという大物は、到底こなしきれなかったろう。略」











船橋聖一の『芸者小夏』の撮影を東宝の東京撮影所へ誰かの、
つてで見に行った時、芸者小夏役の岡田茉莉子、志村喬がロケバスに
乗っているのを見つけてのサインだった。

後年、毎日放送で大阪青年会議所共催のテレビで
年末助け合いのチャリティ番組を放送。
それを担当した時、ゲストの一人として岡田茉利子が来た。
サインをもらった時代を思い出しながら、控室に番組の内容と
出番の順を知らせに行くと「台本ないの?」と。
「すいません。こういう番組なので台本はありません」と言うと
「台本なきゃ私、出来ないわ」と。
芸者小夏の時の魅力が一度に吹っ飛んでしまった。

 

大学在学中、開局したばかりの日本テレビに魅力を感じていた。
人づてに日本テレビの夕方放送の「OK横丁に集まれ」という番組に
今で言うAD見習いみたいな形で参加した。

勿論、生放送時代で一龍斎貞鳳、藤村有弘、江戸屋猫八、三国一郎、
豆子とんぼ、ジョージ・ルイカー他で
コントバラエテイものだった。
その時、猫八さんから色紙にサインを、何故か他の人からは貰わなかった。
猫八さんに子猫さんがいたががいたが、お二人とも鬼籍へ。

この時、スポンサーの小野薬品の生コマを担当していたのが
愛川欣也さんだった。
本番中、一人黙々とスタジオを隅で生コマの用意をしていたのが
今でも思い出す。
スタッフ、キャストと全員写真を撮る時も加わらなかった。

後に有名となり彼のマネージャと会った時その話をすると、
本人にはその話はしないでと言われた。
我慢の時代だったのだろう。手元に当時彼からの年賀状がある。
「今年もどうぞよろしくお願いします」と新宿の緑風荘が住所だった。




サイン帳、色紙に残された方々は今見る、とこれほどの役者は
二度と現れないだろうという人たちばかりだ。
サイン帳の字を見ているだけで心は当時の感激が蘇ってくるから不思議だ。

劇団四季の浅利慶太が心酔した加藤道夫の作品『なよたけ』を
文学座の公演で1955年10月に大手町の産経ホールで観た。
この時、なよたけを演じたのが文学座入団まもない松下砂雅子さん、
初舞台と記憶している。
演出は芥川比呂志、美しい松下砂雅子のなよたけだった。

1994年4月に不思議なもので私が担当で毎日放送で蜷川幸雄演出の
樋口一葉原作の『にごり江』を公演した時、松下砂雅子が、もよの役で出演。
思わず「『なよたけ』を演じた松下さん?」と聞いてしまった。
39年ぶりの再会だったから。

その夜は、根岸明美、市川夏江、神保恭子らと食事をしながら、
皆さんに松下さんが演じた『なよたけ』のプログラムを披露。
「こんな時代もあったのねえ」と一夜もりあがったが、
「『なよたけ』のプログラムを、ここで見るとは」と
松下砂雅子が一番びっくりしていた。

1955年10月の公演プログラムに松下砂雅子さんはこう書いている。
「私は半年の間しか先生[加藤道夫]お会いできませんでした。が、
加藤先生は、目を閉じると初めて見ることが出来る、
あの美しい花園の園丁さんの様に思われます」

その松下砂雅子も2008年鬼籍へ。
 

歌舞伎も今考えると全盛時代?孝玉時代、片岡孝夫、玉三郎、
団十郎演じる東文章に始まり大阪道頓堀の中座が華やかな時代だ。
当時、第四世代と言われたのが勘九郎、児太郎、橋之助、
智太郎、浩太郎、孝太郎だ。橋之助は遙 くららのファンだったので
大劇場の楽屋まで連れて行った記憶がある。



 

1985年ミュージカル『キャッツ』公演を大阪でする事になり、
劇団四季とはマンツーマンの関係となった。
テント劇場、近鉄劇場、MBS劇場と、今は姿を消した劇場での公演で
大阪が湧いた時代だった。

劇団四季の芝居は、第一回公演から観ているだけに創設63年の今日、
つくづく役者を見ていると世代交代を感じさせられる。
あの初期の時代の情熱は、空気は、一体感は? 時の流れは止めようがないのだ。

日下武史、光枝明彦、藤野節子、影 万里江、
『キャッツ』で加藤敬二が現れて、久野綾希子、野村玲子、志村幸美、
八重沢真美、市村正親はじめ新鋭気鋭の役者が生まれてきた。
皆20代の若さ一杯の力で舞台は輝いていた。
勿論、浅利慶太以下スタッフも皆若い時だ。





毎日放送主催で京都のお寺で音舞台という催しもので
シンセサイザー奏者のヤニーを招いた。
その前にはフランク・シナトラ、ライザ・ミネリ、
サビーデイビス・ジュニアを招いたときのマネジャーと
偶然同じ人だったのは愉快だった。



ヤニーのファンクラブパンフレットに"
Yanni Follows Silk-Road to Perform In Kyoto"と紹介された。


 

大阪の上本町に近鉄劇場という映画館を改装して劇場に。客席800余りの
舞台の裾も狭く、それでも劇場の少ない大阪では劇団四季の公演が
常時あったため地名も知られた。

蜷川幸雄さんの芝居の公演、にごり江、近松心中物語も近鉄劇場で、
今はビルになり新歌舞伎座だ。

近鉄劇場と言えば劇団四季の加藤敬二がコーラスラインで
初舞台を迎えたところだ。
ダンサーだけに芝居の中で見せるダンスは見事だった。

劇団四季のミュージカル「李香蘭」観劇に山口淑子が来阪、
終演後、大阪ミナミの土佐という店で生けのフグをご馳走、
こんなの東京では何十万円もするわといいつつ持ち込んだシバースリーガルを
一人で1本開けたのは見事だった。




 

1976年毎日放送で夕方のワイドニュース『MBSナウ』が始まり、
宝塚歌劇の取材も他社に先駆けて始めた。
『ベルサイユのばら』の最盛期だ。榛名由梨、汀夏子、安奈淳、鳳蘭の
4本柱で宝塚歌劇は疾走していた。
そしてスターは生まれた。大地真央、麻実れい、遙 くらら、
一路真輝、涼風真世、麻路さきと。皆20代のタカラジェンヌばかりだ。

1976年(昭和51年)宝塚歌劇団の稽古場に初めてテレビ取材が入った。
そこでテレビでインタビューしたのが天津乙女だった
乙女さんにとっては初体験になった。

テレビで天津乙女さんにインタビューしたのは後にも先にも私だけかもしれない。

作家の陳舜臣さんとは神戸のポートピア博覧会以前に知り合い
その後、大晦日には二人で神戸の町で飲むの恒例となった。
著書を頂くとサインがあり脳溢血で倒れた後、しばらく右手が動かない時
サインした横に左手でという但し書きがついていた。


 

1975年、神戸でバーボンクラブというのを作った。
サロン的雰囲気のものがほしかったのだ。
石阪春生画伯はじめ筒井康隆、等々一業種一人皆新進気鋭の人ばかり、
この時、クラレの大藤亨が仲間をペン画で書いた。


新井 満、通称アラマンが才能を培ったのも神戸だろう。
彼もバーボンクラブの仲間の一人だ。

 

双子が宝塚音楽学校に入学した。珍しいと言いう事で宝塚歌劇団に入団した時から
MBSナウで取材を続けた。研七で退団、結婚した。

今や伝説的娘役と言われる遙 くらら、も取材で星組の時代から雪組の時代、
そして退団後一万人の第九コンサートに出演してもらった。



その後、神社庁の永職会という集まりでミュージカル「スサノオ」の公演を
依頼された時、遙 くららに、出演してもらう事にしたが途中で
個人的理由で実現できなかった。

今でも残念と思って居る。

ミュージカル・スサノオを無理を言い書いてもらったのは杉山義法だった。

縁は不思議なもので、その後、遙 くらら と再会、
伝説の娘役と言われる今、私は青弓社が年に2回刊行してる
宝塚イズムという本の35号に「私の魅力はおでこだったか?
伝説の娘役遙 くらら」という文を書いた。

その遙くららは、現役時代に私の白い本にこう書いている。
「宝塚 それは ひとつの おとぎの国 
温かく フワフワしている 夢の国 
地球儀 ぐるーと廻してみて 
ここが一番 すてきな国 Kurara













 

不思議なのは花組に居た娘役の水原 環だ。
現役時代は娘役で活躍し、時々気さくな人で食事をしたりしていたが
研七で寿退団。

後年、私が奈良の柳生ゴルフクラブでプレイをしたとき、
宝塚歌劇ファンのそこの総支配人と話している時、彼女の名前も偶然
話すと此処のメンバーですよと教えてくれた。

生涯会えるはずのない人と30数年ぶりで再会したのは、
大阪新町の網焼き肉で知られる店で開業医のご主人と一緒に。

彼女も私の白い本に現役時代こう書いている。

「宝塚とは私の故郷の様なもの、
宝塚歌劇団とは私の両親の様なもの、
そして今、
私はその中で自分に最も合った生き方を捜している。
TARA 昭和60年8月11日 水原 環
<サイン参照>

タラは彼女の愛称だ。30数年も前に取材を通して出会った人と
再会した時、彼女態度は変わりなく30数年前の素直な心の持ち主で
友情の絆が力強くある事を感じ人生の喜びを感じた。

改めて私は大切な古いサイン帳にサインをお願いした。


 赤埴貴子(元宝塚 水原 環)

 

同じ様に劇団四季の加藤敬二とも1985年のミュージカル キャッツ以降
取材で交流は続いていたが、彼とも30年余り空白があり再会した時、
改めて古いサイン帳に彼との空白の間をサインで埋めてもらった。

 

宝塚歌劇の生徒のサインは数えきれないほどある。
特に当時、稽古場で宝塚への思いを書きとめてもらった白い本には
春日野八千代、植田紳爾、始め心の中の物を文字にしてもらった。

 

ブロードウエイのミュージカルグランドホテルを初めて
宝塚歌劇団が公演した時。トミー・チューンが演出の為来日、
取材で親しくなった。

数年後、ラスベガスに行ったときMGMホテルでEFXというショウをしていた。

楽屋口のセキュリテイに説明、会いたいというとマネージャーが来て、
覚えているよ、と言って楽屋に案内してくれた。
そして、また来てほしいといってサインをしたバックステージパスをくれた。

出会いがあると再会がある。それが不思議だ。

 

古いサイン帳をくくっていると、何十年前の光景が
目の前に浮かんでくるから不思議だ。
昨日の様に思えるからだ。

帝国ホテルのロビーであったジェームス・スチュアート夫妻、
「ハイ、グレン」と銀座で声をグレン・フォードにかけた事、
新人時代の18歳の時のの岸恵子の面影、
生涯忘れられない舞台でのハムレット演じる芥川比呂志、
その時代の最後の映画女優と言って過言ではない山口淑子の小さな体を
銀幕で見ると大きく見え、その態度の丁寧さは今の俳優に見習ってほしい。

 

山口淑子と大阪ミナミで活けフグを食べようという事は
観劇に来る前から決めていた。
終演後だから午後9時を過ぎていた。店には沢山の年配お客がいた。
後で考えると店の親父がファンを呼んでおいたのだ。
サインを求められると丁寧に色紙に筆を走らせた。

そのお蔭で彼女が東京では何十万円よといった活けフグの代金は
数万円で済んだ。

出会いは大切な財産と言えるのではないだろうか?

 10代から集めたサイン帳にはサインした方で鬼籍へ行かれた方が大半だが、
ページをくくって見ていると、とめどなく青春時代の想い出が
鮮明に思い浮かんでくるから不思議だ。

傘寿を超えてもサイン帳をみていると気持ちは青春時代へ
舞い戻るから嬉しくなる。

文字は人柄を表すというが、まさにその通りでサインの文字をみていると
自然にその人の顔があぶり出しの様に浮かび上がってくる。

元大阪市長の中馬 馨は市役所記者クラブ時代、親しく親した市長だった。
市長室で喋りこんでいた昔が懐かしい。
此処にある
色紙は記者クラブ時代に初めて、頂いた色紙、言葉がそのまま
当時の私の心を表していた。

全てのサインと色紙は私の人生の宝物だ。


敬称略 


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