素顔のままに 〜日下武史〜


日下武史、1931年2月24日生まれ。
ニックネームは御仏<ぎょぶつ>
慶応義塾普通部の時、歴史の授業で
正倉院の仏像の
写真を見て、命名された。

普通部に入ったとき年が既に他の学友より2年上で
老け顔
だったからかもしれない。

慶応義塾高校3年のとき、所属していた演劇部で
『我がこころ高原に』の
演出をすることに部会で決まる。
演出をすることになったのは、
たまたま年齢が
一番上だった事が理由らしい。
1年下の学年に浅利慶太、林光は日下の同期だ。

此の時、家庭の経済状況が下り坂になり、働かないと生活できない
状況になり三井不動産の株式課でアルバイトを、
そのため
演出は浅利慶太がすることになる。

それでも日下はこの公演の照明を担当、
主役は現在音楽三田会会長を
している小森昭宏が演じた。
小森は今でも役者にならなかったことを悔やんでいるらしい。
因みに小森は医者で作曲家だ。

この頃の日吉にある高校の校舎は、進駐軍が使用していた
かまぼこ兵舎を
そのまま使用していた。
形がかまぼこに似ているからそう呼んでいた。
その、かまぼこ兵舎で日下は浅利たちと今の新劇は何だ?
こんなのでいいのかと
激論を交わしていた。

日下のアルバイトは続いていたが大学進学にあたり、
仏文学者の
白井浩司らが援助して入学金を集めてくれたおかげで、
文学部に
進学。

その頃、加藤道夫に心酔。
諏訪正が作っていた劇団「箱舟」の稽古場に
加藤道夫に案内された。
日下、浅利、林の3人だった。

「箱舟」には井関一、吉井澄雄が水島弘もいた。
当時劇団で七曜会というのがあり、ここには松宮五郎、藤野節子がいた。

こんな土壌が劇団四季への道のりになっていく。

演劇への熱は高まり日下は大学2年で中退、
学費が払えないことも
理由の一つだ。
後のことだが、日下は塾員に推薦された。

劇団四季創立当初は毎日が貧乏生活で朝10円のコッペパン一つ
昼35円のラーメン、夜は新宿西口にある店で50円の天丼を食べて
過ごしたという。
これだと一日100円ですむ。

東京渋谷の恋文横丁にある中華の店眠眠の焼きそばが50円の時代だ。

本当に役者で食えるようになったのは、
あのテレビ映画「アンタッチャブル」の
ネス隊長の吹き替えからだそうだ。
その頃、日下は色紙にこう書いてくれた。
永遠の飲み友達 アンタッチャブル ネス隊長 日下武史

かつて藤野節子にインタビューしたとき、
日下さんと芝居すると

「日下さん、そこんところ、そうされると演りにくいんだなあ、

こうしてくれない?」といえるところが、いいんですと話していた。

日下も藤野節子は、かけがいのない仲間だった。
その藤野がなくなったとき、手紙にこんなことが書いてあった。
きーべえがいないということは、僕の居場所が無いということだ。
パーティでもたぶん会場の端に一人でいるだろうから声をかけてください、と

劇団四季で給料制になったのは10年ぐらいしてからだという。

外部出演したときの相手役で印象にあるのは、
「たぬき」での
山田五十鈴だという。
あの人はすごい、普通は段取りは外側からするが、
あの人は内側から
するからすごいと。

18歳で役者を目指して今77歳だ。
後悔はしてないと言う。
創立メンバーは皆天国へ行ってしまった。

最近は夢をよく見るという。
井関一の夢をよく見るという。
後は松宮五郎、水島弘は夢に出てくるが、
俺が一番みたいに、えばっているという。

藤野節子は出てこないがよく思い出すそうだ。

劇団創設30周年のとき、藤野節子は創作劇をすることが目標です。
でもねえ、作家がいないのよねと、話していた。
日下も心の中では同じことを考えている。

今は、舞台に立つことが、徐々に体力的にしんどい感じが増えてきたという。
昨日のような舞台をしようとは決して思わないという。
今日は今日の舞台を演じきることにしているという。

日本酒を好みワインを好み、舞台は淡々と演じている。
18歳から一直線に突き進んできた分野だけに、
その根性は
今の若い俳優に見習って欲しい。

大阪の劇場で公演をしたとき、若い俳優が日下の舞台での歌を
陰で下手とけなしたそうだ。

それを横で聞いていた劇場の裏方が、
大先輩に対してなんと言う事を
いうのかと、叱っておきました、
と聞いたことがある。

裏方までが認める、これが日下武史の人柄なのだ。
欲を言うと、もう一度外部の舞台での芝居が見たい。





   「日下武史の死・タキシードが一番よく似合う男…日下武史さんが残せなかったものは?」


劇団四季の第一回公演から見ている者としては、中労委会館・一ツ橋講堂・飛行館ホールでの
日下武史さんの舞台姿はいまだにまぶたに残っている。

1954年12月に飛行館ホールで公演した『間奏曲』の視学官役を演じた日下さんの演技は
その時から完成されていたのではないかと思うほどあの立ち姿、後に有名になる
四季節ともつかぬ、明瞭な台詞の言い回しは今でも耳に残っている。

当時は劇場が無くて上記三ホールが主で特に一つ橋講堂はメインホールだった。
イザベルが藤野節子、検察官が水島弘、町長が井関一、
ここに平田葉介という怪人役者が居たのが魅力だった。

私の兄と大学で同級生の日下さんは先輩であると共に仲間という感じだった。

1957年大和証券ホールで『ひばり』の公演を観た時は、シャルル七世を日下武史、
ジャンヌを藤野節子が演じていたが、日下の威風堂々、朗々たる台詞、
藤野節子の名演技で最後は今にも、ひばりが羽ばたいて
舞台から飛び去るかと思うぐらいの感動を受けた。

後に、藤野・日下は互いに芝居の受け方、渡し方を念入りに確認しあったと話した。
だから日下さんと芝居はやりやすいのよと藤野さんがつぶやいた。

今回、『ノートルダムの鐘』を見ていた時、出演者がその昔、
日下さんたちが公演した『ひばり』や、『トロイ戦争をはおこらないだろう』を観ていたら
また違う舞台になったのではないかとふと思った。

理由は、あの日下武史の演技というものを継承していたらだ。

子ども劇場の『裸の王様』の日下武史の王様は、あの一直線の芝居の仕方を
そのまま演じたから素晴らしい裸の王様になっていたのだ。
日生劇場での舞台はいまだに目に浮かぶ。

ガ行が正確に言える役者は日下武史しかいないとまで言われた。

その彼が、世間に広く名を知られるようになったのはテレビ映画の
『アンタッチャブル』のエリオット・ネス隊長の吹き替えの声だ。
米国の俳優ロバート・スタック演じる本物よりいい、という評判を呼んだ。

あの吹き替えの声は日下武史の舞台に磨きをかけたかもしれない。
当時、サインする時、必ずEliot Ness 日下武史と書いた。

彼の芝居は台詞で演じたと評する人もいるが、巧みな台詞の言い回しと共に
繊細な動きの演技を見せていたのだ。
それは、日下武史独特のものだった。

影 万里江という素晴らしい女優さんが学生仲間が作っていた劇団にいた。
劇団四季創立5周年記念公演の時、彼女はオンディーヌを、藤野節子がベルタを、
日下武史が水界の王を演じた。
オンディーヌの生まれ変わりかと想わせたのが影 万里江だった。
そしてベルタも水界の王もオンディーヌの世界を盛り上げた。

日下武史の名舞台は内外ともに数知れずあるが、その一つ『ゴールデンポンドのほとり』。
森ビルのフリースペースで舞台を組んだ公演でノーマン・ セイヤー二世を日下武史、
エセ・ セイヤーを藤野節子が演じた舞台は二度と観る事の出来ない名舞台だった。
今でも見たい!
がんを患い余命いくばくもない夫妻の台詞のやり取りは藤野・日下だからできたのだろう。
枯れた老夫婦の心情が二人に息の合った間で観客を魅了させたのだ。

この生命誰のものは、日下さんは「首しか動かないから苦労したよ」と言って笑ったが
彼のセリフ術が観客にイマジネーションを与えて、台詞を聞きながら
舞台の空気を読み取らせたのだから凄い。

『鹿鳴館』を京都劇場で公演した時、日下演じるストレート芝居は、
これが最後という気がして観に行った。
景山伯爵を演じる彼の舞台の姿を見た時、あの立ち姿と言い、出の間といい、
あの昔の飛行館ホールでの視学官の日下武史の姿が浮かんできた。

何時の時代も日下武史演じる役は一つの枠の中からはみ出ないで
それなのに、不思議と役を演じ分けているのだ。
正に名優と言われる理由はそこにありだった。
つまり芝居に無駄がないのだ。

終演後、日下武史さん、木村不二子さんとワインで乾杯した時、
彼はそっとささやいてきた。
「達ちゃん、心がときめいたんだよ」と
それは木村不二子さんの事だった。

最後に日下さんに会ったのは大阪で『赤毛のアン』の地方公演の時
「昼ごはんなら食べられるんだが」と電話がかかり、
大阪のナンバの静かな和食の店に行った。
エレベーターから降りてきた姿を見た時、だいぶ弱っていると感じた。

食事の時、右手が小刻みに震えていた。
彼はさりげなく「こうなんだよ」と。
「台詞言うの大丈夫?」と聞くと、
「相手役がいつも芝居が変わるから大変なんだよう」と、つぶやいた。

木村不二子さんが、「洗濯も荷物も全部私がしないといけないの」と話した。
二人の心の中を思うと言葉が出てこない。
日下さん、でも、ときめいたんじやない?
元気な日下さんと顔を合わせて話をするもの、四季節でない元気な肉声を聞くのも
この時が最後となった。

彼が50歳の時『ハムレット』を演じた。
神戸国際ホールに取材に行き、楽屋でインタビューした。
「30年間、同じことをやり続けてあっという間に経ってしまった感じだね」
此れからは50代、40代、30代、20代と後への繋がりが大切」と。
藤野節子さんは「これからは創作劇よね、でも本が無いわ。
でも次代は、浜畑、三田がいるわ」と。

タキシードが一番よく似合う男とは
『泥棒たちの舞踏会』で日下武史がタキシード姿で舞台に、
当時の評論家がそう表現したのだ。

86歳でこの世を去った日下武史さんには心残りがあるのではないだろうか?
それは名優日下武史の跡継ぎが居なくなっていた事だ。<宮田達夫>


       

                     
劇団四季『美女と野獣』公演<MBS劇場>
                          モリース役 日下武史さん





      
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