Kick the Bucket List
〜自分の人生は自分で創り出す時代だ〜
宮田達夫<2017−10>
定年後を考える時代はもう過去の考え方ではないだろうか?
理由は定年前から自分の未来までの生き方を考えておかないと生存しにくい
世の中になっていくからだ。
つまり定年後なんて言って悠長に物を考える時代は過ぎ去ったという事だ。
ズバリ社会に出たらもう人生の終焉までを計画しないと人生は過ごせない。
平成27年 日本人の平均寿命がゼロ歳を基準にして女性が86.99歳。
男性が80.75歳
定年60歳主流が平成25年4月に高年齢者の雇用の安定等の法律が成立。、
定年が65歳まで伸びた。
伸びた分だけ今度は年金の支給年齢を75歳になろうかという時代に、
定年後という定義は存在するだろうか?否、定年後なんていう言葉は
定年になる前から悔いなき人生の過ごし方を考えておかないと、悔いに埋もれた人生が待つ事になる。
判りやすく言えば人は死ぬまでに成し遂げたい事は、遂行しなくては
悔いだらけの一生の幕を閉じる事になる。
勿論、仕事に生きていく人がいなければ国も栄えない。
が、片や仕事だけに生きて来て気が付いたら定年だという人は、かなりいるはずだ。
こうした人たち、心の支えが仕事だと言う人たちは、その後に来るものは
焦燥感、失望感、挫折感、孤独感しかない。
特に定年後に、肩書で生きてきた人は如何なる肩書きでも欲しいと言う欲望に駆られるのだ。
肩書が無いと一番の不安は自分の社会の中での立ち位置が見当たらないからだ。
そんな人は、沢山見て来た。会社の名前がどんな形であれ使いたい。
使わないと会社という名前の城の中で生きて来た人間としては城から出てしまうと
自分を誇示する立場が無いと言う、一種の見栄の塊だし、騙しでもある。
昔、定年後、特別顧問という肩書を付けさせてもらった人がいた。
この人が勝手に会社には知らさずに、あるイベントを計画。
それを信じた会場提供者は、会社名の横に特別顧問とあればオールマイティの人だと
思ったという話がある。
近年は顧問とか相談役という名称はなくす方向らしい。
新聞社でよく使われているのが編集委員、特別編集委員。
聞く所によると、この肩書が使えるのは現役時代にそれなりの功績があった人が使えると聞く。
この肩書があれば、メディアの世界で生きていけるからだ。
名刺に書ける肩書だ。これで、つまり第二の人生が歩めるというわけだ。
確かに定年後、生きていくには収入が無いといけないのは明白の事実だが、
時代と共に働き始めた時から人生の過ごし方を考えていれば定年後の
必然的に込みで計画していないといけない事になるのだ。
私個人的な事を言うと定年近くになった30年ぐらい前に、ある知人から言われた一言で
その後の人生を考え直すことが出来た。
その一言とは、「貴方ぐらいの人たちは皆ハワイに住みはじめていますよ」と。
1995年頃の話だ。
年齢は60歳前だった。
コンピューターが出来ないと、これからの時代は生きていけないぞと気が付いた。
早々にノートパソコンを購入。パソコンに詳しい知人に習いながら
これからは情報は自身で発信する時代だと気が付いた。
何でも書ける場、自身のウェブサイトを立ち上げ、ブログを作った。
eメールは幸いにも学生時代に東京の銀座に黒沢タイプというタイプ販売の会社があり
<今はそこはフェラガモの店だ>そこにタイプライターの教室があったので、
週に何回かタイプの打ち方を習っていたのだ。
初めは、HG―HG―HG―HGから始まり、右手の指は人差し指がJ、中指がK薬指がL、
左手は、その反対でF、D、S、Aのキーの上に置いて練習したのが、
パソコンを習得するに当たり何の障害も無くスタートできたのが幸いだった。
パソコンを始めた時代は「年金29万円で、ハワイで過ごそう」「東南アジアで過ごそう」
という世相、流れの中だった。
そうだ、自分の残る人生は誰も考えも保障もしてくれないのだ。
やみくもに働いてばかりいてはいけない。
今までは会社に利用、使われてきたが今度は会社を使い、利用しなくてはと。
大切な事は、現役でいる間に社の人間より人脈を多方面に広げる事だろう。
そして、社外の世界の人との人脈を沢山持つことだ。
それも同年代や年長者や歳下の人と。
後に、これが肩章<肩書き>がなくなった時に大きく役立つからだ。
人脈が広くあるから経済的に困らない?それもあるかもしれないが、
第一に大切なのは孤独感を味わわないで済むという事だ。
一番役に立たないのが、己が働いていた会社の人間だといえる。
当時、ある会社で会社の人間と終業後、飲み食いしたのは交際費で払わないが
他社の人間となら交際費を認めると言う会社があった。賢い経営者だ。
アメリカの俳優のジャック・ニコルソンとモーガン・フリーマンが
出演した映画で「The Bucket List」という映画があった。
邦題は「最高の人生の見つけ方」だったが、この「バケツリスト」という
妙に気になったのだ。
その後、たまたまアメリカで知り合ったアメリカ人夫妻に「バケツリスト」という
意味の本当はどんな意味なのかと聞くと、「骨壺だ」と言う。
つまり俗語で、日本語で言えば遺書みたいなものだと。
自分がやりたいことを書き残しておくことだと。
つまり、kick the Bucket listは、バケツを蹴る、イコール死ぬという
意味合いを含んでいるという。つまり自殺する時はバケツの上に乗り、
それを外されたら死ぬという事だ。
映画では病院の同室で偶然隣り同士になった二人が意気投合して、
死ぬ前にバケツリストを作るのだ。
人生生きている間にやりたいことをリストアップするのだ。
映画での二人は
荘厳な景色を見る
見ず知らずの人に親切にする
泣くほど笑う
シェルビー・マスタングを運転する
世界一の美女にキスをする
タトーを入れ
スカイダイビング!
ピラミッドの上に座る
サファリーへ行く
万里の長城をバイクで走る
タージ・マハールへ行く
連絡をとりあう仲に戻る
これを英語で言うとGet back in the touch<ずっと仲良くしよう>
というバケツ リストだ。
此処で、現実に戻る。
2017年8月の死亡記事で亡くなった方の年齢を見ていて、
これはもはや猶予が無いと。
以下、死亡年齢と平均寿命を比較してみた。死んだ年でまだ生存していたら
あとこれだけ生きられただろうというものだ。
平均寿命を死亡年齢に加えればいい。
死亡年齢 61歳<昭和31年生>平均寿命 22.83歳
死亡年齢 67歳<昭和25年生>平均寿命 17.99歳
死亡年齢 70歳<昭和22年生>平均寿命 15.72歳
死亡年齢 75歳<昭和17年生>平均寿命 12.14歳
死亡年齢 78歳<昭和14年生>平均寿命 10.15歳
死亡年齢 79歳<昭和13年生>平均寿命 9.53歳
死亡年齢 80歳<昭和12年生>平均寿命 8.92歳
死亡年齢 81歳<昭和11年生>平均寿命 8.34歳 他1名
死亡年齢 82歳<昭和10年生>平均寿命 7.78歳 他3名
死亡年齢 83歳<昭和9年生>平均寿命 7.25歳 他3名
死亡年齢 87歳<昭和5年生>平均寿命 5.40歳
死亡年齢 88歳<昭和4年生>平均寿命 5.00歳 他1名
死亡年齢 89歳<昭和3年生>平均寿命 4.63歳
死亡年齢 90歳<昭和2年生>平均寿命 4.28歳
上記の方は平均寿命の分を残したまま鬼籍へ行かれたのだ。
こうしてみると定年後、つまり65歳から考えて命がどれだけあるかは、
神様が知るだけだ。
年金75歳からという事になれば、貰える人は何人いるだろうか?
だから、ものの考え方を、人生の過ごし方の発想の転換が必要になるのだ。
定年後なんて存在しなくなる。
入社後から人生のラストまでのバケツリストを作らないといけない。
定年迎えたらキャンピングカーで全国を夫婦で回るんだと言っていた人が
定年を迎えてすぐ亡くなった。
やろうと考えた時、即実行しないと、人生は待ってくれない。
そこでバケツリスト的発想が大切になってくる。
日本人の大半の不安は
年金支給不安
健康面の不安
生活医療費
生活のリズムが変化
漠然とした不安
家事の時間が増えそう
社会とのつながりが減ってしまいそう
にある。
これは全て定年後を考えるからだ。
今、言われている事は定年後の3Kだ。
健康
金
孤独
この3Kから脱出することを如何にするかテーマだろう。
そうでない、といずれも自殺に繋がるからだ。
つまり、これからの時代は社会人としてスタートした時から人生の過ごし方を
自分で企画していく時代になるだろう。
勿論、金銭的なものは当初から計算上の事だ。
よく言われるセカンドライフなんている言葉は一部の言葉になるかもしれない。
延長線上の人生で区切りがあって、セカンドライフは存在しないように思う。
例えの話、マンションを購入するか、賃貸にするか、一軒家を購入するか、
賃貸にするか、賃貸の土地の上にあるマンションを購入するか、賃貸にするか、
一軒家の場合も同じだ。
ハワイでのコンドミニアムは何十年も前は、土地付き建物で光熱費、
ガレージ代は込みだった。
その後、確認もしないで中古のコンドミニアムを購入。ある日突然
理由は、このコンドミニアムが25年間のリースの土地の上に建っていたのだ。
リースで借りた場合も突然、家賃が倍以上値上げされる事があるのだ。
土地付きかリースの土地か、確認することが大切だ。
これはタイムシェアーでも、同じことだ。
リースの土地に建てたものだと、津波などで被害があった時、すっからかんになる恐れがある。
日本のマンションと同じで区分所有者なら、もしものことが有っても権利が残るのだ。
これからの時代、地震に関して予知予報は出来ないと明確になった。
更に、ゲリラ豪雨の発生はどこで起こるか不明な時代だ。
川沿い、山沿い、崖の近くは全て危険地帯と考えないといけない気候になりつつある。
こうして書いている間に週刊誌が定年後の…のような特集記事の掲載が目につく。
面白いのを紹介しよう。下記の事はするなという話だ。
資格の取得
語学の勉強
ジム通い
葬式に参列しない
NPOに参加しない<何かした気が?肩書きがいいと言うか名誉欲だ>
勲章を貰わない
本を書かない
この最後の本を書かないは間違いだと思う。
改めて定年後に自分史を書くという事は人生の振り返りにもなり、更には
知人の有名な画家がいるが88歳を超えても50号の時には100号の油絵を
展覧会<所属している絵の会の>の為に描きつづけている。
彼曰く、毎日絵を描くという事は物事を考えるから脳に良いのですと。
時にはエロチックな事も想像してと。
更に、週刊誌の特集記事を見ていくと新聞記事でも同じだが定年後の貧困、
老人破産という言葉が嫌によく目につく。
総務省の調べでは一世帯保健医療費は月に16291円だと言う。
ところで、日本は何事もすぐに老人という言葉が使われる。
老人クラブ、昭和21年1960年に出来た団体だ。
老人という固定概念から脱出できないまま来ているから各地の老人クラブの名称は
未来に繋がらない感じの名称ばかり。
いきいきクラブ
もどりクラブ
きららクラブ
さわやかクラブ
彩愛クラブ
なのはなシニア
ときめきクラブ
ゆめクラブ
なごやかクラブ
すこやかクラブ
晴ればれクラブ
桃太郎シニア
きららクラブ
うずしおクラブ
ぼちぼちクラブ
よさこいクラブ
ふくふくクラブ
さんさんクラブ
ゆめクラブ
白寿会
しかし地域のそれぞれの老人と言われる方々はバス旅行、詩吟の会、…見学会、
食事会でそれなりに満足しているが、それで終わりだ。
肝心の社会との交流、新しい交流がそこには無いのだ。
つまり、老人という言葉を使用禁止にして欲しいのだ。
しかし、やがて団かいの世代がシニアの中心的年代になると、今の老人クラブで行っている形態が
変化していくと思われる。
でも、今70歳、80歳のシニアの人たちは肉体的、体力的に個人差が現れ
どう生きるかが問題だ。
それでも、残されたロスタイムをいかに過ごすか、此処でバケツリストが
必要となるのではないか?
肝心なのは、何が出来るかで何をするかではない。
ラジオ体操をするとか、歩く会をするとか、そのような類ではなく
アクションを起こせることを考えないといけないと思う。
写真を撮り続けるとか、過去に撮りダメした映画を見るとか、
よくあるのが日本のお城めぐりだ。
本当のお城というと江戸城<皇居>だけという。後は城跡という表現でいくと
2万5千とか5万とかいわれる。
所謂、日本城郭協会選定している城は全国で100ある。
全部回ると丁度いい数ではないだろうか?
マラソンと同じでゴールがあるものがいい。日本のお城100踏破したという満足感が得られる。
つまり、そのやり遂げたという満足感が大切なのだ。
老人会のバス旅行では観光地へ行った、で終わりだ。
大切なのは、何かを70、80歳からでも成し遂げられる集団が
勿論、演劇を見るのも良い、ただそれで終わりでは意味がない。
観劇した後に、舞台出演者と語り合える観劇集団が出来ると、いろいろの意見が発せられて、
各人のうんちくが披露されて、有意義な場が生まれるだろう。
只、見るとかするとかでなく、更なる発想の転嫁を図れば意外な生き甲斐を感じられる場所が
生まれるのではないだろうか?
考えてみると、今日、ヘヤスタイルをヒチサンにわけている男性が何人いるだろうか?
皆おかっぱみたいな、前髪を垂らしている時代だ。
老人クラブという被り物はかなぐり捨てて、此処に生き方を変えないと
皆、孤独な人ばかりになる恐れが大だ。
連れ持ってどこかへ行く、ただ行くだけの時代は終わりにしたい。
ロスタイムの残りはどのくらいかわからないが。
君達がどう生きるかだ。何が出来るかだ。
バケツリストを、今からでも作ろう
あとがき
ご存じだろうか?1986年頃、通産省が提唱
海外へ定年後は移住しようと奨励したのだ。
移住先はスペインのコスタ デル ソル、ポルトガルだった。
当時の週刊誌には準備に2年、60歳定年から年金で悠々のポルトガル暮らし
というタイトルだ。
ポルトガルは魚もある、いわしもある。
日本人には困らないよと。
その頃、ポルトガル・パリの間航空運賃は往復で1万6千円。
当時、パリの日本人経営のお寿司屋桃太郎という店の親父に聞いてみた。
ポルトガルに住んだら如何なものかと?
寿司屋の親父の答えは「文化はパリまでですよ」と
この一言で納得した。
当時の通産省は、ポルトガルは物価は安い、家賃は安いと
良い物ずくしの提唱だった。
かなりの定年後の日本人がポルトガルへ移住したのだ。
有名な漫画家も移住した。
それから何年後か・・移住者は皆日本へ帰国したのだ。
矢張り、言葉が問題、習慣が問題、一番は貨幣価値がが変動したからだ。
ヨーロッパ内での航空運賃があがり、そんないかん単に周辺国へ行けない。
貨幣価値は変わる。とても年金で生活は不可能になったのだ。
確かに、いわしの塩焼きはあるが、大きな皿に大きなイワシが
3匹ドントでてくるのだ。
この頃、本まで出たのが年金29万円でハワイで暮らそうだ。
そして1992年にロングステイを奨励した。
今のハワイは、米国物価が一番高い州でだ。
家賃だって2000ドルだ。野菜は高い、キャベツが半分の大きさで
7ドルぐらいする。玉ねぎも高いのは1個2ドル、大根も高い、ガソリンも高い
でも車が無くては生活が出来ない。
大半の庶民はみなコスコへ買い物に来るぐらいだ。
ハワイで生活している日本人は皆必死に働いている。
中には、仕事が無くなりグリーンカード返上して日本へ帰る人もいる。
矢張り一番困るのは、医療だ。大概の日本人は歯医者、CT撮影などは
日本へ帰り診察を受けるのだ。
あちらでは主治医を持たないと先へ進まないシステムだ。
海外で生活してきた人なら別だが、移住しようなんて考える人は
現実は厳しい。
それだけの余裕があるのなら、日本いて
数カ月だけ現地に住むと言うのが、一番の定年後の生活だろう。マハロ
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