ブロードウエイ ミュージカル「結婚物語」
脚本・詩/トム・ジョーンズ 音楽/ハーベイ・シュミット
ピアノ演奏/伊藤弘一 中尾 唱 演出/山田和也 音楽監督/栗田信生
出演 マイケル/村井国夫 アグネス/春風ひとみ
宝塚歌劇団を退団したあと、春風はかなり自分の舞台での生き方を模索しながら
舞台を続けてきたと思う。
もともとがマイナスをプラスに転じて生きていこうという強い精神の持ち主だけに
「結婚物語」にたどり着くまでは、暗中模索で心の余裕はなかったと思う。
劇の冒頭、数十年前、大阪でオリジナルキャストで見たブロードウエイ ミュージカルの
「ファンタスティック」を感じさせるのは、この作品がもちろんトム・ジョーンズの作品だからだ。

春風は村井という力強い伴侶を得て、新婚生活が始まる。
結婚式直前の緊張、不安、子供の誕生、喜怒哀楽、倦怠期、浮気、妻の不安など
互いに年を経ていく過程を演じていく。
音楽はピアノ二人が演奏していくが、これも舞台進行上大切な部分だが、
上手下手の奥で演奏なので効果が薄れる。
演出の問題だが、舞台手前の上手と下手で演奏してくれたら
もっと雰囲気が出たのではないだろうか?
舞台中央にダブルベッドがあり、これが物語の進行に大きな役割を果たすが
もう少し周辺の整理が出来てもいいのではないか。
というよりもコンパクトにした方がいいのでは?
見ていてふと感じたことは、この夫婦は日本人なのか?外国人なのか?
と疑問を感じたことだ。
日本での上演なら日本人夫婦に編曲していいんじゃないかなと。
理由は日本人が外国人を演じて、そぐわないのは日常生活での仕草だ。
生活の中で大切な表現のキス一つにしても違うんだなあ。
芝居の演技ということとは別の問題。
春風が村井に愛情表現するにしても相手の体の触り方がぎこちない。
腕を触り、手の甲をやさしく触っていく。
頬にキス一つするにも演技の中に間が不足するんだなあ。
もっとしっとりしてほしい、万事が一つこれが足りない。
なら、日本人夫婦にして芝居した方がいいんじゃないのかなと思った次第。
外国の芝居を日本人が演じるのを見るのをやめた理由は、
日常生活感が感じられない不満を感じるのが嫌だからだ。
つまり二人が抱き合う、キスをする、などの行為の間に、それに繋がる動作が
外国人の場合はあるが、日本人だと各々が点と点で、
その間がすき間になってしまうのである。
そうした若干の不満はあるものの、二人は軽快なテンポで物語を見せてくれた。
結婚、出産あたりは少々間がもたない感があるが、春風が懸命の芝居でそれを補う。
やがて村井が伴侶としての責任感を舞台の上に醸し出してくる。
本来は互いにもう少し雰囲気を、これはキャラクターだが、
個性を発揮してくれたらなあと感じたりする。

クリスマスのシーンはもう少し工夫の余地ありで、こここそピアノが前にあれば
もっと状況は変化できたと思う。これも演出の責任だろう。
でも遊び心がほしい、芝居の中で。
倦怠期を迎えるあたりの芝居は、村井がもう少しとっちらかった芝居をしてくれると
また、それを受ける春風がその反応をもう少しオーバーに出してくれると
テンポがよくなったのではないか。
それでも春風と村井は長丁場の舞台を息切れもせず、見せていくところは
春風のこの芝居に対する執念を感じる。
そして最後、上手下手に化粧台が出て、二人は客席に向かい老け顔のメークにはいる。
ここから春風の芝居が、彼女の個性が一番出ていて最高の芝居だ。
老け方も見事で、あれっ、これなら芝居の「黄昏〜ゴールデンポンド」のエセルの老け役も
出来るんではと思わすほどの、見事な締めくくりの芝居を見せてくれる。
本人が「やりたかった芝居ですもの」というだけある、傑出した舞台を見せてくれた。
細かい部分部分の仕草や間や芝居を今後膨らませていけば、
十分、春風の持ち役になる芝居だ。
村井の芝居はもう少し重厚さがほしい。変にコミカル調で演じるのではなく、
クソ真面目なものを感じさせてこそ、春風の芝居が浮き上がり、
そして村井のマイケル像が一段と光るのではないだろうか。
春風さん、伴侶と別れて、その都度新しい伴侶を見つけてアグネスを演じてみませんか?

   2003年8月19日 神戸オリエンタル劇場で観劇 ちゅー太

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