「これからの宝塚歌劇はどうなるの?音楽学校は?芸は不要?」

最近は「歌劇」を読んでも、宝塚グラフを読んでも
昔ほど興味深く読めないのは何故だろう?

各組の生徒が書く楽屋日記風の中味も以前に比べると面白みがないし、
編集全体が読ます興味を半減さす内容だ。

一つには生徒の写真を撮影している、篠山紀信の撮影方法が
宝塚の生徒を生徒らしい化粧で撮らないことにある。

ファッションガールならモデルならそれでいいかもしれないが、
薄化粧で土色の化粧では宝塚歌劇の生徒というイメージが消え去ってしまう。
只の女性を撮影しているに過ぎない。

歌劇団は何故これにチェックを入れないのだろう?
女が男を演じていく所なのにその男を演じる人を女性的に撮るということは、
いかがなものなのだろうか?

そこから物事は間違い、今やかつては見られなかった、
女役がジーンズをはくという時代に来てしまった。

宝塚歌劇の生徒は娘役はスカートで可愛い服装、
男役はジーンズで男っぽい衣服と決まっていて、
直ぐに男役ね女役ねと誰しも認識できたのだ。

この心構えは舞台まで影響するものだが。
いまは滅茶苦茶で注意する上級生もいないらしい。


そんな時、歌劇四月号の「花の道」を読んでもっと驚いた。
宝塚音楽学校はいつから芸を磨く学校でなくなったのかと、
そうでなくても最近の宝塚歌劇の舞台の生徒の芸は悲惨なのにと。

「花の道」によると、
その一は、向陽台高校の協力で通信教育制度を設け
高校の資格を取るようにしたことだ。

すでに九十期、九十一期で実施されている。
なにもこれが悪い事だとは言わないが、宝塚音楽学校は特殊学校で
宝塚歌劇団に入団する為に芸を学ぶ所のはずで、いままで続いてきた。

確かに中卒以上高卒までが入学資格だ。
過去にも退団してから通信教育で高校卒の資格を取った人はいくらでもいる。
それを承知で入学するのだからいいではないか。
他の芸能界でも中卒の人も沢山いる。

例えば歌舞伎の昔、児太郎で今福助は芸に学問はいらないよねと中退した。
橋之助もしかりである。
なまじ変に学問をすると舞台の上での芸がややこしくなる恐れがある。


それを在学中に取らせるなら、初めから高卒を音楽学校の入学資格に
してしまえばいいのではないだろうか?

歌や踊りや芝居を勉強することは並大抵のことでは出来ない、
生半可にできると思わすと、何事も見くびる原因になる。
それに芸は集中して初めてできるので、そこに通信教育を加えれば
何かがおろそかになるのは一目瞭然だ。

そこまで手取り足取りする必要があるのだろうか?
自分の人生は自分で考えさせなければ無責任な人間が生まれる。

総ては「独立自尊」の精神だ。「学問のすすめ」だ。
自分で何を学ぶべきかどうすべきか、自分で考えろと言いたい。

そうでなくても、宝塚歌劇の生徒の質は昔より低下しているのだから。
そんな事より、歌の稽古に、ダンスの稽古に、
劇場に芝居を見に行きなさい言いいたい。

芸は物まねかで、盗んで罪にならないのは芸だけですぞ。

その二は、英会話の時間を設けるというので、これまたびっくり。
理由は海外公演にそなえてと、また外国から振付師が来た時、休憩時間などで
外人振付師と会話するのに通訳を煩わさないでやれるようにということが目的らしい。

英会話なんてそんな簡単なものではないし、
これによりますます芸の勉強は何処かに消えてしまう。

なんで物事をそう簡単にかたずけてしまうのだろうか。
昔、音楽学校の生徒監から聞いた話。
昼ご飯もいかに早く食べて次の授業の日舞の浴衣に着替えるかも、
それは舞台での早替わりの稽古に通じるんですと。
音楽学校は昔からひと時も芸を学ばない時はない、
学校にいる間は何をするのも舞台に通じ大切なことなんだと。


その三は、森光子の「放浪記」を見てで、これはなんだと読んで思った。
それによると宝塚歌劇の芝居は台詞が多すぎる、
それで早口になり充分にメッセージが客席に届かないとの事。
「放浪記」は空白がすこぶる生きていて台詞があるより空白があるほうがいい。
空白とは台詞と台詞の間の「ま」のことらしい。

名作、名優の演じる「放浪記」と宝塚の舞台では差があるが
その差を少しでも、縮めるよう演出陣も生徒も研究して欲しいと。

言っては悪いが芸歴八十何歳?で放浪記公演千回以上の女優の演技と比べては
どちらも失礼だし、比較にするものではない。

多分この話にはだれも、いやそれは違いますと言う人はいないだろう。
いないだろうからあえて小生がここでこの矛盾だらけを指摘した。

音楽学校のカリキュラムの中に高校の通信教育を入れ、英会話を入れて、
森光子の「放浪記」以上の芝居を作れば支離滅裂だ。


現実には今公演されてる作品の中には宝塚歌劇に相応しくない作品が沢山ある。
沢山あるので植田紳爾が再三ベルサイユのばらを再演して
宝塚の舞台は非現実の世界ですよと訴えている。
でも演じられるのは現実のリアルな芝居ばかりだ。

そのため宝塚歌劇独特の上品な面白い芸が消滅していく。
九十年を迎えた宝塚歌劇といってもそれは単なる九十年で
本当の宝塚歌劇は八十周年で消え去っているのではないだろうか。


劇団四季が創立五十年を迎えた今、創立メンバーは浅利慶太と日下武史だけ、
いま劇団四季の公演として演じているメンバーのほとんどは
オーディションを受けて通り演じている人だ。

劇団四季もいまや名前だけ、中味に昔を求めても無理というのが現実だろう。
宝塚歌劇も名前は九十年だが中味を見ると、
白井鉄造、高木史郎、鴨川清作、内海重典などが
創りあげてきた財産を総て食いつくした今である。

八十周年以降に作られた作品のうちどれだけが十年、二十年後に
再演できる作品があるだろうか?

人は組織の上に立つとつい組織に手をつけたがるものだ。
警察本部の長になってつい組織に手を出して失敗した警察本部長も沢山知っている、
民間企業でもしかりである。

長い歴史の中でそれが続いてきたことは、それが間違いなかったということの証だ。
宝塚歌劇団の中を見るとこの組織の間違いがあちこちに見受けられる。
早くその間違いに気がつき昔の宝塚を呼び戻して欲しい。


    歌劇 4月号を読んで。2004−4 ちゅー太

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