ミュージカル「ジキル&ハイド」
演出/山田和也 上演台本詩/高平哲朗 音楽監督/甲斐正人
装置/大田 創 照明/高見和義 衣装/リリー
出演/鹿賀丈史 マルシア 茂森あゆみ 浜畑賢吉 段田安則 

鹿賀丈史のミュージカル「ジキル&ハイド」をシアタードラマシティーで観た。
ミュージカルを久々にする鹿賀だけに、観る方も期待が高い。
もともとのこの話は映画でもよく知られており、イメージ的にはどんでん返し的に
目の前で観客は善から悪に、悪から善にオーバーラップするが如くに
変化を求めているきらいがある。
舞台を観て、直観的に感じたのは出演している女優陣が
余りにも外国婦人を感じさせない。
ヘアスタイルにしても、衣装にしても身のこなしにしても
余りにもお粗末過ぎるのに驚いた。
市民だか娼婦なのか、区別も衣装が変わるだけで同じに見えてしまう。
リージェントパークの立派な邸宅なのだろうが、
英国的雰囲気もシックさも何もないのには失望。装置が悪い。
舞台の大切さは風<ふう>がいる。
それにドラマシティーの劇場機構から装置の吊り上げは不可能だけに
裾に入た装置を引き出す音が気になるのと、
裏にオーケストラを入れたため、ごちゃごちゃしてしまった。
ジキルとエマの婚約パーティが開かれるが、
エマ<茂森あゆみ>にその雰囲気が見られず、
これは全体的にエマの芝居が不十分で
特に最後ハイドが死ぬところで棒立ちでいるのは
盛り上がる最後の雰囲気を壊す。
歌もミュージカル風が不足、歌えるだけでは難しいという見本かも。
さらにルーシー<マルシア>がわざとらしい芝居が多く、
これもいかに歌と芝居を両立させるかという
ミュージカルの難しさを改めて感じさせられた。
そのためジキルを盛り上げられないところが芝居を弱くしている。
芝居の中で各々の役者の繋がりが欠如している。
個々で芝居をしているという、これは演出の責任だ。
さらに舞台上の役者の立ち位置が乱雑すぎ、
これがミュージカルの芝居だということを演出は理解していない。
もっと大切に芝居を作ってほしい。無駄な芝居が多いということだ。

舞台装置も何かオカルト的なものを狙いすぎ、重厚さが欠ける。
照明は単純的な色使いで物語をこれまた軽薄にした。
もっと青白い不透明の中に透き通った白の色がほしい。
久々の鹿賀のミュージカルだけに興味倍増という気分。
幕開きから演出の狙いかインパクトが弱い。
ドクター・ジキルとしての上品さを考えたか?
どうも肝心のジキルを支える友人のガブリエル<浜畑賢吉>と
ダンバース<段田安則>がその性格が明確でないところに原因があると見た。
つまり、エマ、ルーシー、ガブリエル、ダンバースの4人が
ジキルをそれぞれのキャラクターで盛り上げてこそ、
この二重人格の男が生きてくるのである。
それが4人とも鹿賀に絡んで来ないのだ.
浜畑が変に前屈みで芝居をするのが中途半端、
段田の芝居はもっと個性が欲しい。
鹿賀のジキルとハイドはその境界線を繊細に演じ分けようとしていた。
それが鹿賀の芝居であろう。
二重人格はそう明快なものがあってはおかしい。
ただ、その繊細の芝居がうまく繋がらないところが残念。
歌は体調を崩して控えめに歌っているとのことだったが、
オーケストラの音が大きすぎ、歌がオケの後ろにいき、
歌詞がわからないのは演出の責任。
それと科白の言い回しに抑揚がありすぎるのが気になった。

鹿賀の芝居を観ていて部分的に彼が1978年にした
「カッコーの巣をこえて」のパトリック・マクマーフィを思い出した。
ジキルとハイドの芝居の仕方が似ている。
20数年前の芝居がここで再び観られるとは、
何となく興味倍増で観にきた甲斐があった。
ただ全体に芝居が弱くなっていたのが気になった。
鹿賀が「この芝居は面白いが、奥が深く、やればやるほど疲れます」と
話したのが印象的だった。

     シアタードラマシティー 2002年1月8日 ちゅ-太

                  次へ
                トップページへ戻る