特別展 受贈記念「石阪春生展」

神戸市立小磯記念美術館 <2006520日〜730日迄>

神戸に生まれた画家の石阪春生さんを知ったのは1975年、昭和50年だ。
今年77歳なのだから31年前46歳の時だ。
其のとき神戸に居る新進気鋭の各界を目指す人たちとバーボンクラブという集団を作った。
石阪さんは面白い変わった絵を描く人だと思った。
芸術家、特に画家は突拍子もない考えの持ち主が多いが、
石阪さんは決めて常識人であり
冷静な性格の人と思った。
詩人の竹中郁さんが叔父さんで、彼の紹介で
その後師匠となる小磯良平さんに師事することになる。

もともと絵の学校を出たわけでなく関西学院大学卒でこのあたりから絵画部に属して
絵に興味を持ち始めたらしいし、現代絵画に向かっていた。
その後、女のいる風景というテーマで絵を描き続けている。

たまたま今回の石阪春生展開催の機会に神戸のバーボンクラブの仲間である、
作家の新井満さんが自発的に石坂さんの展覧会の為に
「文学と美術の遭遇」という題で対談をしようということになり、
今まで語られなかった、石阪さんの何故このような絵を描くことになったのか
という原点要因を知る事になった。

本当に偶然の事で、今まで石阪さんも語るのが多分嫌だったのだろう。

新井満と石阪春生対談「文学と美術の遭遇」というタイトルで
2006618日に
神戸市立小磯記念美術館で開催。
美術館のロビーに特設舞台を設け、観客約120人満席だ。

新井満さんは自分との出会い、自分の作品に石阪さんがコラージュした話、
石阪さんの絵に関しての意見、そして新井満作の「青春とは」の詩の朗読、
最後に「千の風になって」を歌いあげた。


青春時代に出会った人たちがやがて時を経て、自分を回顧する年代に到達したとき、
このようなパフォーマンスが互いに出来るという事は、
皆の共通の場としてある『バーボンクラブ』ならではの事であろう。

司会は僭越ながら私が勤めた。

今回の石阪展はいわば回顧展と称されていいもので、
たまたま作者がまだ健在であったというだけの事だ。

因みに石阪さんは20062月に自分の作品50点余りを神戸市に寄贈した。

神戸の兵庫に生まれた石阪さんは神戸大空襲で被災にあい、
父親と二人で空襲の中、逃げ回った。
福原ぐらいまで逃げてくると辺りは燃え盛る炎で
着ている着物も燃え上がる状況だったという。

子供の石阪さんは父親を引っ張り、当時大きな防火用水が街中に備わっていたので、
其の水を身体にかけて周辺の炎を遮っていたのだそうだ。

其の時何処を見ても焼け焦げの焼死体ばかりで、
特に手首が先に炎で燃え落ちてしまった焼死体が目に焼きついた。
勿論顔も焼けて目がなくなっていたそうだ。


そうした危機的状況の中を石阪さんは父親とともに
先に母親が疎開していた三木にたどり着く。

この状況を石阪さんは戦争中の嫌な思い出としか人には語らなかった。
現に新井満と石阪春生対談でも、戦争中の嫌な思い出としか語らなかった。

其の後、戦争中の嫌な思い出は何かと別の場所で問うと、
初めて具体的に話し出したのだ。

この話を聞いた時はじめて石阪春生が描く絵の本質を理解し始める事が出来た。

よく人は神戸の町を感じさせる絵だとか言うが、
石阪さんは若い時にヨーロッパに
月賦払いで出かけた。
ベルギー以外はパリ、イタリアはじめ各国を回ったらしい。

40日ぐらいだったと聞く。
そこで見たヨーロッパの街風景は
石阪さんが頭の中に描いていた風景とは違ったそうだ。

これは違うと思うや帰国した。その後二度とヨーロッパには出かけてない。
でも時々石阪さんの口からイタリア語が出るのは、
かろうじて外国に行った事を証明出来る証だ。


石阪さんの頭の中に絵を描く事を決めた時から、今の絵の原図は出来上がっていた。
石阪さんの持つ独特の外国ではない外国、それに大空襲で炎の中を逃げ回り
焼死して
焼死体で横たわる風景、そこには幸福も何もない地獄だけの眺めだろう。
でもそこには多分母親が先に疎開していた疎開先に
たどり着きたい一念が心の中にあったのだ。

そしてもう一つはヨーロッパ旅時代に見たグスタフ クリムトの絵が
かなりの影響力になっている。
「ローマの美術館で見たクリムトは色彩よりも形の中に女の情感を
表現しようと意欲に打たれた」と語っている。
これが絵の組み立ての中でのクリムトの存在ではないだろうか?

こうした状況を考えて来ると、細い筆に絵の具をつけて擦る様に絵を書き上げていく
石阪さんの絵はこの総てが常に網羅されているのだ。

大空襲の炎の中に人形が小物が花が椅子が飾り物が、
そして女の人が横を向き其の顔の目には目がない事は
炎の中の焼け死んでいった人たちの姿が重なりあっているのかもしれない。

絵の一つ一つを詳細に見ると可憐な子供の姿があるが裏返すと
其れは空襲の炎の中の地獄絵の姿とも理解できる。


今も描かれている絵の中の物はみな幼少時期から少年時代に見つめたものが、
そこに存在している。

でもそこに美を求めているのは、醜さの中から救いをもとめているからだろう。
特に其れを感じさせるのは1971年に描いた「翼の城』だ。
これはなんとなくフィレンッエにある、サン ジョバンニ洗礼堂の入り口の扉に
浮き彫りにされてるミケランジェロが天国の扉と讃えたギベルテイ作を感じさせる。
石阪作品は神の存在を暗示しつつ天使ごとき人物像は
天国を目指しているかのように見て取れる。


繊細な美しいそして不思議な女性がいつも存在する石阪さんの絵には
深い憧憬、絶望、希望、未来が入り混じっているのだ。

石阪さんがもし空襲に遭遇してなかったら、今の絵は生まれなかっただろう。
話を聞きながらそう思った。

長い間、石阪さんの絵を見てきてはじめのころは線も色も薄く
それが次第に緑と濃茶の色が濃くなり始めた。

さなぎから幼虫に更に美しい蝶に変身していくかの様な
目を見張る変わりようを見せた。

更に1990年代前後辺りから横顔しかないものが、正面を向き始めた。
でも心は彷徨いを見せている。
でも次第に目のない顔から目のある顔に変わり始め、
其の表情には和みがではじめている。
心の中の怒りが収まり始めているのかもしれない。


画家・石阪春生の心の中、精神の中にはいつも大空襲で見た人たちの姿が存在して
如何なる所にも容赦なく出現するのだろう。
でも心の豊かな石阪さんは其れを追い払わずに暖かく慰めている。
そして其れを描き続けている。
そして今はそこから脱皮したいと、そんな風に改めて常識を守りながら生きている
画家・石阪春生の存在に何か安心感が持てた。


画家でこれほど頑固に自分を押し通し、守りながら自分の芸術を作り上げる、
神戸の生んだ素晴らしい画家の一人と言える。


師匠小磯さんも安心しているかもしれない、小磯さんを紹介した竹中郁さんも。
因みに私はお二人のどちらにもお会いしている。

  神戸市立小磯記念美術館 2006519日開会式午後2時訪館  宮田達夫
  


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