最終回

雪組と星組の「ベルサイユのばら」を連続公演した時、
植田紳爾は、僕たちの中ではフェルゼンをするのはこの人でいきたい、
宝塚の中で絞られた三人は、紫苑、朝香、麻路しかない、と言い切っていた。

アンドレが杜けあき、オスカルが一路真輝、
そしてフェルゼンが紫苑ゆう、朝香じゅん、麻路さきの顔ぶれ。

「ベルサイユのばら」の作曲者・寺田瀧雄は白い本にこんなことを書いている。
「私と宝塚。私の仕事場、私の美の発想、私の汗、私の魂そして私の美の極致 寺田瀧雄」

杜がアンドレをするに当たって「幸せとか夢みたいという言葉ではいえないような
ちょっと現実離れしている自分がかえって不思議という感じ」


一路のオスカルは「宝塚に入った時どんな役がやりたいと聞かれた時
オスカルがしたいなあといつも思っていたので、そのものがやれるということは夢のようで、
このように紛争をしていても信じられないという気持ちです」

フェルゼン役の朝香は「とにかく美しく出るということです」
紫苑は「この作品に出れる事が夢みたいで素敵な役をやれて
夢がかなうという事はこのことなんですね」

麻路は「一言でなんていうか判らないけど、信じられない、
この衣装(フェルゼン)を着ている今でも」


この頃の稽古場は熱く燃えている感じがした。
演出家もスタッフも生徒も稽古場に取材に来るメディアも皆気持ちは一つだった。
それは良いものが出来るようにということだった。

ファミリー的雰囲気があり、気持ちが一つになっているようであった。
皆の気持ちのレベルが一致していたのだろう。


月組の涼風真世がまだ二番手くらいのとき
北野は親しくしていた月刊フィガロジャポンの編集者から
いつも言われていた話を思い出して涼風にした。

かなめ、公演が終わって次の稽古迄時間があるとき
ヨーロッパに取材に行く話があるけど、いかないか?

かなめはすぐに、行く行くと二つ返事で答えた。
北野は理事長の坂に密かにこの話をすると、
意外にも坂がそんな奇麗な本の取材なら是非ともお願いしたいですね、と乗ってきた。

かなめの予定を調べると6月丁度数週間の休みがあることが判った。
北野はこの事をフィガロジャポンの親しい編集者に知らせた。
いいでしょう、そこでいきましょう。勿論北野さん、貴方も来れますよね、一緒に。

北野は瞬間に会社は年休でいいかなと考えた。行きますよ。
暫くして運悪く湾岸戦争が勃発した。
陸続きのヨーロッパは厳戒態勢となリ、旅行どころではない。残念。

ところが運良く湾岸戦争は短期間で終結をみた。いけるぞ、北野は涼風に伝えた。

企画の内容は次のようなものだ。
「フィガロスペシャル ベルサイユのばら永遠に 
宝塚 涼風真世フランス15日間の旅オスカルと言う名の私を探して」というものだ。

掲載は1991年8月号だ
同行に歌劇団は男性プロデユーサーを出してきたが北野は女性でないと困ると言い、
理事長の坂に広報担当の春馬を指名した。

北野は関西国際空港から日本航空機のビジネスクラスでパリへ、
涼風と春馬は成田空港からエールフランス機でパリへ。
ホテルは総て四つ星ホテルで、到着後すぐに中華料理を食べに、
ところが涼風は椎茸が大嫌いなのに何故か椎茸が山盛り出てきたので、
おかんむりになってしまった。わざとしたんだろうと。

スタッフは衣装、化粧、コーデイネーター、通訳、カメラ、助手など総勢10人皆現地の人間だ。
初めは寄せ集め人間の集団なので命令指揮系統がばらばら、
北野は腹を立てベルサイユ宮殿での撮影の時、全員を集めてこの企画の原案、企画は俺だ。
つまりおれの意見に従ってくれとカツをいれた。
これが効を奏したのか、それからは全員が誰が親分か鮮明になった。

ベルサイユのばらに関するパリのあちこち、
その合間にスポンサー用のかなめの撮影とかなりハード。
パリからボルドーに行くのに飛行機がストライキ、急遽TGVに変更、
面白い事に団体10人がすっぽりれ座れる車両があるのも面白い。

ボルドーはサントリーが持っている、プチ ベルサイユといわれるお城で撮影、
シャトーベイシブルを作っている河の下にあるセラーまで訪ねた。

ボルドーからパリまで小型飛行機で、この間フィガロジャポンの担当者が
涼風をロンドンに連れて行こうと言いだして、撮影休憩でロンドンに、
再びパリにもどり、今度は
レマンに。
ここの空港は右からですとスイスで左からでるとフランス。
カメラマンがパスポートを忘れてきたので左右に別れた。

ホテルはロイヤルエビアン、丁度英国の皇太后が宿泊していた。
目の前はレマン湖で反対側はゴルフ場、しかも泊り客は無料だ。
エビアンの原水の所まで行き、
再びパリへそして絢爛豪華の食事などパリ満喫取材旅行となった。

そしてフィガロジャポン8月号を、
「ベルサイユ宮殿他フランス現地独占取材、
涼風真世が旅するベルサイユのばら、今年5月23日から2週間
忙しい公演の合間に涼風真世が訪れたベルばらの現地舞台、
フィガロジャポンだけの独占企画全30頁」という華々しい見出しで表紙は飾られた。

かなめは涼風真世のフランス日記で、こう書いていた。
「フランスに来てオスカルはもう一人の私であった。18世紀に生きていた私に。」


これに似た話は麻路さきにもある。
北野が知り合いの日本航空大阪支店長の細川が麻路をひいきにしていた。
その彼が丁度日航がニューヨークを売出したい頃で
麻路をテレビのコマーシャルに使おうと言いだした。
自分の部下だという当時宣伝部長を呼び、麻路と会わせたりした。

そのころ日本航空大好き男が演出家で居た。小原だ。
彼はダンボ耳で何処で聞いたのか、

北野さん、マリコニューヨークにいくんだって」と聞いてきた。
面白い事に麻路が男役のため、
ショートパンツでニューヨークの町を一跨ぎする場面があることが判り、おじゃんになった。
これが実現していたら話題になっただろう。

花の道にお好み焼きの「舞」という店があった。
上方漫才のAスケBスケのBスケの店で、
切り盛りしているのは彼の恋女房の通称おかあさんだ。

この店にはマイグラスならぬマイ升があり、
これが置けるようになることは、それだけ回数を重ねていることと、
おかあさんに認知されたことになる。あなたはこの店のお客よと。
通りから引き戸を開けたらすぐカウンターなので、店には入りやすい。
戸棚には生徒が自分でサインした升がぎっしりと並んでいる。

回を重ねるうちに北野もおかあさんと気心が知れるようになった。
おかあさんは何時も熱い鉄板を前にして小太りの体を器用に動かしていた。
北野は作家の陳舜臣さんを案内して宝塚歌劇を観劇した後、よく「舞」に寄った。
いつしか陳舜臣さん、北野の名前の入った升が戸棚に並んでいた。
「結婚してくれないと死ぬなんて言っていたのに、
こないだなんて、ちょっと酸素吸ってくるなんて言って出て行って、
いくら待っても帰ってこないと思ったら、韓国から電話かかってきたんよ」

旦那は店にいたからどうってことないが、いないと駄目という人間看板みたいなものだ。
いつしかこの店で一路、涼風、麻路の3人の誕生日を各々の日に集まりする習慣になった。
春馬、草野、大橋などが参加、北野はボージョレヌーボーや
シャトウペイシブルのワインをそのために運んだ。

皆遠慮なくできるのが雰囲気を盛り上げた。皆家族という感覚だ。

北野はおかあさんから生徒の話をいろいろ聞かされた。でもつい寄りたくなる店だ。
「舞」も地震で倒壊して仮店舗で営業を続けたが、昔の雰囲気はなく、
おかあさんも体調が悪いと言っているうちに亡くなった。

おかあさんにはどれほどの生徒が世話になったか計り知れない。
宝塚歌劇の陰のスターと言える。


 フェアウェルパーティ 69期

宝塚新劇場建設は七十五周年ではじまり平成二年に着工、
平成四年九月二十八日に完成した。
六十八年と五ヶ月使用した旧の稽古場とはそれまでにお別れして、
宝塚ヘルスセンターの建物を臨時の稽古場に使用した

旧の稽古場さよなら式は盛大に一番教室で行われ
北野も夕方のローカルニュースやネットニュースで生中継した。

生徒たちは汗と涙が染み込んだ床のリノリュームを剥がして記念に持ち帰った。
喜多弘が稽古場の壁に、ここは戦場だったと書き記す姿が何ともいえない淋しさを感じさせた。
北野も剥がした床に大浦みずきや剣幸、涼風真世などにサインをしてもらった。

喜多が言うようにそうだ皆戦友なのだ。ここの稽古場にいた者は。

 落書き  舞のお母さん

宝塚歌劇団には関係者用の業務券という制度があった。
内部の人達が外部の知り合いに公演の切符を頼まれた時とってあげるためのものである。

長年の制度でかなりの枚数がこれで捌けていた。
席はたまには悪い時もあるがそれはそれなりに取って貰った人達には喜ばれていた。
面白いのはこの業務券の引換証に書かれた文句である。
販促の一つで業務券 お願いとかかれており表は宝塚大劇場座席券お引き換証
裏にはこんな事がかかれている。
常日頃宝塚歌劇をご観劇下さいまして有難う御座います。
甚だ勝手なお願いでは御座いますがこの座席券お引き換証をご利用のお客様には
ぜひとも宝塚友の会にご入会頂きます様お願いいたします

この業務券は販促の重要な役割をはたしていた。後にこの制度は消滅した。

旧大劇場の最後の公演は平成4年10月9日からの雪組杜けあきの退団公演は忠臣蔵だった。
作演出は柴田侑宏。柴田も植田と共にサヨナラ作家と言われていた。

忠臣蔵は前々から柴田が狙っていた出し物で杜にはぴったりであった。
振付は柴田が毎回組んでいた花若春秋。彼も後に亡くなった。
内蔵助演じる杜けあきは大楽日最後の場面で下手に入る時、
一言『もう思い残す事は御座らん』と言って引っ込んだ。

ファンへの別れ、劇場への別れ、自分自身への別れ、総べてを
杜けあき、愛称かりんちょは上手いこと最後を仕切ったと北野は舞台を見ていて思った。

討ち入りの日に近い平成4年11月24日大劇場は幕を閉じた。

幕が下りた途端に関係者が一番に狙っていたものは座席の後についている座席番号札であった。
ドライバー持参であっという間に持っていったのが、やけに愉快に思えた。


北野は消え行く大劇場になんともいえないノスタルジーがあった。
それは初舞台生のロケットお披露目で舞台の上から生中継したこと、
これが北野の?宝塚大劇場の初舞台であった。
そして月組のボーイミーツガールの舞台稽古も北野が舞台から生中継した。
この時は、榛名由梨がトップで大地真央もいたが下級生だった。


新劇場は平成4年12月12日「祝典花絵巻」「宝壽」で舞台開き。
小林公平が真剣で舞台の上でしめ縄を切った。

平成5年1月1日星組の、「宝壽頌」と「パルファンド・パリ」でこけら落とし公演だった。
星組のトップは紫苑ゆう次いで麻路さき。
トップスターが退団する時最終公演の最後に必ずサヨナラショウがある。

本公演終了後緞帳前で組長が挨拶
休憩のあとトップスターの思い出の曲集となる。
続いて組長がセンターマイクで退団者の紹介
すみれの花咲く頃の曲が流れる中退団者が次々と大階段を降りる。
退団者に花束贈呈、退団者挨拶で緞帳となる。
大階段から緑の袴をはいて降りる事ができるのは研8以上でそれ以下は舞台の裾から出てくる
たまに大階段から降りれない退団者もいた。

退団する生徒がいると稽古最後の日に稽古場で全員が円陣をつくり、
退団する生徒に一人一人からばらかカーネーションの花を渡し、
言葉を交わしながら別れを惜しんだ。この時は上級生からとかいう事はない。
演出家もスタッフも事務所の人も加わった。

近年、稽古が終わり退団者を送るので組長が花を用意、ところが生徒が円陣にならない。
いくら声をかけても聞かない、そのうちに各々の期ごとにばらばらに始まっている。
自分勝手に、自己虫であった。

北野は組長に言った。皆輪になってやるということを知らないんだよ、
見たこともないし、鼓笛がなくなり、舞台の位置決めがなかなか出来ない。
稽古場の別れの場でもチームワークがなくなっている。
伝統の中の継承がされないまま時が進み、宝塚の伝統が消滅しはじめていた。

夢のアイランドは向こう側にあるのでなく、遥かかなたに行ってしまった。
つまり遥かかなたの向こう側だということである。


何事にも運がいる。北野はよく麻路さきにお辞儀は只、見返りは大きいと話していたが、
もう一つ運八十努力二十だと言う事もよく話した。


新劇場になってから、やたらに足をけがする事故が多くなった。
宝塚で古くからお店をしている人が北野をある日呼び止めた。
「最近怪我が多いけど塩をラップに包んで肌につけておいて、
稽古や舞台が終わったら足元にまくといいんですよ。言ってあげて」

北野はそれを誰に言えと言うのかはすぐに理解できた。

星組のトップ紫苑ゆうが稽古中にアキレス腱を切ってしまうアクシデントが起きた。
稽古はかなり進んでの事故であった。
劇団としてはどうするか迷ったが麻路に
「紫苑の代わりがやれるか」と聞いた。
いつも夢を見て次を求めてきた麻路、その夢は人には決して話さない。
何故なら話したら運が消えてしまうと考えているからだ。
夢にみていたトップ・・の代役だがトップの役だ。


「うたかたの恋」のルドルフの役が目の前にある。
自信は・・・ある。いや無い。でも
「やってみます」
麻路は震える心の中の動揺を抑えてプロデユーサーに、劇団に伝えた。
演出は柴田侑宏。申し分ない。
運があっても努力しなければどうしようもないが、
努力しても運が無ければ、これまたどうしようもない。

運八十努力二十とは、このことかも知れない、と麻路は思った。
かつて麻実れいと遥くららが演じた出し物である。
姿、風貌ともルドルフは麻路にはぴったりであった。


北野はしばらくご無沙汰していた宝塚の舞台稽古を見に行ってびっくりした。
舞台の上で動き回っている演出助手を見て何処かの裏方会社の人かと思ったからだ。

それほど異質に感じた。
今は一本立ちしている正塚も中村も小池も谷も石田も皆、演出助手時代は稽古場で
あるいは舞台稽古で次の世代に宝塚的なものを教え教えられてきたのだ。
生徒も宝塚は何ぞやというものを彼らから学んだ。

それがいつしか伝えられなくなっていたのだ。
それで舞台稽古の雰囲気も以前と変わっていたのだ。

裏を返せば昔は白井組とか誰誰組とかという徒弟制度みたいな形でもの作りを学んでいた。
そこから身にしみて風潮が身に付いた。それが今はない。

日本物をしても刀の差し方も知らない。
昔は上級生が歌舞伎を観るツアーをつくり、
下級生もそれに連なって観に行き覚えたのだが、今はない。
そんなツアーを組んでも参加する生徒もいない。

いろいろな形の宝塚の良き風習が何処かに去ってしまった。
伝統は消え、歴史だけが進行している。

去ってしまった今求められるものは、宝塚らしさである。らしさとは何なのか?
華やかなコスチュームと共に歌と踊りのなかに芝居がある。
ストーリーは甘く悲しく切なくロマンが限りなく存在する。
つまりは宝塚大劇場の機能を生かした作劇法があるのだ。

場面転換が速い、30秒とか40秒の早替わり、
素早い背景の転換全てがやすみなく進行するとことが魅力なのである。


宝塚の演出家は座付き作者ということを忘れてはいけません。
生徒のキャラクターを生かす、かつて高木史郎がこんな事を言った。

白井さんが演出していると使ってもらえない生徒が文句を言いに白井さんの所に行くと、
一言、君が下手なんだから使えないよ、で終わった。いいですね。


理事長の市川安男にもこれとよく似た話があった。
ある演出家がロケットと大階段を降りるフィナーレを作らなかった。
それを観た市川はその演出家を呼び
今後ロケットとフィナーレをしないなら、辞めていただきます、と言った。

その後、最後にストレスを消してくれるロケットとフィナーレは必ず観ることが出来た。

宝塚の男役は本来中性であり、疲れもなく現実の男でもない。食べてるものはカスミだ。
おいそれとスーパーマーケットに葱や豆腐など買いに行けない。
そんな姿をファンが見たらすぐに抗議がその生徒の所にくる。
カスミを食べて生きている人が葱を食べるなんて。

かつて振付の喜多が男役でも女に変える振りがある。
そういう時は男と女の境界線をつくると。
男役のズボンの裾は斜めにカットしてさらにゴムで靴の下と結び、たるみを見せない。

科白も現代風は夢の世界を作りにくい。
演出の柴田がトップに喋らせる科白を作るのは難しいと言ったが、
そこが座付き作者の腕であろう。

娘役も女ではいけない。あどけない娘でもいけない。宝塚の娘役が必要なのだ。
声のトーンも遥くららが、一オクターブ高い声にしていたので大変だったと言っていたが、
そこが娘役をする人の気持ちなのだろう。


宝塚という永遠のテーマは決まっているが、宝塚らしさは消え去りはじめた。

「地震の年にやっとトップになりました。
12年間アッという間で、これから残りの宝塚生活を大切にガンバリマス。
まだ地震の傷跡が残る今だけど復興する頃は私ももっと大きくなりたい。
       95
年3月31
 S ASAJI」白い本より

らしさを維持した最後の生徒が涼風であり、一路であり、麻路であったのではないだろうか。
この三人の中で裏方に一番のエピソードを残したのは麻路だろう。
星組公演で「二人だけが悪」という芝居で、装置を常に移動させないといけない物語であった。
このため公演中、裏方二人が装置の裏に入りっぱなしになった。
それを知った麻路は初日から千秋楽まで毎公演が始まる前に、二人の裏方に自分でジュースを、
しかも蝶の形をしたナフキンをストローにつけて運んだ。
千秋楽の日、裏方が麻路に花束をお礼に贈った。

この話は理事長の荒木から聞いた。蝶の紙ナフキンの話は裏方から聞いた話だ。

もうひとつある。
麻路の退団公演の時かなりのハードスケジュールで体もぼりぼろになっていた。
ショーで痛めた足は回りで見ていても痛々しかった。
心配していた北野にある日、舞台事務所の林が、もう大丈夫です、
特製の早替わり部屋を舞台の裾に作りましたからと言ってきた。
こんな事今まで誰にもしたことがありません。林はさらに付け加えた。
あの子は私たちの所に気を使って自分でお菓子や飲み物を運んでくるんですよ。
普通は下級生に運ばせるのに自分で持ってくるんです。
そりゃ何かしなくてはと思いますよ。
その結果が過去どんな生徒もしてもらった事のない舞台横の特製早替わり部屋だった。


いよいよ最後の日、大階段を麻路が降りてくる日になった。
舞台事務所の林も豊田も、北野さん安心して客席で観ていてください。
ちゃんと階段降ろしますから。過去に沢山のサヨナラ公演は観たが、
裏方がここまで燃えて全員が集中したサヨナラ公演は観た事がなかった。

宝塚大橋で北野にお辞儀をした麻路、
そしてお辞儀は只だ見返りは大きいから誰にでもお辞儀をと教えられ、
それを守った結果がこれであった。


麻路さきの退団記者会見は大阪の阪急インターナヨナルホテルで行われた。
はじめに理事長の植田伸爾が
「宝塚の男役の美学を具現化できる数少ないスターの麻路さきに
次の時代に指導や教えをして欲しいと思ったが残念ながら駄目でした」と挨拶した。

続いて麻路さきが次のように話した。
「いろいろと考えてこういうことになりました。
トップになって3年目頃から今後の事を考えるようになり、全く白紙状態なので
これからさき、生きていくのに何ができるか考えるにも退団を決めてからでないと、
男役にも集中できないと考えたからです。
東宝劇場がなくなること、4組で育った自分なので
5組になることも辞める時かなとも考えました」


北野は以前に植田からこんな話を聞かされた事があった。
「まりこを専科にして毎年一本まりこの主役の出し物をやると共に
後輩を指導してもらいたいと考えている。北野さんからもまりこに話してみてくれない」

その話を北野はまりこに話した。
「でも専科と言っても今のままではなんの変わりもない事になり、
専科の最下級生ということになってしまうだけでしょう」

北野には、まりこの言う意味が理解できた。
要するに環境整備されたのなら別だと言う事であった。


麻路さきのサヨナラ公演は勿論植田紳爾が担当した。
暴君ネロの話の「皇帝」ショウは草野旦で「ヘミングウエイ レビュー」

稽古が始まりしばらくして北野は宝塚歌劇団の事務所をのぞいた。
ちょうど植田紳爾が稽古場から事務所に戻ってきた時だった。

北野の顔をみると、すうっと近づいてきて
「まりこの稽古見た?いいから見てよ」といった。
北野はこんな事言うのは珍しいなと思った。
かつて鳳蘭が去るとき見せた同じ淋しさを感じたからである。
皇帝でネロの役をする麻路さきの最後の科白は
「皇帝にして神。芸術家にして道化師。
悪逆非道の暴君ネロ・・・永遠に帰らぬ・・・旅に・・発つ・・」

植田はこの時既に麻路が結婚の道を選んだ事を知っていたのだろう。
未来がある人には旅立ちを与えていた植田の物語がここでは帰らぬ旅と表現しており、
鳳蘭のように芸能界に行くのでないことで、このような言い回しにしたと、北野は思った。


面白い事に麻路さきは旧の大劇場、稽古場、楽屋、仮の稽古場、楽屋、
新しい大劇場、楽屋、稽古場総てを経験したスターであった。


北野の心の中に走馬灯のように思い出してくるのは、
三人組と言われた涼風真世、一路真輝、麻路さきの三人の誕生日の時
必ずお好み焼きの「舞」に三人集まり互いの誕生日のお祝いをしたことである。
北野は舞のおかあさんがいつも横で嬉しそうに見ていたのが印象的だった。
その舞のお母さんも亡くなった。集まる度に三人は何の気遣いもなく楽しんでいた。
そんなトップは後にも先にもいない。
同席する顔ぶれは時々変わったが、鮎ゆうき、麻園みき{麻路さきの妹}、
春馬誉貴子、草野旦という人達である。

それと月刊誌のフィガロジャポンに「デジャブ」というタイトルで
エッセイの連載を麻路さきにしてもらい、その後同名のタイトルで
北野が入団当時から撮り続けた麻路さきの写真と麻路さきのエッセイを一つの本にして出版、
その出版記念会を外国人プレスセンターで開いた事であった。


北野が知っている宝塚歌劇は夢のアイランドだった。

作家の陳舜臣さんは北野に進められ気分転換にと星組の麻路さきの舞台を観てきた。
それは麻路さきが研三の頃からである。
星組だけでなく花組も雪組も月組も観劇した。そして宙組も見た。


          陳舜臣

「宝塚は毎日が黄道吉日
太陽が運行する円
春分をゼロとして今274度
毎日同じしあわせ TAKARAZUKA 1984年1226日 陳舜臣」白い本より 

    
        あとがき

昭和51年、関西で夕方の時間帯にローカルのニュースをメインにした
ワイドニュースを民放各局はスタートさせた。

私は当時、事件記者をしており、ローカルニュースの編集長から
切ったはったでないニュースをと言われ、宝塚歌劇を思いついた。

宝塚歌劇団の当時の小林公平理事長に「関西の宝」の宝塚歌劇を取材したいと話すと、
世界のでしょうと言われたのが妙に頭に残った。

女だけの劇団でかつてはこの記者に頼まないと宝塚の取材が出来ないとか、
いろいろ話を聞いていただけに、取っかかりは歌劇団にいた甲斐さんと沼田さんであった。

その頃の劇団事務所は古い建物の中にあり、事務所の左奥に理事長室があった。
「ベルサイユのばら」3の公演の時は、宣伝担当は大西八洲男さん、春馬誉貴子さんになっていた。
宝塚歌劇の取材をはじめると反応も凄いし、未知の世界だけに取材の魅力も充満している。
稽古場からの生中継、稽古場の取材、舞台稽古、初舞台生のロケット、
合格発表と初めての試みとあり、常に話題を生み、ニュースの重要な一項目となった。

当時は劇場も取材になれておらず、
舞台の音をラインで取るというのもなかなか理解してもらえなかった。
そのため舞台の音をマイクで取ったりしていたが、
生徒のワイヤレスマイクがハウリングを起したりして大騒動になつたりした。

熱心に稽古場に行き、生徒達と顔見知りとなり、気心が知れ、事務所の人達、
スタッフ、裏方にも取材の目的が明快に理解され、協力を惜しまずしてくれるようになった。

私や熱心なメディアの記者はいつも稽古場に来て稽古を見る、
そこで生徒達も芝居に必要ないろいろな話を聞き、見聞を広めたのだった。

スタッフもしかりで、互いに作品をより良いものにしようという気運は自然に高まった。
皆が一丸となっていたのだ。

忘れられないのが旧一番教室をはじめとした旧事務所の取り壊しである。
一番教室でのフェアウェルパーティの時、
生徒や元生徒は自分達の汗と涙が染み込んだ稽古場の床を剥がしていた。
私も濃い緑色の床の一片にサインしてもらったのを大切に持っている。

それと退団する時の最後の稽古場でのセレモニーである。
お嫁に行く人は頭に花飾りをうけ、楕円形になった生徒一人一人から一輪の花を贈られ
別れの言葉を交わし、これにはスタッフも事務所の人もメディアの人も加わった。

サヨナラ公演の取材で忘れられない人達は汀夏子、安奈淳、鳳蘭、遥くらら、榛名由梨と
但馬久美、麻美れい、杜けあき、一路真輝、涼風真世、麻路さき、白城あやか他沢山いる。

蛇足だが、私がワイドニュースを担当していた時、
宝塚歌劇を取り上げ放送した回数は約150回、
これを放送当時のBタイム料金で換算すると1分100万円としてざっと7億円位。
又、当時コマ劇場でした三十周年記念事業公演と大阪城ホールで開催した
第一回一万人の第九コンサートに、花組の出演は市川・坂理事長が
会社でなく貴方に提供するのですという発言は私の胸を熱くした。

スタッフも稽古場で鳳蘭が去った後の稽古で、
植田紳爾さんが瀬戸内美八に思わず、ツレちゃんそこ違うと無意識に発言したり、
麻路さきの最後の公演の稽古で彼女は良いよ、見た?見てよという発言。
柴田宥宏さんの様に生徒を細かく分析してダメだしするとか、
小原稔弘さんみたいに生徒に燃えたり、
岡田敬二さんは生徒と喜んだり気軽にメディアに意見を聞かせに行ったり、
喜多弘さんみたいに熱く燃え、
寺田瀧雄さんは自分の音を大切にし、皆観客に夢を与える努力に懸命だったのである。
私はそれを嫌でも稽古場で見聞きし尽くした。
それを証明するのは文中に引用した白い本の文章であろう。

当時劇団にはこんないい雰囲気を創り出してきたのが、宝塚の伝統であり、歴史である。
メディアの取材者として、語り部としてそれを書き綴り残したかった。

2002年1月、夢のアイランドは向こう側に行ってしまった。私はそう思った。

                    完


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