「とってもゴースト」

演出 ワームホールプロジェクト 脚本 横山由和 ワームホールプロジェクト
音楽 八幡 茂 振り付け 中川久実 香瑠鼓 美術 朝倉摂 衣装コシノジュンコ
照明 服部基 音響 実吉英一 出演 鈴木ほのか 鳥居かほり 広田勇二他

音楽座の久々の舞台を観劇した。
演目は1989年初演の「とってもゴースト」だ。
勿論日本のミュージカルだ。どうもミュージカルというとブロードウエイとなる。
ずうっと以前から日本に和製ミュージカルと言われつつ、その期間は森繁久弥の
「屋根の上のヴァイオリン弾き」がミュージカルの主流をなしていた。
これが多分日本のミュージカルを創る土壌を乏しくしたのだと私は思っている。

音楽座はとにかく、日本人の役者で日本人のスタッフで日本のミュージカルを目指している。
そこが貴重だ。ブロードウエイの作品を公演しても所詮はイミテーションに過ぎない。

音楽座と並んで地道に日本のミュージカルを見せてくれているのが、
「山崎陽子の世界 朗読ミュージカルだ」。
しかし何故か日本のメデイアはこうした舞台の取り上げ方がお粗末に感じる。
何でもっと積極的に取り上げないのだろう?大手の劇団は取り上げても?


劇評なんて,自分の信念で書かないといけない。悪くても悪いと書けない?
書かない今のメデイアは何の為に有るのだろうと不満に感じる。

劇評が書けなければ、誰かに印象記を書いてもらったほうが気が利いている。
舞台を論じるには己が責任を持って建設的に書かないといけない。
建設的というのは、悪い所は悪いと書くことで,それをどうしたらいいかまで書く責任はある。


「とってもゴースト」は鈴木ほのかと鳥居かほりの配役でみた。
劇場は2005年に開館した兵庫県立芸術文化センターの中ホール。


仕事に夢中で鼻持ちなら無い女が事故で死んで幽霊となり、ある時間だけ人間に戻るが、
その時に恋に落ち、やがて人間に必要なのは愛だと自覚するという話だ。

今回、舞台を見ていて不思議に感じたのは、鈴木ほのかという女優さんは
こんなに素晴らしい素地を持っていたのだと再認識をした事だ。


一幕は何か舞台の流れが悪く鈴木ほのかも、気性の強い現代女を、
ぶつ切り的な芝居で演じていたのだ。
所がニ幕に入り、出会った男と次第に愛が目覚めはじめていく過程で、

ソフトムードが舞台で感じられ、芝居の流れが不十分と思うところも
彼女がその部分を上手くなぞらえていった。

そして最後、又幽霊に戻らないといけない、そして戻っていく、
そして現実の世界に戻り回顧が終わった瞬間の舞台で見せた
鈴木ほのかのフィーリングに目を見張った。


芝居の面白い所はそこなのだ。それが毎日生身の人間が舞台で演じるスリルだろう。
舞台転換がどうしても裏方が出てきてするので物語が半減させられる向きがある。
振り付けに付いてもよく言うことだが、直線的、平面的なのだ。
やはり考えて幾何学的感じで舞台の人を動かしてくれると
観客は更に舞台に感動するだろう。


舞台上で全員が同じ動きの中で進行するが、時には下手、上手の集団で
別々の振りが有ってもいい、例えて言うならボッブ フォッシー的なものが
取り入れられるといい感じになるのではと。

この振りも初演のものだと思うが、できれば新たな振り付けだと良かった。
イス、モップ、傘と舞台の踊りに良く使われる小道具だが、
此れをつかってもさほど効果は出ない、
モップの場合は一人でするならまとまるが、大勢になるとなかなか難しい
傘もだ、ミュージカルのクレイジーフォーユーの中でフライパンの上で
タップを踏む場面があるが使い方出来方であろう。
こうした小道具はなんとなく?使いたくなるらしい。


とってもゴーストは八幡 茂の音楽だけに素晴らしい。
それだけに、振りがさらにいいと総ての良さが加速されるのだ。

八幡 茂はミュージカルが判っている人だけに、歌いだしというか音楽の流れと言うか、
総てにおいてスムースに進行して行くように曲つくりをしているので安心だ。

台詞の所と歌に入るところの音つなぎも何の抵抗も無いのがいい。
演じるほうも歌いだし部分はすんなり歌に入り見ているほうに嫌な抵抗感が無く良かった。


衣装、これも配色などもう少し考えてほしい、
それと若い役者が普通に服を着こなしていないという、可笑しな事に気が付いた。
普段の生活に背広の生活がないのかと。同じことはドレスの着方にも言えるのだ。


米国のラスベガスでは夕食を食べに行く、舞台を見に行くというので
ドレス屋?にドレスを買いに行き,直に着ていく生活だ。
だから着こなしが自然なのは当たり前。日本人の場合はわざわざ着るのだ。
日常生活にその部分は無い。

例えの話だがキスシーンでも日本人は、わざわざ演じるが外国では生活の中での動作だ。
ぎごちなさの違い演技でない演技の部分の違いだ。

この辺りをスタッフは考えて創るとさらにぴったりした日本のミュージカルが誕生する。

舞台の面白いのはもう一つある。
物語の中で雑誌記者がカメラマンと鈴木ほのかを取材に行くが
一幕ではさして感じない事なのに、ニ幕の大スクープの場で萩原弘雄の芝居、
踊りの間が抜群にいい出来なので、勿論女優もいい、ふと感じたのは、
このシーンは一種のショートストッパーだと。

夢から醒めた夢と言う芝居も幽霊の芝居だが、
大切なのは単純に愛がこんなに大切なものかと言う事を観客に知らすことだ。

音楽座の芝居はちゃんとそれを観客に伝えている。

プログラムで小田島雄志が音楽座の芝居は既成概念がなく自由だと
言っているが、その通りだろう。
またそうでないといけない。
役者の事ではもう一人、広田勇二の存在だ。
彼が横に居るので鈴木ほのか芝居が引き立った。

メインを脇で支えられる役者が劇団に居ると言う事は大切だ。
安中淳也は最後の芝居を意識してか初めの出だしの芝居が中途半端に感じた。
何かを予感させようと言う感じの芝居をしているように見受けた。
最後に見せる芝居の寸前で終わる芝居を初めに見せてくれていると居ると、
最後のくだりの芝居がもっとドラマチックになるのでは?
如何に鈴木ほのかを安中が操り人形のようにあやっていくかが、
舞台の出来を決める芝居だ。


欲を言えば役者の層にもう少し厚い層があると、いいと思うのは欲張りか?
それと舞台に隙間を感じた。全体空気が薄いと言う事で、
各々の芝居の密度を濃くして欲しい。

照明はかなり苦労したのかもしれないが今の技術では
もう少しメリハリをつけた照明が出来たはず。
舞台のあちらの世界とこちらの世界の区別や平面的なところを補えたと思う。


芝居は余にも決め付けられ舞台ばかり見せられると、芝居とはどんなものか、
演技とはどんなものか判らなくなる。

そうした時に音楽座の舞台は小田島雄志の言う既成概念がなく
まったく自由と言う言葉の適切さを思い出すのだ。

かってはどん底やセールスマンの死、桜の園という芝居をみて
演技とはこんなものを言うのだ、舞台とはこれをいうのだとお手本があったが、
今は無いだけに観客に
芝居とは判るように演じる事は如何に難しいか判らせないといけない。


音楽座もこれからまた素晴らしいものを創りだしていくのだろうから、
既に遠くなった
昭和の時代のミュージカルを舞台化して欲しい、
個人的にはある台本作家に資料を渡して書いて欲しいと希望している。

懐古の昭和に成り始めた今昭和には日劇を取り巻く出来事から、
ロカビリー時代、ジャズ喫茶、美空ひばりや沢山の歌手、新橋のショウボート、
限りなく素材は山積みされている。


舞台の創造は大変だが熱意を見せれば客は来る、
関西の客は更に訴えるものが強ければ必ずついて来る。
再演もいいが新作も期待する。


兵庫県立芸術文化センターの中ホールは客席800、
可動式でオ―ケストラボックス創れるが全体に急角度の印象、
上下の横の席は舞台がなんとなく見にくい感じがした。


ただ劇場にクロークがあるのは助かるが、大きなバッグを持った若い女性が
それを預けないで客席に持ち込むのは迷惑、場内案内係が適切にアドバイスすべきだろう。

大、中、小の3つのホールがあるが、観劇後舞台の興奮を共に語る場所が無いのが不満、
有るのは格式ばったレストランで、劇場までの導線上にも所謂カフェ的なものがなく、
そのまま電車に乗る事になる。

劇場文化なんて観劇後の観客が共に語れて論じられる場所が有って初めて発展するのだ。
比較には程遠いが、パリのオペラ座前にあるカフェドラペがその例だろう。

兵庫県立芸術文化センター中ホール 2006年1月21日観劇 A席 I列3番 チュー太


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