「五線紙の街」           

〜神戸を彩った人たち〜

2004−2   宮田達夫

田宮三郎は夕暮れも迫る頃、阪急三宮駅で阪急電車の特急からホームに降り立った。
改札口を出てエスカレーターで下に降りて西口に出ると、
そこは待ち合わせの格好の場所だけに若い男女で混雑していた。

人ごみを抜けて東門筋に出た。幾分気持ちが落ち着くのが田宮には判った。
人通りも落ち着いてきたからだ。
神戸三宮の空気はやはり大阪と違う。洋風だなと思った。
東門筋を出るとそこは北野坂だ。六甲の山並みを背景にこの辺りは真珠会社が軒をならべている。
俗に北野坂はパールストリートと呼ばれている。
なぜかというとヨーロッパやアメリカなどから真珠を買い付けにくるバイヤー達が、
糸に真珠を通しただけの物を腕に下げてこの通りを行き来する姿をしばし見かけるからだ。

なにしろここ神戸では全国の真珠の90パーセントが加工生産されていた。
真珠会社も田崎真珠、タカハシパール、今啓パール、森真珠、山勝真珠はじめ沢山の真珠会社が存在して、
毎年ミスパールを選んで有名なタレントを司会に招きテレビで放送するなど真珠全盛時代は華やかな限りであった。

勿論神戸ファッション華やかでスポンサーは真珠会社、毎年大舞踏会も開きご婦人はロングドレス、
紳士はタキシードでバンドのリズムにのり、ダンスフロアーを所狭しと軽快なステップを繰り広げたものであった。

スーパーダイエーも三宮センター街の通りの一つ裏をダイエー通りにともくろむなどした。
また神戸布引近くにホテルと共に二十四時間営業を目指した夜の不夜城オーパーを建てるなど
神戸の街がオールナイト化するのではと思わすほどの勢いを見せた時代だ。

横八キロ縦四キロと言われた神戸の全盛時代だ。

騒音の激しい三宮からパールストリートまで来ると、辺りは静かになり夕暮れ時ともなると
回教寺院よりイスラム教徒が唱えるコーランが聞こえてくる。

それに混じって何処かの店で演奏しているジャズの音が聞こえてきて、
互いの音色が邪魔せずにハーモニーを生み出す所がメトロポリタンと言われる神戸の所以だろう。

神戸の街は不思議な所で外国人も好んで下駄をはいて銭湯にいくほど馴染んでいる。
華僑、在日韓国人を筆頭に世界中の国の人達がここ神戸に居を構えている。
その数は六十万人とも言われた。
その為世界中の宗教の総ての寺院が神戸にはあるだけに珍しい街でもある。

そして各国の人達が喋る言葉、奏でる音楽が自然と神戸の街の音になっている。
その音を一枚の五線紙の上に置くと自然に神戸のメロディーが聞こえて来るように思われた。

正に五線紙の街であり音符の街であった。

北野坂に劇団文学座が公演に神戸を訪れたとき泊まる定宿の北野旅館というのがあった。
そして其処に北野旅館の息子が経営している「SONE」というジャズを演奏している店が在り
いつも音楽が外まで聞こえていた。

その前を通り過ぎると細い横丁がありそこを入ると地下に降りる小さな階段がある。
「ウッドハウス」はそこにあった。造りが木創りなのでそこからこの名前が付いた。
黒人のチャーリーが一人で店の奥にあるピアノの前に座りピアノを弾いたりギターを弾いたりしていた。
こぢんまりしていて、田宮の好きな店だ。

「や、三郎。元気かい」
店の扉を開け中をのぞいた田宮に達者な日本語で呼びかけてきた。
チャーリーはいつも田宮のことを三郎と気軽に呼んだ。
そこの横丁を通り過ぎると坂の途中に「ガスライト」がある。
店の扉を開けると左側に長いカウンターがあり突き当たりにグランドピアノ、
その周りがバーカウンターになっていて客はそこで飲みながら「カズ」のピアノを聞いている。


通称「カズ」本名は中川和だ。背は高くなく目はくりっとして丸顔をしている。
関西学院大学を卒業したカズは得意なピアノの腕を生かして進駐軍のキャンプ回りをして
英語とピアノの才能を生かし芽生えたようだ。そして其処で得た物が後の彼の財産でもあった。


カズが弾く軽快なピアノの音は神戸の外国人に特に受けた。
その為か神戸に住む外国人、神戸を訪れる外国人は皆カズのいるガスライトに集まった。

外国人がここに集まる理由もあった。
それは店を訪れた外国人の顔を見ただけで何処の国の人かを見分ける術をカズは持ち合わせており、
即座にその国のメロディーを弾くからである。陽気な外国人はすぐに大喜びする。

折から一人の外国人が店に入って来た。カズはピアノを弾く手を止めずに目だけちらっと動かすと
即座にアメリカの野球場で七回に歌う
『私を野球につれていって Take me out tothe ballgame』を弾きだした。

カズを囲んで水割りを飲んでいた外国人たちは一斉に拍手をした。

カズは以前からバンジョー弾きのサミーと組んで演奏をしてきた。
サミー名前は横文字だがれっきとした日本人だ。
デキシージャズはバンジョーが入るだけで雰囲気と音がガラッと変わり聞き応えがある。
サミーもバンジョーの演奏にかけては右に出る者が無いぐらいの技を持ち合わせている。
彼の妻はニューヨーク出身だとしか田宮は聞かされてない、
めがねをかけた小柄な女性で過去に一度しか会った事が無い。


田宮はふとカズの横で泣きじゃくっている白人の女性に気がついた。
カズまた泣かせているなと思った瞬間、この白人の若い女性が大声でカズにかじりつきわめき出した。
カズが幾らとりなしても、言う事を聞かない。家に送れといっているらしい。
カズはしきりにピアノを弾きながら今は駄目だとなだめている。

周囲の外人たちも何となく雰囲気がしらけてきた。
「カズどうしたの」田宮が聞いた。
「ああ 宮ちゃん」
カズは田宮の宮だけとって呼ぶ癖がある。歳も生きた年代も同じだけにそこには気安さがある。
「スージーが家までおくれというんだよ」
「カズ 俺が送ろうか」
『お願いします』
カズはピアノを弾く手を休めることなく、すかさず言った。
「スージー 僕が家まで送るよ、いいだろう?」
スージーはあどけない顔で黙ってうなずいた。外に出ると松竹タクシーがすぐにつかまった。
スージーはタクシーに乗ると運転手に熊内にいくよう行き先を告げた。

田宮はタクシーの中でも泣きじやくるスージーに何が原因なのか聞くつもりも無かった。
カズのように英語も喋れてピアノも弾けてとなると外国の女性もほってはおかない。
スージーの家は坂道の途中で車が後戻りしそうな所にあつた。
「アリガトウ」スージーは黙って一言言うとそのまま家の中に入っていった。
十九歳の女の面影は其処には見当たらなかった。


一世風靡した神戸の新開地はすでにかつての面影は無く、
その賑やかさは神戸三宮に変わっていた。
それも中心は北野坂あたりである。

もともとこの辺りは異人館が多いところで、そうしたなかに新しい感覚の
ショッピングモール風のローズガーデンが出来、キングスコートが作られ、
神戸に魅力を感じる人達が集まるようになった。

道を行き来する外国人もサリーを着たインド人や中国人、韓国人、米国人、英国人、
イタリア人はじめ人種の坩堝という言葉が最適かもしれない。

この頃は朝早くフロインドリーブの焼きたての塩パンをかじりながら
三宮の駅に向かう外人の姿がよく見受けた。

余談だがフロインドリーブで働いていた人が独立して阪神岡本でフロインDという店を開いた。
古い平屋の家で焼かれるこのパンの味はさすがで、焼く数も大量でないだけに直ぐ売り切れだ。


冬になると白樺で暖炉を暖めるバー柳ヶ瀬は螺旋階段風を上ると店という作りで、
中は右側にカウンたーがあり突き当たりに暖炉が、
冬になるとここで白樺の木があかあかと炎をあげていた。
知る人ぞ知る店で、今で言う隠れやであった。

そうかと思うとしもた屋風の一見普通の家かと思わせる店で、
「さぬきや」という美味しい焼き鳥を食べさせる店があった。
頑固一徹なおばさんが全権を握って商売しており、愛想はないが味は最高という店で
引き戸を開けて恐る恐る中をのぞくと、
かのおばさんが一言「もう無いよ」で失礼しましたということになる。


神戸一のナイトクラブ「ナイトアンドデイ」は狭い入り口をはいり
螺旋状の階段を上がるとホールになっていて、外国からきたバンドが演奏していた。
値段も手頃で女性を連れて行くには最高というところ。
この店は中国人の経営で横浜にも店があった。

通称ペコがピアノの弾き語りをしている「ビージービー」とか「男爵」とか、
中華料理店では別館牡丹園が別格で第一楼、群愛飯店、天竺園、という
隠れ中華店がてんこもりに散在していた。

群愛飯店はおじいさん筆頭に家族で店をきりまわしており、
ここの奥さんが気の優しい人でお客に愛されていた。

群愛飯店の店先でそこがまだ群愛飯店でない頃の昔作家の陳舜臣さんが
そこで原稿を書いていたと言う話を聞いたことがある。
天竺園も親子で経営しており北京の田舎料理を食べさせてくれた。
ここの娘の焦梅華<チャオ メイフォワ>は聡明な女性で
1970年の日本万国博覧会の公式ホステスになり英語と台湾語の通訳となり
ナショナルデイに台湾の総統が来日したときはエスコートするなど活躍をしたりしたが、
後にMAY HAWという中華風バー風の店を作り
メディアや演劇関係者が集まる不思議な店となった。


「トーアロード」いかにも外国風の名前に聞こえるが、
以前にこの通り突き当たりに東亜ホテルというのがあり、それから由来すると聞いた。
勿論谷崎文学に出て来たハイウェイーとか帽子のマキシム、
美味しいサンドイッチを食べさせるデリカテッセン、新仙閣、
厚いビロードのカーテンが店の入口のドア代わりのイタリア料理のドンナロイヤは
海岸通近くの東明ビルの地下にあった。

店のカウンターにはいつも白髪の主人のドンナロイヤがイタリア語でお客と立ち話をしていた。
何処もかしこもが外国を感じさせる所でそれが神戸であった。

勿論、神戸の象徴みたいな外人墓地は早くから再度山の方に移転した。
しかし名称だけは国鉄臨海線の信号機に外人墓地踏み切りと記されていた。
残念ながらこれに気がつく人は誰もいなかった。
この頃はワンハッピータイム所謂連れ込みのホテルもこうした店と共に乱立してあり、
なんとも言えない雰囲気をかもしだしていた。

面白いのは中華料理店がそのホテルに出前をすることだ。
ホテルにはメニューが置いてあり値段は百円上乗せしてあるという。
いかにも合理的に出来ている。


ある日、田宮が久々にガスライトにいくと店が閉まっており木材が打ち付けてあった。
変だと思いウッドハウスをのぞくとチャーリーがいたので聞くと、
店のオーナーが博打のかたにとられたらしいと教えてくれた。
カズは何処にと聞くと知らないという。 

浮き草稼業のジャズマンと言うがよく言ったもんだと思った。
暫く三宮界隈を行く店ごとにカズの行方を尋ねたが誰も知った人は居なかった。
「カズならフラワーロードの所でデキシーランドと言う名前で店をやっているよ」
と田宮の知り合いの男が教えてくれた。
フラワーロードには神戸市役所の向かい側にテキサスターバンという店があり、
この辺りは遠めに見るとヨーロッパ風の景観を感じさせる所であった。

すぐ近くに石作りの6階建ての新神戸ホテルという古いホテルが在り、
営業は既にやめていたが、その代わりにアパートとして人が住んでいたが
外観は神戸の街のランドスケープに豊かさを与えていた。


カズの新しい店デキシーランドはフラワーロードに面した所に会った。
西部劇のバーのように入り口は両開きで、
中に入るとカズが小型のグランドピアノで得意のメロデイーを弾いていた。

『お久しぶり』
カズはピアノの演奏の手を止めずに何時もの愛嬌のある顔で田宮を迎えた。
『どう?いい店でしょう?』
これまでの経緯は一切無しで、何時もの延長線上の雰囲気だ。
カズの横にはバンジョーのサミーの姿は無かった。
「サミーは?」
「サミーが一人でしたいというので、いろいろ話しあったんだけどそうすることにしたの」
さりげなくピアノを引く手は休めずに答えた。
『何処で彼は弾いているの?』
『知らない』
カズの目線は鍵盤の上に変わっていた。
水割りを注文すると店に入った時奥の座席に座っていた小柄な魅力的な女性が運んできた。
カズは何も言わなかったが奥さんだと直観した。

『水割り500円にしているの、安いでしょう』
聞かないのにカズは相変らずピアノを弾きながら田宮言った。
後で判った事だがカズは芦屋で父親が不動産業をしている娘と結婚しており、
その父親が娘の婿のために自分の持っている土地でと建物をカズに使わせていたのだ。


この頃の神戸は各国の総領事館が存在しており、経済的にも華やかさの頂点の時代だ。
それぞれの国が自分の国の記念日は競って神戸中山手にある相楽園で華やかにパーテイを開いて
各国の外交官、自治体の関係者、メデイア関係者を招いた。

フランス総領事が開く革命記念日7月14日日本流に言えば
パリ祭は兵庫県警察本部音楽隊の演奏でラ マルセイユで始まり
君が代そして日本語と英語と中国語に堪能な仏国総領事がスピーチして開宴となった。

料理はふんだにありワインも充分にある。
パンはドンクの焼きたてであとは神戸名門のオリエンタルホテルのケータリングだから
味に間違いがない。

この頃の兵庫県警察本部長<山本鎮彦>、刑事部長<石崎 昭>、外事課長<鷲崎魏>と
いずれも、フランスでの駐在経験者であつた。

田宮はこの三人を良く知っていたので冗談に、会議はフランス語でと聞いた事がある位だ。

その頃こうしたパーティに出席する領事館の人達とほとんど顔見知りの田宮は、
彼らとの会話の中に必ずカズが登場した

オランダ総領事主催のオランダ女王陛下誕生日記念祝賀会も相楽園で開かれ目を見張る物があり、
アメリカ独立記念日は西宮の夙川にあるアメリカ総領事官邸の美しい庭で華やかに祝った。
インドネシア総領事も御影にある官邸で開いた。

神戸に各国の総領事館が集結した時代で街の中が外交官で賑わうという華やかな時代だつた。

シェフ一人とカズそして奥さんの三人で営業していたフラワーロードの店は暫くは繁盛していた。
自分の店が持てたというカズの最高の時代であったかもしれない。

ある日店に行くといつも奥の座席に座っているカズの奥さんが見当たらなかった。
その後何回か行っても彼女の姿は無かった。田宮は強いてカズに聞こうとは思わなかった。
暫く遠ざかっていたので久々にデキシーランドを訪ねると入り口が材木で塞がれていたが
閉店するとも何の張り紙も無かった。


神戸とはそれからしばらく疎遠となった。
ある夜田宮は友人を連れて知り合いの経営しているワシントンホテルの一階にある
トム キャンテイに行くと中に入ると聞きなれたピアノのメロディーが聞こえてきた。

なんとカズがピアノを弾いている。
「ここで弾いてるの?」さりげなく聞くと、少々照れた顔をして
「うん」とうなずいた。そしてそれ以上は何も言わない、田宮も聞く気持ちにならなかった。
それ以上にカズのピアノの音はこの店の雰囲気に合う音ではない、
カズもそれを知って弾いているに違いない。
淋しい、哀れと田宮は感じた。
トムキャンテイの主も、ここでやらせて欲しいというので、
合うはずが無いのは承知で、してもらっているんですと話した。


東門筋を入るとすぐ右に白い色をしたビルがあり、その三階に鉄板焼きの大西がある。
親子四人で店を切り回しており家族的な如何にも神戸の店という感じで
親父も田宮と同年代でこの店もカズが教えてくれた。

大西はこの場所に来る前は二ノ宮で店を構えていた。
カズが「宮ちゃん、一銭焼きって知ってる?」
「知らない」というと「では今度行こう」と言って教えてくれた店だ。
阪神タイガースにバース選手が居た頃は試合が終わると、
この店にきてビールに塩を入れて飲み貝柱やエビを焼いて好んで食べた。
肉は余り食べていなかった。

大西の親父さんは奥さんが一つ年上で娘と息子がいて、早くから二人共店の手伝いをしていた。
特に娘の徳ちゃんは美人で店の看板娘だった。

長男も陸上の選手をしており国体にも出場したという。
この徳ちゃん、すぐ近くの中山手に住んでいる宝塚歌劇団星組の生徒・Y明と仲良しで
いききしていたが、能楽師の跡取に望まれるままに嫁いだ。

音楽学校を一番で卒業して男役として活躍したY明も
毎年ホームステイで自分の家に来ていたドイツ人の学生マークがいつしか彼女を見初めて、
マークが卒業すると同時にドイツの彼の故郷ハイデルベルグで結婚した。


放送局に勤めイベントプロデユーサーの田宮は多忙を極め、
外国での取材があったりして神戸はしばらくご無沙汰であった。

「しばらくやねえ田宮さん」
大西の親父さんは鉄板の前からはなれずに顔だけ田宮のほうに向けた。
両手は起用に野菜を炒めている。

「神戸はご無沙汰、外国に行っていたんで」
「田宮さん、カズ知っているよねえ?」
その言い方に何か遠慮がちを感じた。
「知っているよ、この店を教えてくれたんだから」
「彼、死んだんよ」
「えっ?」田宮は思わず絶句した。
「ガンで血はいて入院して手術しようとしたけど、どうしようもない状態だったんだって、
そのまま元に戻したんよ」

「じゃDR JAZZは」
「閉まっているんちがう?」
「知らなかった。あの奥さんどうしたんだろう?ちいちゃな子供がいたけど」
大西の親父さんはそれっきり黙りこんでいた。
実は彼も口には出さないがガンで患っていた。

その昔イレブンPMでピアノを弾いていた小曽根実が「mmjyoin」という店をしたり
「サントノーレ」でピアノを弾いている鍋島がいたり多士済済であった。

「サントノーレ」はジャズレストランで北野坂を上った右手のビルの中にある
入り口に象の作りものがあり、別名象のビルと呼ばれ有名だった。

店名はパリのST Hounoreから遠藤周作がつけたというが、
「サント ノレ」では横書きにした時「サント ル」になってしまうので
間に横棒を入れるように提案したのも遠藤周作だという。

オーナーと呼ばれる中谷広里さんは生バンドでシャンソンを歌い神戸の夜の社交場として賑わった。

考えると北野坂一帯は多面劇場であったかもしれない。
一つの劇場と考えるとその中で幾つもの舞台があり
年がら年中演物が演じられていたという表現が的確かもしれない。


芦屋の不動産屋の娘と別れたカズは当然の如くにフラワーロードの店も立ち退くことになる。

このあとは神戸で弾かせてくれる所であれば何処でもピアノを弾く生活をしていた。
その後田宮は偶然ある人にカズは、にしむらコーヒー店の前のビルの三階で
「DR ZAZZ」と言う店をしているよと教えられた。

中山手に行く所にダニーボーイというサンフランシスコにあるのと同じ店が人気を集めていた。
その対面にドイツパン屋のフロインドリーブと、にしむらコーヒー店があり
その近くに小さなビルがあり、赤い字で「DR ZAZZ」と書かれた看板があった。

エレベーターで三階にあがりドアが開くと直ぐに店の中になるという造りだ。
左側にカウンターがあり右に小型のピアノが、そして椅子とテーブルがあると言う店内だ。

「いらっしゃい」
カズは何時もの通りの調子で田宮を迎えた。
何でここに来たとかどうしたとか何も言わないし、田宮も聞こうとしない。
何となく長年の二人の暗黙の仲の仕来りみたいなもが、
そこには存在していたのかもしれないし、或い同情かもしれない。

カウンターの中には可愛い顔をした二十台の女性がいた
水割りを注文していると、ピアノを弾いているカズが

「宮チャン、彼女僕の奥さん」とポツリと紹介した。
「田宮さん、いつも世話になっている」カズがその女性にいうと
女性が軽く会釈したがその動作は何となくぎごちなく幼かった。

ひさびさにカズの演奏を聞いたが声がかすれている。
「風邪?」
「うん」
その後何回か「DR ZAZZ」には行くがカズの声はいつもかすれていたが、
カウンターの中の女性は赤ん坊を抱いていた。
女性は二十四歳であつた。
カズ五十七歳「子供が可愛くてねえ」カズは田宮が店に行く度につぶやいた。
確かにカズには過去子供が居るとは聞いていないし、そのような家庭的なものも無かったが
今改めて子供を持ち親として人間として実感したのも歳のせいかもしれない。
みていると自分の小さいながら城を持ち若い可愛い奥さんと子供をこれから大切にしながら
生きていこうと言う気持ちがにじみ出ているように田宮には感じられた。

ピアノを弾くフイーリングは変わらないがカズのかすれた声は変わらず、
かつてのようなリクエストすると直ぐに弾いた曲も
なかなか弾きたがらないのも何となく気になった。

店には以前みたいに外国人の客は居なかった。
もっとも神戸の景気も悪くなり外国の総領事館も大阪に移転したりして
外国人の数も激減しはじめていた。

その証拠にはトアロードを登りきった所にある、神戸外国人クラブも経済的に
在日の外国人だけでは厳しく外国と商売をしている日本人をメンバーに迎えるよう方針を変更した。


造船華やかなりし頃、三菱造船などが潜水艦を建造している頃は常に進水式があり
豪華なパーティがホテルで繰り広げられていた
神戸ポートアイランドにも新航路就航のコンテナー船が入港して
船上で船長主催のパーティが開かれていた。

造船の街神戸を強く感じさせる時代である。
経済豊かで夜の町も賑わい作家が集まると言われた
「バーセブン」は七人座ると満席なる所からこの名前に、
神戸の由緒あるクラブは「ゴールデンスター」をはじめ数々あり
特に神戸一のナイトクラブ「ムーンライト」に行けるのがその世界の人々の憧れの時代である。


神戸の華やかさは五線紙上の音符のようにいろいろの人の音が線上に載り奏でられている。
カズもその神戸風情を作り出す音符の一つだった事には間違い無い。
人の幸せなんてどこで判断すべきだろうか?
どこかで幸せな時が在ればそれで幸せなのではないだろうか?
どんな曲をリクエストしてもすぐにカズの指はメロデイーをたたき出してくれた。
達者な英語で外人を日本に馴染ませ楽しませ人生で身に付けたサービス精神を
総てさらけ出しながらジャズと神戸をそして最後に若い妻と子供を愛したのだろう。

癌の発病、入院、手術でも既に手がつけられない状態であったという。
カズの葬式はジャズ仲間が集まり八月の暑い最中にジャズ葬で天国に送ったという。

カズのこうした後の経緯を田宮に教えてくれたのは、神戸でも老舗の菓子屋の姪の中西美代子だった。
彼女も叉考えると数奇な人生を送る事になる。

神戸人はパーティ好きで朝、昼、晩と何処かでなんかのパーティが開かれ
出席する顔ぶれは同じというのも不思議な事ではないから面白い。

叉神戸はぬるま湯文化と表現する人が居るが、けなさない替わりに厳しい叱咤激励も無い、
だから、よろしいなあで終わってしまう。

例えばピアノでも少々目立つと、素晴らしいとほめごれされてしまう恐れがある。
そうなると他に出て更なる腕を磨こうと言う気持ちも薄れ、このままぬるま湯にひたりぱなしとなる。
政治も保守が勝てば次は革新で神戸は革新の街といわれたがエセ革新かもしれない。
要は皆それぞれにぶら下がりながら生きているのかも知れない。

芸術家も育ちそうで育たないのが神戸で、神戸人になり神戸語を喋るか、
或いは神戸から出て行くかどっちかである。

やあやあと言っている反面同じ輪の中にいるので情報が動かない、
同じ話が何時までもぐるぐる回っている。


神戸には舶来文化というものがあった。
神戸に来た外国人が異人館を作り日本と外国のまぜこぜの建築用式を生み出した。
そこに働きに行った日本人が外国人から西洋の物を、
例えばウイスキーならオールドパーとか外国製品をもらい異人館から持ち出す
それが舶来文化となり日本の文化となっていく、舶来文化の所以だ。


華道小原流の小原豊雲の小原流家元会館が神戸御影九重坂にある。
ここで八の会というのが毎年八月に開かれた。八の日に開くので八の会だ。
御影九重坂の傾斜地を利用して建てられたモダンな建物は玄関を入るとホールがあり、
それを抜けて螺旋階段を上がって行くと芝生を敷き詰めた広い屋上庭園に出る。

夕暮れともなると神戸港や六甲山系が一望に出来て、
涼風に吹かれてビールを飲むと最高の場所である。

始めた頃は少ない人数であったが、次第に増えその内会場が一杯になってしまった。
この為年寄りと若者を分けようということになり、
何処までが年寄りかが問題になるが、八若の会を作る事になった。

昭和五十三年に創られた八若の会は八の会の若人版で
若さに立って未来を展望する足がかりの場にしようと始められたもので、
他人の存在を認識する場でありチャンスでもあるという定義がなされ、
世話人は小原夏樹、鴨居 玲、加藤隆久、末広真樹子、中西 勝、
本地すま子らであった。
勿論会費は取るが知れた額である
広大な庭にステージが作られパイプ椅子とテーブルで会場はしつらえられた。
出し物に関しては出たがりも居るし、やりたがりも山ほど居るし、
勝手にステージがあれば誰かがそこで芸能を披露してくれる。それが神戸だ。

ビールを飲み交わしながら文化が語られ人脈が生まれ神戸の次なる活力に繋がっていく。
文化の継承育成とはこんなものではないだろうか。
この会の特徴は役人を呼ばないということで、自治体の首長などはこない。

当時の資料を見ると
<世話人> 小原流家元小原豊雲 サントリー社長佐治敬三 竹中 郁 藤本義一
<発起人> 朝比奈 隆 岩宮武二 内海重典 白河屋 竹中 郁 小松左京 佐治敬三
小磯良平 陳舜臣 筒井康隆 藤本義一 五十嵐精水他となっている。
出席の顔触れは、鴨居羊子 末広真樹子 八十や勘兵衛 乾 由明 増田 洋 新谷e紀
足立巻一 藤谷 雄 竹中 郁 奈良本辰也 津高和一 荒尾親成 妹尾太郎 
服部 正・清美 山田皓斎 大鋸時生 中西 勝 松本幸三 松本 宏 藤本義一 
岡田美代 中西美代子 重森 守 加藤きよ子 丘あつし 藤本ハルミ 小野真澄 
小泉美喜子 石阪春生 加藤隆之 鴨居 玲 本地スマ子 本地真穂 宮田達夫 
片山 直 丸本 耕 楢崎四郎 陳舜臣などが一部である。

夏の一夜、多芸達者な人達が歌い踊り飲み騒ぎ、集まる人数はざっと三百人。
これだけの人が集まり夜遅くまで騒げる所は屋外ではここしかなかった。

神戸の文化は此処から発進されていたのだ。
フラメンコあり歌ありバンド演奏ありとありとあらゆる芸能が繰り広げられた。
しかし時代が進み、ゆとりが無くなったのか周辺住民からうるさいとクレームがつきはじめた。
それと屋上庭園の芝生が参加者のこぼすビールで枯れ始め、
八の会も打ち止めとなり枯れてしまった。


神戸には二つのタウン誌がある。
小泉美喜子編集長の「神戸っ子」と本地すま子編集長の「月刊センター」だ。
月刊センターは三宮センター街のタウン誌といっていいだろう。
狭い神戸で二つのタウン誌は互いに競いあってきたのも神戸の文化向上に役立ったかもしれない。
執筆者には神戸は事欠かない。神戸っ子は神戸の女子の御大を引き連れて、
マカンブサールという集まりを作り着物でドレスを作るデザイナーの藤本ハルミ、
作家の田辺聖子、堀郁子などという顔ぶれ。


田宮もふとした縁で月刊センターにエッセイを書く事になり、
このお陰で神戸で「女のいる部屋」というテーマで絵を書き続けている石阪春生と遭遇した。

神戸には池上忠治という東大出で神戸大学の文学部長をしながら
美術評論家としては有名な男がいた。
この池上は偽作鑑定に関しては右に出るも無しと言われるほどの人で、
田宮が仕事で何回か展覧会をしたときでも贋作を見抜いたりした。
セザンヌやゴッホを見抜く眼力があった。

池上は初めは石阪の絵を嫌がっていたが、やがて彼の技量を認めるようになり
石阪の展覧会のパンフレツトに文章を書く迄になった。

後の話だが石阪春生が人生の纏めですといい、」画集をつくった。
その中に池上忠治の石阪を誉める素晴らしい文章が掲載されている。

以前に書いてもらった文章がここで生きた。

当時池上曰く一年に一度は外国の美術館に贋作を見せてもらいに行く、
たいてい地下においてありますよと話していた。

吃驚したのは田宮が番組でゲーテの絵を撮りたいと尋ねると、
それならフランクフルトの美術館の二階に行く階段の途中にありますと教えられた。

尋ねてみると正にその通りで驚いた。
残念なことに池上は田宮と検査入院が済んだら食事をする約束をして置きながら
病院から出ることなくガンで急逝してしまった。
本当の美術評論が出きる数少ない有能な人材であっただけに惜しい。

将来の神戸大学学長候補と言われていた。

画家の石阪春生は詩人の竹中 郁と親戚筋という関係だ。
もともとイラストレイトから独学で今日まできた人で、田宮は大画伯と大をつけて呼ぶが、
風貌はジャン コクトーに似ている。

この大画伯の知人の女性が三宮のレンガ筋を入ったところのビルの二階で小さなバーを開いていた。
「シュガーヒル」如何にも神戸的名前だが名付けたのは大画伯らしい。
神戸の人は何処何処筋とか言う癖があった。
レンガ筋はレンガで敷き詰めてあるのでそう昔から呼ばれている。
花隈、福原、新開地と言葉を聞いただけでも雰囲気を感じさせる地名がある所だけに名前は大切だ。
シュガーヒルのマダムは旦那はサラリーマンで趣味で始めた。
甘たるい顔立ちが上品さに加え喋り方も甘く店の雰囲気には合っている。
田宮は初めて行った時からこのマダムをおかみさんと呼んだ。
「宮チャンどうして私はおかみさんなの?」
ある時シュガーヒルのおかみが聞いた。
「おかみさんだからだよ、おかみさんがぴったり」
田宮は水割りのグラスを持ちながらカウンターにひじをついて答えた。
この頃の神戸は夫婦がちょっとした飲み屋をして充分に食べて生きる時代であった。
シュガーヒルは決して安い店ではないが大画伯と会うときはいつも此処であり、
ほんのり色香が漂い温かい人柄が値段を忘れさせてくれた。


月刊センターが毎年正月に執筆者を招いて新年会を新仙閣で開いた。
十人テーブルが八テーブルぐらいあったからかなりの人数だ。

田宮は帰途、大画伯と一緒になりコーヒー店に入った。
「大画伯、神戸にはサロンみたなものが無いですね?」
「本当ねえ、ないですねえ」
「ウイスキーのバーボンというのご存知ですか?」
「呼ばれたことありますよ」
大画伯の喋りは何となくはんなりしている、飲んだと言わずに呼ばれたという表現が愉快だ。
「バーボン飲んで集まるというのは、どうですか?」
「ええですねえ、面白いじゃあないですか。村人の集りみたいなものですね。
今の世間もせちがないし、つまり思想はなしですねえ。
ほれすぐ集まると何をどうしようと言う事になるでしょう?」

「その通り、ただ集まってバーボン飲んで喋っておしまい」
「いいんじゃないですか。私は大賛成ですよ。面白いんじゃないですか?」
ジャン コクトーこと大画伯の顔も生き生きしてきた。
「メンバーどうしましょう?」
「さしあたりは貴方のお知りあいの人脈でいいんじゃないですか?」
「生田神社の加藤隆久権宮司<後に宮司>彫刻の新谷e紀さん」

生田神社は神戸の中心をなす神社だ。
この頃生田神社に福田宮司という人が居て、当時メディアを集めてはいろいろと企画したものを
取材してもらい生田神社の名前を広めていた。人呼んで生田神社の外務大臣といわれていた。

「デザイナーの中西省吾さんもいますよ、アラマンこと新井満もケーキ屋の西 正興も」
神戸事情通の大画伯は良く承知している。
「ジャズピアノの小曽根 実も写真家の竹内広光も」
メンバーは後に中西省吾提案で日本舞踊の若柳吉金吾、声楽の松本幸三、作家の筒井康隆、
榊 晴夫が加わった。それに神戸の名物長老と言われた神戸文化ホール館長松井一郎<故人>、
神戸市市民局長の長島 隆<故人>、元兵庫県副知事で兵庫県立近代美術館館長楢崎四郎<故人>が
参加を望んだ。


松井一郎は朝日新聞出身で太っ腹な男で夕方五時になると館長室を開放して酒を楽しんでいた。
自称九官鳥と言い演劇界にはやたら顔がきいた。
神戸文化ホールが会館当初成功したのは松井の力が大きい。

楢崎は坂井時忠知事の下で補佐して、山登りが好きでヒマラヤに登山して倒れそのあと病気になった。
長島は神戸の宮崎市長のシンクタンクで後にさんちかタウンの社長をしたりして
神戸は自分のテリトリーとしていた。


長老を除けばいずれも当時四十歳台前後の新進気鋭の芸術芸能家ばかり。
芸術家は得てして世界が狭いと言われるがこの集団は集まれば互いにしっこく話し合い怒付き合い?
互いに利害が無いだけに本音で喋りあった。

この集まりの名前は「バーボンクラブ」毎月一回誰かの家で開く、
開いた家の人の料理でバーボンウイスキーを飲むというのが決まりで、
第一回は田宮の家で彼の手作りの牛のコンタンとキャベツのオイル漬け、牛肉の酢漬け
そしてウイスキーはバーボンデラックスという銘柄で始まった。


メンバーの人物像を紹介すると、中西省吾は中山手にサロン ド ナカニシという
ブティックの店をしておりデザイン学校の教授、テレビに出たり映画評論したり、
新谷e紀は彫刻家でお父さんが新谷英夫と言い神戸有数の彫刻家、妹も彫刻家という一家、
加藤隆久の家は生田神社の宮司で神社庁の永職会のメンバー、
竹内広光はプロ写真家で岩宮武二の門下生で
「演出家女の園の中」と言う宝塚歌劇の写真集を出版、御影の自宅にスタジオがある。
松本幸三は二期会のオペラ歌手、若柳吉金吾は日本舞踊の家元、師匠、
西 正興はユーハイムコンフェクトの社長で特技はマッサージ、
小曽根 実はジャズピアニストでタレント、榊 晴夫はバー経営者、
新井 満はサラリーマンで作家、田宮は放送局のプロデユーサー、
筒井康隆は作家と役者、石阪春生は女のいる部屋というテーマで絵を書く画家。
後に中西美代子が参加。


当時の月刊センターに現代版「村人の集い」バーボンクラブという題で次のように田宮は書いている。

ある家の一室で男たちが集まってウイスキーを飲んでいました。
ウイスキーの名前は「バーボン」バーボンにもいろいろありますが、
バーボンデラックスという安いウイスキー。

男1「神戸に何故サロンがにんだろう?」
男2「こうして何となく集まってトークが出きる場でいいのに」
何時の間にかバーボンクラブを作ろうという話になりました。
男3「あれもこれもと言わないサロンにしたい」
男4「集団や団体になってしまっては意味がない。
あくまでこういう雰囲気でトークが出来なければ、そうでないとサロンは生まれない」

男5「話題はその時決めればいい、話題が無くてもいいじゃないか」
男6「こうして皆違う世界で活躍している者が集まっている所に意義がある。
勿論異人館の話、トアロードの話もいい、
バーボンを飲みながらコンクリート化していく神戸をどうしようと考えるのもいい。
問題意識を持てばいい、しかし目的を作る事は危険性がある」

男7「日本人は何となく寄り合うことに欠けている。神戸に居る人間が互いにふれあえればいい」
男8「そうだ、我々がかつての神戸を知っている最後の年代なのだから」
男9「ではこんなまとめでどうだろうか?」
六甲山の緑と海に囲まれた神戸。神戸はファンタスティックな街です。
この神戸に住んでいる人達のふれあいの場所を私達は求めています。
違った仕事、異なった世界の人達が何となくふれあい、お喋りが出きる所、
こんなスペースを作ろうとしています。
明日の神戸に向かって意識の復活を求めようとしているんです。


カネボウのコマーシャルソングの「ワインカラーのときめき」を歌った新井 満が
バーボンクラブの歌を作った。


<バーボンクラブの歌> 作詞作曲 新井 満
<1>
バーボンクラブのBは ビユーティフルのB
バーボンクラブのBは ボーイズのB

ビユーテイフル    ボーズクラブ
ビユーテイフル    ボーイズクラブ
ビユーテイフル    バーボンクラブ

<2>
バーボンクラブのBは ビユーティフルのB
バーボンクラブのBは ボールズのB
ビユーテイフル    ボールズクラブ
ビユーテイフル    ボールズクラブ
ビユーテイフル    バーボンクラブ

神戸市の広報誌<神戸のグループ誕生>に石阪春生はこう書いた。
「バーボンクラブは月に一度会場を持ちまわって開かれています。
別に特定の目的は決めている訳ではなく、異人館や神戸の文化などを
その時々話し合って生きます。日本人は何となく寄り合うという事にかけていると思います。

結論がないと承知できない所があるが、
この会はみんな違う世界で活躍している者が集まっている所に意義がある。

まあ現代忘れられている<村人の集い>といった所でしょうか」

「神戸の人達は京都に劣らず集まって飲むのが大好きらしい。
男っぽい酒バーボンを飲もうと言う会が月に一度開かれている。」

面白半分の編集長筒井康隆は面白半分編集長のコーナーで
「腹立半分日記」に毎回のように取り上げ七月二十四日には次のように書いている。


「バーボンクラブの例会で会員の藤間緑壽郎邸に行き稽古場で踊りを教わる。
なかなか立派な檜舞台である。こういうのが家のも一つ欲しいものだ。

バーボンを飲みながら一人づつ舞台へ出て芸をする。
小唄一口噺の類が多いのは場所柄で、皆さん芸達者である。
おれはデキシーランドナガウタ越後獅子というのをやる」
と書いてある。

本当かどうかは定かでないが、このお陰で面白半分の売れ行きは倍増になったそうな。
テレビCFプロデユーサー新井 満は若い女性十二月の「MAN氏の不思議な一週間」という
エッセイの中で水もしたたる水曜日のバーボンクラブの紹介記事を覗くと



「今夜の会合はトーアロードのファッションデザイナーの中西省吾さんちの応接間。
シャボン玉の中には庭は入れません。目玉がぐるぐる回り出しました。
つぶやくのはジャンコクトーに似た痩せの長身石阪画伯。
どうして私がここに居るの?叫ぶのは生田神社の加藤権宮司、
酒を一滴も一番飲まないのに酔ったように見えるのは何故か?
酔うと指圧師に変身するユーハイムコンフェクトの西さん。
ボンジョルノ○×□◇イタリア語で喋りまくるのはヒゲの彫刻家の新谷e紀サン。
フフと艶笑するのはキャンテイの榊さん、
色っぽさと男っぽさでは」玉三郎も吃驚の舞踊の藤間緑壽郎さん。
ハッハッハッとテノールで高笑いするのは、ハモンドの名手小曽根 実さん。
抱腹絶倒、荒唐無稽のSF小説はとは裏腹に恐るべき照れ性マジメ人間
そしてアラマンに対抗するわけではないが、僕もLPを出すという作家の筒井康隆さん。
好きな食べ物を言ってごらん、君の人柄を当ててみよう。
フリア サバランの如き言葉を発したのは
毎日放送MBSナウのデイレクターで大の美食家の宮田達夫氏。
演出家女の園の中でという前代未聞の宝塚歌劇の裏を撮った写真展を成功させた竹内広光氏。

そしてどん尻にひかえしは、
百足のワラジをはくムカデ人間になり、コラージュ人間にナリタイトイウ、
ワインカラーのときめきでベスト10入りした新井 満さんという按配。

一周年を迎えた日は奇しくも十五夜で、センターほんじ編集長からお祝いの月見ダンゴが到着
バーボンのさかなにするという念のいれよう。

とにかく、人との触れあい出会いというものが無くなりかけた現代社会の中、
神戸という土地柄のせいもあるにしても、バーボンクラブの人たちは出会いとふれあいそこから
個々に受けるモノ、コラージュされるものを大変貴重なものと考え大切にしています。

円卓会議とはよく言ったもので一つのテーブルが二つになってしまうと、
もうその意味が無くなるのです。

それだけにこの一つの円卓はものすごく大切でもあるのです。
加藤権宮司クラシックな座敷、石阪画伯のロマンティックなアトリエ、
竹内さんのゴールデンスター、中西さんちのブティック、桧舞台付き藤間緑壽郎さんち、
筒井康隆大邸宅とアッチコッチにマメに出向いているんです。



面白いのはメンバーの作家の筒井康隆さんが自分の小説の中の登場人物に
メンバーの名前とキャラクターを使ったりした。

朝日新聞連載 筒井康隆の「朝のガスパール」には次のような記述がある。

筒井康隆緒「朝のガスパール」から三月二十六日第百五十六回を引用しよう。



「ワープロの電源を切り、檪沢は立ち上がった。 
 久しぶりでホーム・パーティに招かれていて、さほど遅刻せずに出席できる時間だった。
「アナタ。そろそろ着替えでしょ」階下におりると美也夫人がスーツにブラシをかけていた。
「あれ。お前さんはまたしても、行かないのかい」檪沢は訊ねる。
「ええ」
夫人がパーティを好まぬため、たいていのパーティは檪沢単独の出席である。
「よかったわね。連載も終えたし、例のカネミツの問題も、市が買い取ってくれることで解決したし、
暴力団新法は実施されるし。あなたネクタイはこれにしてください」

「わかった。わかった。タクシーを呼んでくれ」
 ホーム・パーティは神戸に本店があり、今や全国的名店となった洋菓子店の社長宅で行われる。
バーボン・クラブという昭和ひと桁世代中心のクラブがあり、
たいていはどこかの店を借りて集まることが多く、今回のようなホーム・パーティは稀だった。

 社長宅は海の見渡せるマンションの六階と七階だった。
六階の広間に入るとすでにメンバーのほとんどが揃い、
港の夜景を眺めて口ぐちに賛嘆の声をあげている。

メンバーは一業種一名と限られていた。画家、彫刻家、神官、声楽家、ファッション・デザイナー、
放送プロデューサー、日本舞踊家、ジャズ・ピアニスト、カメラマンといった顔ぶれで、
うち夫人づれが半数ほどと、あとは独身女性。

 宇宙船ビーグル号だなあ、と、いつも檪沢は思うのだ。
ヴァン・ヴォクトのあのサイエンス・フィクションのように
各科学者の専門用語の仲介をする総合科学者がいなくても、
職業こそ違え知的共通語で喋ることのできる知性の持ち主ばかりがここには集まっていた。

あたりさわりのない話題ばかりに終始しているようにも見えるのだが、
いざ専門のことに話が及ぶとそれぞれが修練に裏づけされた深い確信に満ちていて、
しかも平易な表現で掘り下げた内容を全員に披露でき、みんなに耳を傾けさせる話術を持っていた。

専門、専門による考え方の差異は、特に檪沢の創作意欲をしばしば刺激した。
 心地よく耳に響くあたたかいことばと楽しい噂ばなし。
文壇パーティの如き議論や仕事がらみの会話のない心安らかな時間。
檪沢は陶然としてバーボンの香りに酔う。グラス片手に彼は室内を見まわす。
趣味のよい装飾と備品。ひと隅に応接セットが置かれ、
中央には洋酒瓶が林立し料理の置かれたテーブル。そしてバルコニーへのガラス・ドア。

 あれえっ。ここへはいちど来たことがあるぞ。いやいや。そんな筈はない。
でも、なぜそう思ったのだ。檪沢は改めて周囲を見まわす。
そうだ。ここはあの最初のパーティ場面の舞台にした須田医師のマンションと似ているのだ。

そういえば、部屋の隅には階上への階段もある。」
 以下略


放送局勤めの田宮が報道勤務の時夕方のワイドニュースの担当になり、
丁度その頃、新井 満は神戸電通に勤務していた。

新潟生まれのアラマンは「月山」という小説を書いた森 敦に興味を持ち、
見ず知らずなのに酒とギターを抱えて自宅に会いに行く。

ひとしきり話題が途絶えた時アラマンは持参のギターで
森 敦の小説の1節にメロデイーをつけ弾き語りで歌い始めた。

それを聞いていた森敦が素晴らしい、面白いからもう一度というものの
酒の席で即興でしたのでアラマンは覚えていない、
ところが森敦が密かにテープに録音していていた。

その日はそれで終わり後日突然アラマンのところに、レコード会社のディレクターが来て
森さんに言われレコードを作りたいといってきたのだ。
アラマンはシングル版だけかと思いきやLPだというので、そこから作曲の本を買い
LP百枚を聞き三ヶ月かけて勉強して出来たのが組曲「月山」だった。

それをまた神戸のバレリーナ今岡頌子が自分のバレエ団今岡頌子と加藤きよ子の二人で
神戸国際ホールでのバレエ公演に使うと言う事から、
それを田宮は夕方のワイドニュースで取材しようと初めて新井 満と会った。

それが縁で互いの行き来が始まる。
新潟出身のこの男は夢一杯だった。

どうしてこれだけの曲が作れたのか聞くと
「耳をじいーっと傾けているとメロディーが聞こえてこない?くるでしょう?音楽が」
「僕には聞こえない」
「そうかなあ?おかしいなあ、僕には聞こえてくるんだけど」
男はさりげなく言った。新井 満を略してアラマンと田宮は呼ぶことにした。
マルチメディア人間を自称するアラマンの人生は此処から始まる。
即座に勉強しても曲を作り出すこのエネルギーは矢張り新潟県人のパワーかもしれない。

素晴らしいエネルギーを持つアラマンは探究心も強く
メルヘンを漂わす神戸の水が合ったように見受けた。

一度アラマンをシュガーヒルに紹介すると気に入り、田宮と一緒だと行く所はシュガーヒルだった。

彼は不思議といつもギターを持参していた。

酒は強いからギター持参でも苦にならない。
カウンターで水割りを飲みながら持参のギターを抱えポロンポロンとアラマンが弾き出した。
来春出す新曲の「わたしのモニカちゃん」である。

「おかみさんの歌作ろうよ」
田宮がアラマンに言った。
「うん」
アラマンは何のてらいも無くムードに乗ってメロディーを弾き出し歌い始めた。
応接間のような雰囲気のバーカウンターが良かったかもしれない。
「おかみさん、紙、紙、メモしないと忘れちゃうよ」
田宮はふと森 敦の時のことを思いだした。
「紙なんてないわよ」おかみさんはあわただしく探し回った。
「そこに紙あるよ、それでいいよ」
それは広告の紙でそれを小さく破いて裏の白紙の所に
ギターのコードと歌詞をギターの弦をつま弾きながら書き込んでいった。

「たいしたもんだよ、おかみさんの曲があるバーなんて他にないよ」

田宮が言うとアラマンが
「強引なんだから田宮さんは」と言って笑い顔を見せた。
広告の紙を引き裂いて裏面の余白に書かれた歌のタイトルは文字通り余白だった。

「余白」

あなたのくれた 手紙の余白
書いてなくても わかります
さよならと だた ひとことだけ
すんだものを 優しい人
さいごまで  あなた


私のいえない 心の余白
書いたつもりで 破ります
愛して 愛してと 黒くなるほど
書いても 無駄ですか 悪い人
さいごまで     あなた
              76−11−30
             for okami san

新井 満は組曲月山に続いて神戸の街とバーボンクラブをイメージして
「アルファベットアベニュー」と言うLPを作りあげた。

そのジャケットにはバーボンクラブのメンバーが神戸の街角の家に
いかにも住んでいる人かのように描かれている。


神戸にはUCC コーヒーもあればUコーヒーもある。
これはコーヒー会社だが、にしむらコーヒーはコーヒーを飲ませる店だ。
此処のマダム西村からこんな話を田宮は取材していて聞いた。

それは宮水の由来で何で宮水コーヒーかと?それはその昔マダム西村が美味しい水がないと
当時の大関の社長に話したらそれなら家の宮水をあげるよといわれ、
只では申し訳ないというとそれでは一リッター一円でと言う事で今でもそうなんですと言う話である。

神戸らしい
因みに宮水を汲むところは西宮の大関所有の宮水が出る所の道路に栓があり
そこにタンクを積んだにしむらの車が毎朝汲みにいきその水を各店に運んでいる。

如何にも神戸人。

神戸には多士済済の人が沢山住んでいるから神戸文化に彩りを添えている。
筑前琵琶の第一人者と言われる柴田旭堂さんは一人娘が宝塚歌劇団のトップ娘役の上原まりで
「私はフランスの女王です」とベルサイユのばらの舞台で大見得を切った
マリーアントワネットを演じた人だ。

上原まりさんは筑前琵琶では柴田旭艶を名乗っていた。
その頃旭堂さんは「主人と早くから別れ、まりには父親の居ない子にしてしまって、
申し訳ないと思っているんですよ。マリが後を継いでくれるかしら?」
と小柄で一寸がらがら声で田宮によく話した。

「大丈夫ですよ、彼女はそんなこと少しも気にしていませんよ、必ず後を継ぎますよ」
柴田旭艶さんは今旭堂さんの心配をよそに一人だちして筑前琵琶の第一人者だ。

神戸異人館と言えば直ぐに思い出されるのが画家の小松益喜だ。
益喜をもじってマスキーと本人も言っていたがこの人と会った瞬間、
創造とは年齢に関係ないその人の心の持ち方だと思った。

二十歳の頃から神戸の異人館を書き続け、
その頃四百軒も在った異人館を油絵とスケッチであわせて八万枚余りも書いたと言う。

小さな体でスケッチブックと何処でも座って描ける様
三角形のキャンバスを張った小さな椅子を持ってせかせかと異人館界隈を歩き描いた。

小松さんが異人館という画集を出した時ある人が異人館の記録だと言うと、
小松さんはこれを記録と言われるのは心外だ、
あくまでも芸術であって記録目的でないと持ち前の大きな声で熱っぽく訴えた。


日曜日のある日、神戸北野にある門兆鴻氏の建物の前で若い女性がキャンバスを広げ絵を描いていた。
すると小松さんがつかつかと近づき
「道路を描かなきゃだめだよ、そうでないと安定感が悪いじゃないか」と言うと、
かの女性は小松さんを知らないのであっけにとられた顔をしていた。

小松さんは「神様が小さく私を生んでくれた分だけ元気を残しておいてくれたので、体は丈夫です
七十歳ともなれば円熟の時期と言われるが私はまだまだ書きたいことが山ほどあり今でも画学生ですよ」

田宮の叔父も春陽会に属する画家だったが小松益喜と親友だった事を
この時初めて彼の口から知り奇縁だと感じた。

漫画家の高橋猛、神戸の文化を形作る役を担った異色の一人だ。
田辺聖子さんのエッセイの挿絵を描いたり、
四国徳島の阿波踊りに田辺聖子連の浴衣のデザインをしたり、
三宮の街づくりの提案者になったり行動範囲は広かった。

ヌーボーとしながら酒に酔うとグラスの下敷きのコースターに似顔絵を描いていた。

作家の陳舜臣さんは酒豪だと田宮はその頃一緒に飲む機会があった時そう思った。
バーボンウイスキーはダブルでストレート、泡盛大好きという方。
阪急六甲の坂道のビルの中に、道草という小さな店があった。
母娘で切り回していて、そこが気楽さを感じさせた。
陳舜臣さんと娘さんがお嫁に行くという寸前に道草で飲んだ。
駆け出しのころその娘さんをあやしながら原稿を書いた。
娘さんも書き損じた原稿用紙を丸めて捨てる音を聞いて育ったというだけに
父親の心境の複雑さを、飲んでいても感じた。

突然こう言い出した。
「田宮さん、つぼ入りの老酒をもらったんだけど、嫁に行くまでに飲まないと
娘が別れて帰ってくるという、いわれがあるんで飲んでくれますか?」

「何処にあるんです?」
「家です」ではということで直ぐ近くの自宅に老酒を取りに戻った。
ブランデーのビンに詰め替えてあった。
田宮はそれを持ち帰り結婚式の日が迫っていたので、毎晩真面目に飲み悪酔いしてしまった。

後日、神戸のバーで飲みながらその話をすると、
そうそんなことあったの?と、照れ屋の陳さんらしい返事が返ってきた。

神戸ポートピア博覧会で台湾語が出きる陳さんの娘さんが協会ホステスになり、
会場で制服姿の娘さんと一緒の写真を撮ると大変喜んだのが印象に残った。

客寄せパンダが成功して神戸ポートピア博覧会は大黒字で成功したのは、後日談で、
バーボンクラブもサントリーのパビリオンの中の特別ルームで
サントリーガールのサービス付きで例会を開くという御利益を頂いたのだった。


昭和四年に映画館として開館した神戸松竹座は新開地のハイカラを象徴する娯楽の殿堂といわれ
大理石がはめ込まれたユーロッパ風の建物は、ハイカラ好みの神戸ッ子の人気を集めた。
昭和三十四年演芸座に転向、かしまし娘、小円栄子の夫婦漫才などが此処で育った。
昭和三十四年から四十二年が頂点でオイルショック、不況、高速神戸鉄道開通で
人波は新開地通りを素通り、昭和五十一年九月三十日神戸の松竹座は
かしまし娘の舞台でさよなら公演となった


海岸通近くのビルの一階に「明治亭」というレストラン、
ここのウエイターもシェフもおじいさんでサービスに趣があった。
味も昔のビーフシチュウの味で天井が高く羽の大きい扇風機がゆっくりまわっていて、
トイレが昔の形で大きく懐かしかった。

名門神戸オリエンタルホテルの昔の地下のバーが良かった。
タイル張りで歩くとこつこつ音がしてフランスのマルセイユの港町の感じがした。

改装後もバーは長いカウンターでウイスキーを注文しても
此処だけはバーテンがシングル、ダブルと聞かずにグラスに注ぐので爽快な気分が味わえた。

そしてこれが神戸という風情を一層強めた。

北野通り中心にハッサム邸跡、トーセン邸、うろこの家、ラインの館,華僑総会、グラシアニ邸、
シュエケ邸、門邸、東天閣、関亭廟、回教寺院、中山手カトリック教会、栄光教会、
これらは五線紙の音符に違いないものばかりだ。

石造りの神戸税関の建物も建築的に有名だが、税関の格も東京に次いでのもので、
この頃田宮は神戸支局担当で各民間放送局の仲間と話し合い新聞が牛耳っていた
神戸市役所と兵庫県警本部に民放記者クラブを創設した。

記者クラブを作った頃は足で稼いで取材もしないテレビの人間がと、
えらく非人間扱いをされていたが、作ってしまえばこちらのもので、
新聞社からおし頂いていた情報はあっという間に入手出きるようになった。

このお陰で神戸税関も取材でこの石造りの建物を訪れル機会が増えた。
中に入ると一階から三階迄吹き抜けになっており、
いかにも神戸というハイカラさを感じさせてくれた。

年間四百隻以上の船が入港するミナトの要という風貌は十分だった。

話は変わるが神戸にユニオンランドリーという会社があり、
これは当時の港に入る船のランドリーつまり洗濯の権利を一手に持っていた会社で、
今考えただけでも物凄いもであった。

そういえば、北野の坂を上がった山の上に北野クラブというナイトクラブがあった。
神戸の夜景が一望できたダンスも出来た食事もという
これまた神戸の醍醐味を感じさせる店であった。
勿論メトロポリタン神戸というに相応しい所で皆に親しまれていた。

メリケン波止場もかつて日活映画の石原裕次郎主演の赤い波止場の舞台となった。
波止場に入る両側に税関の詰め所が在り出るときに、パスポートをと言われ
チェックされるのも神戸ならではのことだ。


いつも外国が直ぐそこで交差している感じがした。手を伸ばしたら其処は外国だったと。
総ての埠頭に税関の詰め所があり時には三宮のバーで飲んでいて
親しくなった外国船の船長と船まで行き船長室で酒を組みかわして帰る途中で、
税関の職員に誰何され何も持ってませんかと聞かれお腹の中ですと
ジョークが言えたのもメトロポリタン神戸のよき時代だ。


ミナト神戸を彩った沢山の世界の海のレディたちがポートターミナルを賑あわせた。
今思えば走馬灯のようだ。
キャンベラ号<イギリス>カロニヤ<イギリス>オロンセ<イギリス>
ショタ ルスタルベ<ソ連>ロイヤルバイキングスカイ<ノルウエー>
オーカデイス<イギリス>ノーザンスター<イギリス>ベーンダム<オランダ>
オルソバ<イギリス>プリセンダム<オランダ>プレシデントウイルソン<アメリカ>
ヒマラヤ<イギリス>ロッテルダム<オランダ>クイーンエリザベス二世<イギリス>
キャセイ、チトラル、クングスホルム、と数え切れない外国豪華客船が入港。
神戸の街の中の賑わいも、ジャンヌダルク、フォルパンというフランス軍艦が入ると
水兵服の姿が町の中で目立ち港町神戸を感じさせた。

特に大晦日はみんな神戸三宮のバーで飲みながらやがて聞こえてくる新年を祝う汽笛の音を待った。
汽笛の音色はそれぞれの船でみな違った。

やがて午前零時港に停泊している船が一斉に汽笛を鳴らし神戸の街中がこの音で興奮した。
五線紙の最終楽章を飾る音だったかもしれない。音符の街にふさわしいイベントである。

沢山の舶来文化が寄り集まって出来上がってきた神戸のハーモニーも
その一つ一つが五線紙から消えはじめた。

バーボンクラブも二十五年ぐらい続くと神戸では名が通るようになっていた。
名前が通るようになると言う事は年月も経てきた。
悲しい出来事も生まれる。
写真家の竹内広光が何時も撮りつづけているF1の写真から宝塚歌劇の写真を撮りたいと言い出した。
宝塚にコネがある田宮に相談に来た。

テーマは演出家がメインだ。劇団に話をして了解を取り早速撮影開始した。
半年以上は撮影に日を要した。全演出家の稽古場、オフの生活などがメインだ。
フジフォトサロンで写真展をするので田宮はそのコーディネイターに
兵庫県立近代美術館の増田洋に依頼した。

油絵の展覧会のように会場をレイアウトして欲しいとリクエストした。
勿論作者の希望も考慮した。演出家の席、上級生の席、青い壁というアイデイを増田は考えた。

美術評論家も兼ねてる増田は得てして作者が生きていると面倒なんですよねと竹内の前で言うと、
竹内は僕死んでいればいいのと、悲しい顔をした。

要は口を出すなという事だ。
写真展は大成功で連日ファンが詰め掛け大賑わいとなった。
宝塚歌劇団の出版の協力で写真集になることとなった。
その出版記念会で竹内の師匠の写真家の岩宮武二が
「こんな写真を竹内が撮るなんて驚いたよ、でもこの写真は竹内のではないよ、田宮さんだよ」
と言って笑った。本人も納得して笑った。

後年竹内さんは肺がんを患い姫路の方の病院に入院していたが
バーボンクラブの会をすると言うので退院して顔を出した。

会場は小曽根の店のmmjoin。そのとき既に亡くなっている楢崎さんの話になると
突然竹内さんが僕病院で会ったよと言いだした。
横で中西美代子がこれは、あかんわという顔をした。
しばらくして竹内さんは六甲のホスピスに入院、
そこでバーボンクラブは再びパーティをすることにした。
病院からもして欲しいという要望があった。

病院の看護婦さんも参加して小曽根のピアノ、松本の歌と大パーティとなり
竹内さんもベットのまま参加して満足したのか穴子を一口食べ
水飲み器でバーボンウイスキーを一口飲みバーボンクラブの歌を聴きながら
そのまま二週間眠り込んだまま天国にいった。


筒井康隆はこれだけ芸人が居るのだから一度ぐらいは舞台公演をしようと言い出した。
話は早い。神戸オリエンタル劇場で公演と決まる。
タイトルは「星降る神戸」公演回数は一回だけ。内容は小曽根 実の作曲の曲で
若柳吉金吾が日舞を踊るのが目玉で、筒井は自分の発禁もの小説「乖離」の朗読、
加藤隆久の祝詞、松本幸三のシャンソン、中西省吾のファッションショウ、司会は田宮と決まる。

公演は小曽根の新曲がなかなかの傑作で聞きごたえあり、
踊りも見ごたえ充分内容十分の満足度で終わった。


神戸の貴婦人と田宮が勝手に呼んでいたが、
私は女の集まりより男の集まりバーボンクラブの会合に呼んで頂戴と中西美代子が言ってきた。

中西省伍が「宮チャンどうしよう」と相談してきたが、いいんじゃないで決まった。
中西省吾が、男が条件だよというと中西美代子も私は男だから男と思ってと強調した。
折から男のする事で会計も雑、中西美代子が、私会計してあげる、
お酒飲んだりしたら取りはぐれるでしょ?私飲まないから。と


バーボンクラブも結成後二十年目に生田会館で記念のパーティを華やかに繰り広げるなど、
今ではすっかり神戸の文化の一躍を担っているしバーボンクラブという名前も市民権を得ていた。

中西美代子が加わってからは少々ロートルに近づき
頑固といらいらも増してきたメンバーの中和剤的役目を果たしてくれているようであった。

一国一城のツワモノ男たちも彼女の一声にはすぐなびく位飼育されていた。

中西美代子は神戸の老舗の菓子屋の姪で叔母さんが経営している店を
時間があるときは店番している姿が良く見かけられた。

華やかな顔立ちで着ているものも半端でなく好みと言い着こなしと言い申し分なかった。
多分大概の衣装は外国に行ったとき購入してくるんであろうと思われるほど
国内では見かけない物ばかりだ。

彼女は気がつくと中山手通りのしもた屋風の一軒屋に住んでいた。
古いつくりの家で趣はあるが、かなり荒廃した感じはした。
其処でよく女性のお仲間を呼んではマージャンをしていた。
出会うとよく、これからマージャンするねんと言って笑っていた。

笑うと歯並びがきれであったが焼き物で作った義歯とは誰も知らない。
そうこするうちに中西美代子は
「私須磨に越すねん、それでお洋服など欲しい人にあげてんね」とぽっと話した。
「なんで須磨に?」田宮の問いには答えず
「私俗世界から離れたいの」
「?」
「真っ白い部屋で真っ白い壁で何も置かない何も無い部屋にするねん」
「何も無い?」
「そう何も無い」中西美代子はそう答えると泰然と笑った。

神戸に住み神戸を愛していた彼女が叉なんで須磨に、この疑問を中西美代子はすぐに解かなかった。
そういえば彼女がバーボンクラブに加わって依頼メンバーの人以外と付き合いをしてないように見えた。
あだかもバーボンクラブを隠れ蓑のように。

神戸の人と付き合いを止めたのかな,疑問はそのまま残った。
相変らず男たちは集まれば言いたい放題で酒が入れば、頑固親父に変身する、
個性豊かな集団と言えば格好は言いが、そうした中で、中西美代子は会費はしっかり集め、
男たちの理不尽な話も彼女の一言で納まり、色気を超越した色気がツワモノどもを圧倒した。

1月に入り正月気分も抜けた頃、久しく開いていない例会を神戸のホテルの中華料理店で開く事にした。
久々だけにメンバーの一人二人は欠けたが顔を揃えた。
何時ものように飲み食べ喋り尽くして、何時もは元気の大画伯が貧血を起こした事が事件位で
お開きとなり、新しくなったキャンテイをのぞこうということになった。

「美代子さんもいこうよ」
誰かが声をかけると
「私、帰、あかんね、病気したから」誰かが
「入院してたの?」と聞くと
「うん」
「何処が悪かったの?」
無言だった。
「ピクチャータイム」田宮が何時ものように小型カメラを取り出した。
写真を撮り終えても美代子さんは直ぐには立ちあがらなかった。
「美代子さん、そうだ話聞かせて」
と田宮が言うと「何?」
「いや、美代子さんの恋の話さ。何時も聞こうと思い聞けないから」
「今度話してあげる」
そういうと須磨の話の時にみせたのと同じように、泰然と笑った。
後で考えると中西美代子が外で皆と会うのがこれが最後となるとは、誰しも思わなかった。

田宮はその後相変らずイベントの打ち合わせなどで奔走していた。
デスクの電話が鳴った。
取り上げると生田神社の加藤隆久宮司からだ。なんとなく声に元気が無いように感じた。
「田宮さん、美代子さんが会いたがっているんだけど」
「会いたがっているって?」
「あんた、何も聞いていない?美代子さん入院してるんよ」
「えっつ?どこに」
「神戸のホスピス」
「えっ、病気は?」
「ガン」
「じゃ急がなくちゃ」
「大画伯とあんたに会いたいんだって。あまり長くないらしい、会いにいってあげて」
加藤宮司の声にも元気が無かった。

電話が切れて直ぐに大画伯に連絡した。
大画伯は絶句した。
田宮は真っ赤なバラを持って行こう。その前にバーボンクラブの旗を作ろう。
以前にメンバーが亡くなったとき、これからはアメリカみたいに送り出すお棺に旗が要りますねと
誰かが言ったのを思い出したからだ。言ったのは大画伯だと思い出した。

その晩友人の裁縫の上手な母親に依頼してバーボンクラブ二十年の時記念に作った
大画伯デザインの日本手ぬぐいで暖簾を作ってもらった。


翌日、花屋で真っ赤なバラ五十本を買い暖簾を持ちタクシーで
大画伯と中西美代子が入院している神戸アドベンチスト病院に向かった。

タクシーの中で大画伯の顔はこわばっていた。
「私、こいうの弱いんです」
病院は山の中にあり周辺は花が咲いていた。
エレベーターで三階に上がりナースステーションで名前を告げ面会を申し込んだ。
「患者さん具合がいいようなのでお会いすると言ってます」
ナースが部屋まで案内してくれた。
ドアを開けると何時もの顔をした中西美代子がベッドの上にいた。
壁には鴨居玲の若いときの油絵が掛かっていた。田宮と大画伯の顔をみるといきなり
「私、死ぬねん」
そういうと泰然と笑った。

何の返事もしようがない。
「美代子さん、このバラ活けないで床に敷き詰めて、それとこれバーボンの暖簾」
「本当?うれしい」
こころの底から嬉しそうな顔をした。

「ねえ、聞いて。私ね市民病院で人間ドックに入ったのよ。
で、何ともないと言われて、そのままにしていたの。
でも何となく具合が悪いので別の病院に行って診てもらったの。
そこでも異常は無いですから大丈夫と言われたので、そのまま外国に旅行に行ってしまったの。

所がその病院でよく調べたら大変だと言う事になり、私を探したけど留守だからどうしようもない。
私は大丈夫と言われたので、安心して旅から帰ると
病院から直ぐ来て下さいという手紙が家のポストに入っていて、
何かと思って行くと胃がんですという訳。手術しても難しいと言うので、
私もショックだったけど、弟の方がもっと驚いて、ここも弟が捜してくれたの、
とてもいい病院で苦しくなったら楽にしてくれるので安心しているの」

美代子さんは一気に話した。
病室内のバスルームのドアが開いていてそこにピンク色のブラジャーとパンツが干してあるのが
何となく女の部分を感じさせた。

中西美代子は更に続けた。
「此処ねえ、外国からの見学者が多いの。私、模範患者なのよね。
それと会いたくない人には会わないで済むの。

この間も○○さんを追い返してやったわ、ねえ死ぬんだもの、
会いたくない人に無理にあうことないでしょう」

嬉しそうにいたずらっぽく話すが田宮も大画伯も作り笑いしか出来ない。
それに中西美代子に弟がいたなんて二人共初めての話だった。

「でも会えてよかったわ、田宮さんにも大画伯にも。宮司にお願いしてたの」
大画伯はうんうんとうなずくので精一杯の様子であった。
「これ、鴨居さんの若いときの絵。県立近代美術館に寄付したの。
でもしばらく、此処に置かせてくれてるの」

死ぬまでとはさすがに口にしなかった。
絵は美代子がベッドに寝て正面に見えるところの壁に架けてある。
大画伯も田宮も未来の話題をできない所に苦しさがある。
永い沈黙が続いた。
沈黙が続くほどどうしようもない気分に襲われる。
言い出す言葉が無いという事は苦しい。
「疲れるといけないからぼちぼち」と言うと
「そお、来てくれて有難う」
美代子はにこやかな顔でそう言った。
田宮はサヨナラを言えない苦しい気持ちの中で、
「バラ床に敷き詰めてね、暖簾はかけて」
というと美代子は可愛い笑い顔を返事の代わりにした。
言葉にならない、エレベーターの所まで送ると言うので無言で三人は歩いた。
「ではね」
中西美代子は美しい手を差し延べた。大画伯は無言で、お大事にとも叉ねともいえない。
言う言葉が無いとはこのことか。
最後の握手でお別れである。
心の中がジーンと来るのを押さえて美代子の顔を見ていた。
エレベーターのドアは遠慮なくその間をフェイドアウトした
非情な動作であった。
言い換えればテレビ画面でよく見るワイプで拭い去るようだった。
田宮は別れる時、どうして中西美代子を力一杯抱きしめなかったかエレベーターの中で悔やんだ。
人間の別れとはこんなものなのか帰る車の中で、二人共心の中と頭の中は空白だった。

それから一週間後に
「一寸苦しんだけど安らかに亡くなりました」と病院から連絡が入った。
早い、人の寿命とはそんなものか、もう少し行くのが遅れたら会えない所だ。
早速病院に駆けつけると美代子は奇麗にお化粧され、
体にはあのバーボンクラブの手ぬぐいで作った暖簾が体にかけてあった。
彼女は田宮と大画伯が尋ねた後、
暖簾をひどく喜んでいて死んだら巻いて欲しいと話していたということだった。

側に飾られている写真は何処かで見た写真だと思ったら
去る一月にホテルで開いたバーボンクラブの時撮影した全員写真から
彼女の顔を引き伸ばしたのものだった。

この写真がどうしてもいいと本人が希望したそうだ。
年齢不詳の中西美代子は享年六十六才だった。

中西美代子に弟がいることは死ぬ間際の彼女の口からみんな始めて聞いた話だ。
田宮はこの際美代子の事をもう少し知りたいと考え思いきって弟さんに尋ねた。
弟さんの話も断片的で以下次のような事である。
大阪の何処に住んでいたかは不明だが、女学生の美代子は絶世の美女で
セーター姿で歩くその姿は男子学生の目をいやがうえにも集めたという。

本好きの美代子は何時も本屋に行き音楽や美術の本を好んで読んでいた。
大阪淀屋橋にある朝日生命ホールで音楽の演奏会がある時は何時も弟を連れて行った。
そのため弟は何時も友人から姉さんを紹介しろと、しつこく迫られていたそうだ。
美代子は二十一歳の時に神戸の金持ちの一人息子と結婚したが長男を直ぐ産んだ後離婚した。
原因は不明。

芸術が大好きで激しい気性の美代子にとって普通の男では満たされなかったのではないだろうか。
というのが弟の一言。

離婚した前後から美代子は鴨居 玲という若い画家と親しくなったそうだ。
どうして親しくなったかは不明だ。

不思議な事に美代子の両親の話が全く出てこないし、全く知る人がいない、
弟の口からも出てこない。

叔母さんは神戸の有名な菓子屋さんで美代子はおばさんの所に居候していた。
この叔母さんも奇麗な姪が可愛くて仕方なかったようだという。
鴨居 玲がパリに留学する時一緒に行こうと誘われたらしいが、
美代子は何故かこれを断ったのだった。

一人でパリに行った鴨居 玲からはしばしば奇麗な絵葉書が美代子さんの所に届いた。
彼女はその葉書を大切にしていたという。
美代子の数奇な人生は更に進む。
居候しているお菓子屋の叔母さんの息子さんが召集令状がきて出征してなんと戦死してしまう。
美代子の運命もこれが原因でこの先の人生が変わるのだろう。

跡取の無くなった叔母さんは養女を迎えるのである。
そうした中でも美代子は叔母さんの温かい愛情に恵まれ時には店先に座り
看板娘の役割をしたりして、手助けをする傍ら、一寸ヨーロッパに行きたいというと、
叔母さんは気前良く費用も出して送り出していた。

歳をとってきた叔母さんは養女に婿を迎えた。
人生は不思議なもので頼りの肉親は叔母さんだけが、
この叔母さんが死んでしまったら美代子の周囲は赤の他人だけになっていた。

それで店に座り商売の手伝いも出来ない立場に追い込まれたのだろう。
弟さんが記憶をたどり話してくれた物語は此処までだ。
それで中山手のしもた屋に住み、やがてそこも追われて須磨に移ったのではないだろうか?
これは推測である。

もう一つ不思議なのは美代子が嫁いで直ぐに生んだ男の子の行方だ。
親しい人でも美代子が男の子を連れて歩いている姿を見た人が居ないという。
話が前の戻り菓子屋の店先に座っていたのがそうできなくなった時
そこで偶然外で出会った人に、私の家そこなのという、話は成立するし、
叉須磨に居を移したのは一弦琴の心であったかもしれない。


田宮の所はじめこれと言う人の所に美代子が亡くなった翌日中西美代子からの手紙が届いた。

皆様、ごきげんいかがですか?
しばらくご無沙汰いたしましたことを、お詫び申し上げます。
私。昨夏、突然の発病で入院。
手術を受けるなどいたしましたが、その後は至極穏やかに暮らしてまいりました。
本年二月、病気が再発し、三月にホスピスに移りました。
ここでは、痛みも苦しみもなく、毎日快い環境のなかで、行き届いた手当を受け、
命あるかぎりの時間を楽しく過ごしてまいりましたが、
私は、今日、旅立ちます。
きらきらと輝く初夏の太陽と、さわやかな風、そして限りなく美しい花々に見守られながら…。
いま、とても満ち足りて、豊かな想いに包まれております。
とても幸せです。
永い間、皆様からいただいた数限りない愛を、しっかりと胸に抱いてまいります。
有難うございました。心から感謝しております。
皆様、ごきげんよう。お別れいたします。
お一人お一人のおしあわせをお祈りしつつ…。   

一九九四年五月三日            中西美代子

更にびっくりしたのは、追いかけるように感謝のパーティを開くので来て欲しいという、
中西美代子からの招待状だった。

シャンパンとワインの銘柄はすでに本人が決めていた。

    LES VIN
   CHAMPAGNE
Veuve Clicquot : VINTAGE 1985

VIN Blanc
1985 MontraoChet

louis Jadot
VIN Rouge

1979 Chateau Latour
Pauillac

と。

中西美代子ディナーパーティー

<ご招待状>

緑濃い木々が生命の賛歌を響かせるこの素晴らしい季節を迎えました。
皆さまにはお変わりなくお元気でご活躍のことと存じます。
さて私は5月3日、皆さまからいただきました数限りない愛と
美しい花々を胸に抱いて旅立ちました。
いままで多くの仲間の皆さまの愛につつまれて幸せに過ごしてこられた
ことをありがたく思っています。
また、神戸アドベンチスト病院のホスピスに入院してからは、
先生、看護婦さん、ボランティアの方々などに、やさしく、
親切にしていただきました。心から感謝しています。
ありがとうございました。
感謝の気持ちを少しでも伝えたくて、入院したその日から、
このパーティーを考えておりました。
何かとお忙しい方たちばかりと存じますが、ご出席下さいまして、
楽しい華やかなひとときをおすごしいただければ幸いです。
私も、そっと参加するつもりで、楽しみにしております。  

平成6年5月吉日         中西美代子


中西美代子 ディナーパーティー

☆と き   平成6年6月12日(日)

            午後6時〜(午後5時半受付)

   

☆ところ   ジャン・ムーラン

            〒650 神戸市中央区北野町2丁目16−8

                 電話078−242−4188

   

☆服 装   フォーマル(華やかに…)

                  中西美代子ディナーパーティー係

                      植松重二   岡田美代

                      市村礼子   高月昭子


田宮は美代子を見舞った時、パーティを開く話は聞いていた。どんな形でしようかということは世話人も迷っていた。

「もちろん、美代子さんのパーティだから華やかにしよう。
男性はタキシード、女性はイブニングドレスにしよう」と、田宮が提案した。反対はなかった。

興味深かったのは、当日招かれる顔触れである。
これに呼ばれた人が本当に中西美代子が愛していた人たちなのである。
ホスピスのドクター、ナースは全員来た。
バーボンクラブでも全員、美代子の死を心から悲しんだ。
フラメンコダンサーの東仲一矩さんも来た。
彼は美代子の遺灰をスペインの海に撒く役目をおおせつかっていた。
それ以外の顔触れを見てびっくりした。
あっと思った人が来ていない。
人生最後に、これほどはっきりけじめをつけて行動ができるのは彼女らしかった。
このパーティを知って招かれてない人は、文句を言いたくても相手は天国にいる。


美味しいフランス料理にワイン、そして司会はマージャン仲間の小山乃里子さん、
作家の筒井さんのクラリネット演奏、東仲一矩さんのフラメンコ、
ローソクを灯してのナースによる賛美歌コーラス、松本幸三さんの歌、正にディナーショーだった。

入口で美代子さんの使っていた豪華なイヤリングなどが置かれ、
お好きなものお持ち下さいというのも、美代子さんがいないことを強調するようで悲しみを誘った。


各々の座席の前のテーブルには、こんな挨拶文が置いてあった。
「本日は、私の大切な仲間たちにご出席をいただきまして、
ありがとうございました。
私も楽しい時間を過ごさせていただき、本当に幸せでした。
 皆様のご健康とご活躍をお祈り申し上げます。

            忘れたらアカンデー

            時々思い出してヤー

1994年6月12日

中西美代子

入院中の美代子はどんな偉い人でも叉偉いと思っている人でも
嫌な人の見舞いは今日は気分が悪いと言って徹底して断り会わなかった

葬儀、告別式はしないという本人の意向で死んだ翌日朝荼毘にした。
病院の横の教会でのお別れ式では田宮もスピーチをした。
悲しみで目頭が濡れた。
美しい人を失った悲しみではなく、美しいものを失った悲しさからである。

中西美代子の葬式は強いて言えばジャンムーランで開かれたパーティの日だったといえるかもしれない。
外国にいるという一人息子には連絡したが葬式の日には日本には帰国しなかった。
美代子の叔母さんが養女にした一族も顔を見せなかった。
伝説の人になるかもしれない。
中西美代子みたいな聡明で奇麗で貴婦人みたいな女性はもう神戸には出現しないだろう。

今、美代子は二十台からじっと心の中にしまっていた
大切な人、念願の人、鴨居 玲と天国で語り合っている事だろう。

病室に飾られていた鴨居 玲の絵は兵庫県立美術館にある。
もう一つ彼女は死ぬ直前にクリスチャンの洗礼を受けた。

その後の事だが、お好み焼きの大西の親父さんも癌で亡くなった。
美術評論家の増田 洋も亡くなった。
ジャンムーランも店を閉じた。
百年かけて出来上がったといわれる神戸の街はその色合いを薄めはじめた。
五線紙の街の大切な音符が次々と欠けはじめた。

そして中西美代子が亡くなった七ヶ月後1995年1月17日阪神淡路大震災が発生した。
五線紙の街の神戸の音符はこの瞬間すべてが五線紙上から消え去った。

                  完


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