想い出のEXPO70 日本万国博覧会

事前テレビ番組 各界の人に聞く

毎日放送の「万国博ニュース」の記録

<聞き手は 宮田達夫放送記者>


日本で初めての万国博覧会が1970年に大阪の千里丘陵で開かれました。

毎日放送では大阪地元での開催が決まると、いち早く万博の事前テレビ番組を企画。

1996年<昭和41年>日曜日の午前8時45分から15分間、各界の方々に

インタビューしてご意見を聞く番組を制作、放送しました。

そのタイトルはずばり「万国博ニュース」で、当時はまだENGカメラではなく

フイルムでの撮影の時代でした。

日本万国は覧会の基本テーマは人類の「進歩」に加えて「調和」。

インタビューした方々の肩書はいずれも当時の肩書です。

 

このお蔭でどれほど沢山の知名人の方とお会いして、いろいろとお話が伺えたことは

大変な貴重な事でした。

今、考えるとどの方もスケールの大きい方ばかりで当時の日本を支えていた方ばかりです。

果たして今日、これだけの知識豊かな方々がおいでになるだろうか?と。

 

因みにEXPO70は1970年3月14日から9月13日まで183日間

77か国、4国際機関、1政庁、9州市が参加。6421万8770人来場

 

 

山本康雄 万国博協会建設部長

        

万国博の会場となる千里丘陵を背景に        万博協会で建設進捗状況を聞く

1970年の日本万国博の夢を聞く

 

芦原義信 建築家 

文化勲章受章 2003年9月24日没 85歳

1967年モントリオール万国博で日本館設計

       

芦原義信さん設計の日本館

エクスポ67カナダのモントリオール万国博へ取材に行き、日本館設計の

芦原義信さんと知り、エクスポ70が開催されるに当たり東京渋谷の

芦原事務所で参考意見をインタビュー。

 

堀田庄三 住友銀行頭取 

1899年1月23日〜1990年12月18日没

日本万国博覧会協会副会長 住友銀行頭取19年在 日航会長 

住友銀行の法皇と言われた。

エクスポ70の副会長として、構想を聞きに。堀田副会長とはその後、

民放4社の万博担当記者と2カ月に一度昼食懇談会を住友銀行本店で開き、

意見交換を。当時カミソリ堀田と言われる理由を聞くと、自分が

自銀行の内部を良く知りすぎているからと。

 

「進歩と調和」堀田庄三さんの直筆色紙です。

 

ある日、僕に司会させると旨いんだよと、その後、大阪市提供の「市長とともに」の

司会をお願いした。 

<中馬市長・渡辺善一郎[毎日新聞編集局次長>堀田庄三

 

丹下健三 建築家 

万国博協会基幹施設プロデューサー 

1913年<大正2年>9月4日〜2005年<平成17年>3月22日没

日本万国は覧会会場総合設計担当

東京渋谷の表参道のセントラルビルの事務所へ訪ねて博覧会会場構成の構想を聞いた。

インタビュー回数は数回



         丹下   芦原


石阪泰三 
経団連会長

1886年<明治19年>6月3日〜1975年3月6日没

日本万国博覧会協会会長 財界の総理と言われた当時の東京の

東芝の会長室に訪ねてエクスポ70の会長としての進め方など聞く。

宣伝広報が遅れているのではと言う質問に

「君、間が大切なんだよ。三味線でも間が悪いと間抜けになるだろう」と一言。

毎朝目が覚めると、もうこれで終わりかと思うが、朝風呂に入ると元気になるよと。



渡辺美佐 万国博協会催し物プロデューサー 渡辺プロダクション

 
当時の渡辺プロダクションの事務所で



市川 忍 


18代大阪商工会議所会頭

関西財界がどの位の規模で参加協力体制で行くのか、など聞く。




佐治敬三
 サントリー株式会社社長

1919年11月1日〜1999年11月3日没 80歳

万博の広報はと聞くと「今の僕はエクスポ70の広報担当みたいだよ」と一言

 



管野和太郎 通産大臣 万国博協会副会長 

1895年6月20日〜1976年7月6日没 81歳

国の協力体制など聞く。

 



片岡 誠  
警察庁交通部長

日本万国は覧会協会会場部長から途中で大阪府警本部長へ

  
     中央が片岡 誠



永 六輔
 <本名 永 孝雄> 放送作家 

永さんならどんな万博にしたいかなど聞く。

1933年4月10日〜2016年7月7日没

 



中馬 馨
 大阪市長 

1904年11月20日〜1971年11月8日没

1963年大阪市長に当選 日本万国博覧会協会理事

中馬市長とは当選時代から知る間柄で「市長と共ともに」という

テレビの生番組を大阪市提供で1ヶ月に一度生放送を。

番組の打ち合わせはいつも中馬市長が業務で車で出かける時、同乗して車の中で。

 



中村八大
 作曲家 

1931年1月20日〜1992年6月10日没

万博のテーマソングはどんな曲が出来るだろうかなど聞く。

「上を向いて歩こう」「こんにちは赤ちゃん」他作曲

 
         中村八大さんの自宅で


小松左京 作家 

2011年7月26日没80歳 日本万国博覧会協会サブ・プロデューサー

その後 花博総合プロデューサー、SF作家として万博の魅力を聞く。




 



鈴木俊一 
東京都副知事から日本万国博覧会協会事務総長

エクスポ70の事務総長に決まり、東京の永福町の自宅に訪問し

就任の感想をインタビュー。

副知事時代に都庁内総てを廻った話から、エクスポ70の協会は狭いから

事務総長が回ると皆さんやる気が出ますよと進言。

就任後、事務総長が職員の仕事ぶりを見に来たと職員皆が大感激した。

 

東京永福町の自宅で(都副知事時代)       万国博協会で(御堂会館)

 

新井真一 日本万国博事務局長<初代> 

通産省出身でエキスポ70の未来の構想をインタビューしたが、後に更迭

 
中央 新井真一  右 平井勇二次長



奥村勝蔵
 日本政府代表

 



伊藤邦輔
 コマ劇場社長 

万博催し物プロデューサー

 



高橋信三
 毎日放送社長<当時>

高橋信三が石阪泰三経団連会長に万博の構想について聞く。

 
    高橋信三     石阪泰三



内海重典 宝塚歌劇団演出家 

万博お祭り広場プロデューサー

 






堀田庄三・住友銀行頭取・万博副会長 北沢敬二郎 元大丸会長 元毎日放送取締役

 

佐伯 勇 近畿鉄道社長

 
 近鉄本社で



佐藤義詮 大阪府知事

大阪府としての協力体制について聞く。

 
 大阪府庁で


万博協会幹部

小松武雄海外広報部長<共同通信ロンドン支局長>藤田令充国内広報部長、

山本康雄建設部長

万博会場建設状況、国内外の広報の基本姿勢を聞く


 御堂会館万博協会本部で


森 薫
 阪急電鉄社長



 阪急電鉄本社社長室で


EXPO会場への輸送問題を聞く。

後に、大阪中央環状線の建設用地を利用、千里中央から万博会場西口迄阪急が

臨時に線路を敷き輸送機関とした。

予想を上回る人出の時は出札が間に合わず新聞紙を切符の代わり、

ちぎって渡したと、後に宝塚歌劇の理事長になった市川安雄さんが語っていた。

 

磯崎 新 建築家 

万博のお祭り広場の設計を丹下健三と共同で




浅利慶太
 劇団四季演出家

劇団演出家として、万博会場での行う催しものはどんなものが適当かなど聞く。




カナダ・モントリオール博EXPO67のコンパニオンと万博国内広報課長

JTBからの出向の万博国内広報課長とカナダのモントリオール万博EXPO67の

コンパニオンに聞く。

 



岡本太郎
 芸術家 

万国博協会テーマ展示プロデューサー  

1911年<明治14年>2月26日〜1996年<平成8年>1月7日没 84歳


アトリエで

万博会場の太陽の塔の模型を前に岡本太郎にお祭り広場の太陽の塔について聞く

 

小谷正一 イベントプロデューサー 

毎日新聞事業部出身、井上靖の小説『闘牛』のモデル。

1992年8月8日没80歳

取材で訪れたカナダのEXPO67の会場で偶然出会い、その後、万博のパビリオンの

姿など聞く。伝説的な小谷正一さんに会えたことは奇跡に近いだけに貴重な対面でした。

NHKが独占だったラジオ放送が民間にも開放されるのを機に、

新日本放送<現毎日放送>の設立に参加。

EXPO70では住友童話館、電力館をプロデュース。

戦後最大のイベントプロデューサーと言われた。

古希の祝いで阿久悠が「21世紀を見るだけでなく・21世紀を・これはオモロイ時代やと・

歩いてくれませんか」という長詩を読んだことで有名。

 
カナダ・モントリオールで


飛田正雄 日本万国博協会出展部長兼チーフ・リエゾンオフィサー

外国からの出展つまり外国館の参加状況など聞く。

 
 


辺善一郎 毎日新聞編集局次長

 
 毎日新聞社本社(堂島)



おはなし

千里丘陵が日本万国博覧会の会場に決まり、石坂泰三会長が視察に来るにあたり

当時は、高い建物が毎日放送の千里丘スタジオしかなく、そこの屋上から

竹林だった現場を視察した時の写真。





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