「チンチン電車と女学生


脚本 高橋知伽江 演出 振り付 山口正芳 作曲 山下 透 舞台美術土屋茂昭
振付 奥山賀津子 芹まちか 広瀬正勝 中川 誠 宇田三昭 中野栄理子 
尾澤奈津子 天翔ゆう
原作 チンチン電車と女学生 堀川恵子 小笠原信之著


舞台の翻訳や舞台の脚本を書いている高橋知伽江さんから
「大阪でのオリジナルミュージカル公演について
だいぶ前にお知らせしておきながら、ご案内が遅くなり申し訳ありません。
出演者がプロでないので、どの程度の出来になるか心配で
稽古を見てからにしようと思っていて遅くなってしまいました。
日帰りで大阪に行き通し稽古を見てこれは是非ごらん頂きたいと思いお手紙を書きました」

上記の内容の手紙と共にミュージカル「チンチン電車と女学生」のチラシが同封してあった。

高橋知伽江さんは有能な脚本家で以前からオリジナルの脚本での舞台を期待していたので
今回は脚本を見たいという気持ちが強かった。

もともと大阪の「ステージ21」は2007年には第20期生を迎えるミュージカルスクールで
此処の創立20周年記念公演を書いて欲しいと高橋知伽江さんが頼まれたのが発端で
ステージ21の顧問をしている振付家の山田卓に以前に仕事を頼まれたのが
きっかけでもあるようだ。

このミュージカルは埋もれていた史実を掘り起こした一冊の本との出会いから生まれたそうだ。
第二次大戦のの終わりごろ男性の乗務員が不足したため、広島電鉄が女学校を作り、
働きながら学べる学校として県内外から少女達を集め、チンチン電車の車掌、運転手として
教育して働かせたのです。
14歳〜15歳の向学心の強い女学生達が寄宿生活をしながら、西の軍都広島の交通を担い、
そして被爆するという事実を高橋知伽江は知り、いつかミュージカルにしたいと思っていたそうだ。

そして戦時下で平和と未来を夢見た女学生達と、スポットライトを浴びる日のために
日夜レッスンに耐えている女優の卵たちには『一途さ』という共通点があり、
沢山の若い女性達が等身大で演じられる作品には
うってつけの素材だと思い書き下ろしたそうだ。

書き下ろしの日本の芝居も最近は余りお目にかかれないので、
一方ミュージカルスクールの記念公演でもあり期待半分で劇場に出かけた。

時は昭和18年、広島電鉄の家政科女学校設立から始まる。出演者は皆謂わば素人だ。
しかし舞台は、はじめから大勢ぐちの出から始まる。
未熟な台詞をカバーするかのように全員での歌になる。
物語の進行が明確で、大勢ぐちのダンスも明快で、物語が即座に観客に伝わっていくのを感じた。

原作は堀川恵子 小笠原信之著の「チンチン電車と女学生」だ。
おばあちゃんの形見に貰った日記を読むという形で、典型的な現代っ子の女の子が
狂言回し的に舞台を進めていく。

勉強しながら市電の運転の勉強もする。
地元広島からと広島以外から来た生徒が互いにいがみ合いながら時は過ぎていく。
車掌になり、運転手になりの過程が端的な台詞と歌で見事に舞台は進行する。
その中で兵隊との恋心、互いのいがみ合い、家族の問題、女性としての悩み、
将来への希望、、戦争に対しての疑問、お国への愛国心ということが
巧みに脚本は舞台で出演者に語らせ、当時の女学生の気質を上手く表現しているのだ。

演出は元劇団四季で役者をしていた山口正義だ。
彼は沢山の子供ミュージカルも四季で目の当たりに見ており
またこうしたミュージカルスクールの生徒の扱い方も充分に熟知している人だ。
それだけにどうしたら見せれる舞台が作れるかの経験は充分に持ち合わせている。

舞台の軸をなす、兵隊との恋心を持つ女学生を演じた山川優子は、内部のオーデションで選んだと
聞いているがこれが成功の一つと言えるかも知れない。

同郷の兵隊と淡い逢瀬を求めるが、この兵隊役の片山怜也はふと見ていて、
映画『硫黄島からの手紙」の三度目の正直で助かる気弱な正直な兵隊を演じた
二宮和也を連想してしまった。
それほどこの二人の芝居が舞台の流れの中で、嫌味なく当時の雰囲気を感じさせながら、
軸をなす役目をしていた。
これが色で言えば淡色なら、父親が元電車の運転手の娘を演じる吉岡澄は
中間色で悪人ぶりをして、芝居のアクセント役を務めている。
この辺りは巧みな脚本と山口正義の演出による成果だろう。

しかし、なにをも優るのは高橋知伽江の飛びぬけた素晴らしい脚本だ。
原作を読んでいないので判らないが、人物像が明確で、見ているほうで混乱しないし納得する。
本がこれほど良くかけていると、それぞれの役の性格が明確だと、スポットライトを浴びる日を
目指している女優の卵でも充実した芝居が演じられるのだ。
それほど脚本はいかに大切か改めて目の当たりに教えてくれたのが、この舞台だ。

勿論それをまとめて、このような舞台を作り上げた、演出、振付、音楽、装置もその功績は大きい。
演出の山口もミュージカルで大切なのは、歌いだしと音繋ぎ部分だという事を
充分に知り尽くしての舞台つくりをしてきたと思う。

音響的には無理な部分もあったが、それは仮設劇場的な建物だけにいたしかたないと理解した。
気になったのは台詞の言い回しが単調な事だ。
もう少し気持ちで台詞を言うという風にして欲しかった。全員が単調平板な事だ。
それと芝居の後、舞台から掃けるときに、何故か全員走って舞台裾に入るというのも
時には歩いていくべき雰囲気の場面もあるのだから。

さらに得てして戦時中の芝居を見るとつい言いたくなるのが服装だ。
もんぺにしても柄が気になったり、もんぺでも違うなあとか、校長先生は国民服でないのかとか、
電車の運転を教える先生が何で背広かなとか
当時を知っていると、そんな時代考証がきになる。

この芝居は一つの見事な反戦劇であり、今改めて戦争を考えさせる舞台だ。
今日本人は改めて戦争を考え直す時で、出演者はこの芝居をするまで、
日本が米国と戦ったという事実を知らない人も居たのではないかと考えた。
いみじくも米国映画で父親達の星条旗、硫黄島からの手紙が話題になり、
今でも硫黄島が日本の島でないと思う人が居る、
硫黄島は東京都下だと知らない人が居る時代だ。
そしてどうして硫黄島に行けないのか、疑問に思う人がどれほどいるかだ。
行けないのがおかしい。
でも硫黄島の滑走路の下にはいまだ2万数千体の遺体があるということも、余り知られてない。
米軍が占領後すぐに発進する滑走路が必要で作ってしまったからだ。

残念なのはこの芝居、時間の経過をわずかな台詞で描いていたら、
今の時代に更なる感銘と訴える力が強くなったと思う。
それは最後が原爆投下の日で終わるだけに、そこまでの経過の中で、
ラジオの大本営発表で硫黄島の玉砕というニュースを伝える台詞が欲しかった。
欲を言えばアッツ島、ガダルカナル玉砕も。
そうした当時の戦況という雰囲気をわずかでもちりばめていたら更に素晴らしい作品になった。

舞台の意外性は狂言回しの現代女性を演じた森貞唯が、
かなり地で演じていたみたいに感じていたら
最後になり、それが逆に現代っ子の反省の要因につながり、怪我の功名的な面白さを感じた。
芝居とはそういうもので、いかに自分の個性を役の中に出し切れるかということだ。
個性を役柄にする事なのだ。

他方最近気になるのは、女性なのに声を気にしない、つまり女性アナウンサーでも低音が多い、
テレビの場合は一オクターブ上げたほうが視聴者にはいいのだ。
この現代女性を演じた人も低音で演出家がそうしたのなら仕方がないが、
やはり女性の声、柔らか味のある声で台詞は聞きたい。
そしてはすっぱにしたければしたらいいのだ。
因みに宝塚歌劇の名娘役、遥 くららは現役時代は一オクターブ高い声を使っていたと
後に本人が話してくれた。

舞台装置の土屋茂昭の書割背景とつり物が上手く調和して、
チンチンでんしゃの使い方が巧みだ。あるべき時にあるという別格の主役だ。
音楽の山下 透の曲もスムースに聞こえてきていい。
兵隊と彼女が心の愛を歌う場面はなんとなく宝塚のベルばらを感じさせる雰囲気だ。
この辺りは脚本家の腕かもしれない。
物語の進行が必ず観客はこう願うだろうと思うように筋立てが出来ているのだ。
脚本の高橋は明快な起承転結を舞台で見せてくれた。
これほど気持ちの日本のオリジナル作品は久々だ。
以前から既に平成も19年、昭和は遥かなかなた、
早く昭和のミュージカルを書上げて欲しいと高橋さんに要望している。
昭和のミュージカルを書ける人は彼女しか居ないと思っているからだ。

もう一つ校長先生の劇団大坂の清原正次の演技、劇団てんの望月マリアのさりげない芝居、
経験から生まれる演技だという事をミュージカルスクールの生徒は肝に銘じたほうがいい。
山口正義の演出もこれだけの数の新人を舞台で乱れなく演出した腕は誉められていい。

苦言を一言言えば、この舞台で演じられたから外で通用すると思うと間違いで、
最近は簡単に芝居を考えている人が多いが、そのような気持ちで芝居をしていくと、
いい舞台は生まれないのだ。舞台はそれほど難しいのだ。

最後に最近は劇場という雰囲気が失われつつある。
勿論仮設劇場という事もある場合があり、またアリーナでコンサートを見る雰囲気で、
劇場に来る客も多い。
時代だといわれると、それまでだが矢張り芝居は劇場という独特な雰囲気の中で見たいものだ。
その劇場という雰囲気を作り出すのは見に来る客が作り出すものだ、という事を一言。

   2007年2月11日 観劇 シアターBRABA 午後一時公演 ちゅー太


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