劇団四季ミュージカル『キャッツ』 初演から31年ぶりに2016年7月に大阪で公演
〜初演、再演の想い出〜
2016年7月、劇団四季のミュージカル『キャッツ』が大阪に、1985年の大阪公演初演以来31年ぶりにやってくる。
当時、毎日放送で報道と事業の二足のわらじを履いていた私にとっては、
大阪初演の『キャッツ』公演には大変な思い出がある。
劇団四季の浅利慶太演出家から1984年の夏にもらった1本の電話が
『キャッツ』大阪公演の口火を切る発端だった。
その頃は、梅田コマ劇場でも当時のサンケイホールの吉鹿社長も、
『キャッツ』の大阪公演は自分の所でしたいと秘かに思っていた。
サンケイホールの吉鹿さんとは個人的にも親しく、夕方になると北新地の入り口近くにあった
「姉妹」という小さなバーにお供をして、此処で沢山の演劇の話を聞かされ話した記憶がある。
勿論、当時の劇団四季は大阪での公演は全て吉鹿さんのいるサンケイホールで行われていた。
浅利演出家からの1本の電話は、当時毎日放送の常務であった齋藤守慶とのつながりを求めての事。
つまり、常務だが民放の中では才長けた人間と見立てていたからだ。
齋藤守慶は毎日放送50年史でこう書いている。
「MBSでも事業局が大阪公演実施に向けて四季との接触を始めたが
その公演権獲得交渉は難航が予想された。報道局員で事業局員も兼務していた宮田達夫は
宝塚歌劇他演劇界に知己が多く、四季代表の浅利慶太氏とも交友関係にあった。
齋藤は宮田を介して浅利氏と直接談判をおこなった」
浅利慶太演出家からの条件は、毎日ゴールデンタイムに『キャッツ』のテレビスポット10本出してくれ
などという、当時で言えば途方もない条件だった。
それから日夜、浅利演出家、小沢常務と毎日放送事業の我らとの交渉の押しくらまんじゅうの連続だった。
当時の毎日放送の齋藤守慶常務(のちに社長)には決定権がない。
記者会見を何回も伸ばした結果、大沼事業局長と知恵を出ししぼりた最終案で決着。
毎日放送の35周年事業の一つとしてスタートする事になる。
1985年1月7日記者会見の当日、始まる前に私は初めて劇団四季の幹部である大島専務、小沢常務、
神岡広報担当に正式に紹介されて『キャッツ』のテントシアターを建設予定の、
まだ国鉄のコンテナーヤード跡地で線路も貨車もある土地を見学に赴いた。
国鉄コンテナヤード跡地
久野綾希子、山口正義、保坂知寿、鎌田真由美、それに神岡広報担当が浅利演出家に同行、
荒野のごとき線路もプラットホームもある敷地を前に、此処でミュージカル『キャッツ』をロングランでやる熱い心を
浅利演出家は延々と語った。
浅利演出家にインタビュー 初演 劇団四季『キャッツ』出演メンバー
大阪駅構内にあるホテルで開かれた記者会見、ひな壇にはには劇団四季代表浅利慶太、
「キャッツ』の主役を演じる久野綾希子、山口祐一郎、保坂知寿、鎌田真由美、深見正博、という出演者が
それに劇団四季の大島専務、毎日放送側は高木一見社長、齋藤守慶常務は一番端の席だった。
会見場に大きく掲げられたプレートには、劇団四季公演 ミュージカル「キャッツ」制作発表会
毎日放送35周年記念公演 サポーテッドバイ味の素 日本生命と書かれてあった。
とにかくポスターの字の大きさまで互いの主張が張り合い、間に入っていた劇団四季の小沢常務は、
ボクシングのサンドバッグの様に両方から攻めたてられていたのだ。
初めての劇団四季の長期公演、3か月だ。
浅利演出家の腹の中には自信と言う言葉が潜んでいたが、記者からの質問の
「成功しなかったらどうしますか」と言う問いに、即座に「劇団四季は解散します」と答えた。
記者会見風景
そして演目ミュージカル『キャッツ』を東京ではフジテレビが、大阪では毎日放送がサポート主催でするというので
嫌がうえにも話題の渦は巻きあがった。
大阪堂島の本社ビルの下にキャッツ スポットという切符販売コーナーを設け、
コンピューターでオンライン化された発券システムを大阪で初めて採用、切符販売所も京阪神6か所に限り、
飢餓状態を作り出すのが浅利演出家の狙いであった。
国鉄のコンテナーヤード跡地に行くアクセスがない所から表示の看板の大きさに至るまで大阪市に掛け合い
キャッツロードと名付けた。
公演初日の1985年3月20日にはキャッツ客車を改装したレストランのスキンブルシェフも営業を開始した。
9月26日には中曽根当時首相も陣中見舞いにキャッツ シアターへ。
10月6日には御堂筋パレードにフロートで参加、創造賞を受賞。
1986年に加藤敬二が大阪市の,咲くやこの花賞を受賞、487回公演を数えて4月1日千秋楽を迎えた。
実に13か月公演で東京公演の12か月366日を超える記録を達成した。
総入場者数487415人、入場率92・5%。
黒いテント劇場の出来上がるのは意外に早く電車から見ると異様な感じを与えるところが又話題を呼んだ。
大阪キャッツシアター
浅利演出家の希望のゴールデンタイムにスポット10本、これに張り合うように報道事業兼務の私は
MBSナウで取材して放送したりした。
放送した記録を見ると
キャッツ記者会見、浅利慶太、久野綾希子インタビュー、キャッツ舞台取材<MBSナウで放送>
劇団四季オーデイション風景取材、浅利インタビュー取材<MBSナウで放送>
アップダウンクイズに久野綾希子シルエットクイズで出演
キャッツチケット売出し 毎日新聞テレビ夕刊で取材放送 MBSニュースで放送
キャッツ シアターテント張り出来る。MBSナウで取材放送
アップダウンクイズで絵で見るクイズにキャッツ シアターを
キャッツ舞台稽古生中継 MBSナウ 中継担当近藤アナ 浅利、久野出演
キャッツ報道陣に公開 MBSナウで放送
キャッツ今日初日幕あく MBSナウで放送
あどりぶランドで平松アナが話題の猫にメイクMBSナウで放送
ワイドYOUでキャッツ シアターから生中継 浅利インタビュー
真夜中テレビランド キャッツ総集編放送
久野綾希子一日郵便局長取材 MBSニュースで放送
夜はクネクネでキャッツシアター周辺を取材 角アナ、原田伸郎
810ハチイチマルで久野綾希子取材
MBSナウ キャッツの人気の秘密
MBSナウ キャッツ シアター生中継 中曽根総理キャッツ シアター訪問
MBSナウ キャッツ公演延長記者会見
MBSナウ キャッツ大入り祈願 今宮戎
鶴瓶のザ パーティでキャッツ特集
勿論ラジオでも
ありがとう浜村淳ですに随時浅利、久野が出演した。
キャッツ公演中に朝日放送が編成局内に張り紙が出た。
キャッツの取材はまかりならぬと。
いくらなんでも、大人気ないでしょうと朝日放送の友人が私に、
しばらくしてその張り紙はなくなったそうだが、意外なところまで余波があったのだ。
もともと、大阪テレビという会社が二つに分かれて毎日放送と朝日放送が出来た。
そのときの毎日放送の社長になった杉道助が、今まで使っていた社屋は朝日放送に渡すということになり、
毎日放送は社屋がないため堂島の毎日新聞堂島会館の8階と9階をスタジオとオフィスとして使う事になる。
そうした事から互いに張り合う気持ちがオーバーに言えば
ジャイアンツ対タイガースみたいな雰囲気だったのだ。
そして毎日放送が時の話題のミュージカル『キャッツ』を主催、
名義でもない本当の主催ゆえの事だったからだろう。
世間の流れとは、面白いもので毎日放送ラジオにも影響が、それは、音だけのラジオでも
毎日放送テレビが扱っている『キャッツ』だから、ラジオも同じだと、営業成績にプラスになったのだ。
時はゴールデンタイム、プライムタイム、そして『キャッツ』公演で浅利演出家が考えた言葉
主催ではなくサポーテッドバイ>という言葉の新鮮さだった。
神岡広報担当は、浅利演出家から、君は僕と彼の連絡役だと言われた。
当時は、『キャッツ』公演を毎日放送がするということは社内の人間でも誰も知らない、
知らない状態で齋藤常務はスタートした。
理由は、こうした極秘事項が大切の場合、えてして社内の人間から外部へ洩れる恐れが往々にしてあるからだ。
事実、記者会見の前夜に大手広告代理店から齋藤常務の家に電話があり、
記者会見がある事も知らなかったので出席させてほしいと。
理由は浅利と齋藤で今回は代理店を外そうという約束をしていたからだ。
舞台稽古も進行、この公演で浅利は加藤敬二という才能ある人間をオーディションで発見した。
後の劇団四季の舞台を取り仕切る立場になるとは、その頃は誰も察知した者はいなかった。
当時の、飯野おさみも評判を呼んだが、加藤敬二の『キャッツ』のミストフェリーズに観客は熱狂したのだ。
天井からロープで降りてくるミストフェリーズがやがて舞台中央でつま先で回転<ピルエット>するのだ。
中心からずれずに確実に回転する。
それが話題となり、21回22回と観客が客席からカウントする程の熱狂ぶりを見せた。
グリザベラでは久野に次いで志村幸美という素晴らしい役者が生まれた。
特にジェニエニドッツを演じた服部良子は亡くなるまでこの役を演じ続けた素晴らしい人だった。
山口正義、青山弥生、深見正博、光枝明彦、光枝のグロールタイガー役は正にぴったりの役であった。
山口雄一郎、沢木 順、石井陽子、鈴木京子他、沢山の人たちが大阪公演初演を盛り上げたのだ。
クリスマスには楽屋に直径30センチのケーキ屋ハイジの特別あつらえのケーキを差し入れした。
当時、客席最後列に特別シートが設けられ椅子はソファーで4人一組で10万円で販売した。プログラム付でだ。
此れも時代が時代であったので結構売れた記憶がある。
有難いことに、この公演中に浅利演出家は毎日放送へ1公演2回を無償でプレゼントしてくれた。
社内で相談して社員の家族1家族3人まで招待することにした。
この社員招待日に常務の齋藤守慶は社長に就任、入り口で浅利演出家と社員を出迎えたのだ。
そして浅利演出家は社長に就任した齋藤守慶の為に出演者全員を集め、
齋藤夫妻を招いてお祝いの会を当時のロイヤルホテルで開いた。
ロングラン公演というものが無かった時代に、いち早く目を付けた浅利慶太は演出家と言うよりは
事業家と言う方が正解であったかも知れない。
この公演で生まれた注目の俳優は加藤敬二と志村幸美だった。
加藤敬二と齋藤夫妻
1年1か月のロングラン公演を終えて千秋楽のパーティはキャッツ シアターで開かれた。
乾杯の為舞台の上に立った作家の陳舜臣さんは
「この公演は空前絶後でした。後にも先にもこのような素晴らしい舞台はないという意味で
空前絶後と言いました」と挨拶をした。
齋藤社長と浅利演出家を囲んで 千秋楽の挨拶をする陳舜臣さん
大阪も北区でないと中心と感じなかったと思う浅利演出家も、国鉄コンテナーヤード跡地での公演の後
大阪の近鉄劇場を劇団四季の常打ち小屋として公演。
1986年引き続き毎日放送と組み『ウエストサイドストーリ―』を近鉄劇場で。
こうしている間に大阪難波の大阪球場跡地がいまだ再開発計画が決まらないという話から
この球場跡地の中にテントシアターを作りミュージカル『キャッツ』を再演しようということになり
1992年7月14日初日と決めた。
ミュージカル『キャッツ』の大阪公演2回目だ。
浅利演出家のゴールデンタイムにスポット10本という条件は相変わらず変わりなかったが
浅利劇団四季代表と齋藤毎日放送社長の良好の関係下では問題は何もなかった。
こうして、大阪の堂島の元毎日ホールを再開発計画が決まるまでという条件でリニューアルして
MBS劇場誕生につながり、毎日放送と劇団四季の関係は
デイズニーとの第一回の公演「美女と野獣」の公演へと道は繋がっていった。
宮田達夫(2016年1月9日)
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