「桂 米朝さんからの手紙」(原文のまま)



東京の人形町の末広亭、新宿の末広亭で、炭が二つとたどんが一つ
入った小さな火鉢を横に
時たま下足札で炭火の具合を見ながら、志ん生、
小さん、円生、金馬、柳橋、可楽、
といった噺家の高座を聞いて居た学生時代。

就職で関西に来る事になり、これは法善寺横丁あたり行くと上方落語の噺家と出会えるだろうと
来てみると、当時、道頓堀にあった朝日座、中座、お笑いの角座の看板見ると漫才ばかり。

偶然聞いた人に、法善寺横丁の近くの冶安寺で落語家さんが集まってますよと言われて赴くと、
本堂で長机囲んで記憶にあるのが松鶴さんだった。
どうぞ、おあがりをと言われた記憶が残っていた。


多分そこで米朝さんと面識が出来たのだろう。
当時1960年と言えば、毎日放送に入社したばかり、米朝さんも若かった。
大阪毎日会館の1階にあった喫茶店「オリオンズ」で東京の落語は華やかでああだこうだと、
どうして大阪はと聞いた。

そして、送られて来たのが、米朝さんからの上方落語界の実情を書き記した手紙だった。


桂 米朝さんからの手紙<昭和35年3月18日>

毎々御意見およせ下さいまして 御礼申し上げます
さきに頂きました御手紙にも御返事差上げたく思いながらついつい忙しいのと
家庭が目下大へんややっこしい為失礼してしまいました。

ただ、関西落語が総体に趣に欠けているとの御意見は全く愕然として
そのことに気づいた次第です。とも角、十年前までは正反対の意見と私共ももち、
お客様からも伺っていたからです。

つまり、上方落語には、東京落語に、ない情趣風情があるのが楽しいいと。
東京の所謂 批評家 諸先生方もその点のみ 上方落語を高く買って下さっていたのです。
戦時中 正岡先生あたりが火元で もっと上方落語を見直せという言葉が起こって
谷崎先生、吉井先生あたりもいろんなものに書いて下さったのは、
東京に滅びた夢が残っているということでした。


戦後、戎橋松竹ができた時のメンバー 松鶴、春団治、米団冶、花橘、春輔、文枝
次々と物故し、かしく改め福松師倒れ円都、文団冶両師が衰えて第一線を退き、染丸の下の
メンバーになって、すっきり一新すると同時に、大阪落語は全になり、出し、
つまりテンポが早くなってうれた代りに昔と情趣も欠けてしまいました。

<それを補うための三越その他の会なのですが>
右に述べた先輩の、ここの人以外は 全く、大衆受けという点では当時の我々にすら
劣ったというのは過言ではありません。受けつけられなかったのです。

全然、寄席に笑いが起こらなくなりました。
<戎橋松竹は漫才の寄席になったのも仕方ありません>

その点、理解されるせぬ様に、文面では意をつくしません。
いづれ御めもじの上申しあげたく存じます。


プログラムの私の文章は「こういう考えで居られるのは残念です」と仰ってますが
私がキメの荒い話になり勝ちと言う事を是としているものでない事はご承知下さると思います。

そうありたくないと思っても日常出ている寄席<一度千日劇場をのぞいてみて下さい>
その通りですから、知らず知らず、キメが荒くなっていくことを口惜しく思っているのです。
ああ、書いたのは、お前らの話はどうだと云われるに違いないので、先に謝ってしまった形で
卑怯と云われて仕方ありませんが、事実その日、枝好が「愛宕山」を出していました。
喋々を捕まえる件り
かけもちで走りましたので、きけませんでしたが、
恐らく省かれてかと思います。そんな処をじっくりとやる機会にあまりにも恵まれる事が
なかったので、あの人の演出にはカットになってしまっているはずです。


又、三越の会、長年に渉って私共変わらぬメンバーですので、演し物が又か又かとなって来ます。
珍しい物、変わったものと「鍋墨大根」をやってみましたが、もともと演り手がないのは
話に不自然さもあり、明らかに佳作ではない話です。猫、まくらから本題に入るのは
私は成がく、自然に、いつのまにか入ってゆくという手法を常に考えています。
が、成功したのは「くやみ」か「四人ぐせ」「住吉籠」等、多くありません。

また「親子茶屋」は古典的に上方式にしか演り方のないものです。
近代的にも東京式にも演れません。その点が辛いので笑わせる云々は別にして、
若い人にも受け入れ易い演出を考える事は、古典を損なうこととは別と思います。

その為、無理ができてはなんにもならんので、御話は一つでも細かい注意を払っている
つもりですが、具体的には、やはり、お目にかかって、お話したいと存じます。

東京の寄席には前に二度参りましたが随分いろいろ子物を出しました。
およそ皆受けましたが「親子茶屋」は、お囃子の関係でやれませんでした。
今、関西で一番やりたいのは京都の市民寄席です。今度は四月八日です。

 十八日                          米朝
宮田様

この後に、笑福亭松鶴さんが4代目を襲名するというので、ニュースの取材で住吉の方の御宅へ伺った。
そして角座での襲名披露公演が行われた。

春団治さん、米朝さんがお祝いの舞台に華を添えていた。
染丸さん、小文枝さん、米朝さんの上方落語の蘇生に向かっての厳しい時代が始まる。
 
        六代目松鶴襲名披露 1962年3月1日 角座


米朝さんの高座も行ける時は伺い、はがきのやり取りは、以下の文面のように続いていた。
が体調がもう一つの時があり、お会いしてじっくりとお話というのは記憶ではオリオンズでの数回か。

大阪の南の炭屋町に住んでいた米朝さんは昭和40年代には尼崎の武庫之荘に移転していた。

        
                  桂 米朝さん 1962年3月1日 角座



桂 米朝さんからのはがき<昭和35年9月29日>

「御懇切なお手紙いただき有難うございました。「試し酒」は本当に不出来で申し訳ございません。
今を去る12年ばかり前に大阪に移してやってみて、その後、数回やって四、五年ぶりに、
もち出してみました。あんころもち<大阪では>ほうりっこは寄合酒その他酒の枕にしじゅう使いますので
<酒の枕は十分近くにあります>あの日はやりませんでした。人物は仰せの如く、現代にしない方が
いいのかも知れません。いろいろ考えて現代にしてしまったのですが、主人公を山出しにしなかったのも
その為です。。大体、大阪では飯たきの権助という存在はあまりありませんでした。
この男にゴウケツ的な感じでもたせるのは一寸異論もあるように思います。
楽にとのめる様にしたのでは駄目で、やはり、のめそうにない感じで
サゲまでもってゆくべきではないかと存じます。

<九月中一寸多忙でおそまつな御返事で失礼です。いずれ又>


桂 米朝さんからのはがき<昭和35年11月16日>

「毎度、御心のこもりましたお便り有難うございます。御話の如く、三越落語会も六、七年になりますと、
やはり中だるみが来ていけません。無理もありません。演者は毎度変わらないし、演し物もだんだん底が
見えてくる、二、三の者以外は同じネタのくり返しでなります。通客は馬鹿にして来ませんし若いお客は
ウイークデイの昼間では来れません。大変やり難いし活気のないものになってしまいました。

神戸新聞会館で十二日昼夜落語会があります。三越は十四日です。
一度京都市民寄席へでもおこしください。七割まで若い客です。
東京とはすべての点で事情が違うことは一度拝眉の上お話し致したいと思います。草々

 

桂 米朝さんからの年賀状<1961年元旦>

丑の春
年が変わっても 相変わらず のらりくらりと喰って
寝てばかりいる息子に 親父が
「この不幸者の怠け者」と叱れば
「はい せめて不幸の罪ほろぼし 牛になって車でも
引こうと思います」 


桂 米朝さんからのはがき<昭和37年2月19日>

「御手紙有難うございました。
中日劇場へおこし下さった由、その時に楽屋へ一寸来て下さればよかったと残念です。
この頃、実際、落語に関する本が随分出版されています。一一全部に
目を通すこともできず不勉強ですが、
ちょいちょいよんでみると大阪落語にふれてある部分は、大ていまちがってるようです。

マクラは漫才の間に挿ってある為、余計必要なわけで私は大いにウエイトをかけているつもりです。
千劇あたりでは、雰囲気どころか客席を一寸しづめるのが精一杯、日によってはびっくりする程
やり良い日もあります。是非お目にかかりたく思います。



桂 米朝さんからの年賀状<1962年元旦>

寅の春
千里の藪から虎を引きずり出した和藤内
見ると、虎が酩酊している
「虎がトラになったのか」と言ふと
「へい、タケに酔いました」


桂 米朝さんからの年賀状<昭和40年元旦>

巳の春
十二支の動物達が競馬に出かけました。
「誰が一番うまいかしら」
「それは、やはり馬やろ」
「いや、自分の仲間のことは却ってわかり難い」
「そんなら鼠か」
「なるほど、あいつは穴に詳しいさかいな」
「いや、何と云うても一番堅いのは 蛇、蛇に限る」
「どうして」
「この中で足を出さぬのは、あれだけや」


桂 米朝さんからのはがき<昭和43年10月3日>
先日は 東京までわざわざ祝電を、いただきまして 本当にありがとうございました。
おかげ様にて、まずまずのかっこうがつきました。早くお礼をとおもいながら
御移転後の御住所を記入してなかったのでおそくなりすいませんでした。
十二月には又こちらで会をやります。
とりあえず 御礼まで 草々



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