宝塚歌劇の舞台は何処に?
月組公演「薔薇の封印」

宝塚歌劇月組公演 小池修一郎作演出の『薔薇の封印〜ヴァンパイア レクイエム』を見た。
月組トップスター紫吹 淳のサヨナラ公演だ。

緞帳が上がった瞬間これは宝塚の舞台ではないぞと思った。
あの過去に沢山観てきた華やかな装置、照明、甘くしっとりした宝塚独特の音楽
そして心をわくわくさせる舞台の上の生徒たち、
その生徒が演じる愛に満ちあふれた宝塚ならではの物語が姿を消している。

物語は永遠の命を得たヴァンパイアが14世紀から17世紀、20世紀
そして現代を生き抜くオムニバス。事前に月刊歌劇の公演解説を読んだが、
いざ舞台を観ると物語が整理されてなく人物像も明快に描かれてないので、
なにがなんだか判らない。判らないままに進行していくのでもっと判らない。
帰り際に元生徒曰く「何か判らなくて寝てしまったわ。」

ファン曰く「物語は過去の小池作品のLUNAやローンウルフと同じだし
エクスカバリーもありのごちゃまぜで小池演出もタネ切れですね」と言うとおりで
無理やり物語を進めるので支離滅裂で、唐突にご都合主義で
紫吹 淳、映美くらら、彩輝 直、霧矢大夢というメインの出演者が出てくるので
見ていて話のつじつまがさっぱり不明、
舞台の創りに作品が出来ていないというのが正直の印象。


私が以前にウイーンで見たヴァンパイアの芝居は「ダンシング バンパイア」で
ドラキュラが仲間を次々にドラキュラに
最後は自分の彼女もしてしまうという、明快な愛の物語だ。

月組も踊るヴァンパイアだけにダンスもちりばめているが、そのダンスに無理が多く
マントを着た僧院の僧に飛んだりはねたりの踊りをさせたり振りも
昔見たようなもので、音楽もメロデイーが無く始まるので雰囲気が出てこない。

しかも照明がヴァンパイアを意識してか暗く常に陰湿な舞台と言う感が漂う。

かつて宝塚の照明は今井であったがある時期から勝柴に替わり、
照明も変わるかと思いきや元のもくあみだ。

装置もヴァンパイアで城をイメージしているのかもしれないが
何かコロシアムみたいで夢というか甘さが無い。
新技術とかいう電飾がさらに舞台を貧相に粗雑に感じさせる。

フィナーレのダンスも音楽に乗らず振付は元生徒ばかりなので新鮮味が無く
昔見たような振りばかりだ。振付は才能で感覚で出きるものではない。
そのうえ踊る生徒に迫力が欠けるのも淋しい。

タンゴだベイリーだとあるがそれは言葉の上だけのもので舞台では何の変哲もない。
宝塚は作品が面白くなくても最後はフィナーレがその消化不良を解消してくれるが、
今回は更に消化不良を起こす。
元生徒ばかりの振付、生徒のダンス力の低下、一体これをどうする?

最近の宝塚の舞台は何か意識して過去の宝塚の舞台を
一切拒否しているかに感じるのは何故だ。

こんな事をしていると90年かけて築いた宝塚歌劇が消滅してしまう。
宝塚の舞台の化粧は青黛があって初めてあの強烈なライトと共に生徒が生きてくるのだ。
それが皆死人のような化粧で出てくるのは、いつからなのだろう?
誰がそうしたんだろう?

それとどうしていつもナチスでドイツが登場するんだ。
ナチスでユダヤ人排除とくる。
宝塚の舞台には兵隊、ナチスは要らない、出さないで欲しい。

そしていつもの事ながら客席のファンが笑うのは生徒に作者が言わすだじゃれな台詞だ。
かつて座付作者の柴田がこう話しているのを思い出した。
『作者としてはやはり男役のトップスターを美しくいかに魅力的な主役像を作るか、
見るためにも役の上でも喋る台詞、歌がいかに客にアピールさせるものにするかに
一番ポイントをおいている』


今更ながら故人となった振付の岡、喜多、黒瀧、朱理、音楽の寺田、装置の石浜という人材が
いかに大切だったか思い起こさせる。
それと定年で去った大関、菅沼、横澤と言う人たちは宝塚というソフトを抱えた人、
このような人材はアドバイザーでもいいから在団して助言が欲しい。

何故なら宝塚の舞台作法が今完全に失われつつあるからだ。

ここで再度2002年ベルサイユのばらの公演の時のプログラムに
植田紳爾が書いた文章を引用しよう。
『女性が男性を演じる宝塚では表現する方法はリアルであってはならないと思うんです。
若い世代はテレビ文化などにも多大な影響を受けリアルを好みがちでしょうけれど
宝塚は違いますよと言う事の一つの指針にする意味でも
今、ベルサイユのばらを上演する事は大切なことではないかと思っています』
植田紳爾はせつに宝塚の舞台が若い演出家にリアル芝居に走り始めた恐怖を訴えている。

この悲壮な叫びを含んだ文章を若い宝塚の演出家諸君は読んだ事があるんだろうか?
読んだとしても理解したんだろうか。自分たちが宝塚の演出家だということを。

つって月刊誌歌劇に小林米三が連載した、
『見たこと、聞いたこと、感じたこと』にこんな事が書かれている。

『宝塚はだだ今、座付作者を鋭意育てております。
月公演の<ブンガムラテイ>の作者鴨川清作、
月公演の<フォルテで行こう>の作者横澤秀雄、
<三つの愛の物語>の作者植田紳爾、昨年作品を発表した菅沼潤、小原弘恒の諸君は
宝塚で成長した人達で一人立ちしてきました。
その他十数人の者が演出補や助手として勉強中であります。
もう一、二年お待ち願うと彼等の立派な作品を皆様に見ていただけると思います。』
これは外部から歌劇団に対してお叱りに答えたものだ。
情熱を傾け自信を持ってスタッフを育てている事が良くわかる。
今劇団でこのような事を言う人がいるだろうか?

世界で類を見ない宝塚歌劇という芸術を育てた小林一三、米三が築いた
宝塚歌劇の命を削いでいるとしか思えない。

今のような作品の中に居る生徒も可哀相だ。何故こうなったのか、答えは簡単だ。
継承されなかったのと、植田紳爾が書いている通り勝手にリアルを求めていったからだ。

今回の舞台であっと思ったのは娘役が大勢で出てくる場面で
なんだ、これは宝塚の生徒ではない、
何処か大学の学園祭か普通の劇団の舞台かと感じを受けたことだ。

それはなんでだろう?
生徒の化粧が何の変哲も無い普通の化粧なので衣装も普通の衣装なので
舞台の人間も普通の人間ということだ。

伝統と言う継承を失いその結果がこの場面に出ている事をどれだけの人が気付いただろうか?
誰よりも宝塚の危機を感じていないのは他ならぬ演出家だろう。
危機を感じ続けてきた私は一路真輝、涼風真世、麻路さきが退団した時
宝塚歌劇は終わったと思っている。

2003124日午前11時公演観劇 744番 7500円 ちゅー太

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