「三つの再会物語」

     宮田 達夫

 

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神戸の街の話『五線紙の街〜神戸を彩った人たち〜』を書いたのは2007年7月だった。

その後、この本の存在を知った人から「本が欲しいから送って欲しい」という手紙やイーメイルがしばらく届いたが、
その後、問い合わせみたいなものは途絶えていた。本が出てから5年後の2012年の6月にイーメイルが届いた。

 

田宮三郎様

はじめまして。

表題の本の『五線紙の街〜神戸を彩った人たち〜』の在庫があれば送っていただきたいのです。

ご連絡お待ちしております。

 

女性の名前で住所は岡山県の田舎の住所だった。

 

余り名前には関心も寄せないまま、田宮は住所宛に返信を出した。

 

返信

代金1200円と送料80円を同封して下記の住所へお送りください。

到着次第本を送ります。

 

やがて本の到着を知らせるイーメイルが届いた。

 

田宮三郎様

この度は、急で事務的なお願いにもかかわらず、早速ご送付いただきましてありがとうございます。

数年前、新聞の記事か何かでこの本の出版のことを知っていたのですが、日々のことに追われ、
すっかり失念しておりました。

先日、ケイコ・リーさんのライブコンサートがこちらであり、久しぶりにジャズに触れ、
なんとはなしにパソコンで検索していると、この本のことを知り、読みたくなりメールいたしました。

あらためて、ご無沙汰しておりました

私、中川宗和〈通称Kazz〉の三番目の妻〈戸籍上〉です。

Dr.Jazzで子どもと共にお目にかかっております。主人が亡くなってはや22年。
震災があるまでは、神戸が忘れられずに息子とよく訪ねていたのですが、
震災後、私の知っていた神戸の姿が変わり少し遠のいていました。

ご本を拝読し、その当時が懐かしくもあり、私が主人と出会った頃、結婚した当時…いろいろと思い出しました。
私も今年で主人が亡くなった年になります。主人は52歳で亡くなりました。本の中は57歳で
子供を持ったようになっていますが(笑)。主人が亡くなった後、両親を頼りに実家に引き上げましたので、
主人の友人方には不義理をしたまま…現在に至っています。

「カズはよほど女房運が無かったのだよ」と仏壇に向かって私はつぶやいていますが、
こうしてカズを忘れずにいてくださった方があって良かったと思っています。
主人の友人がご健在でいらしたことが何よりも嬉しく存じます。

私の勝手な希望ですが、一度カズを酒〈バーボン〉の肴にしてお話しできるといいなあと思います。

時節柄、ご自愛くださいませ、まずは、ご本のお礼まで。

 

Dr.Jazzは神戸の東門筋を上がり、広い通りを渡ると右側に珈琲の「にしむら」とか、ドイツパン屋の
「フロインドリーブ」があり、その左側の細い道を入るとすぐにエレベーターのあるビルがあった。
その3階に、エレベーターに乗りドアが開くとすぐに店の中だった。

 

右側に小さなたて形のピアノがあり左側にバーカウンターがあった。

カズの三番目の妻は、そこで田宮が行ったときは赤子を背負ってカウンターの奥の方に座っていたのだ。
カズは田宮にその時「宮ちゃん、僕の奥さん、子供可愛いねん」とピアノを弾きながら呟いた。
カズ52歳だったのだ。いつもの声と違い、かすれ声だった。風邪ひいているんだとカズは答えた。
その頃のカズの傍にはいつも女房風の女性の姿は数知れずだった。

てっきりカズは田宮と同年代と思っていたが彼の生年月日は昭和12年12月16日が本当なのだが
何故か昭和13年1月3日だと戸籍上三番目の妻は教えてくれた。
三番目の妻が昭和35年7月16日生まれという事も、初めて知った。後の事だ。歳の差22歳だ。

 

当時店でカズが演奏しているところを撮影した写真をプリントして、カズの三番目の妻に郵送した事を
電話で教えようと思い岡山の田舎の自宅へ電話したが出ない。

やがて写真を受け取った。神戸へ行く日が急な出張が入り、予定が決まらないまま梅雨明け、
連日の猛暑で体調管理が大変だという事、電話は自宅にほとんど居ないので使っていない事、
しばらく出張が続くので神戸行きは主人の墓参りか、お盆か命日か彼岸に合わせてと考えていること、
日程が決まったらすぐに連絡をすると。そして、御目文字が叶いましたら嬉しく存じますという言葉で
イーメイルは結んでいた。

 

12月に入って間もなくイーメイルが届いた。

 

田宮様

すっかりご無沙汰してしまい申し訳ありません。

実は9月に入ってから急に仕事の依頼が増え、12月20日過ぎくらいまで休みが取れない状態になってしまいました。
12月後半になれば仕事も落ち着きます。もう年末になりますが、もし、その頃お忙しくなければ
神戸を訪ねたいと思います。

以前に電話で話したとき、彼女は物知りカズのお蔭でマナーを教える仕事をしていると聞いた。
結構、会社からの要請が多いらしいし、それで生計を今まで立てて子供も育てて来たのだろう。

 

クリスマスが近づいても彼女からの連絡はこないまま新しい年を迎えた。

正月の三が日も過ぎて、テレビで七草粥の作り方を教えている日に、三番目の妻からからイーメイルが届いた。

 

田宮様

新年も、はや1週間が経とうとしています。

年賀状有難うございます。

昨年は結局お目にかかることができずに、残念でございました。

さて急なのですが今月神戸の友人を見舞いがてら神戸をブラブラしたいと思っています。
お時間が合えばお目にかかれればと…、ご都合は?

 

再会場所を決めたが、もし判らないといけないと思い、当方はハットを被っていると伝えた。
何しろ、22年前に暗いバーのカウンターの中で赤子を背負ってこちらを向いた顔の記憶しかないからだ。

 

約束の日、再会の駅の改札口で電車から降りてくる乗客の中から、カズの三番目の妻の方はすぐに判り
駆け寄ってきた。既に50を過ぎたのに、小顔の幼い顔の輪郭は変わっていないし、その強気の愛嬌の笑みも
昔そのままだった。

 

「三番目の妻です」と田宮に向かって告げた。

「昔と変わらない。可愛らしいねえ」と言うと、嬉しそうに「そうですか」と答えたがマナーの先生をしているせいか
声が大きかった。

目的の店に着くなり早々に、シチリア版のロミオとジュリエットの物語を名づけたワインと言われる赤ワインの
コントドーロで、持参したカズの写真に向かい二人で献杯した。

 

再会とは、久久に会う事を言うのだが、過去にも何回も違う人と再会しているが、再会する時は互いにかなりの年齢を
経てのことだ。話題にしても、今まで生きてきたその人の人生記録を誰何することになり、
ドキュメント番組みたいなものにも感じるから不思議だ。愛しい人にやっと会えてという心の中にときめきが
生まれるわけでもない。違う意味でのその人の人生の足跡をたどることになる。

ボヘミアングラスについだシチリアのコントドーロを互いに飲み干しながら話は続いた。

 

三番目の妻はカズこと中川宗和がかすれ声であることを気にして、医者に行くように勧めたそうだが、
頑固な彼は風邪だからと言って自分の常備薬を飲んでいたそうだ。それでもおかしいので病院へ行き
診てもらうと既に胃がんで余命3か月と言われたそうだ。それを聞いたカズの母親から
「本人には絶対に言わないでほしい、伝えたら彼は自殺してしまう」と言われたという。
病院へ入院したのが1990年6月6日で3か月後の9月6日に亡くなった。

カズには沢山の女性が居たのは田宮も横で見ていたから知っているが、最後を看取った三番目の妻のいう事には、
葬儀には二番目の妻は来たが一番目の妻は来なかったそうだ。

三番目の妻、つまりカズが最後に愛した妻は、ポートピア博覧会で三金会第一勧銀グループの出展したハートピア
「水遊びのパビリオン」のコンパニオンをしているときに、カズがパビリオンのイベントで演奏に来たとき
知り合ったそうだ。縁は不思議なもので、その後に今はないが神戸税関の近くに当時オリエンタルホテルと並んで
有名なホテルがあり、そこでアルバイトをしていた時に再び会ったそうだ。カズは進駐軍キャンプで
ジャズ演奏したりして人生経験が豊かだっただけに、年若い彼女にしてみれば経験豊かな魅力的な男性に見えたし、
感じたのだろう。

 

その頃のカズは、既にガスライトという店は無くなり、フラワロードに面した神戸市役所の近くで店を始めたが、
ここもある日突然閉店となり、この前後して三番目の妻との生活が始まった。共に以前から組んで演奏していた
バンジョー弾きのサミーと、トムキャンティなどで演奏するなど放浪の生活をしていたのは、途切れ途切れに
田宮もダンボ耳に入っていた。そしてサミーと共同出資で
Dr.Jazzをしようという事になったらしいが、
それを聞いた三番目の妻が、共同出資は面倒が起こるからやめた方が無難だからとカズに意見したそうだ。
そうして、カズは三番目の妻と
Dr,Jazzを開いたのだ。そしてカズの死、これというカズの友人にも
死を知らせる間もないまま、彼女は岡山の田舎の両親の所へと行ったのだという。

その後、バンジョー弾きのサミーの行方を知りたくなり、ふとインターネットでサミーの行方を
捜しているときに、一番に田宮の書いた『五線紙の街』にヒットしたのだそうだ。

三番目の妻とカズとの生活は、ほんの短い期間だったが、カズが物知りだっただけに、そのおかげで、
いろいろな知識を身に着けることができて、今の仕事が出来るのだと話す彼女の姿には、カズと知り合ったこと、
結婚したことについては何の後悔も感じさせない雰囲気を田宮は感じた。勿論、若くして乳呑児を抱えて
田舎に引っ込んだのだから、それ相当の苦労はあったに違いない。だから田宮に
「私はカズの戸籍上三番目の妻です」と堂々と言えたのだろう。

赤ワインのコントドーロを飲み干した後は、勿論「カズを酒の肴にバーボンウイスキーを飲みたい」
という彼女の希望通りに二人でフォアローゼスを飲み干した。

 

今、神戸の街にあるバーでカズの事を知っている店は、もうどこにもない。1軒だけあるのは、三宮にある
通称ペコの店「
BUSY-BEE」だ。1965年からしているピアノバーで、ペコが大学生で始めた店だ。
学生ママの店というので話題となり週刊誌に掲載された店だ。あの阪神淡路大地震でも壊れないで生き残った店だ。

「ペコ、カズの奥さん」と紹介すると、三番目の妻は屈託なく「カズの戸籍上三番目の妻です」と笑いながら
ペコに挨拶した。此処でも勿論飲んだものはバーボンウイスキーだ。

 

以前に彼女に送ったカズの写真は、当時まだ宝塚歌劇団に入団したばかりで、後に星組のトップスターになった
麻路さきを連れていったときで、麻路さきはピアノが弾けるので、カズがピアノを弾くのを聞き惚れていた。
その時、撮影した写真で田宮が書いた『五線紙の街』の本の中にも掲載されている。その本がペコの店にも
偶然置いてあったので、ペコが「田宮さん、この頃年を取ったのか、よう見えへんね。それに耳も聞こえなくて、
加齢かしら」と言いながらページをめくってカウンターに座っていた客に見せていた。そしてペコがふと
「中川さん、どんな曲弾いていたかな」と言い出して、ピアノの前に座ると一瞬考えたあげくに、
カズがよく引いていたジャズのメロディを弾き出した。

 

再会と言ってもカズの三番目の妻だというだけだ。再会する田宮にとっては不思議な再会で、彼女にとっては、
死んだカズの出会った人との巡り会いの再会だろう。巡り会うだけで、彼女には昔のカズが
浮かび上がってくるかもしれないし、思い出に浸れるかもしれない。再会する同士の間にあるのは
鬼籍にはいったカズだ。三番目の妻は、カズの昔の友達を見つけ出しては、自分の知らないカズという部分を
少しでも知って感じ取っていきたい、そんな気持ちなのだろうか。愛しい人と会えて、
昔の愛しさにときめきを感じるわけではないし、感触を求めることでもない。
再会した二人の間には、常にカズが横たわっているのだ。

神戸の塩谷にいる友人を見舞いに行くと言い、三番目の妻は田宮に別れを告げた。

数日して彼女からイーメイルが届いた。

 

田宮様

楽しい時間を有難うございます。30年前が懐かしくもありましたが、時の流れも感じました。
ワインとバーボンウイスキーは美味でした。あれから、カズのお墓参りをして友人を見舞いに。
カズのお墓は二番目の奥さんの息子が管理してくれています。そうそう、お約束のお肉、週末には届くようにします。
今しばらくお待ち下さいませ。

 

              U

 

「明日午前11時、京都南座前でお待ちしていています」

というイーメイルをかなりメディアの仲間と飲んで帰宅、パソコンを開いたら届いていた。

明日、南座?思い当たらない?なんだろう?カレンダーをくると、そこには小さな字でOSKと書いてあった。

 

数か月前に、知人と飲んでいた時の事だ。

当時の夕方のニュース「MBSナウ」を担当していた時、たまたまOSK日本歌劇団が大仏さんのある東大寺で
踊るという事を聞き生中継しようという事になった。放送の始まる午後6時を控えていると突然の大雨が。
困惑していると東大寺の執事長のお蔭で大仏さんの台座の上でOSKの皆さんに踊ってもらう事が出来て
無事放送が出来た話をした。その時、知人が「では今度、南座の公演があるから見ましょう」と言ったのを、
その後すっかり忘れていたのだ。

OSKもその昔は近鉄興業が親元であやめ池の円形劇場で公演していたが、親会社が手放した後は生徒たちが
独自に継続しながら公演を続けている状況だった。奇しくも南座での公演はOSK日本歌劇団90周年を
謳っての公演だった。この公演を見に行かなければ、その後に「MBSナウ」で散々取材をした
元OSKのトップスター嵯峨みさ緒さんとの、奇跡ともいう不思議な30年ぶりの再会は生まれなかった。

観劇の幕間にOSKの現在のオーナー会社の社長が挨拶に顔を出され、その昔の大仏さんでの生中継の話になった。
オーナー会社の社長は「貴方が、あの大仏さんのテレビでの生中継の生みの親ですか?
それでは今度OSKの90周年史を出すので経緯を書いてください」ということになった。

 

インターネットの時代、イーメイルという便利なものが生まれた今、昔は電話でしか相手に通じない時代とは違い、
見ず知らずの人に対しても簡単に連絡がつけやすい利点がある。

或る日1通のイーメイルが届いた。

自分はOSKの営業を担当しているものです。

実はOSKの元男役スターの嵯峨みさ緒は私の叔母です。

 

えっ、なんという事か、と世間は狭い、まわりまわって再び巡り合うなんて。

甥御さんに返信を出すとすぐにまたイーメイルで返信が来た。

 

実は自分も縁があって叔母と同じ会社に入りました。嵯峨は、自分の祖母(つまり嵯峨の母親)を
3年間介護していましたが2月に亡くなりました。介護をしている間に嵯峨は背柱管狭窄症という病気になり
歩くだけでも痛みが出る状態です。先月などは動けない状況だったのですが、最近は根性で歩いています。

そして最後に「叔母に電話でもしてやって下さい。喜ぶと思います」とあり、携帯電話番号が書いてあった。

嵯峨みさ緒さんか、懐かしいね。

阿倍野のアポロ会館の中にOSKの稽古場があった時代は良く取材に出向いた。
創立60周年で「楊貴妃」を公演する時は、十三代片岡仁左衛門さんが片岡我当さんと演技指導に
わざわざ稽古場に来たので取材に出かけた。宝塚歌劇の取材もしていたがOSKにも、それなりの別の魅力があった。

 

当時の十三代仁左衛門さんは、まだ元気で稽古中でも生徒の所に走り寄って細かく演技の指導をしていたのだ。
嵯峨みさ緒さんは、十三代仁左衛門さんの指導についてインタビューにこう答えていた。

「一に心二に心三に心でセリフを言いなさいと言われました」

楊貴妃を演じる東雲あきらさんは「人間国宝と言われる方なので怖い方かと思っていたらお優しい方で、
でもその中に厳しさを感じました」

 

片や十三代片岡仁左衛門さんは稽古場で楊貴妃の演技指導をしながら「何となく歌舞伎的雰囲気もありで
楽しいです。見ていて華やかさの中におなかに堪える何か一言芯の通ったものにしたいです。
でも華やかさがあって楽しいです」と話していた。

確かに男ばかりの歌舞伎の世界の中いる十三代仁左衛門さんにとっては女性ばかりのOSKの世界は
一つの息抜きの場であったかもしれない。我当さんを連れて稽古場に来るのが楽しくて仕方がない
という顔をされていたのが印象的だった。この時の稽古場での取材は本番の舞台と合わせて
1982年9月17日の「MBSナウ」で放送した。

そうした雰囲気の中での嵯峨みさ緒さんとは取材での付き合いだった。そういえば嵯峨みさ緒さんの
次期のトップスターと言われた東雲あきらさんの2人を連れて美味なるステーキを食べに行った記憶もある。
当時はみんな若かった。

 

そして奈良の大仏さんからの落慶法要の時「仏陀の光」という踊りを奉納するというので「MBSナウ」で
生中継しようと考えた。本来は本殿の前で踊ることになっており、悠然と構えていると放送直前に大雨になった。
止むかなあと、高をくくっていたら放送時間直前になっても雨脚は弱まらない。中継技術のスタッフからは
「如何する?」「ええい、大仏さんの台座からやるか!」

意を決して東大寺の執事長に「大仏さんの前でやらせてもらえませんか」と頼むと、執事長あっさりと
「大仏さんの台座の上でしたらどうですか」と一言。お蔭で後々まで近鉄興業はじめ各方面まで
伝説的に有名になった〈OSKを大仏さんの台座で踊らせた〉ということになった。
放送は1980年10月14日の「MBSナウ」で放送した。

 

その時の主役トップスターが嵯峨みさ緒さんと八坂みどりさんだった。生中継に出演した新藤晋海執事長は
大仏さんが「出来た時はインドや中国など当時流行したものを持ってきて演じたそうですから、
決して此処でしたからと言って違和感はありません」とインタビューに答えられた。

嵯峨さんも「すごい事で驚きの一言です、想像もできない事です」

娘役の八坂さんは「大仏さんの前なので緊張で何とも言えない気持ちです。一生に一度のことでしょうから
頑張りたいです」

おおつごもりの日、甥御さんから教えられた嵯峨みさ緒さんの携帯電話番号に電話を掛けた。

受話器の向こう側からは、すぐに「うわあ…懐かしい!」

待っていたかのように元気のいい声が聞こえてきた。

「私ねえ、母の介護を3年間してきたんですよ。その母が2月に亡くなり毎日毎日泣いてばかりで。
その最中にOSKから松竹座と南座の公演に出てくれと言われて泣きはらした顔で出たんです」

 

彼女は大阪の此花区に住んで居ると思っていたのが、偶然にも私の住んでいるすぐ近くに、母親が亡くなり
家を売却した後引っ越してきていたのだ。
「それでもいまだに悲しみに暮れて、毎日お酒を飲まないと眠れないんです」と近況を電話口で話していた。

「何を飲んでいるの?」と聞くと「なんでも飲んでいる」と答えた。飲んでないと寝られないという。
でも飲んでも2時間おきに目が覚めるともいう。思わず、幾つになったのかと聞くと60歳と答えた。
そうだろうなあ?あれから30年余りたつのだから。

 

実は2001年に直腸がんにかかり手術をしたが余命半年と言われたそうだ。その後も手術跡が化膿したりして
再手術したり苦労の連続だったという。その後、脊柱狭窄症になり調べたら
「脊柱のところの骨が5か所折れている」と言われたんです。「手術したら一生寝たきりになるというので
痛いのを我慢しているんです」と自分の現在の状態を詳しく説明した。その苦しい逆境を、淡々というところに
彼女の持つ人生に対しての奥深いものを感じた。

 

彼女は16歳でOSKに入り33歳で退団、15年間在団したことになる。その後、記憶をたどると
私の知人が関係していた大宝企画というプロダクションへ紹介、そこで宝塚歌劇の星組のトップスターになった
瀬戸内美八さんとも知り合い、今でもお付き合いが続いているという。不思議と嵯峨みさ緒さんの舞台を
撮影したネガを探すとすぐに見つかり、ネガをデジタルのメモリーに入れ替えてプリントすると、
彼女の最後の舞台だった。サヨナラ舞台の最後の華やかな場面を大きく引き伸ばした。
彼女に再会の記念にプレゼントしようと思った。

 

「十日戎が過ぎたら会いましょう」と約束して電話を切った。

年が明けて、歩けるかどうか心配で聞くと、電車で来れるというので早目の時間に会う事にして
約束の駅の改札口で待った。赤ワインを1本下げて。約束の時間より少し早く来るだろうと思い待つと、
なかなか彼女の姿が見えない。ふと気が付くと黒色のダウンコートをおしゃれに着て、
髪の毛をゴールドに染めたご婦人に気が付いたが何となく顔の輪郭が違うようだが似ているようでもある。
先方も周辺を見ながらきょろきょろしている。

「嵯峨さん?」

声をかけると相手も一瞬こちらの顔を不審そうに見た。

「嵯峨さんでしょう?私ですよ」

30年近い年月を経ての二人の再会の瞬間だった。

 

この再会に当たってはもう一人いた。今のOSK日本歌劇団のトップスターを務めている桜花昇ぼるさんだ。
実は、毎日放送と大丸が共同で毎年御堂筋パレードにフロートを出していた。1992年のフロートに
OSK日本歌劇団の音楽学校の生徒に協力してもらい、振付は宝塚歌劇団の尚すみれさんに依頼、
生徒たちにフロートに乗ってもらったのだ。実はその中に桜花さんがレオタード姿で乗っていたのだ。
実はOSKの支援委員会という会のパーティで桜花さんとも再会をしたのだった。
何年ぶりかの再会かは桜花さんの為にそれは内緒だ。

 

 

V

 

新聞を読んでいてふと気になる記事に目が留まった。

宝塚音楽学校の生徒が訴訟。

記事の内容は岩手県出身の元タカラジェンヌの原爆で亡くなった園井恵子さんの慰霊の日に
地元出身の宝塚音楽学校の生徒が制服姿でこれに参加したことは学校に許可も取らずで、けしからん、
それ以外も不行跡があり退学だと、それに対しての訴訟という話だった。

 

改めて気になったのは園井恵子さんのことだった。そしてこの事件が無ければ〈彼女〉との再会は
あり得なかったのだ。その〈彼女〉とは元宝塚歌劇団月組副組長の有明 淳さんだ。

 

原爆で亡くなった園井恵子さんのことは芝居になったり、新藤兼人が映画にしたりして、それなりに知られているが、
ふと感じたのは園井恵子さんが亡くなる直前の真実の姿を知りたいという妙な好奇心が出て来たのだ。
何故か彼女の亡くなる時の様子や彼女の亡くなる時の本当の心の中を知りたいと、誰か傍で看取った人がいるはずだと。

 

偶然とは不思議なもので、宝塚歌劇団演出家で故内海重典さんの娘さんと出会い、久々に娘さんの母である
内海明子夫人を自宅に訪ねた。内海明子さんは元宝塚歌劇の生徒だった方で、園井恵子さんの事を話すと
「最後を看取ったのは私よ」と。しかも当時園井恵子さんが神戸の母と言っていた方がおり、その方の娘さんが偶然、
近くに住んでいるという事が判かった。ところがお二人とも加齢で耳が難聴なので、筆談で
園井恵子さんの凄まじい臨終のときの様子を知ることができて、いずれはと思い、その話を朗読劇にしたてた。

 

その時、明子さんから「ハワイに〈ニタ〉がいるのよ」という話が突然出た。
これがきっかけで1986年6月24日に宝塚大劇場とお別れした月組副組長の愛称ニタ、芸名 有明 淳さん、
本名谷 清美さんで現在は清 清美さんとハワイ州オアアフ島のホノルルで、ほぼ20数年ぶりで再会することになる。
ニタという愛称は彼女の本名が谷、逆に読むとニタとなる。

 

実はハワイには1998年に作家の陳舜臣さんの「陳舜臣文庫」をオアフ島の天理文庫の中に創設、
同時にタカラヅカ・レヴュー・ライブラリーも同じ場所に併設していた。毎年ライブラリーに宝塚歌劇の公演を
収録したVHSやDVDを運ぶためハワイに行き来していて、偶然、裏千家の経営の「ザ・ブレーカーズホテル」の
存在を知り、ここを定宿にしていたのだ。

ニタと再会するにしても、このホテルに来てもらう方が間違いないと考えた。

再会のために、ニタに電話をして名前を告げると、えっという驚きの声がした。

 

再会の日2010年6月6日、ホテルの駐車場で待つとやがて銀色のベンツが駐車場に入ってきた。
ドアを開けて出て来たのは、やや太り気味だが美しさは退団した昔のままの有明 淳さんだった。

24年ぶりの再会に思わず互いにハグを。ハワイ式にねと一言付け加えた。

 

娘さんがハワイの学校で勉強したいというので、母であるニタも共にハワイへ、そして英語学校にも通ったそうだ。
本当はニタは娘さんを宝塚音楽学校へ入れるのが夢だったようだ。でも優秀な娘はハワイの高校を卒業すると
勝手にメインランドつまり米国本土の大学へ進学してしまい、母親だけがハワイに取り残されたのだという。
それでもメインランドの大学を卒業したらハワイへ戻るかと思いきや、そのまま中国の上海大学へ。
母であるニタは、ハワイでフラダンスの教室へ、踊りのレッスンへと、一人ハワイで時の過ぎるのを楽しんでいるのだ。

 

「フラダンスの発表会がある時には、フラダンスで使うレイは自分で作るんですよ。その花もプルメニアで。
だからその花が咲いている家の方から頂かないといけないし、自分で花を木からとらないといけないのよ」
と説明してくれた。

ご主人は日本で仕事をしており、それでもニタのフラダンスの発表会になるとご主人と娘さんは見に
ハワイへ来るそうだ。ニタは自分が元宝塚歌劇に居たという事は誰にも言わずに、諸々のレッスンの合間の時間は
知人が経営するお店の番人をして時の流れに身を任せているのだ。

 

宝塚歌劇在団中は歌とダンサーで秀でた人だったと記憶している。

勿論、男役だが時には妖艶な女を演じていたりした。初舞台は昭和44年4月で有明 淳という芸名の由来は『宝塚おとめ』によれば「広く大きな美しい心を持てる人間に」という理由からだ。

 

ニタとは彼女が在団中から特に親しいという事も無かった。当時は夕方のニュースに扱うので、
特にスターのサヨナラ舞台は取材で行く時が多かった。ニタがさよならの時もテレビで舞台を撮影しながら、
彼女の舞台が終わり、退団する彼女の、一人での踊る場面が特につくられて白の衣装で大劇場の舞台で踊ったのだ。
スターのサヨナラステージというものだ。その時、下手から彼女の舞台姿をステイール写真で撮影した。
その30年後に再会してこの写真を使うようなことになるとは考えがあるはずもなかったし、
この写真のネガが存在しているというのも奇跡に近いものがある。

 

2013年タカラヅカ・レヴュー・ライブラリーを創設して15年目を迎えるので、記念として何かイベントをと
天理文庫の中尾善宣さんと考えた時に、ハワイで20数年ぶりで再会したハワイに住んでいるニタに
宝塚の思い出の話を、してもらおうという事になった。

場所はハワイ天理文庫図書室で2013年6月8日土曜日の午後1時からと決めた。

勿論、ニタさん懐かしの舞台、「ジョリシャポー」とか「レヴューU」の舞台を収録したDVDもライブラリーにある。

天理文庫に来る人たちにとっても元宝塚歌劇の生徒さんに話を直接聞けるというのも魅力的な出来事だろう。
ニタにとっても心のふるさと宝塚の事に退団して30年余りたった今、また触れられるという事も
嬉しいことに違いない。

考えてみると、袖触れ合うも多生の縁という言葉があるが、これは道で人とすれ違い袖が触れ合うようなことでも、
それは多かれ少なかれ縁である。人の縁は貴重なものであるから出会いは大切にしなければならない。

事実ニタとは退団した前後にたまたま大阪の北の新地ですれ違ったのだ。そして、彼女のファンの店があると言って、
桜寿司という店に一緒に行った記憶がある。そこで、彼女とは途切れたのだ。そして20数年後の再会となる。
本当に袖触れ合も多生の縁そのものだ。

 

僕はハワイは出会いの島と常日頃そう思っている。

事実、過去に本当に何人もの人とハワイで出会えて再会しているからだ。

 

有明 淳さんは心の中の気持ちをこう話している。

「出会いの島にいたお蔭で思いかけずにハワイでの再会があり、
今また心の故郷宝塚にかかわれることが嬉しく思います」

心の故郷がある人は素晴らしいし、うらやましいと思った。

そしてもう一つ彼女は「私、次はジャズを歌いたいわ」

そうだよね、ニタさんはダンサーであり歌姫だったものね。

 
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