「35Q組」

              〜30年余り続いた大学の同窓会記録〜

 

「35Q組」とは、昭和35年1960年に慶応大学法学部政治学科を卒業した年度と、
QとはクラスがQ組だった。

 

同窓会が開かれる時は、会場の看板には「35Q組」とだけ書かれているのが妙に面白く感じた。

 

卒業した時は53人、このうち2人だけが女性だった。

幹事は、木暮英彦と湯村善朗の二人だった。

この「35Q組」の同窓会も、2016年10月7日に銀座の交詢社で開きますという
お報せのはがきが届いたが、そこには次のような文章が書かれていた。

 

「小生、平成2年以降、幹事役をお引き受けいたしておりましたが、今後も続けて幹事をやれるか
自信はありません。あと1、2回で交替かクラス会の中断をお願いしたいと考えております」

平成28年盛夏 幹事 木暮英彦

 

28回目「35Q組」の同窓会の看板はこの日限りで降ろされた。

 

改めてかつて毎日放送の放送記者だった私が眺めた35Q組の同窓会を記録として残したいと考えた。
詳細な資料は木暮幹事から提供して頂いた。

 

私は宮田なので今後はMという表記にします。「35Q組」はQで。

 

Mが最初にQの同窓会に出たのは写真の記録から見ると1991年だ。

場所は全日空ホテルだったと思われる。当時、湯村が全日空に勤めていたからだろうと

思っていたが、実は湯村の御子息が勤めていた関係だと判った。

 

出席者は23人。黒瀬、小川、小石、中村(隆)、市川、中村(日)、木暮、坂本、湯村、深沢、
浅海、金井、木代、宮田、金久保、佐野、亀山、渋沢、天川、和田、鮫島、浅野。

1992年は17人が出席。

 

〈死亡〉1988年 宮沢 健 近畿大学教授。年不明 三品 牧 1997年 和田善孝 
1999年1月22日 4月7日 太田匡駿 1997年10月27日 池田真明

〈不明者〉 鈴木義信、鈴木淳美、田中秀穂、森田雄次郎、萩原守雄

 

Mが大阪勤務だったので、会社が大阪堂島だった渋沢明とは数回会う事があった。
渋沢は、学生時代からおじさん風貌で、もの静かな男だった。
Mが再会したのは1991年の同窓会だった。

同窓会に出席した時、イの一番に声をかけて来たのが市川正視だった。

「君は大学1年の時から蝶ネクタイで背広姿、学生服でないので驚いたよ」

市川は直腸癌を患っていると言った。

学生時代に劇団をMと共にしていた掛札昌弘は東映の助監督からシナリオライターになった。
学生時代からの彼の口癖は「脚本家になる」。
学生時代に家が旅館をしていた小川洋二、伊藤鉄雄と小川の旅館に泊まりがけで行った。

その伊藤も2006年7月10日に鬼籍へ。

 

そもそもこの35が誕生した経緯は卒業25周年記念大会で大会券を割り当てられ
級友に協力を求める所からがスタートだったと小暮の話。
会場は三田倶楽部、全日空、交詢社で、ここは木暮が会員だった。
木暮、湯村は共にアメリカンフットボール部の仲間だったことから
幹事のタグを組むことに。

 

湯村善朗は全日空に勤めていた。Mも現役時代、航空記者をしていたので湯村と出会い、
その後、Mが事業担当の時、宮崎でダンロップ・フェニクスのゴルフトーナメントを担当していた時、
彼も宮崎のホテル勤務で互いにトーナメントの役員を。何回か、毎年ここで彼と出会う事になる。

 

初めは毎年9月の第一金曜日と決めていたが、関西方面から来るMをはじめ滋賀県の風間康生、
芦屋の河合恒浩の要望で、9月は台風が多いからと10月の第一金曜日に変更となった。

 

場所も、木暮英彦がメンバーの銀座の交詢社でと決まった。幹事の木暮は、案内状発送他雑務を、
当日の集金係は湯村のコンビだった。

 

2000年に入ると鬼籍へ急ぐ人の数が増えてきた。

 

〈死亡〉 天川 穀 2010年1月 浅野継男 2010年3月30日 伊藤鉄雄 2006年7月10日、
亀山和夫 2012年3月3日、金久保凱貞 2006年5月29日、栗原政雄 2009年4月、
佐野正典 
2001年12月12日、多畑良祐 2010年11月8日、渋沢 明 2009年11月20日

 

Mは多畑良祐には思い出がある。彼にMが書いた著書を贈呈したら翌年の同窓会で、
「貴方の友人にこんな本を書ける人がいるの?」とワイフが驚いていたよと。
僕は生涯現役で行くんだと語っていたが、気が付いたら鬼籍へ。残念、もう少し話したかった。

 

女性が二人いた。滝川恭世(松木田恭世)、鈴木玲子(湯浅玲子)だ。

滝川は浅草に住んでいた。Mが演劇を取材していた頃、当時の大阪の新歌舞伎座の宣伝部長から、
ひょんなことから彼女を知っているという話を聞いた。

でも話はそれっきりで終わった。同窓会には滝川は現れなかった。出欠の返事は来たが
何時も欠席の所を○で囲んであった。Mは大学最後の早慶戦で彼女たちと銀座4丁目で
賑やかに遊んだ記憶がある。それが最後だった。

松木田欠席の平成27年10月の時、堀 健次は欠席の理由をこう書いている。

「誠に残念ながら欠席せざるを得ません。目の疾患の進行により事故防止の為、単独では限られた近所の
慣れた道の外出のみで、夕刻以降とアルコールは盲導犬〈家内〉付でないと厳禁になりました。
永い間お世話になりました。有難うございます。以下略。

 

金井之和「去年夏に大病し、いまだに体調悪く遠出ができません」

加賀 晋「毎回欠席で申し訳ありません。相変わらず猫を相手に一日を過ごしています」

河合 實「定年後、ネクタイを締める事がなくなり、こういう場には出ないことにしています」

小池 保「背柱管狭窄三番目がまだよくならず歩行に困難です。薬による痛み止めは飲んでも
あまり効かず、動いてはすぐ休んでしまう状況です。医師より車運転止められ免許返上です」

 

始まりの挨拶は木暮が、では乾杯を…誰に、一寸思案して、では遠くから来た宮田君にと指名がきた。

彼の心配りを感じた。

 

ある時の挨拶を記録してみた。

大学を卒業して50年以上過ぎれば挨拶は人生の教訓に近い。

 

中村隆一「大学では剣道部に居りましたので、学校の方は程ほどで、あまり記憶にないかもしれません。
家内が昨年6月に膵臓がんの手術をして半年間も病院暮らしとなり、小生と娘3人で
昼、夜の当番(見舞い)をしたことで親子の絆が強くなったことです。

又、小生が6月に前立腺癌の宣告があったものの、切除すると尿道を切断してつなぐため
尿漏れがいつまで続くかわからない悩みがあり、72歳で剣道を続けているので今辞めたくないため、
悪性の癌でないので共存して生きようと決意して、女性ホルモンの服用と数か月先には
放射線カプセルを前立腺に打ち込み枯渇化させる治療を選んだのです」

 

市川正視「定年60歳間近の58歳の中頃、社長より子会社〈図書印刷〉の営業担当常務で
出向の内示を受ける。痔が悪化していたので痔の手術を直ちに受ける。2〜3か月すると出血があり、
疲労感があり、体力、気力もなくなり、陣頭に立って営業活動もする気力も無くなっていた。

担当専務から再三要請を受けたが保留を続け、定年で退職を決意。のんびり湯治でもする気でいた。

退職前、会社の診療所より成人病検査を是非受けるよう話があり渋々受ける。

検査結果は出血があり貧血気味との事。多分、痔の後遺症と思われるが病院で検査を受けるよう言われた。
担当医は痔の後遺症とみていた。念のため精密検査をすることになった。

検査の2日目から顔色が変わり入院日、手術日が新春早々に決まり、後の検査は逆算して行われた。

後に知った病名は〈浸潤性大腸癌〉。人口肛門を付けることになると言われた。

人口肛門を付けることに反発を感じたが、同室の人に励まされ手術を受けることになった。

当時の風潮として担当医は癌と、はっきり告知をしなかった。

手術後100時間は痛みの為1分間が1時間の長さに感じた。1か月で完治。

風邪を引くといけないので、病院に無理を言って3か月間入院していた。
退院後3週間ごとに血液検査が行われ、3年以内の癌の転移など夢想だにしなかった。

退院後実行していることは、禁煙、午前6時30分からのラジオ体操、毎日30分以上歩く事。
毎日繰り返して読んでいる本『人口肛門の仲間たち』『ガン抑制の食品』」

 

宮田達夫「一昨年は、『五線紙の街』という本を書いて、皆様に購入して頂きました。
昨年は『夢のアイランドは向こう側』という本を自費出版して、皆様に御協力頂きました。
今年は、音楽朗読劇を企画構成して10月10日に兵庫県立芸術文化センターでやります。
70歳を過ぎたころから、これから80歳まで生きるのは大変ですよ、とある人に言われて、
はたと考えるようになり、如何に自分をプロデュースできるかが課題と考えております」

 

小石哲也「年一回の顔合わせですが、私も楽しく参加させていただいております。

近況報告ですが私はお蔭様でこれという病気はしておりませんで、7年間重量挙げをやっていたのが
幸いしたのではないかと思っております。

還暦の年に重量挙三田会会長に就任し、6期12年間無事終了させることが出来ました。
お世話になった部に対して少しでも恩返しが出来たのではないかと思っております。
仕事は宝石の販売ですが、宝石の鑑定には精神統一が必要で重量挙をやっていて良かったと思います。
4年生のキャプテンの時、茶道を勉強し、これも仕事に役立っていると思います。
終生現役でやっていくつもりです」

 

長い間、難病と闘ってきた湯浅玲子(2008年2月19日)が亡くなった。

此処で彼女の事に少し触れよう。

ご主人は慶応大学医学部中退して音楽の道に入り込んだ、異色の音楽家の湯浅譲二だ。
長野の冬季オリンピックの開会式の曲『冬の光のファンファーレ』を作曲。
武満 徹(劇団四季で音楽を作曲していた)人たちと実験工房で活躍。
現在は米国サンディエゴのカリフォルニア・サンディエゴ校の名誉教授。
その湯浅譲二夫人の玲子さんは腎移植後4年ぐらいで拒否反応が出て病院生活4年の間、
病の副作用で大変だったという事だ。35Qには一度参加したいと強く希望していた、と
木暮は挨拶する時、そう語っていた。下校時、帰途の道が同じなので親しくしてもらったと木暮の話。

 

Mの記憶では湯浅玲子さんは小柄で可愛い顔していた記憶がある。
もう一人の松木田恭世さんは気性の激しい下町娘という、魅力的な雰囲気のある人という印象がある。
青春真っ只中だった。

 

改めて大学の同窓会も70歳を過ぎるころから出席の顔ぶれも決まってくる。

出るのもおっくうの人、出たくても出られない人、出たくない人、その基準は大体決まってくる。
クラスの中で一番年上で髪も白髪で、いかにも長老風の亀山和夫は冒頭の挨拶は元気な時は
いつも彼だった。

彼が挨拶、そして乾杯はM。いつも楽しそうに、家では粗大ごみですと話していた彼が次の年、
姿が無かった。

出欠のはがきに、会に出るのが楽しみで今年も楽しみにしていました。と、夫人の一筆があった。

 

挨拶には、いろいろとあり、それぞれの人生がそこに浮かび上がってくるような気がした。

女房のお蔭でここまで来られました、という殊勝な挨拶をする人。今日まで会社の役員を
していましたが、今年退任しました。今は何をしていいか判らない、と髪の毛はまだ青年の様に
黒くふさふさ男がつぶやいた。

 

保険の仕事をしている人は80歳までこの仕事は続けると語っていたが次の年には鬼籍へ。

自分の仕事を娘が継いでくれて、と幸せいっぱいの人。健康の為、毎日歩くがどこを歩いたかは
覚えていないとさらっと話す人。単純に1年は長いがクラス会はいいものだと呟く人。
愉快なのは、年齢を経てくると皆喋り方が映画俳優の笠 智衆の喋り方に似てくるから楽しい。

 

〈死亡〉 古川 修 2005年5月21日、鮫島正則 2014年10月6日 
高畠 新
 2015年9月1日、小池 保 2016年7月1日

 

Mは毎年ありがたいと思っていた。理由は誕生日の直前に開かれる同窓会だからだ。
Mの誕生日は10月9日だ。奇しくも傘寿を迎えた年だ。

 

何時もたくさんの病気を抱えていても元気な姿を見せていた市川の姿がない。
2016年10月7日の欠席のはがきに市川は、こう書いていた。
「木暮君の毎回の幹事には感謝しています。今回は体調不調につき出席出来ません」

いまだに黒髪を誇っていた中村日出雄「今年は残念ですが医者の指示、夜間の外出禁に従います」

松木田恭世「お世話様です。皆様によろしくお伝えください」

とうとう彼女には会えなかったなとMはそう思った。

堀 健次「緑内障の進行により近所の限られた且つ歩き慣れた所の行動となりました。以下略」

 

2016年10月7日、27回目、幹事の木暮が弱弱しい声で、この集まり「35Q組」の次回は
無理だという挨拶をした。突然の終止符、この日の出席者は15人。全員が同意した。
大津から毎回新幹線で日帰りする風間、芦屋の河合、遠方ながら常連だ。

小石の挨拶はハワイのビックアイランドにゴルフに行った話だ。ワイコロでプレイを、
今年は行く人数が減ったと。ハワイはボールがよく飛ぶからねえ! 

 

掛札のC型肝炎は治ったと思ったら現在は一日おきに透析の生活だという。

ワインは3杯ぐらいなら飲めると。その掛札が映画の面白い本を出している。

メディアックスという所から、時代劇だけを徹底検証した話と奇怪とミステリー徹底検証した本だ。
外国映画編もある。彼は挨拶では話さなかった。

 

坂本は肺がんが見つかったと一言。彼にも想い出は沢山ある。
懐かしい仲間とはもう会う事はないだろう。

恒例の集合写真を木暮が持参の「写ルンです」のインスタントカメラで撮影した。

中村隆一が最後に木暮と湯村の為に塾歌を皆で歌おうと言い出した。
交詢社で開かれ、安否確認の場所だった「35Q組」のプレートはもう見られない。

 

35Q組の記録の締めくくりは映画の脚本家の掛札昌裕の文章で終わろう。

 

「最後の同窓会」という言葉はまるで映画のタイトルの様な愁いを含んでいます。

僕がクラス会に出席する様になったのは十数年前からの事だが、その頃はまだ会場が賑やかでした。

ここ数年、次第に参加者が減ってきて、いずれは数人の同窓会になるかもしれない。
だからこの辺りでピリオドを打つのもいいかとも思ったが、一抹の淋しさが募ってきます。

 

学生時代、僕は宮田君と三田アカデミーという映画・演劇の研究会を立ち上げ、部屋もあったので、
そこに出入りすることが多く教室にあまり顔を出しませんでした。そんな僕でさえクラス会に出ると
様々な記憶が時空を超えて蘇ってきます。日吉の並木道や米軍から払いさげられたカマボコ校舎等、
今の日吉からは考えられない情景が鮮明に浮かび上がってくるのです。

卒業旅行と称して河村、坂本、藤島の三君と東北にスキー旅行に行ったことも懐かしい。
今も元気な皆の顔を見られるのもクラス会があってこそで。

 

35Q組の同窓会の幕を下ろそうと言った湯村幹事から、この記録集を読んで

「こんな面白い記録集を作ってくれて有難う。君の文章はおもしろいからなあ」
という葉書を受けった。

そして年が明けた1月に湯村は鬼籍へ。幹事、ご苦労様でした。

その後の出来事を加筆
2017年9月幹事をしていた小暮英彦が会いたいとファクスが来たので、丁度
国立劇場で片岡孝太郎親子が鏡獅子を踊るのを観劇上京するのでと銀座のホテルで再会。
突発性間質性肺炎で薬飲んでると、それは大変、お大事にと別れたのが最後の別れに
なるとは、2018年1月、掛札昌裕から小暮がなくなったと。
銀座のホテルで再会した直後の12月7日に急性敗血症で鬼籍へ。

35Qの集まりは無くとも交詢社のバーで会いましょうが小暮の言葉だった。

 

       敬称略  文 宮田達夫



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